―2―
「ビュウが」
「風邪で」
「倒れた、じゃと?」
ヨヨ、センダック、マテライトの順で。
ゾラから報告を受けた三人は、それぞれ顔をチラリと見合わせた。
ヨヨの部屋である。
三人は今、マハールで繰り広げられると思われる総督府との戦闘について、話し合っていた。
グランベロスの支配を良しとしない一部勢力が地下活動を行い、その一部勢力――マハール解放軍と名乗っているそうだ――に支援する形で総督府及び駐留軍を排除する、というのがビュウが大雑把に描いた戦略だ。
そのマハール解放軍とヨヨたち反乱軍を繋げる「糸」として、彼は戦竜隊の部下をそちらに派遣している。
マテライトがビュウから受けた報告によれば、その戦竜隊員たちがそろそろ来る頃なのだそうだが――
肝心のビュウがいきなり倒れたというので一体何事かと思いきや。
「……たるんどる」
「マテライト、そんな言い方はないよ」
「まったくビュウってば、どうして肝心な時にそんな大ポカやらかすのかしら……」
「姫? 言葉遣いがちょっと良くないよ」
「それで、ゾラ?」
センダックの突っ込みを無視して、ヨヨは問う。
「ビュウの容態は、どうなの?」
「熱が大分あるね」
ゾラの応答は簡潔だった。まぁ、とヨヨは小さく呟き、マテライトは渋い顔をし、センダックは心配そうに目を見開く。
「倒れてから今は、ぐっすり寝てるよ。多分、寝不足もあったんじゃないかい? 何たって、キャンベルからこっち、あちこちに連絡取ったりで全然休んでなかったみたいだからねぇ。まぁでも」
と、言葉を切り、一拍置いてから続けるゾラ。
「しばらく休めば良くなるだろうさ。だからマテライト、あんた、いつもみたいにあの子を使い走りにするんじゃないよ?」
「むっ……誰がいつ、あやつを使い走りにしたか」
「あーもう、いちいち噛みつくんじゃないよ。
とにかく、プリーストの権限で、しばらくは絶対安静にさせるからね。いいね?」
「……分かったわ、ゾラ」
ヨヨは頷くと、マテライトを見やって、
「じゃあマテライト、悪いんだけど」
「分かっておりますじゃ、ヨヨ様」
皆まで言わせず、マテライトは一つ大きく頷いた。ヨヨを安心させるかのように。
「ビュウの代わりに、わしが奴の部下たちを出迎えましょうぞ。なぁに」
と、妙に楽しそうに笑う。
「ビュウの話によれば、あの御仁もいらっしゃるらしいですからな。わしにお任せあれ」
§
――いつでも、そうだった。
あの日も、あの時も、雨が降っていた。
いつ止むとも知れない鬱陶しい小雨が頭を濡らし、頬を叩き、肩を冷やしていく。いつも、いつでもそうだった。
まったく。
マハールとの相性は、相変わらず悪い。
雨に良い思い出は一つもない。
それどころか、マハールという大地そのものに、楽しい思い出はこれっぽっちも見当たらない。
雨。降りしきる冷たい雨。その中で人を殺した事がある。大切な人を亡くした事がある。
そしてその度に倒れて、熱を出して。
そういう時にはいつも、ベッドの傍に誰かが……――
「――……母さん?」
§
「……え?」
何かが聞こえた気がして、フレデリカは声の方向に振り返った。
フレデリカたちプリーストが医務室代わりに使わせてもらっている個室には、薬や包帯なんかを入れている戸棚や診察用の椅子が二脚、それにベッドが二つ置かれている。
声は、その内の一つ、埋まっている方から聞こえた。
「ビュウ?」
僅かに紅潮させた顔で、うっすらと目蓋を押し上げ、虚ろな瞳でボンヤリとこちらを見ているのは、ほんの三十分ほど前に倒れたビュウだった。
意識を取り戻したのか。フレデリカは水を入れた金だらいをベッドの脇の小さなテーブルに置いて、飛びつくようにしてベッドの脇にしゃがみ込んだ。
「ビュウ? どうかしたの? 大丈夫? 喉が渇いたの? それとも、暑い?」
ビュウは、半分閉じられた、焦点の合わない碧眼をこちらに向け、しばし。
「……あれ?」
目の焦点が不意に合った。目蓋が完全に押し開けられ、赤い顔に表情が戻る。呆けたような、それ。
「フレデリカ? あれ、何で……?」
置かれている状況がよく理解できていないらしかった。彼は僅かに頭を持ち上げると部屋の中を見回して、
「……医務室? ちょっと待て、俺何でこんなとこに――」
ボスン、と枕に頭を押し付けて混乱するビュウに、フレデリカは告げる。
「覚えてないの、ビュウ? 貴方、さっき――」
その言葉は、突如遮られた。
バタンッ!
「おぅ馬鹿息子! 風邪でぶっ倒れて、しかも部屋がきったねぇからってんで医務室送りになったってのは本当かおい!? なっさけねぇなぁっはっはぁっ!」
やたらと豪快で陽気な馬鹿笑い。
フレデリカが身を竦ませて入り口を見ていると、ベッドの上のビュウがバッと起き上がって呆れ半分怒り半分の表情で、
「クソ親父……それが倒れた息子に言う台詞か!?」
「やかましいわ馬鹿息子め! 自己管理もろくに出来ない馬鹿息子など馬鹿で十分だ! まったく、父ちゃんは情けなくて逆に大笑いだぞ!」
扉を大きく開け放った姿勢のまま、そこに立つ大男は再びガッハッハと大笑いした。笑いを叩きつけられている当のビュウは、だんだんと顔をうつむかせ、肩を震わせて、
「ちったぁ……」
と。
手近にあった金だらいを掴む。
「ちったぁ息子の心配の一つもしてみやがれこのクソ親父!」
怒声と共に、投擲。
フレデリカに悲鳴を上げる暇すら与えず、金だらいは宙を舞い、綺麗に弧を描いて大男に直撃――
「――ふんっ!」
――しなかった。
目を疑うフレデリカ。それもそのはず。
大男に当たるかと思った金だらいが、瞬間的に真っ二つになり、大男を避けるようにして左右に別れると、彼の横、扉の両脇にゴンゴンッ、と当たったのだから。
(嘘……)
胸中で、信じられない思いを呟きに変える。
(そんな、だって……)
彼女の空色の瞳は、大男の手元に釘付けになっている。
(だってほんのさっきまで、剣なんて持ってなかったじゃない!)
抜剣の動作すら目に留めさせず。
背負った鞘から、身の丈ほどの長大な剣を音もなく無造作に、そして目にも留まらない速さで抜き払った大男は、その剣で以って金だらいを真っ二つに叩き切ったのだ。
プリーストのフレデリカが見てもそれと分かるほどに、圧倒的なまでの高みに上り詰めたその剣技。
それを披露した大男の顔は得意げで、何だか自慢する子供のような表情だった。
油で撫で付けただけの土色の髪と、輝いてビュウに据えられている濃紺の双眸。ニヤリと笑みをかたどる口の周りには無精ヒゲ。剣を両手で構えたままの姿勢は決して隙もなく、薄汚れた濃紫のマントと硬革鎧、薄い群青を基調とした戦闘服といったその出で立ちは、見たまま、歴戦の戦士を思わせた。
無骨で、陽気で、豪快で、そしてどこか愛嬌のある、壮年の偉丈夫。
その彼を、ビュウが「親父」と呼んだのを思い出し、ビュウの方を見ようとして――
バシャッ。
「「……あ」」
宙を舞っていた金だらいに入れられていたはずの水の一部が、フレデリカを直撃した。
§
来客――それも、待ち望んでいた方だ――が戦竜隊の若造たちと言葉をかわした後、真っ先に医務室に向かった、と聞き、マテライトは背後にタイチョーを従えて、逸る気持ちを抑えて医務室に踏み込んだ。
「トリス殿、おられるか!?」
それと意識していないので、呼びかける声が何だか浮かれている。
そしてマテライトたちは見た。
「お前が医務室なんぞでくたばっとるからだこの馬鹿息子がっ!」
「やかましいクソ親父っ! いくら倒れた息子をからかいに来たからってな、いきなり抜剣する傭兵が一体どこの世界にいるってんだ!」
「何を言うか馬鹿息子めが! そもそもお前が金だらいなんぞをこの偉大なる父上様に投げなければな――」
「おいコラ俺の空耳か!? 一体どこの誰が『偉大なる』『父上』『様』だって!? 息子から尊敬されたかったらな、飲み屋のツケの払いを俺に回すのいい加減やめろ! さもねぇと母さんに全部ぶちまけるぞ!?」
「そこで何故イズーを持ち出すお前はっ!」
「だったら伯父さんたちに全部バラしてやろうか!? どうせこれから会いに行くんだしな!」
「あ、あの、お二人とも、お願いですから、医務室では、もう少し静かにっ……!」
やたらとエキサイトして激しく罵りあうビュウとトリス、その二人の間で何故か濡れたままオロオロしているフレデリカを。
またか。そう肩を落としてマテライトに、後ろのタイチョーが戸惑いがちに、
「マ、マテライト殿? その、二人を……止めなくて、いいでアリマスか?」
「あー、構わん構わん」
背後に向かって、投げやり気味に手を振るマテライト。
「どうせその内に終わるわ」
かつて一度だけ、この二人の喧嘩に仲裁に入ろうとし、そして逆に迎撃された。その経験が、静観するのが吉、と告げていた。
「いやぁっはっは、失礼したマテライト殿。何分三年ぶりだったものだからなぁー」
と、トリスは呵々大笑した。
相変わらずの豪気ぶり。いやいや、とマテライトはかぶりを振って、
「お気持ちは解りますぞ、トリス殿。だが――」
艦橋へと上がる狭い階段に身を縮こませるトリス。その彼を先導する形で、マテライトとタイチョーは階段を上がっている。
「まぁ、ご自分の役目を忘れられては困りますぞ」
「いやぁ、失敬失敬。マハールに来たからといってぶっ倒れる親不孝者なんぞ、放っておくべきだった」
「ビュウが親不孝、でアリマスか? 何故でアリマスか?」
と、タイチョー。よく解っていない様子で、きょとんとした顔で首を傾げている。
あぁ、そうか。マテライトはすぐに合点が行った。
「……そうか。タイチョー、お前とトリス殿は初対面だったな」
「はいでアリマス」
肯定の意を受け取って、マテライトは後ろのトリスを見る。その視線に気付いた彼はあぁ、と頷いて、
「何だ。うちの馬鹿息子は、何も話しておらんのですか」
「わしが、説明いたそうか」
「いやいや、自分の素性くらい自分で明かしますぞ、マテライト殿。
えーと、タイチョー殿、だったかな? トリス=アソルと申す。うちの愚息がいつも世話になっているようで」
「自分は、元マハール騎士団のタイチョー=ソムでアリマス。自分の方こそ、ご子息にはいつもお世話になっているでアリマス!」
タイチョーのやたらと元気の良い応えに、しかしトリスは僅かに口ごもった。
「……トリス殿?」
「いや、失礼」
促すように呼びかけたタイチョーに、彼は苦笑してかぶりを振る。
「よくよく考えれば、マハールの軍人がいてもおかしくねぇんだったなぁ、と」
「? それは、どういう意味でアリマスか?」
「……ま、その内ばれちまうだろうから先に説明しとくか。
俺は昔、マハ――」
ちょうどその時、三人は階段を昇りきった。
そして、喧騒に包まれた。
「いくつだ!?」
「全部で――二十! 大型竜、一、中型竜、十九……」
「あの大型竜は、グランベロスのブランドゥング種……――駐留軍の第七方面守備隊です!」
ホーネットの怒声、クルーの報告、トリスが連れてきたと思われる戦竜隊員の応え――
「敵襲か!?」
「そうだ」
怒号の中に飛び込むように鋭く問うたマテライトに、応えたのはホーネットだった。険しい表情でファーレンハイトの操舵輪を操り、巧みに正面に見えてきた敵群から針路を外そうとする。少しでも岩礁群に近付きたいようだ。振り切るにも戦うにも、その方が有利なのは考えるまでもない。
「ビュウは?」
「あー、すまねぇな。うちの馬鹿息子はまだ寝てる」
「マジかよ!」
と叫んだのは、トリスの連れの戦竜隊員の近くにいたラッシュだった。目を向いてマテライトたちの方を見、
「ビュウの奴、何でこんな時に――」
「あっはっは、まったくだよなぁ」
「って師匠、あんた笑ってる場合かよ!」
ラッシュの激しい突っ込み。隣のタイチョーは、
「マテライト殿……トリス殿が、ラッシュに剣術を?」
「ビュウの腰巾着全員に、じゃ」
「誰が腰巾着だってマテライト!?」
若造の怒声を綺麗に無視して、艦橋を見回すマテライト。
本当ならば、トリスと彼が連れてきた戦竜隊員たちを交えての事前会議を、艦橋後部の扉から入る艦長室で行うはずだった。だから、今ここには、それに出るはずだった者が全員揃っている。
「――ヨヨ様」
その中にヨヨを見つけ出して、マテライトは歩み寄った。表情を僅かに険しくさせたヨヨは、近付いてきたこちらを見て、一つ頷くと、視線をホーネットに転じて、問う。
「どうですか、ホーネット? 振り切れそうですか?」
「……無理でしょう。速度も小回りも、向こうの方が圧倒的に上です。すぐに追いつかれるでしょう」
「では、戦いましょうぞ」
進言するマテライト。ヨヨは難しい顔で少し考えてから、やはり無言で一つ頷いて、
「では、戦いの準備を始めてください」
凛とした声。彼は頭を垂れて、
「承知しました」
頭を上げる。ヨヨの険しい表情に出会った。
……いつからこの姫は、こんなにも険しい顔をするようになったのだろう。
「――トリス殿」
不意に胸に湧き上がった疑問から目を背けるように、マテライトはヨヨからトリスに顔を移した。
「すまんが、ビュウの代わりにそこの若造どもを率いてはくれんか?」
「俺が、ラッシュたちを?」
「師匠が!?」
平然と問い返すトリスと、絶叫に近い声を上げるラッシュ。その彼の横で、トゥルースがボソリと、
「確かに……トリス先生ならば、戦力の上では隊長の穴を補えると思います。ですが戦竜への指示は――」
「お前らよりもマシな戦竜隊の騎士たちがおるから、特に心配しておらんわ」
返す言葉は、自分でも分かるくらいににべもない。ムッとしたトゥルースをやはり無視して、マテライトはトリスに、
「どうであろうか」
「……まぁ」
濁した言葉とは裏腹に、その表情は、既にやる気満々、といったところだった。戦いたくてウズウズしている、とばかりに拳を開いたり握ったりしながら、
「こちらと合流して、最初に剣で斬ったのが金だらい……では、いささか情けないですしな」
それで、全てが決まった。
それぞれの部隊が甲板に展開する。
その先頭に立つのは、マテライトの率いる重装歩兵隊と、ビュウに代わってトリスが率いる事となったナイト隊。
正面からやや右側の空には、マハールに駐留するグランベロス軍の哨戒部隊。人間よりもより高い警戒能力を得るために、そして敵と遭遇した場合に備えて、サラマンダーやサンダーホークのような中型竜を中心とした部隊である。
より空中戦に特化した敵に対し、隣に立つトリスは、獰猛な笑みを浮かべて背中に背負った剣の柄を掴んだ。
一気に引き抜く。
長大な――子供の身長ほどもあろうかと思えるほどに長く、そして幅の広い両刃の大剣が姿を現わした。
その剣を、そしてそれを両手ではあるが軽々と持つトリスに、マテライトは我知らず息を飲んでいた。
(これが……――)
想起するのは、かつて息子の妻から聞いた、彼の二つ名。
ニヤリ、と口角を歪めて持ち上げたトリスは、こう囁いた。
「さぁて……『剣匠アソル』の剣、とくとごろうじろ」
§
(…………?)
外から聞こえる喚声に、ビュウは浅い眠りから引き戻された。
喚声。剣戟。断末魔。ほとんど獣じみたそれらに、彼はちょうどベッドの側にいた人物に質問をぶつけた。
「戦闘……か?」
「――――っ!」
彼女はビックリしたらしかった。ローブに包まれた細い肩をビクンッ、と跳ね上げて、三つ編みを翻してバッとこちらを振り向く。
その動作にも、そして表情にも、驚きが見て取れた。
「ビュウ……起きたの?」
「まぁ、外であれだけ騒いでれば」
おかげで夢の中が恋しい。
「……フレデリカは、出なかったのか」
「え? ええ……貴方の方を診ててくれ、って……お父様が」
「……親父が?」
コクン、と頷くフレデリカ。
「それで、貴方の代わりに、出撃されたわ……」
告げる表情は複雑だった。安堵とも、不安とも、戸惑いとも取れた。
「そうか」
だがビュウは、特に何も感じなかった。それだけ言うと、再び目を閉じる。
「そうか、って……ビュウ、お父様が出撃してるのよ? 不安じゃ、ないの?」
「全然」
「全然、って……」
彼女の声が詰まった。目蓋を押し上げる。僅かに目を見開いて、納得の行かなさそうな顔をしているフレデリカ。
「大丈夫だよ」
「え?」
笑ってやる。案の定、フレデリカはそれまでの何とも言えない不満げな表情を掻き消して、きょとんと目を丸くした。
「あの親父が出たんだ。負けるはずがない」
だから大丈夫。
安心させるようにそう小さく言うと、ビュウは再び眠りに就いた。
こうして、反乱軍はマハール作戦の第一歩を踏み出した。
|