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 マハール・ラグーンは、『奇跡の大陸』という通称を持つ。
 奇跡。
 他のラグーンに比べて国土の大半を河川、湖沼に覆われたマハールは、特に水不足に悩む他国から、その圧倒的な水を羨ましがられていた。
 ――が、それを以って「奇跡」と呼ぶのは、やや勘違いしている節がある。
 マハール史は、常に水との戦いに彩られている。すなわち、歴代の王朝に課せられた治水事業と、その重要性の歴史に。雨が三日も降り続ければ川や沼地が氾濫する恐れを常に孕んでいたマハールの国土は、要するに、水はけが究極的に悪い土地であったわけだ。
 国土面積の、実に七十パーセントが水。
 人々の日常が、水との戦いになるのも道理である。


 そしてそこは、その水との戦いの一つの結果として、生まれた街だった。

 縦横無尽に走る水路こそが、その街にとっての「街路」だった。荷運びのゴンドラが水路を行き交うのをフードの下から横目に見ながら、ビュウは、今彼らが歩いている水路に架かる橋の先、石畳が続く曲がりくねった細い道の先を指差した。
「――……確か、そこの角、右だろ」
「隊長……良くご存知で」
 その言葉に、道案内役のはずのかつての部下はやや驚いた様子で頷いた。
「そりゃ、なぁ」
 まだ頭がフラフラする。一日経っても、熱は下がってくれなかった。だから嫌いだ、マハールは。この雨のせいで、雨よけのフードも鬱陶しい。
「何度か来たからなぁ……ターゼンブールは」

 マハール王国、ターゼンブール市。
 マハール最大の湖、ターズ湖北岸にあるこの街は、ほとんど水の上に築かれた、と言っても過言ではない。水を多く含んだ土壌に街を築いたため、人々は土から水を抜き出し、流すための水路を設けた。
 歩ける石畳の街路よりもゴンドラで行き来できる水路の方が人々の生活には密着して、ついた渾名は「水の街」。ターズ湖やこの街そのものの景観の美しさもあり、古くは王家の避暑地として、今となってはマハール有数の観光名所として、その名をオレルス全土に知らしめていた。
 ――が、グランベロス占領支配後は、幾度となく起こる民衆の暴動のため、観光産業は後退。観光が街の主産業になっていたターゼンブールは、見るからに寂れている。

 閉ざされたままの店屋。
 裏通りで座り込んでいる、身なりの汚れた男たち。
 活気のない街。子供たちの遊ぶ声も、主婦たちの噂話の声も、売り子の呼び声も聞こえない。

「……暗いわね」
 先導を務める戦竜隊の騎士二人のすぐ後ろを歩くルキアが、浮かない顔でそう呟いた。呟いたその声もまた、沈んでいる。
「ターゼンブールって、もっと活気のある街だったはずなのに……」
「ルキアさん、この街には?」
 と、これはビュウの後ろを歩くトゥルース。水路ばかりの街が物珍しいか、周囲をキョロキョロ見回しながらの問いだ。答えるルキア。
「えぇ、一度だけ」
 と、彼女はこちらを振り返った。
「ビュウは?」
「二、三度」
 短く答える。素っ気ないのは自分でも判っていたが、しかし、どうにも口を聞くのが億劫だった。
 微熱のせいだ。
 そんなビュウの様子を悟ったルキアは、そう、と小さく相槌を打つと、再び前を向いて歩く事に集中した。いくつか曲がる角は、ビュウの中にある古い記憶のままだ。
 そして。
「ここです」
 部下が立ち止まる。
 五人の前にあるのは、七色魚鱗亭という、趣味の悪い極彩色の看板を掲げた小さな酒場だった。





§






 センダックとグンソーは、ビュウの部下だった戦竜隊のナイトたちに連れられて、その館に入った。
 その直前に、センダックは館の入り口に掲げられていた看板を見ていた。
 グンソーもまたそれを見ていたらしかった。けばけばしい内装の玄関ホールに目を剥きながら、彼は、ボソボソと戦竜隊のナイトの一人に問うた。
「ここは……娼館では、ないでアリマスか」
「そうです。――女将を」
 ナイトは、応対に出た小間使いの小男にそう短く命じた。小男は声もなく頷き、奥へと引っ込む。
 そして大して待つまでもなく、内装と同じくらいにけばけばしい――化粧も、胸元が大きく開いた紫のドレスも――、やや太り気味の女が現われた。
 まさか、マハール解放作戦を目前にして、しかも朝っぱらから、女を買う気か?
 センダックが本気でそう疑いだしたその時。
「お待ちしておりました。こちらへ」
 娼舘の女将は、外見からは想像もつかないほどの恭しさで頭を下げると、彼らを奥へと誘った。





§






 街に入る前に三グループに分かれさせられた事。
 やたらと複雑な道順で寂れた店に入らせられ、その裏口から忘れ去られたかのように人気のない水路をゴンドラで進んでいる事。
 それらを総合すると――

「こうまでして、尾行を警戒しなければならないほど、監視の目が厳しいのですか?」
 船頭の近くに腰を落ち着けているトリスに、ヨヨは小声で問うた。
 橋やトンネルの下を通るその水路は、暗い上に、細く狭い。ゴンドラの船首に吊り下げられた角灯の灯りだけが頼りだ。船頭がスイスイと船を操るのに密かな感嘆を捧げる一方、ヨヨはその僅かな明かりが照らし出すトリスの答えを待つ。
 彼の答えは、しかしヨヨの予想から少し違っていた。
「それほどじゃねぇんだが、ま、念のため、って奴ですな」
「トリス殿、それは?」
 説明を求めるのはマテライト。身じろぎした途端、雨よけのフード付きマントの下に着込んだいつもの金メッキ鎧が、耳障りな音を奏でた。
「総督府とマハール属州駐留軍の士気は、キャンベルとは比較にならないほど低い」
 それまでの笑みを消し、鋭い口調で言うトリス。ヨヨは、マテライト、タイチョーと視線を交わしながら、無言でその先を促した。
「詳しい話は後でマハール解放軍の事務屋からありますが、総督のヴィル・レスタット=フォン=ヒンデンベルクが相当私服を肥やしていて、それが駐留軍の将兵にも伝染しちまっているようです。賄賂でも贈っておけば、俺たちみたいのが街を歩いても目を瞑っちまうくらいに」
「グランベロスが……!?」
 正直、ヨヨには信じられなかった。
 ヨヨは、ここにいる誰よりも知っているつもりだった。グランベロス軍が、どれだけ統制が取れていて、どれだけ規律を守る集団であるか。
 ヨヨの鋭い声に、トリスは肩を竦めた。
「まぁ、皇帝のご威光から長い事離れちまうと――って事ですな。奴らだって人間でしょうし」
「…………」
 絶句する彼女をよそに、トリスはマテライトと話し込む。
「だから事前に金を適当に掴ませといたんだが、うちの馬鹿息子と来たら……――いやぁ、マテライト殿、ご負担を掛けて申し訳ない」
「いや、気にせずに、トリス殿。ヨヨ様の安全が保たれるのであれば、慎重、大いに結構。不満などあろうはずもない」
 豪気に笑い合う二人の横で、いまいちその関係を掴めていないタイチョーがきょとんとしている。そしてヨヨの視線に気付き、彼は小声で問うてきた。
「ヨヨ様、一つ、聞いていいでアリマスか?」
「何を?」
「トリス殿はマテライト殿のご友人、なのでアリマスか?」
「有り体に言ってしまえば、そうね」
 片や一介の傭兵。片やカーナ王国の騎士団長。傭兵なんて雇い入れないのが伝統のカーナ軍だから、両者の接点はまず存在しない。
「マテライトの息子さんの奥様が、トリス小父様の娘さんで、ビュウのお姉さんなの」
 聞いたタイチョーは、両者の関係を頭の中で整理しつつ、ブツブツと、
「……つまり、マテライト殿と、ビュウは」
「一応親戚……って事になるのかしら?」
「ですがヨヨ様、ビュウは平民出身でアリマスよね? つまり、ビュウの姉上も平民であって、でもマテライト殿は、確かカーナの伯爵でアリマス」
 つまり、マテライトの息子とトリスの娘が結婚するのは身分違いで不釣合い、あり得ない、と言いたいらしい。そういえば、二人が結婚する時、その事が宮廷で物議を醸し出した。
「えぇ、それが実は――」

 と。
 それまで暗いトンネル内の水路を進んでいたゴンドラが、不意に明るい所に出た。トンネルから抜け出たのだ。
 目が、中々明るさに慣れない。瞬きを繰り返しているヨヨの白くぼやけた視界に、だんだんと、色彩と輪郭が戻ってくる。
 水路の終着点は、ある屋敷の裏手だった。ゴンドラで運ばれてきた荷を受け取り、屋敷の中に運び入れるための桟橋と石階段、勝手口が見えてくる。

 そしてその桟橋の所に誰かがいた。やっと明るさに慣れたヨヨには、それが、土色の髪の壮年の男に見えた。後ろに、黒いローブ姿の、文官然とした容貌の男を二人従えている。
 後ろのトリスがげ、と嫌そうな声を上げた。ゴンドラは桟橋に近付く。男の容貌までがはっきりと判別できるほどに接近した。
 オールバックにした土色の髪。渋面を作ったしわのある顔。睨むような鋭い紺碧の瞳は、一度ゴンドラの後部――トリスに向けられてから、険しさを大きく緩ませて、ヨヨたちに据えられた。
「ようこそおいでくださいました、ヨヨ王女殿下」
 ゴンドラが桟橋に着いたのと同時に、彼はヨヨに対し慇懃に腰を折った。ヨヨは立ち上がると、それに応じて差し出された男の手を取って、桟橋に上がる。
 剣を握り慣れた手ではない。むしろ、ペンを握る手だ。文官の手。彼女は、にわかに男の正体を悟った。
 マハール解放軍の事務屋。トリスはそう呼んだが、ビュウの話によれば、この男こそが、実質的なマハール解放軍の指導者だ。
「貴方が……マハール解放軍の?」
 ノロノロと桟橋に上がってきたタイチョーが、いささか唖然とした様子で尋ねた。男は大きく頷いて、
「貴殿は、騎士団重装歩兵隊のタイチョー=ソム隊長だな。あのマハール戦役を生き抜き、再びこの国に帰ってきてくれた事を、マハール解放軍を代表して礼を言う」
「そ、そんな、礼だなんて、でアリマス」
「別の道から来た貴殿の部下ももう屋敷にいる」
「グンソーも、でアリマスか?」
「彼だけではない。それは、屋敷に入ってからのお楽しみ、という事で……」
 言葉に含みを持たせて止めた彼は、その視線を再び鋭くし、ようやく上がってきたトリスにひたと据えた。
 その視線を受け止めて、トリスは苦虫を噛み潰したような中途半端な苦笑いで、
「……よぉ、久しぶり」
「そうだな。七年ぶりになるな」
 一拍置いて、軽く息を吸ってから、男ははっきりと言った。
「故郷に寄りつかんで、この愚弟めが」
 ――ヨヨは、男の名を知っていた。
 直接会った事こそなかったが、ビュウから、その名と評判を聞いていた。

 マハール法曹界の重鎮にして最高権威、司法院長官、ギョーム=ドークール。
 トリスの実の兄で、ビュウと彼の姉にとっては伯父に当たる人物。
 マハール王国の大貴族、オークール公その人である。





§






 タイチョーは、その男の本当の正体に、見当がつき始めていた。


「おぉ、ルキア! 我が愛しのマイスウィートラヴァー、ルキア! 再会できるこの日をどんなに待ち望んだ事か……!」
「……ちょっと?」
「あぁ、ルキア、いいんだ、解ってる。要はアレアレアレ……君もまた、このドンファ〜ンとの再会を心待ちにしていた、そうだろう?」
「……だから、何でそんな風になるのよ」
「やはり、僕と君は以心伝心、一心同体、これはもう、ずっと一緒にいるしか――」
 口上が最骨頂を迎えようとしたその瞬間、ドンファンの赤毛の頭が後ろからどつかれた。声が途切れる。
「まったくこの男は。ちょっと目を離すとすぐこれか」
「ジャンヌ! 無事だったのね!」
「久しぶりだね、ルキア。あんたも無事で何より。さて――」
 茶髪ショートヘアの女の名は、ジャンヌ。かつて、ルキアと同じライトアーマーとして共に戦場を駆け抜けた、ルキアにとっては一番の戦友である。
 そしてその戦友二人は、ルキアの手を握ったまま床に倒れ伏した男を見下ろした。
 先程まで、長ったらしい口説き文句を吐いていたその男。見ていると、バッといきなり起き上がり、今度はジャンヌの手を取る。
「やぁジャンヌ、おはよう。今日も君はとてもチャーミングだね」
「……朝から酔っ払ってるとは随分器用だね、あんたも」
「ジャンヌ、君の憎まれ口もチャーミングだよ。要はアレアレアレ……そう、君の本心の裏返しだと思えば」
「……寝言は寝てからいいな」
「素直になるんだ、ジャンヌ。何、このドンファ〜ンに任せておけば大丈夫。さぁ、僕と一緒にレッツ・エクサ――」
 そしてルキアとジャンヌ、二人の張り手が長身のその男――ランサーのドンファンの両頬に叩き込まれた。
 広間に響き渡るとんでもなく物騒な音。喧騒が一瞬静寂に変わり、事情を知る者は、「あぁ、またか」と慣れた様子で無視を決め込む。
「……変わってなくて安心したわ、ドンファン」
「は、はは……この、ドン、ファ〜ン、君のためなら、いくらでも、変わらない……つもり、さ」
 抑揚に欠けたルキアの言葉。それによく分からない答えを返し、ドンファンは再び床に倒れ伏す。
 その全てを見納めたタイチョーは、ボソリと一言、
「……皆、元気なようで嬉しいでアリマス」
「タイチョー殿、疲れきっているでアリマスよ」
 グンソーが小声でボソボソと言うが、タイチョーは何も返さなかった。

 ジャンヌ、そしてドンファン。
 二人とも、四年前のマハール戦役で共に戦った、騎士団の部下たちだ。
 グランベロスによってマハール軍が壊滅し、そのどさくさに紛れてタイチョーとグンソーが、別ルートでルキアが故国を脱出した中、この二人は国内に留まった。
 生存は知っていたが、その後どうしたかと、タイチョーはずっと心配していた。
 だがそれが、まさか天下のオークール公の庇護を受けていたとは……。

 タイチョーは、広間の中心方向に目をやった。
 今彼ら五人がいるのは壁際。広間の中央には持ち込まれた長方形の卓が置かれ、その傍でビュウとトゥルースが、ギョーム=ドークールとその部下たちと、何やら話し込んでいる。
 そのビュウの傍らには、トリスがムッツリと押し黙っていた。

「……彼は」
 隣のグンソーに向かって、タイチョーは呟いた。
「彼は、マハールの民だったんでアリマスな」
「トリス殿、でアリマスか? こちらに着いてから、自分も執事に聞いてみたでアリマスが、何でも、オークール公の一番下の弟に当たるらしいでアリマス。という事は」
 グンソーもまた、広間の中央、ギョームとビュウの様子に見据えている。
「ビュウはギョーム殿の甥……オークール公爵家の一人、という事に、なるでアリマス」
「そうでアリマスな……」
 意外な事実ではあったが、内心では納得していた。それは、ここに来る途中にヨヨから聞いたあの話だ。

 伯爵であるはずのマテライトの息子とビュウの姉が結婚できた理由。
 出来るはずだ。いや、むしろ歓迎した事だろう。何せ相手は、オークール公の姪なのだから。
 相手として、これほど満足のいく娘はいない。

「それにしても、オークール公にあのような弟君がいらしたとは、知らなかったでアリマス。騎士団におられれば、きっと様々な武勲を挙げられたでアリマスのに」
 その言葉で、タイチョーは悟った。
 この部下は、知らないのだ。
 よくよく考えれば、それはあり得る話だった。あれは二十年近くも前の出来事なのだ。その時はまだ軍にいなかったグンソーは、知らなくて当然だ。
 タイチョーは、知っている。その頃彼は、マハール軍の末席中の末席、見習い兵同然だったから、結局何がどうだったのか、詳細は知らない。その後、その時の事については暗黙の内に緘口令(かんこうれい)が敷かれ、いつしか誰の口にも上らなくなったが。
 だが、
「……そうで、アリマスな」
 そう頷いたのは、グンソーと同じ思いを抱いたからだった。
 しかしそれは、この部下が抱くものよりも、もう少し陰に傾いたものだった。自分でも嫌悪感を覚えるほどのドロドロとした激情が情念となり、理不尽とすら言える想念となってタイチョーの心の中をよぎったのだった。

 彼が、いてくれれば。
 もしかしたら、マハールは、勝っていたのかもしれない。
 いや、それが無理だったとしても、もしかしたら、騎士団の絶望的なまでの壊滅は、防げたかもしれない。
 騎士団の壊滅と……それがもたらした、生涯この心に残る傷となったあの喪失が、防げたのかもしれない。

 それがただの八つ当たり、責任転嫁である事は、タイチョー自身気付いていた。
 失った全ての責任は、自分にあった。自分の不甲斐なさが引き起こしたものだった。そんな事は、重々承知していた。
 それでも思わずにいられなかった。

 彼が、いてくれれば――
 かつて、「マハールにその人あり」と言われたほどの騎士が、軍に残っていてくれたならば――

 その時。
 広間の中央にいたトリスが、不意にこちらを見た。
 タイチョーと、目が合った。
 トリスは、一瞬目を見開いて、それからどこかばつの悪い、微かな苦味を表情に上らせた。
 タイチョーは、彼の顔にはっきりとした苛立ちを覚えた。何なのだその表情は、と。何故そんな顔をするのだ。そんな、まるでこちらに負い目を感じているような――
(ならば)
 乱暴な動作で視線を逸らした。目を床に落とし、拳を握り締める。掌に爪が刺さったが、痛みは余り感じなかった。
(ならば……退役など、なさらなければよろしかったであろうに)

 マハール軍の精鋭中の精鋭を集めた、マハール聖業軍。
 今はトリス=アソルと名乗るトリスタン=ドークールは、かつてそこにいて、そして今から二十年以上も昔に、退役した。

 時間が来た。
「それでは、これより作戦会議を執り行う!」
 ギョームの威厳に満ちた宣言も、タイチョーの心を晴らすには到底足りなかった。

 

 

 

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