―8―



 実を言えば、ここ二、三年のイズーはかなり激しい男嫌いだった。
 何せ男という生き物は、彼女を見るなり卑猥な言葉を投げる、尻を触る、胸を揉む、問答無用に押し倒そうとする。そういう手合いはことごとく殴り、蹴り、斬り倒してきたが、息子を連れて傭兵稼業をするようになって半年した頃には、「男=敵」という図式が出来上がってしまっていた。
 中には、そんな事をしない男もいた。
 性別というくくりを越え、剣士としてのイズーだけを見、戦友として扱ってくれた猛者たちを何人か知っている。イズーを女性として見ながらも、いきなり実力行使に出るのではなく、きちんと礼儀作法にのっとって口説き文句を囁いてきた色男たちも何人か覚えている。
 男というものの、全てが全てけだものではない事くらい、実感として知っている。
 それでも、イズーにとって男は警戒すべき存在だった。

 四ヶ月前までは。

『あんたの背中を、守らせてほしい』

 初めてだった。
 誰かに背中を守ってもらいたい――あの場でそう言ったのは確かに自分だったが、それでも尚、イズーの剣技と外見に臆する事なく真正面から向き合って、そんな言葉をてらいもなく言ったのは、彼が初めてだった。
 初めてだったのだ。
 いきなりいやらしい事をされるでもなく、対等の兵士として見られるでもなく、ただ口説かれるでもなく、率直に「守りたい」と言われたのは、二十数年生きてきた人生の中で、本当に初めての事だったのだ。
 母親でもクロスナイトでもない、心のどこか片隅に縮こまって膝を抱え、世の男たちに絶望し、いじけていた女としてのイズーが、その言葉に嘘みたいに簡単に惹かれた。
 夫にも感じた事のない、初めて恋する少女のような胸の高鳴りを覚えた。
 夫を失って、六年。再婚するという選択肢を、この時になって初めて意識した。

 だが、それはイズーの見込み違いだった。

 何だかんだで男に対する警戒心は本能の域に達していて、高鳴る鼓動とは切り離されたところにいる、ひどく冷静なもう一人のイズーが、彼を冷静に観察していた。
 彼の行動を。
 彼の言動を。
 二ヶ月ほどで結論は出た。
 二ヶ月行動を共にしていて、一度も手を出そうとしてこず、決定的で直接的な誘惑の言葉さえ言い出してこず、紳士的といえば紳士的であったが、それでも、彼の目的はイズーの体だった。
 だというのに、その二ヶ月の間で彼は一度も手すら握ってこようとせず(握りたそうな素振りを見せた事はあったが)。
 ベッドに誘う言葉もなく。
 それどころか、折に触れてイズーを気遣い、楽しませ、好意を持たせるような言葉や行為を示してくる。
 体が目的のはずなのに、まるで好きな女性の気を引こうと一生懸命になる純朴な青年のような行動。だから解らなくなった。彼の目的が、体と心、どちらにあるのか。
 だから、もう二ヶ月一緒にいた。
 そうしたら昨日、いきなり「好きだ」と言われた。
 驚いた。
 正直嬉しかった。
 けれど同時に疑わしかった。
 だから尋ねた。
『貴方は、ビュウの父親になれる?』
 彼は、答えなかった。
 やはり、と腑に落ちる感情と、そんな、と落胆する思いに等しく襲われて、少し悲しくなった。
 ――と頭がグチャグチャしてちょっと泣きたくなっていたところに、彼を毛嫌いしていた息子が大怪我をして気絶して彼に背負われて帰ってきて、こっちの事など真剣に思ってもいないくせして更に踏み込んできて、いきなり身の上話をして、挙げ句にまた「好きだ」なんて言って。

 ……信じられるものですか。

 けれど同時に信じたい自分もいるのだ。
 男という生き物の、全部が全部けだものとは思いたくない。
 この世にせめて一人くらい、夫のように自分を慈しみ、愛してくれる人がいると思いたい。
 そして、母親の影響で鼻の下を伸ばしてやってくる男の全てが下衆だと思ってしまっている息子に、ちゃんと教えてやりたい。
 下衆ばかりではないのだと。
 優しく強い男もいるのだと。
 立派で、人生の手本となり得る人は必ずいるのだと。


 だから、イズーは疾駆する。
 夜の帳が下りつつある雨のシュルースブールを、郊外に向かってひた走る。
 雨よけのフードはかぶっていない。宵闇の中でも鮮烈に輝く金の髪と、それをまとめるリボン代わりの青のバンダナが、速度に合わせて尾のようにたなびく。濡れた顔はただ険しく、薄闇の向こうを見据えるだけ。
 脇目も振らなかった。
 後ろから、路地を一つ二つ挟んだ左右から、彼女を追う剣呑な気配がいくつもあるのに。
 イズーは走る。
 ただ走る。
 敵の位置を確認する事もせず、剣を抜く事さえせず、街の出口だけをただ目指す。
 そして、彼女は徐々に迫る石造りの壁を見る。街の防壁だ。
 ここで初めて、イズーは左右の剣を抜く。
 走る速度は決して緩めないまま。
 双剣を、体の前でクロスさせ、
「サンダーヒット!」
 叫びと共に、勢いよく振り抜く。
 生まれ、放たれた紫電の刃が防壁を穿つ。瞬間、もうもうと煙が立ち上って視界を塞ぐ。それは、降り注ぐ雨が電熱で蒸発して発生した水蒸気。形のない壁のごとく行く手を遮るそれにためらいもなく飛び込んで、イズーは、防壁に開けた穴からシュルースブールの外へと飛び出した。
 飛び出して、街道からかなり離れた雑木林の道なき道を駆ければ、そんな走るには適さない獣道をご丁寧についてくる気配が、合計七つ。
 口の端に微かな笑みを上らせるイズー。
 前に立ちはだかっていた木々の壁が不意に薄くなり、抜ける。
 ポッカリと開けた広場のような野原に出た。
 家が四、五軒、余裕を持って立ち並べるほどの広さだ。懐かしいベロスの練兵場ほどではないが、七人を相手に立ち回るには十分だ。
 四分の三辺りまで進んで、立ち止まる。
 振り返る。
 嫣然と微笑む。
「初めまして、よりもお久しぶり、が適当な方は挙手してくださる? 私、人の顔を覚えるのが苦手なの」

 広場の中ほどに勢揃いする、七人の黒衣はイズーの言葉に顔色を少しも変えなかった。

 あらまあつまらない、相変わらず面白味がないわね、特務って――小さく肩を竦める。
 だがどちらにしろ、彼女はうふ、と笑う。お菓子を貰った子供のように、それはそれは嬉しそうに。
「じゃあ、始めましょうか。
 ――皆さん、お祈りは済みました?」
 その言葉が何を意味するか。
 猟兵連隊の小隊員が察するよりも尚速く、イズーは一番手近にいた男に接近、相手が武器を構える暇すら与えず――袈裟懸けに斬り捨てた。
 黄昏の闇の中、赤黒い血の花が咲く。
 しかしそれは立ち上った血臭と共に降り注ぐ雨に掻き消され、黒衣の小隊員はドゥッと草むらに倒れ伏す。色めき立つ猟兵たち。彼らはそれぞれの武器を構え、自らを奮い立たせる雄叫びを発してこちらに打ちかかってくる。
 イズーは笑う。
 優雅に、あでやかに、たおやかに。
 そして彼女は踊り始めた。
 ワルツである。リズムは三拍子。進み、沈み、伸び上がり、描かれる緩やかな波形は理想的なまでに美しい。
 全く別々のタイミングで繰り出される長剣、短剣、短槍、手斧、鉈。殺意に満ちた鈍いきらめきをかいくぐり、すり抜け、受け止め、払い、受け流し、イズーは踊る。
 マントの裾がドレスのように翻る。
 両の剣はまるでアクセサリー。
 雨と泥と血の戦場ではなく、絢爛豪華な宮廷の大広間ではないか、そう錯覚させるほどに美麗なイズーの動きは、だけれども戦場に相応しく残像を生み出すほどに機敏だ。彼女のパートナーのようでいて、明らかにリードされている猟人たちは、イズーの双剣に武器を弾かれる度、唖然とし、愕然とし、憤然として更にいきり立つ。
 だから彼らは気付かない。
 イズーの役割が、囮である事を。
 イズーが顔をさらして街を疾駆していたのは、街のどこにひそんでいるか判らない猟兵たちを手っ取り早く誘き出すためだった事を。
 そして彼らは自分たちの任務に没頭し、すっかり忘れていた。
 もう一人の存在を。
 彼らの隊長トーヴェ・ミハエル=アウスト――彼を殺した無様な手口とは明らかに違う、無慈悲で見事な突きの主を。

「アイスパルス!」

 彼らが後にしてきた街の方角から飛来する氷刃が、敵の背中、右の肩甲骨の辺りに突き刺さり、その動きを止める。
 ザザザザザッ――ぬかるむ地面を激しく蹴って迫る足音。その接近に気付いて後ろを振り返ろうとし、それを邪魔するかのようなタイミングで果敢に斬り込んでくるイズーの突然の攻勢に、驚き慌てる猟兵連隊。
「はっはあ!」
 その彼らを一喝する笑声。
 雑木林を駆け抜けて野原に躍り出て、軽く跳躍して勢いと体重を乗せて猟兵の一人を大上段から叩き斬ったトリスは、ゾクリとするほどの獰猛で凶暴な笑みを浮かべて残り五人を睥睨する。
 それはまるで、獲物を捕らえて喜ぶ肉食獣の笑みで。
「さぁて……死ぬ覚悟は出来たか、ベロスの狗ども?」

 そして、二頭の獣による一方的な狩りが始まる。

 イズーが地を這うような下段からの斬撃を繰り出す。
 トリスが薙ぎ払うような中段からの剣閃を繰り出す。
 イズーの標的となった猟兵は何とか受け止める。しかし間髪入れずに襲いきた突きを受け止められず、無理矢理体をひねって体勢を崩す。
 トリスの標的となった猟兵は受け止めたけれどこらえきれず、そのまま姿勢を崩す。そこに蹴りを喰らい、派手に地面を吹っ飛ぶ。
 短槍がイズーを襲う。仲間を助けようと繰り出された必殺の突きを、しかし彼女は軽く身をよじるだけで難なくかわす。その死角から振り下ろされる鉈。まるで後頭部に目でもついているかのごとく、イズーの剣は的確に鉈を受け止める。そして。
 トリスがその隙を突き、鉈の猟兵を一刀両断した。
 やっと立ち上がった猟兵が手斧を投げつけてくる。猛烈な勢いで飛来するそれ。だがトリスはそれを軽く回避する。手斧は木立の向こうに消えていく。
 手斧の猟兵に剣を叩きつけようとしたトリスだが、その時相手がニヤリと笑ったのを見て怪訝そうに表情を強張らせる。
 ハッと気付くトリス。振り返る。木立の向こうに消えたはずの手斧が――戻ってきている。
 振り向きざまに大剣を振るって叩き落とそう――にも、タイミングが、もう……――
 そこに割って入る金色の色彩。
 イズー。
 トリスの背をかばう形で飛来する手斧の前に立ち塞がった彼女は、ニコリと愛らしく微笑んで容赦なく右の剣を振るい、小ぶりだが肉厚の凶器を叩き落とした。ザグッ! 音を立てて地面に突き刺さる手斧。
 それとほぼ同時にトリスが手斧の猟兵の腹を大きく薙ぎ、再びイズーの隙を突こうとしていた短槍の猟兵の得物を両断する。そこに襲いかかるイズーの双剣。胴をX字に裂かれ、断末魔の悲鳴すら上げられずに短槍の猟兵は仰向けに倒れていく。
 その体を、トリスは問答無用に蹴り飛ばした。
 飛ばした先には、残り二人の猟兵。
 内一方がためらいなく仲間の骸を腕で払う。その顔には悼みの色さえない。
 あるのは、驚愕の色だった。
 死体が二人の視界を覆った一瞬。その、常人では反応も出来ないような僅かな間で、トリスとイズーは猟兵たちに肉薄し、あまつさえ、技を繰り出すため構えを取ってさえいたからだ。
 子供の身の丈ほどもある大剣を大きく振りかぶるトリスは、嬉々とした声で叫ぶ。
「アイスパルス!」
 大上段から振り下ろされ、撃ち出される寸前の氷の刃をまとった刀身が、死体を払った方の猟兵を袈裟懸けに一刀両断し――
「ラグナレック!」
 イズーが双剣より繰り出す青白い閃光の刃が、うねり走って死体の影から飛び出そうと身構えていた最後の一人を、呆気なく撫で斬った。



§




 トリスとイズー、二人が立てた戦術を成人したビュウが聞いたなら、こう駄目出しする事だろう。

「誘き出しと挟撃のアイディアは、まあ良いと思う。
 でも、『サンダーパルス』で堂々と防壁を壊しちゃ駄目だろ普通。
 そりゃ殺し合いをするんだ、市門を通るわけにはいかないさ。だが、そんな派手な物音を立てれば気付かれるし、防壁に穴開けられたのを守備隊が知れば厳戒態勢を布いて犯人捜査に乗り出す。そんな事になれば身動きが取れなくなるだろうが。大体市門での入市審査で名前と職業がバレてんだぞ? 何かあったら真っ先に疑われて拘束されて、治安騎士団に引き渡されて、なんて事になったらどうするつもりだったんだ親父?
 それに、倒した猟兵の死体。どう処理したんだ? まさかそのまま放置か? ……あのさ、二人とも自分たちのした事が法治国家において非合法だって事少しは自覚しよう。戦場じゃないし、こっちの正当性を証明してくれる雇い主はいないし、俺の場合はともかく、親父たちのやった事は正当防衛でも何でもないじゃないか。やるからには、ちゃんと顔を潰して身包み剥いで、死体を川に捨てるとか徹底しないと」

 しかし、この時の二人にそんな発想はない。死体はもちろん放置、返り血は雨で流れるから良いやと気にせず、さすがに防壁に開けた穴の周辺には気付いた守備隊員が群がっていたから、別の所に穴を開けて「あー、何か街が騒がしいかも」とか他人事のように思い、宿に向かっていた。
 見つかったらどうしよう、という懸念はそもそもない。
 二人の胸の内を占めるのは、敵を倒した達成感と、甘いんだか苦いんだか、切ないんだかほんわかするんだかまったくもってよく解らない何とも微妙な感情。
 気まずいようなそうでないような、そんな思いでトリスはイズーと隣り合って歩く。歩く。歩く。
「――トリス」
 それまで同じ歩調で歩いていた彼女が不意に立ち止まり、囁くような、しかしきっぱりとした口調でこちらの名を呼んだのは、あともう一区画歩けば宿に着く、という場所での事。彼は、イズーが立ち止まったのに気付かないまま三歩ほど先に進み、それからやっと振り返った。
 もう夜だ。街はすっかり闇に落ち、だというのに、イズーの白い顔はぽっかりと浮かぶがごとくはっきり見えた。
 まるで、藍色の空に懸かる月のように。
 その白い顔に浮かんでいるのは、迷いと決意を等分に含んだ複雑な表情。
 ただ、彼女の碧眼だけは迷いの欠片もなくトリスに向けられている。
 いっそ苛烈なまでの眼差しを、彼はやけに穏やかな心持ちで受け止めていた。
「貴方は、私たちに関わりたい、って言ったわ」
「ああ」
「でも……私は、どこまで関わらせて良いのかが判らない。貴方がしてくれた話に、今はまだ何も返せない」
 と、そこで置かれる間。
 トリスは待つ。
 促す事もせず、視線を向ける事もせず、ただ、彼女の言葉を待つ。
 そして、言葉は紡がれる。
 視線の強さには余りにも不釣り合いな、弱々しく、闇の中で手探りしているような、不確かで心許ない口調で。

「それでも、貴方ともう少し一緒にいたいと思うのは……私の、わがままかしら?」

「――いや」
 かぶりを振るトリス。
 自然と口の端に笑みが浮かんでいた。
 皮肉な笑みでも、獰猛な笑みでも、凶暴な笑みでもない、そして子供のように無邪気な笑みでもない、それは、相手を丸ごと包み込んで暖めようとする、優しく穏やかな笑みだった。
「それで十分だ」
 向き直る。
 一歩、彼女に歩み寄る。
 手を取る。
 引く。
 抱き寄せる。
 濡れて冷えた体の冷たさ。鎧の硬さ。血臭。抱き寄せた拍子に剣帯が奏でる金属音。
 戦いを終えて帰る途中で、雨に打たれて、汚れたままで、武装も解いていない。しかも、息が止まりそうになるくらい強く抱き締める、なんて事はせず、ただ両肩を抱いて鎧に覆われた胸に押し当てる、という非常に軽い抱擁。
 陶酔に浸るには、余りに無粋で中途半端。
 だというのに、トリスは幸せだった。
 これだけで、本当に十分だった。
 昨日までの彼なら、組み敷いて服を破り捨てて、執拗に愛撫して徹底的に喘がせて、貫いて引き裂いて狂わせて壊して、そうして快楽の絶頂に達してようやく満足していた事だろう。
 だが今は、口付けしようという気さえ起こらない。
 ――これくらいで良い。
 暗い夜道で、頭も体も冷えるほど雨に打たれて、鎧をつけたまま、ただ抱き寄せる。甘い雰囲気が漂いそうで漂わない、これくらいが今の自分にはちょうど良い。
 これ以上は、駄目だ。
 これ以上は、きっと歯止めが利かなくなる。
 それこそ、イズーを手に入れようとした今までの男たちと同じく、無理矢理押し倒そうとするだろう。
 それは彼女を傷付ける。

 愛する女性を、傷付けてしまう。

 マリアに対して、まだどこか後ろめたい気持ちを持っている。
 イズーに対して、体だけを得ようとした事がとにかく申し訳ない。
 そして、そんな自分の性欲が汚らわしく思える。


 今はそんなだから。
 だから、これで十分。


「……なあ」
 幸福と陶酔と胸の痛みを等しく味わいながら、トリスはふと思いついて胸元のイズーに問いかける。
「嫌がらねぇのは、さ……答えだ、って、思って、良いのか?」
 答え。
 好きだ、と告げたトリスの言葉に対しての。
 イズーは顔を上げる。こちらを見返す双眸がトロリととろけるように甘く緩んだ。
「なら、実感させて」
 小首を傾げる、その仕草が余りにも愛らしい。
「私が好きだという事を。もっとしっかり、これ以上ないほど、疑う余地もないくらいに私に教えて。
 答えは、その後よ」
 ああ、だがそう言う彼女のその表情は。トリスの懐で浮かべる、その甘い微笑みは! 今にもとろけてしまいそうで、うっかり思いきり抱き締めたくなって、いやいやいやそれはまだ駄目だって、でもキスくらいなら――
 ほとんど衝動で、彼はイズーに顔を近づける。
 そして、二人の顔が重なる――

 寸前。
 それまでの、恋人に向けるような甘い笑顔から一転、彼女はいつもの悪戯小僧をたしなめる母親の笑みに戻って、

「それはまだ駄目」

 握り拳でトリスの横っ面を問答無用にぶん殴った。

 

 

 

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