―4―
地上に戻ると、日は落ちかけていた。
それでも、地下との明暗の差に目が眩む。目を幾度か瞬かせるビュウの横を、ヨヨは無言で通り過ぎていった。
「ヨヨ」
その彼女を、呼び止める。赤く染まる宮殿に目が慣れ始め、その目にも、彼女が立ち止まったのが判った。
「お前……何で、あんな事を?」
「知りたかったから」
ヨヨの答えは短かった。
合流した時の様子。地下でのあの問い。いつもとはまるで違う彼女。
「……何が、あった?」
先程も発した問いを、改めて投げ掛ける。すると彼女は、今度こそ答えた。
「……私ね」
「あぁ」
「今回ほど、自分の身を呪った事はないわ」
「…………」
「神竜ヴァリトラが、私を嗤ったわ。『これがお前の望んだ事だろう』って」
「……何だと?」
「嗤ったのよ」
ヨヨはそれきり押し黙った。
嗤った――神竜ヴァリトラが?
その言葉に潜んだザラリとした不快感が、記憶を揺さぶった。
暗闇。
濃い血臭。
血河。
そこで立ち尽くすビュウを嗤う、鮮やかな緑翠の竜。
そのままこちらが促すまで身動き一つしないのではなかろうか、と思えるほどに長く続いたヨヨの沈黙は、彼女がビュウを肩越しに振り向く事で破られた。
「サウザーは、こんな力を欲している。でもこれは、この世界に在ってはならないのよ。だから」
西日に照らされるヨヨの顔は凄絶なほどに険しく、ビュウをヒタと見据える若草色の双眸は、この圧倒的な赤に決して染まらず、ただ鋭さを増していく。
「だから決めたわ。こんな力は野放しに出来ない。私が全部集める」
それは、中原の族長会議に出席する二日前にしたよりももっと凄まじい決意だった。
「私が全部集めて……道連れよ」
ビュウは瞑目した。
地下牢でのやり取りを思い出す。ヨヨの問いに、その場にくずおれたルザ・カトン。
その叔母に追い討ちを掛けるように、彼女は、更に冷徹な問いを浴びせ掛けたのだ。
『叔母上、教えていただけないなら……代わりに、別の事を教えてくださいます?』
『別の、事……?』
『叔母上がサウザーに教えた、カーナ王家に伝わる神竜の伝説、私にもお教えください』
『――何故、私が皇帝に教えた、と……』
『他に教えられる人がいないでしょう?』
『…………』
『教えていただけますの? それとも、教えてくださらないんですの?』
『ヨヨ、私は――』
『サウザーに教えておいて、今更知らない、はないでしょう?』
『……ヨヨ――』
『泣いて立ちすくむだけなら馬鹿でも出来ます。叔母上がその馬鹿なら、別に私も構いませんが』
つまらなさそうに、ヨヨは鼻で吐息した。
『これ以上、私を失望させるのだけはやめてくださる?』
肉親の情の欠片もない言葉に、とうとうルザはその瞳から涙を一筋こぼした。
その様子をヨヨがつまらなさそうに見守る中、彼女はやっとの事で声を絞り出し――ヨヨの、問いに答えたのだった。
目蓋を押し上げると、未だ苛烈な眼差しを向けるヨヨがそこにいる。
彼の、彼が選んだ、ただ一人の主君が、そこに。
「殿下」
その眼差しと同じくらいの厳しさを秘めた声で、呼ぶ。
「このビュウ=アソル、どこまでもお供いたします」
彼女の決意。
それをするのに、彼女がどれくらい苦しんだのか。
――あの、七年前の悪夢。
それを共有したからこそ、ビュウは彼女の苦悩を理解できるのだ。
だからどこまでもついていく。血塗られた戦場へも、陰謀渦巻く政治の場へも、死地にさえ。
ヨヨは笑った。
「ありがとう、ビュウ」
再び歩き始める。
「さぁ、マテライトたちの所に戻りましょう。今後の事を話し合わないと」
「分かりました」
ヨヨの小さな背を追いかけ、ビュウもまた、再び歩き出した。
神竜の伝説。
カーナ王家が伝えてきた、その文言。
神竜の心を知るもの、新たなる時代の扉を開く。
心弱きもの、天空より災いをもたらす。
前者と後者、ヨヨはそのどちらを選ぶのか。
それは、分からなかった。
§
オレルス世界最上層部、グランベロス帝国。
「キャンベルが奪われた、だと……!?」
「はっ! キャンベル方面駐留師団司令ガティ・ゾンベルト=グラスター将軍閣下の生死は不明、キャンベル王都の師団司令部は機能を失い、現在、キャンベル各地に拠点を置く三個旅団が、それぞれ『草原の民』・『森林の民』連合軍の攻撃に遭っている模様! 同師団は既に撤退を開始しておりますが、グラスター将軍閣下に代わり指揮を取る第二旅団のアイゼナー准将閣下は、旅団二つを見殺しにするのもやむを得まい、と……」
帝都の中心、帝宮。
グランベロス軍参謀本部で急使からその報告を受けたパルパレオスが、息を飲んだ。
ゾンベルトは生死不明。
キャンベル駐留師団の司令部は壊滅。
このままいけば、十中八九、師団の三分の二はキャンベルでその命を散らす。
いや、とパルパレオスは思い直した。グランベロスとキャンベル。オレルス最上層部と下層部。この高度さがもたらす情報の時差は、無視できないものとなる。
つまり、この急使がパルパレオスの下に辿り着いた時点で、その報告は現実のものとなっている可能性が余りにも高すぎるのだ。
キャンベルの師団に増援を送ろうとしても、最早手遅れ。
パルパレオスは嘆息した。
彼が倒れたサウザーを抱えてグランベロス本国に帰還したのが、五月の終わり。それから十五日前後、侍医や女官たちによる介護が続けられているが、サウザーは、未だ目覚めない。
二十日間近い昏睡状態は、今尚続いている。
その二十日で情勢が変化した。世界帝国グランベロスが、その版図の一角を失った。
大森林地帯でまみえた反乱軍。戦竜隊隊長ビュウ=アソル。
甘く見ていたつもりはなかった。だが――
と、思考が堂々巡りを繰り返しつつあるのに気付いて、かぶりを振るパルパレオス。問題は、それではない。
「……ご苦労だった。まずは体を休めよ。今後については、追って指令する」
「はっ!」
床に跪いていた急使は立ち上がり、執務卓のパルパレオスに向かって敬礼。それから退出した。
彼を見送って、パルパレオスは先程とは違う思考の渦に身を投じる。
反乱軍は、キャンベルを解放した。
しかし、その解放はあくまで『草原の民』と『森林の民』が主体であり、反乱軍自体がキャンベルをどうこうする、という話ではなさそうだ。
反乱軍の目的はどこにある?
移動拠点はあくまで、あのカーナ旗艦のはず。ならば、あの艦で次はどこのラグーンに赴く?
(まずは、各地の駐留師団に警戒を呼び掛けなければ)
それが急務だった。反乱軍の次の目的地は、未だ掴めていない。
(その次に、彼らの動向を調べなければ……。となると)
その時、ドアを叩く音がパルパレオスの耳に飛び込んだ。
次に、今は余り聞きたくない男の声が。
「パルパレオス殿、おられるかな?」
「グドルフ……」
小さく、その名を呻く。そして僅かに顔をしかめてから、すぐに表情を取り繕い、
「開いている。入られよ、グドルフ殿」
「では、失礼する」
木の扉が押し開けられた。その向こうから、禿頭の男が姿を現わす。
歳は既に六十近く。
背は高くもなく低くもなく。体格は良くも悪くもなく。歳相応に太ってはいるが、それ以上でも以下でもない。
頭頂部から髪の毛は失われているが、側頭部から後頭部に掛けてはまだ何とか残っている。白髪交じりのくすんだ黒髪。ぎらつく濁り始めた茶色の目。頬骨が突き出た感はあるが、ガリガリに痩せている感じはむしろ薄い。
趣味の悪い派手な臙脂の長衣をまとうこの男の名は、ゼム・グドルフ=ザーラント。
グランベロス帝国帝都防衛隊司令を務める将軍ではあるが……――
その本性は、他人を追い落とす事を人生の楽しみとする、旧ベロス王国時代から国家の中枢に居座り続ける政治家である。
その男が部屋に足を入った途端、パルパレオスは奇妙な錯覚を覚えた。
部屋の空気が、穢れる。
軍人の聖域、帝国軍の参謀本部に、軍事とは縁のない世界に生きてきた政治家が――しかも、私腹を肥やす事に余念のない、最も忌むべきタイプの政治家が――足を踏み入れたのだ。
(……汚らわしい)
グドルフのような政治家のおかげで、どれだけパルパレオスたちが――かつての王属派遣軍が苦しんできたか。
「聞きましたぞ」
その口が開いた。粘着質で、それでいてどこかざらつく声音。それはそのままパルパレオスの心に絡みつき、不快感を触発させた。
だが、それを決して顔に出さずに、彼はグドルフの次の言葉を待つ。
「キャンベルを、奪われたそうですな」
「そうだ」
隠していても仕方がない。どうせいずれ知れる事だ。パルパレオスは素直に頷いて、それから説明を始める。
「キャンベル駐留師団を下したのは、カーナ残党を中心としたオレルス反乱軍を名乗る武装組織と、その力を借りた『草原の民』・『森林の民』連合軍。グラスター将軍の生死は不明、駐留師団は撤退を始めているが、本国に帰還できるのは三分の一程度だと推測される」
「これはこれは……中々手痛い状況ではありますな」
と、相槌を打つグドルフは、うっすら笑ってさえいる。
一体何がおかしいのだ――パルパレオスは眉をピクリと跳ね上げた。それを隠しきれなかった。ゾンベルトは、グドルフのシンパではなかったのか?
「それで、だ、グドルフ殿」
「何ですかな?」
「貴殿の諜報機関で、反乱軍の動向を探ってほしい」
「ほぉ」
「我々には情報がない。奴らが次にどのラグーンに現われるか、未だ見当がつかない状況だ。各地の駐留師団には警戒を呼びかけるが、それも十分かどうか。
それで、調べてほしい。反乱軍の動向と、キャンベル解放を手助けしたその目的を」
「……成程。そういう事ならば」
ニィ、と笑うグドルフ。その笑みの薄気味悪い事。正面から見ているパルパレオスは、思わず顔をしかめてしまう。
「よろしいでしょう。我が機関が探ってみましょう」
「頼む、グドルフ殿」
この男を頼らなければいけないこの状況が恨めしい。そして、こちらの苦悩を向こうはあっさりと見抜いているらしく、その笑みがどんどんいやらしくなっていく。
「気になさらずに、パルパレオス殿。皇帝陛下が未だ覚醒されぬ今、我々が一致団結してこの事態に当たっていかねばなりませぬからな」
「あぁ、そうだな」
「それにしても、キャンベルを奪われた――」
ふと何かを思いついたか、グドルフは自分の顎に手を当てた。
「これは中々、致命的ですなぁ」
致命的?
「何を言うか、グドルフ殿。我が帝国は、版図の六分の一を失っただけの事。まだ六分の五が残っているし、軍にも同様の事が言える。それを、致命的とはどういう事だ?」
どうせグドルフお得意の軍人に対する皮肉だろうと、特に考えもせずに問い返す。
その時だった。
……それは、パルパレオスの目の錯覚だったのか。
グドルフの表情が変わった。
人を小ばかにした笑みが消え、いや、表情の一切が消え――
だが、それはやはり錯覚だった。ハッとしてマジマジと見つめれば、やはりグドルフはこちらを馬鹿にしたように笑っている。
「ふむ、確かにそうですな。これは失礼。私とした事が、とんだ的外れな懸念を抱いてしまった」
「……いや、慎重になってなりすぎる事はない。私も、肝に銘じて反乱軍への対処を考えるとしよう」
「では、私めはこれにて」
「反乱軍の件、お任せした」
似合わない敬礼を一つして、グドルフは部屋を去っていく。
嫌な男がやっといなくなる。パルパレオスは安堵した。これで、思う存分今後の事を考えられる。とりあえず、軍備の増強はやむを得まい。情報が必要は必要だが、諜報機関を管理しているのはグドルフと、その腹心のヴィル・レスタット=フォン=ヒンデンベルク。ある程度信頼しなければいけないだろうが、信用するのには慎重にならなければいけない。何せ彼らは王国時代から政治の闇の中で甘い汁をすすってきた、祖国の寄生虫だ。パルパレオスとサウザーを新参者と罵り、失脚させようと常に画策している。いや、この辺りでその動きを見せてくれれば、こちらがグドルフたちを失脚させる良い口実になる――
――歴史に「もし」が存在すれば。
そう……もし、この時パルパレオスが自分の考えに集中せずにこのグドルフの呟きを聞いていれば。
世界史は、その後大きく変化したかもしれない。
「……あそこがたかが『六分の一』なものか、小僧」
〜第三章 終〜
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