―8―
ハンス・ペルソナ=オルヴェントの趣味は、掃除である。
(だからと言って、こういう「掃除」は趣味じゃないんだけどなぁ……)
煮え切らない気弱さでそんな風に思いながら、ペルソナはてきぱきと部下に指示を飛ばし、仕事をこなす。
§
エキドナ=ハヴァーは思う。
――だから私は、忠告したのだ。
「ヨヨ様!? ヨヨ様! しっかりなされませ!」
「姫、姫……駄目だよ、マテライト、意識が……!」
「うろたえられるな! ――力のある者は担架を! 殿下のお体を揺らさぬようお乗せして、急いで出口まで行かれよ! 足元には気を付けて。その後は、戦竜に乗せて首都の病院へ――戦竜隊長殿は、戦竜の準備を!」
「…………」
「ビュウ君!」
「え――あ、すまない、エナ小母さん――じゃない、ハヴァー教授。
担架はオッサンとタイチョー、任せる。ラッシュは俺についてこい! サラで殿下をお連れするぞ!」
重装歩兵たちが運ばれてきた担架に王女の華奢な体を乗せ、静々と、しかし力強く持ち上げる。
親友の息子は、昔よく見かけた元浮浪児の青年と共に遺跡の出口へと走っていく。
王女と竜の化石との邂逅は、静寂に始まり、喧騒に終わる。
――だから私は、忠告したのだ。
意識を失くし、倒れた王女の顔は青ざめ、苦悶の表情を浮かべていた。
その瞬間。
羽毛を持つ竜の化石と対峙したその瞬間、ヨヨはサッと表情を強張らせた。みるみる内に恐怖で顔が歪んでいった。そして唐突に、絶叫した。全身から絞り出したような、身の毛もよだつような悲鳴だった。肺の中の空気を全て悲痛な叫びに変えて、それから彼女は意識を失い、くずおれた。
一体ヨヨの身に何が起こったのか。化石がヨヨにどんな作用をもたらしたのか、それは分からない。もしかしたら、それも含めて、全てはエキドナの診察に任されるのかもしれない。
それならばそれで良い。神竜だか何だか知らないが、たかが竜の死骸ごときが今を生きる人間を苦しめる、なんて事、あって良いはずがないのだ。魔法医療の権威の名に懸けて、徹底的に調べ上げ、駆逐してくれる。
だが、と同時に思う。
心の片隅に嫌な予感として引っ掛かる、それは先程見た光景。
エキドナの呼び掛けに、応じなかったビュウ。親友の息子の、その時の表情。
怒りか。
それとも恐れか。
そのどちらともつかない表情で引きつり、凍りついていた。
それが何を意味するのか、エキドナは知らない。
§
情勢が一変した。
首都に戻ったビュウを、切羽詰まった表情のサウルが出迎えた。
彼は、開口一番、
「厄介な事になった」
その言葉を聞くや否や、ビュウはヨヨの事をマテライトたちに任せて、サウルと共に病院の一角、研究棟のエキドナの研究室に入った。ヨヨの容態がいつ急変するか分からない状況で病院を離れるわけにはいかないのと、密談するのにちょうど良い場所が他になかったのとで、ビュウは怪しげな人体模型が飾られている狭苦しいその部屋に通された。やたら滅多に物があるので、立ちっ放しの密談である。
「何があった?」
鋭く問うビュウに、サウルは苦しそうに、苦々しげに、眉間を指で押さえる。
重々しい溜め息の後、彼はようやく、こう告げた。
「ラディアが殺された」
「――……何、だと?」
「昼前の事だ。魔道連盟の担当者がラディアの聴取を始めようとしたら、留置所の中で死んでいるのを発見したらしい。死因は中毒死。朝食に毒を混ぜられていたみたいなんだ。すぐに捜査が始められて、関係者の中で一人、行方が知れないのがいて……最悪な事に、これがついさっき、刺殺体で発見された。場所は首都の裏通りで、目撃者は今のところ見つかっていない。警察にも協力を仰いで、全力で捜査してるけど……多分、被疑者事故死とか、その辺りで落ち着くと思う」
「どういう事だ?」
問いながら、同時にビュウは胸がざわつくのを感じていた。嫌な予感。この程度では終わらない、というような。
対するサウルは、もう一つ溜め息を吐く。深々と、似合わない苦りきった表情で。
「……先月の下旬辺り、グランベロスの複合生体艦がゴドランド領空近くを航行していた、って話は、したと思うけど」
「あぁ」
「魔道連盟上層部とゴドランド政府が色々話し合って、しばらく留まってもらう事にしたんだけど……この艦が、今日の昼頃、グランベロスに向けて転進した」
「――――!」
その意味は、明白だった。
「……抜かったよ。当局は元々、調書やら報告書やら抗議声明やらをつけたラディアを連れ帰ってもらうつもりだったらしいんだ。どこの馬鹿がそんな事考えたか分からないけど……おかげで、この有様だよ。ラディアの事情聴取もまだ全部終わっていないし、抗議声明なんかまだ草稿も出来ていないのに……」
「……状況を逆手に取られたな」
しかしそれは、ある意味で当然の判断と言えた。自分の国にとって致命的なものが目と鼻の先にいるのに生かしておこうとするのは、軍人としては三流以下だ。
「ごめん、ビュウ。君たちが作ってくれた機会なのに――」
「……仕方がないだろ、これは。お前が謝る事じゃない」
サウルにかぶりを振ってやり、ビュウもまた、深々と溜め息を吐いた。
ゴドランドの問題は、ゴドランドが解決するだろう。これ以上、ビュウが介入する問題ではない。
そう思って気持ちを切り替えようとするが、心の底に沈む重苦しさは消えてくれない。ビュウは自分の迂闊さを呪った。サウルから複合生体艦の話を聞いた時、さっさと追い返せ、と言えば良かった。
言っておけば、ゴドランド当局の甘い考えは払拭できたかもしれない。
そうしておけば、ラディアは生きていたかもしれない。
ゴドランドは、グランベロスに対しもっと優位に立てたはずだった。
それは、反乱軍の益になるはずだった。
その程度で潰れるような戦略でもないし、それももう既にチェックメイト間近だから、このくらいの不測の事態は大した問題ではない。そのはずだ。だから、この件について考えるのはもうよそう。
無理矢理心に区切りをつけると、ビュウは落ち込むサウルの肩をポンと叩き、エキドナの研究室を出た。その時不意に、どこに行っても問題は山積みで何からも逃れられない、という確信に襲われた。
追ってきていたのか。
「……タイチョー?」
「ビュウ……こんな時に、何でアリマスが」
思い詰めた表情で、
「ビュウに、話があるでアリマス」
――問題は山積みで。
何からも、逃れられない。
ヨヨが目を覚ましたのは、この二日後だった。
随分と、やつれた。
真っ白な病室の中で、そのやつれぶりはいや増したように見える。薄く笑うヨヨに痛々しさを覚えながら、ビュウは彼女のベッドの傍に椅子を手繰り寄せ、座った。
「……よぉ」
「はぁい、ビュウ」
ヒラヒラと手を振ってみせる、そのおどけた様子が何とも痛々しい。顔をしかめるビュウに、ヨヨはつまらなさそうに肩を竦めた。
「そんな顔、しないでくれる?」
「……無理言うな」
「無理じゃないでしょ」
ヨヨの口調は、淡々としている。
「だって、元々私、死ぬはずだったじゃない」
淡々と。
淡々、と。
「それが先に延びて、その過程で少し体調悪くしてるけど……それだけの事じゃない。貴方が今更そんな顔をするほどの事じゃないわよ」
淡々と。
いや、いっそある種の陽気さすら感じさせる口調で。
捨て鉢気味に、ヨヨは言う。
それが解るから、ビュウは愁眉を開く事が出来なかった。そうしてみせる事さえ思いつかなかった。
いつまでも明るくならないこちらの顔をチラリと眺めやり、ヨヨは溜め息を吐いた。深刻さは微塵も感じられない軽さだった。
「まぁ、いいわ。――それで?」
「……え?」
「いつまでも呆けてる場合じゃなくてよ、私の騎士。これからの事がどうなっているのか、それくらい話してくれてもいいんじゃないかしら?」
あぁ、とビュウは唸った。
「あー……そう、だな。悪い」
正直――
ビュウはこの時、安堵していた。
ヨヨが新たな話題を振ってくれた事に。ヨヨがこれ以上、彼女自身の疲弊とビュウを対峙させるのを止めてくれた事に。
それほどまでに、ヨヨはやつれ、衰えていた。
頬はこけ、眼窩はくぼみ、肌は張りを、髪は艶を失い、血色は悪く、寝巻きの襟元から見える鎖骨は以前よりもはっきりと目立ち、手の骨は浮いているようにさえ見えた。
これ以上ないほどに明らかな病人の態。
マハールにいた時よりも酷くなっているその様子に、胸を痛めるな、という方が無理な話だ。
「これからの事……だけど」
色々なショックが重なって、今後の予定がすんなりと出てこない。頭の中の予定帳をめくりながら、ビュウは、ヨヨにとって特に大切な事を拾い上げていく。
「――まず、ゴドランドからの出発だが、当面延期になった」
「何故?」
「次の目的地が決まっていない。それに……お前、自分の状態が分かってるか?」
するとヨヨは、そこで初めて気が付いたように、自分の顔を撫で、両手を引っ繰り返して掌と手の甲とを交互に見、
「……あら」
「あら、じゃないぞ。そんな状態のお前を連れ回すわけにはいかない、って事で、満場一致でゴドランドでの療養が決定した。お前の容態が好転するまで、反乱軍の行軍は停止だ」
「私、この状態でも十分行軍に堪えられると思うけど」
「今にも死にそうな奴が何言ってる」
「あ、そうだったわね。私、今は一応死んではいけなかったわね」
冗談めかしたその言葉を今は聞かなかった事にして、ビュウは話を続ける。湧き上がる様々な感情を理性で必死に封じて。
「で、エナ小母さん――ハヴァー教授が、お前の診察と治療をすぐにでも始めたいそうだ。お前の意識が戻って、了承を取れ次第」
「診察と治療、ね……」
と、ヨヨは何やら考え込む。
「ヨヨ?」
「……別に、サウルのお母様の医師としての技能を否定するわけではないのだけれどね」
呟くように、彼女は言う。
「私のこれは、サウルのお母様でもどうにもならないと思うわ」
「どういう事だ?」
鋭く問うビュウ。ヨヨは考えながら、しかしいやに確信を持った言葉で、答えた。
「だってこれは……私と、神竜の問題だもの」
そうして彼女は、すぐ傍の窓から外を眺める。
時刻はもう午後の四時になる。ゴドランド・ラグーンがキャンベルの影に入るのはもうすぐだ。その、僅かに翳り始めた日差しに目を細めて、彼女は暗い言葉を紡ぐ。
「だからきっと、サウルのお母様にもどうにも出来ないわ」
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
ヨヨの、その死の影が色濃く漂う表情を見つめながら、ビュウは何度となく己にしてきたその問いを繰り返す。
答えが出ない事は、解っているのだけれど。
「――なぁ、ヨヨ」
しかし今日は、少し違った。
今までとは趣の異なる思考が、胸中で鎌首をもたげた。
「お前のそれ、誰ならどうにか出来ると思う?」
ヨヨは、フッと笑って、
「さぁ……。どうにか出来る人なんて、いるのかしら?」
その不健康な微笑みを、吹き飛ばすかのように。
ビュウは、その名を口にする。
「サスァ・パルパレオス=フィンランディア」
ビクンッ、と。
ヨヨが、大きく、はっきりと、身じろぎした。
表情が強張る。病的な微笑が、文字通り吹き飛んでいた。
代わりに浮かんでいるのは、精彩に満ちた驚愕。彼女が目覚めてからビュウが初めて目にする、生きた表情だ。
大きく目を見開き、ぎこちなくこちらを向くヨヨを、ビュウはひどく静かな心境で見守っていた。
「どう……して?」
震える声は小さく、か細い。
「どうして……パルパレオスの事を?」
らしくない。
らしくない動揺ぶりだ。
常に不敵で、どんな事態にも大体どっしりと構えて笑っていた王太子殿下とは思えないほどの動揺だ。いっそ無様とさえ言える。
ビュウは笑った。その笑みに力がない事は、自分でもよく分かった。
「その様子じゃ……結構、仲良かったみたいだな」
「――――っ!」
ヨヨの表情が、警戒と怒りに強張った。
その目をキッと吊り上げ、ビュウを睨み据えながら、しかし慎重な口ぶりで、
「……誘導尋問のつもり?」
「いいや」
ビュウは緩くかぶりを振った。
「そんなんじゃない。ただ……」
「…………」
「ただ、パルパレオスならどうにか出来る、ってんなら……」
笑い出したい気分だった。
気が触れた、と思われても良かった。とにかく大声で笑いたかった。それほどに今の自分は情けなく、滑稽だった。
「俺の首を差し出して、奴に来てもらおうか」
タイチョーは語った。
グランベロスに潜入した折、ドンファンと一時別行動を取っていた時の事を。
グドルフと、おそらくラディアと思われる女の密談を聞いて逃げ回っていた彼が、ある部屋に身を隠した後の事を。
そこで、パルパレオスに見つかった事を。
パルパレオスはしかし衛兵を呼ばず、旅の商人と苦しい嘘を吐いたタイチョーに伝言を頼んだ事を。
『もし、反乱軍の……ヨヨ、という女性に、会う事があったら……――俺は、お前を忘れる、と』
それを聞いた瞬間に、ビュウを襲った感情。
怒りに似たそれは、確かに、嫉妬だったのだ。
§
「パルパレオスならどうにか出来る、ってんなら……俺の首を差し出して、奴に来てもらおうか」
ヨヨはその言葉を、信じられない気持ちで聞いた。
「ビ、ビュウ……?」
知らず内に口から漏れ出たのは、まるですがりつくような声音だった。ビュウに許しを乞うような。
それほどに信じられなかった。ビュウの口からパルパレオスの名が唐突に出たよりも、尚。
ヨヨは知っている。
ビュウがパルパレオスを嫌っている事を。
憎んでさえいる事を。
彼から大切な人を奪い、その人の大地を踏みにじったパルパレオスを、今も許せずにいる事を。
だからこそ、パルパレオスの事はビュウに話せなかった。これまで隠し事をしてこなかった、ヨヨにとっては唯一無二の人、誠実で忠実なこの騎士にさえ。
だからこそ、今、信じられなかった。
ビュウが、そんな事を言うなんて。
自分のために、己の首をパルパレオスに差し出す、なんて――
「何で……何で、そんな事言うの……?」
頭が混乱する。
記憶が知らず内に掘り返される。
グランベロスにいた時、ヨヨは確かにパルパレオスに恋をした。
彼のその愚直なまでの優しさに、心癒された。心惹かれた。互いに惹かれ、愛し合った。
けれど。
けれど――
どう伝えればいいのだろう。
どうすれば、ビュウに伝わるのだろう。
この私が、ビュウを犠牲に出来るはずなんてない事を。
この私が、ビュウを切り捨てて生きていられるはずなんてない事を。
言葉にならないもどかしさが衝動となる。
そして、その衝動のまま。
ヨヨは、ビュウに抱きついた。
§
その時彼女は、ビュウに面会時間の終了を伝えようと、病室の前に立っていた。
ノックをして中に声を掛けようとしたら、切々とした話し声が聞こえてきた。
行儀が悪いと分かっていたけれど、彼女は僅かに戸を開き、中の様子を覗き見た。
声は余り聞き取れなかった。
だが、その声音から、まるで愁嘆場の様相を呈しているように感じられた。
そして、彼女は見た。
ベッドの上にヨヨが。
その傍に座るビュウに、抱きついたのを。
ビュウは入り口に背を向けているから、その表情はこちらからは窺えない。
ヨヨは彼の胸に顔を埋めたから、やはりどんな顔をしているかは見えない。
耳にこだまする声がある。
『好きな人が、いる?』
……あれは、彼女の気持ちを見透かしての言葉だったのか。
その「好きな人」は自分のものだ、と言外に彼女に解らせるための――
フレデリカは、ヨヨの病室から逃げ出していた。
〜第五章 終〜
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