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 遠く西の空を、鉛色の雲が帯となって居座っていた。
「マハールまであと一日半、というところだな」
 その黒々とした雲の連なりを見て、ホーネットはそう予測する。もっともそれは、航行がこのまま順調に進めば、の話だ。
「……そうで、アリマスか」
 そんな含みを感じ取ったかそうでないのか、反応したすぐ傍の人間の声はどこか沈んでいる。
 それもそうだろう。自分がかつて守りきれなかった祖国へと近付いている――その事実にどのような思いを抱いているのであれ、ある種の緊張を持つのは当然だった。
 ホーネットは隣を見やる。操舵席の横手に据えられた見張り台を今陣取るのはタイチョーだった。緊張に顔を強張らせ、その目に複雑な色を滲ませて、彼はまっすぐに西の空を見据えている。
 その顔を見ていると、何故だかホーネットは、その問いを口にしてしまった。

「――どういう気分だ?」

「え?」
 ふと我に返った、と言わんばかりの様子で、タイチョーがこちらを見た。我ながら意地の悪い事をしている。その自覚を持ちながら、彼は問いを繰り返す。
「だから、どんな気分なんだ? 今、生まれ故郷に接近して」
「――……分からんでアリマス」
 答えるまでには相当の間があった。その間、タイチョーは視線を落ち着かなさそうに泳がせていた。ソワソワと腕を組んだり首を捻ったりしていた。
 それを見て、ホーネットはただ短く、そうか、と曖昧に相槌を打った。そして再び、どちらからともなく西の空へと目を向ける。

 きっと自分は、タイチョーの心情を理解できない。
 何故なら……彼と違って、ホーネットは積極的に故郷を捨て、そして、二度とその地を踏むつもりはないからだった。


 西暦四九九九年、六月三十日。
 ファーレンハイトは今、オレルス世界の中心、マハール・ラグーンへと向かっている。





§






 神竜は、マハールに。


 ――それは、キャンベル解放を成し遂げたその二日後、六月十二日に、ルザ・カトンからもたらされた情報だった。


「そして女王様は、貴方方の助けになれ、とおっしゃられました」
「もし貴方方さえよろしければ、私たち二人を是非軍にお加えください」

 ビュウは、隣に立つヨヨの視線を感じながら、やはりすぐ近くにいるマテライトと顔を見合わせる。
 反乱軍の中枢を担うのは、――「オレルス」反乱軍と大層な名前を名乗っておきながら――カーナの残党たるビュウたちである。もっと具体的な役割分担を述べていけば、センダックは移動拠点の艦長であり、ビュウは活動資金の出納や物資の管理を担う経理主任を務めている。
 そして、戦闘要員を率いるのは、紛れもなくマテライトだった。
 つまり、戦闘要員の補充に関する実質的な決定権はマテライトにあるわけで、
「……あい分かった」
 女王の言葉を伝えに来た二人をしばらく吟味してから、彼は頷いた。
「我々としても、魔道戦力の充実は歓迎したき事。キャンベル女王のご好意、ありがたく頂戴する事にする。――よろしいですな、ヨヨ様?」
「えぇ、マテライト」
「よいな、ビュウ?」
「エシュロン将補がそう決定されたなら」
「ありがとうございます」
 使者の一人が頷いた。赤毛の女。地下牢で女王と接見した時にいた、側近の内の片方。名はネルボ。ウィザード。
「必ずお役に立ってご覧に入れます」
 女王の側近のもう片方、金髪のジョイが力を込めてそう言う。彼女はプリーストらしい。

 だが、彼女たちの表情は、言葉とは裏腹に、ともすればこちらへの強い不信感とも解釈できるものに支配されていた。



(情報と人材……――まぁ、罪滅ぼしとしては及第点か)
 その時の出来事について、ビュウが抱いた最終的な感想が、それだった。
 あの日、ルザ・カトンがジョイをネルボを通じてもたらした神竜の情報が今後の指針を定めたわけだし、彼女たちが加わったおかげで、プリースト隊とウィザード隊、それぞれ一個分隊が完成したのだ。最前線に立つ自分たちナイトが被る危険性が一段と下がるのは、やはりありがたい。

 もっともそんな事で、全て帳消しになるはずもないのだが。

 ともあれ、かくしてファーレンハイトはその艦首をマハールに向けている。
(おかげで俺の仕事は倍増、と……)
 ビュウは我に返ると、机の上に山と詰まれた数々の書類との格闘を再開する。
 ファーレンハイト二階、高級士官専用の個室。ここのところずっと手紙を書いたり書類を作成したりで、ただでさえ狭い部屋が余計狭苦しくなってしまうほどに、紙の山が書き物机からはみ出して床まで侵食し始めている。
 そのほとんど全てが、現在のところの反乱軍には何の関係もない物事に関する書類ばかりだった。そもそも、今の反乱軍は格式ばった書式の文書を必要とするほど、お上品な組織ではない。これらはあくまで、ビュウ個人に関係する事であり――

 彼がひそやかに展開する、この戦争の戦略の全てだった。

 あらかじめ作っておいたメモを片手に、上質紙にペンを走らせる。流麗な文字が紡ぐその文書は、軍人が到底使わないような専門用語を交えて紙面を踊る。時折、素人には到底解らない、ややこしい計算式なども登場させて。
 利益。損失。開発。流通。収支。高騰。下落。生産。需要。供給。市場。だからこそ――

 ……コンコン。

 控えめに為されたノックの音に、ビュウはふと我に返った。顔を上げる。そこにある窓から見える空は、暗くどんよりと曇っていた。一雨来るかもしれない。
「ビュウ? いるかしら?」
「……フレデリカ?」
 窓から顔を引き剥がし、背後の扉に向ける。どうぞ、と言いかけて、部屋の惨状に気付いてから、
「悪い。今開ける」
 椅子から立ち上がり、ヒョイヒョイと書類の山と山の間を危なっかしそうにすり抜ける。所々爪先立ちになって、何とか扉に辿り着くと、今朝以来ずっと掛けていた部屋の鍵を開けた。
 扉を開けると、蝶番(ちょうつがい)が軋んだ音を立てる。
「どうしたんだ?」
 戸の間から、フレデリカの白い顔が現われた。こちらを見た彼女はふと安堵したように表情をほころばせ、それから、ビュウの背後に目を向けて唖然とする。
 そりゃそうか。部屋の現状を思いだして、彼は苦笑した。それから改めて、
「フレデリカ、どうしたんだ?」
「――あ、そうだったわ。ごめんなさい。ヨヨ様が、ビュウを呼んでらっしゃるの」
「殿下が、俺を?」
「えぇ。ほら、貴方ってば、ずっと部屋にこもりっぱなしでお昼も取らなかったでしょう? それをお聞きになったヨヨ様が、ならせめて夕飯までの腹持たせにお茶でも、って」
「そういえば……」
 書類と格闘するばかりで、自分の腹具合をすっかり忘れていた。それを改めて意識する。

 ――だが、一食抜いてしまったはずなのに、腹はそれほど減っていなかった。

(あれ?)
 異変の兆候はそれだけではなかった。
 フレデリカに何と言ったものか、と言葉を考えているビュウの鼻を、甘い香りがくすぐった。甘く、香ばしい。誰かが厨房で菓子でも焼いたのだろう。だがそれをかいでも、彼の胃は全く刺激されない。むしろ、少し胸が悪くなってしまった。
 そして、何だかだんだんと頭がフラフラしてくる。
「……ビュウ?」
 いつまでも応えないビュウを不審に思って、フレデリカが呼びかけてくる。だがそれにも応えず、彼は扉に手を突いた。自らの体を支えるために。
「どうしたの? 何だか気分が悪そうよ」
「あぁ、いや――」
 別に、何でもない。
 だがその言葉は、ビュウの口から放たれなかった。代わりに漏れ出たのは、
「う……――」
 という、呻きだけ。

 まず、悪寒がやってきた。
 それは倦怠感を引き連れてきていた。体が震え、同時に力が抜けていく。
 ズルリ、と扉にもたれかかるようにして床にひざまずく頃には、ビュウの頭は割れるように痛み出していた。脈打つような痛みだった。
 汗を掻いている。ジットリと。それを自覚した時だった。

「――ビュウっ!?」

(そうか――)
 扉から手が離れ、床へと倒れていくその直前。
 ふと肩越しに振り返って見る窓は、降り始めた大粒の雨に叩かれていた。
 余りにも苦い思いと共に、ビュウは意識を手放した。



 ここはもう、マハールなのだ。





§






 雨が降り始めた。
「マハールの雨でアリマス」
「そうだな」
 ボソリと漏らしたタイチョーに、ホーネットが短く相槌を打った。
 その灰色の目が、僅かに細められた。
 暗い曇天の空に、ポツンと、妙に鮮やかな空色の点が浮かんでいた。
 それは、徐々にこちらへと近付いてきて――
「竜……か?」
 ホーネットの目に、それは、背に人を乗せた羽ばたく竜に見えた。





§







 目指す艦は、既にマハール気候圏内に入ってしまっていた。
 それはそれで、まずい事かもしれない。マハールの制空圏は気候圏とほぼ一致している。グランベロスの巡視艦隊がいつこちらを発見してもおかしくない状況だ。

 そして、もう一つまずい事がある。

「まずいな……」
「何がでしょう、トリス殿」
「馬鹿息子の親不孝体質が出たかもしれん」
「……は?」
 同行する騎士たちは、彼が何を言っているのか理解できないようだった。だが、ここでいちいち説明する暇もない。今はとにかく、あの艦――今はファーレンハイトとかいうらしい――と合流しなければいけない。
 もし、自分の予測通りだったなら、
(馬鹿にしてやろう)
 そう固く心に決めて。

 トリス=アソルと元戦竜隊の騎士たちを乗せた戦竜は、ファーレンハイト甲板への着地体勢に入った。

 

 

 

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