―7―



 怒声が轟いた瞬間、黒づくめの内一人がパッとこちらに向き直った。
 まだ若い――十代の幼さを残す男。青年というよりも、少年といった風情だ。それ以外、これといった特徴のない顔を驚愕に、続いて敵意と殺意に染める。
 彼は、もう一方の男に視線をチラと投げる。もう一人、ビュウを足蹴にしていた二十歳をいくらか過ぎた感じの青年は、トリスに油断も隙もない目線を寄越して少年の方には目もくれない。
 トリスもまた、少年ではなくそっちの青年の方を睨みつける。
 彼は、トリスの乱入にもビュウから離れず、あまつさえ、伏したまま動かない子供の右胸の辺りに無造作に足を乗せている。
 踏みつける姿勢は、こちらが何か不穏な動きを見せればすぐにでも肋骨と肺を踏み抜く、という意思表示だ。
 と、青年が頷いた。
 瞬間、弾かれたように少年が動きだした。一歩こちらへと踏み出す。同時に右手が左腰に伸びる。握るのは長剣の柄。踏み込みと同時に抜き放たれた白刃が、中段から横薙ぎにトリスを襲う。
 間合い、速度、タイミング。何もかもが必殺の域にあった。
 だからこそ――少年は愕然と目を見開く。

 トリスの体が突然沈んだからだ。

 カクンッ、とくずおれた体は呆気なく尻餅を突き、少年の剣はトリスの頭の少し上を空振りする。
 服が汚れ、濡れ、何より戦いの最中に地面に尻を突くという、とんでもない隙を生む行為を自らしながら、それでも彼は冷静で、次の行動に迅速に移った。
 右膝を立てる。
 体を前のめりにする。
 後ろに踏ん張った左の爪先に力を入れる。
 手で泥を引っ掻き、その勢いも進む力に変え、トリスは爆発的な勢いで立ち上がり、と同時に駆け出した。必殺の一撃を、そんな方法でかわされて唖然とする少年の脇をすり抜け――青年へと肉薄する!
 その間、僅か一瞬。厳しい顔つきの青年が身構えるより尚早く、トリスはぬかるみに足を滑らせながら制動をかけ、左足を軸にして右の回し蹴りを放つ!
 ドフッ!
 鈍い手応えと共に相手の体が左手の壁際まで吹っ飛ぶ。足を戻しざま体を反転させ、袋小路入り口の方に立つ二人の黒づくめから、ビュウを背中に庇う形を取る。
 蹴り飛ばされた青年も、初撃をかわされた少年も、既にこちらに向き直り、それぞれの武器を構えている。
 どちらもオーソドックスな長剣。
 それに対し、こちらは丸腰。いつもの大剣はおろか、補助用の短剣さえ帯びていない。鎧も手甲も具足もない。
 全部、宿だ。
 衝動的に飛び出してきたから、全部、忘れてきたのだ。
 思わず舌打ちをしそうになった瞬間、少年が再び打ちかかってきた。下段からすくい上げる一閃は、殺意をそのまま形にしたかのように恐ろしく鋭い。
 後ろにビュウがいるから下がれず、トリスは右に身をひねって刃をかわす。示し合わせたかのような見事なコンビネーションで、そこに襲いかかってくるのが青年だ。繰り出してくるのは突き、狙いは――右脇腹!
「――――っ!」
 虚を衝かれるタイミングに、彼はやむを得ず左手へと飛びすさった。倒れるビュウを飛び越え、後退する形を取ってしまう。ザッ、とぬかるんだ地面に滑りながら着地して、ふと視界に入り込んでくるものがあるのに気付く。
 それは、喉を裂かれて絶命している暗褐色の髪の男。
 見た瞬間、たった六歳の子供が一人で、と悲憤にも似た気持ちを抱いた。だが同時に思うのは別の事。どうやって? 子供が一人で、どうやって致命傷に至るほどに喉を裂けた?
 答えは一つ。
 短剣。
 それが、紛う事なき武器が血まみれ泥まみれになって死んだ男の首元に転がっている。手を伸ばしても少し届かない。歯噛みする内に少年が間合いを詰めてくる。青年はビュウにその切っ先を突き立てようとしている。トリスに襲いくる突撃、ビュウの命を奪わんとする刺突――
 トリスは迷わず短剣に飛びついた。
 タイミングが間に合わず、突きも右腕を薙がれる。マントや服と共に深く斬り裂かれた上腕から血が噴き出し、しかし叫びも呻きもせずに、左手で掴んだそれを投擲した。
 青年に向けて。
「――くっ……!」
 突然自分目がけて飛来する短剣に、青年はビュウにとどめを刺すのを留まった。大きく身をひねって赤い刃をかわし、同時に子供から離れる。その一連の光景を視界の端に収めながら、少年の懐に飛び込むトリス。顎に掌底。がはっ、呻いて仰け反る少年の右手に手刀。したたかに打たれて剣を取り落とす。地面に落ちる寸前のそれを拾い、
「――エゼル!」
 青年が警戒の声を発するのとほぼ同時に、トリスは少年の左胸に剣を突き立てた。肋骨の間を刺し通し、筋肉や臓腑に刃をもぐり込ませ、手元をひねってえぐる。ごふっ、と彼の口から鮮血が溢れ出た。
 死に向かいつつある少年の体を、蹴りやる事で刃から解放してやる。
 青年に向けて。
 いきなり飛んできた仲間の体を彼は驚愕と共に抱きとめた。その表情が凍りついていた。今自分がした行為がどれだけ致命的な事か、彼はすぐに理解したのだ。
 その表情のまま、名も知らない青年は口から血を吐き、命を散らした。
 トリスが非情なまでの力強さで繰り出した突きが、少年の体ごと、青年を刺し貫いたからだった。



 剣ごと敵の死体を放り捨て、トリスは今更のように感じ始めた右腕の傷の痛みに顔をしかめた。
 傷口を手で押さえながらも、右手を動かす。痛みで強張ってはいるが、動き自体に問題はない。敵の刃が神経を傷つけなかった事にホッとし、この程度の傷で済んだ事に安堵した。
「――う……」
 地面の方から呻き声がした。小さくか細くやや高く、そんな声を出すのは一人しかいない。トリスは奪った剣を捨ててそちらに駆け寄り、
「おい、クソガキ――ビュウ! しっかりしろ、生きてるか!?」
 こちらの呼びかけに――
 果たして、ビュウは微かに目蓋を押し上げた。
 生きている。だがトリスがホッとしたのも束の間、彼はまたすぐに目を閉じてしまった。体は怖気が走るほどに弛緩し、青ざめた肌だとか、返り血と泥で凄惨を通り越して無残な事になっている顔だとか、すりむいて血の滲んだ頬だとか、切れた唇だとか、苦悶が所々に見える無表情だとか、それらはともすれば死体のようで、
「おいビュウ、ビュウっ! 目ぇ覚ませ!」
 と、揺さぶり起こそうとして、思い留まった。手酷く蹴りつけられていたのだ。肋骨くらい折れているかもしれないし、目には見えないが、それ以上に酷い事になっている可能性も否定できない。
 早く医者に診せなければ。
「くそっ……死ぬんじゃねぇぞ、ビュウ」
 血と泥にまみれた小さな体をそっと起こし、背中に背負った。力の抜けた体はグニャグニャしていて、おいおい大丈夫かこれ、と不安と焦燥が胸の内で膨らんで暴れだそうとする。
 それを抑えたのは、抱き起こした拍子に露になったビュウの顔だった。
 より正確に言えば、この四ヶ月で初めて見る、ビュウの額。
 何故か右の前髪が、何かで切ったように根元からスッパリ失われていて、ちょっと笑える印象を醸し出しているそのおでこに、思わず眉をひそめるものがあった。それは、

(……竜?)

 頭部に二本の角をはやした竜が、尾をくねらせ、両の翼を広げている姿を、真正面から捉え、ひどく簡略化した図。

 子供の、柔らかくも青ざめた肌に黒々と浮かぶ、それは痣だった。小さな痣だ。ビュウの、まだ小さな掌でも容易に隠されるくらいの大きさで、トリスは不意に理解した。ビュウの前髪が伸び気味だったのは、これを隠すためだったのか、と。
 訪れた理解がもたらしたのは、スッキリした気持ちでも更なる謎でもなく、禍々しさだった。
 どういう理由でか、ビュウは――いや、おそらくそうさせていたのはイズーだろう、彼女はこの痣を前髪を伸ばさせる事で隠させていた。理由は解らない。見当もつかない。
 だが、そうさせていたという事実が、トリスにその痣は隠されるべきものだという印象を与えた。
 不吉だった。
 何の根拠も理由もなく、しかしだからこそ余計に強く、トリスはそこに不吉なものを感じた。これはいずれとんでもない不幸を呼び込むのではないか、そんな妄想めいた事まで考えてしまった。
 オレルス世界において、竜は空を飛ぶための最も一般的な手段であり、頼れるべき人類の相棒であり、同時に決して油断のならない隣人であり、所によっては尊ぶべき神である。だから、本当ならその姿を模したようなこの痣は、吉兆と見るべきなのだろう――
 無理だ。そんな風には見られない。
 この状況のせいか、人目から隠されていたという事実のせいか、それは分からない。だがトリスの目には、最早凶兆にしか映らなかった。
 そんな気持ちを、必死で抑える、掻き消す、飲み下す。
「――……まったく、どんなでたらめな戦いをしたんだ、お前は」
 その最後の工程として、トリスはわざと大袈裟に溜め息を吐き、わざと呆れたような口調を作り、わざと茶化す言葉を呟いた。
 それで終わりにする。
 背中のビュウはもちろんトリスの言葉に答える事はなく、力なく肩に顎を乗せて動かない。まあ良い、今はそれどころじゃない。気持ちを無理矢理切り換えて、袋小路を去ろうと足を踏み出す。
 だが足が止まった。
 足元に青年の死体。落とした視線の先にはマントを留める黒いブローチ。少し屈み込んで、それをもぎ取り、凝視して、
(ベロスの特務だと……?)
 ブローチを、握り締める。
 確かめなければ、という思いがトリスの足を速めた。あばら家だらけの貧民街を出て、宿のある方へと向かう。
 歩く中で、彼は一つの確信と疑問を得て――
「ビュウ――!?」
 宿のある界隈に戻ってきた彼を出迎えたのは、買い出しから今まさに戻ってきたイズーの、悲鳴じみた驚愕の声だった。



 宿の主が連れてきてくれた魔法医は、幸いな事に腕も良く、そして口も固かった。
 折れた右側の肋骨、皮膚を赤黒く染めた腹部と背中の打撲。それらに「ある程度」魔法治療を施すと、解熱剤と鎮痛剤を処方した。ただし、熱と痛みが余りに酷いようだったら使うように、と釘を刺して。
 曰く、子供はまだ体も出来ていないし体力も大人ほどあるわけではないから、魔法治療も強い薬もやりすぎると逆に害になる、だから「ある程度」で済まさないといけない――
『ま、あんたは良い大人だから「ホワイトドラッグ」で塞ぐけどね』
 冗談めかした言葉と共に白魔法で傷を治した魔法医は既に去り、見送りに一階に降りていたトリスは宿の主と女将にも礼を言った。口止め料も込みの謝礼をいくばくか握らせるのも忘れない。二人は恐縮していたが、受け取る顔には喜びが見え隠れしていた。
 尾行はされていない。されていると仮定して帰り道はわざと遠回りになるようなルートを選んだから、されていたとしてもまいてきているはず。
 だから、これでビュウがここにいるという事は漏れない――少なくとも、今日明日中は。
 さて、と階段を上がりながら考えるトリスの表情は、宿の主夫妻と話していた時の愛嬌のある笑顔はどこへやら、触れれば血が出そうな鋭い危うさに彩られていた。
(問題は……)
 階段を、上がりきる。
 同時に、パタン、と扉を閉じる音が聞こえた。
 階段口から左手方向。そちらに目を向ければ、防具を身につけ、腰に剣を佩いたイズーが部屋の戸を閉めたところだった。
「……どこに行くつもりだ?」
 自然と尖ってしまう声を投げつけると、ハッとこちらに顔を向けてくる。驚きに目をみはるその様子は、彼女にしては珍しい事に、こちらの気配に気付いていなかったという証だ。
 それだけ、我が子を傷付けられて頭に血が昇っている、という事か。
 だが、
「怪我した息子を放り出して出撃か? 母親がする事とは思えねぇな」
「っ……貴方には関係ないでしょう」
 冷ややかに返してくる彼女の声にも表情にも、狼狽の色がある。ビュウの傍から離れる事に後ろめたさを感じているらしい。
 そこに、いつもの包み込むような優しさはない。
 こちらの手を柔らかく拒絶する余裕もない。
「関係はあるぜ。あんたの息子を助けたのは俺だ」
「……そうだったわね。ありがとう、あの子を助けてくれて」
 という言葉に、ありがたがっているような調子はまるでなかった。むしろ仕方がないから言ってやった、という諦めに近い響きがありありと込められている。
 溜め息混じりの声と共に向けられた視線は咎めるように鋭い。階段口に立ち塞がるこちらに、そこをどけ、と声なき言葉を投げつけてくる。
 昼までならその威嚇に屈していただろう。だが今のトリスは怯まなかった。それどころか、何か哀れな気持ちさえ湧き起こってくる。
 トリスが持っていたイズーのイメージは、しなやかで美しくも強靭な孤高の虎だった。ただ一頭でキャンベルの森に君臨し、敵と相対すれば悠然と、しかし容赦なく血祭りに上げる、獰猛な獣の女王だった。
 けれど今は違う。
 今、彼の眼前にいるのは、我が子に手を出してくる人間に毛を逆立てて威嚇する野良猫だ。
 ちっぽけで、臆病で、人間を全て敵と見なして、牙を剥いて爪を出して必死に子供を守ろうとする、どこにでもいる母猫だ。
 そして悟る。
 これこそが、イズーの本当の姿なのだ。
 美しさと強さに目を曇らせて、トリスは見誤っていたのだ。
 その母猫は、四ヶ月行動を共にした彼でさえも信用ならないと言わんばかりに睨みやり、
「迷惑をかけてごめんなさいね。でもこれは私の問題だから、貴方はもう気にしないで」
 一方的に告げて、こちらへやってくる。トリスは階段口から僅かに身を退かせた。イズーに道を開けた風に。
 傍を通り過ぎる彼女は、最早こちらを一顧だにしない。

「ベロス王国王属派遣軍特務旅団第一猟兵連隊」

 ピクリッ――
 長い言葉を澱みなく告げた瞬間、イズーは身じろぎと共に立ち止まる。
 折りしも階段口。側の壁に背中を預けるトリスと、今まさに階段を降りようとしていた彼女は横一線に並んでいる。彼の言葉は、測ったように耳元で囁かれる形になっていた。
 いや、実際に測っていたのだ。距離を、タイミングを、彼女が反応せざるを得ない効果的な言葉を。
 そして、とどめとばかりに服の隠しからあのブローチを取り出し、イズーの目の前に差し出した。
 黒曜石を加工したブローチには、ベロス王国の紋章が彫られている。その下には、小さく「JKT」の刻印。
「派遣軍で黒といえば、特務のクソ野郎どもの色だ。『JK』は猟兵の略称、それで『T』と来たら、あの第一猟兵連隊しかない」
「あの」を強調しても、彼女はただ押し黙っている。チラリと寄越してくる視線からは、何を考えているのかは窺えない。
 窺えないまま、トリスは続けた。
「……あんたは、ベロスのツンフターだったんだな」


 ――ツンフター。
 正しくは、ベロス王国王属派遣軍軍人。
 オレルス世界最上層に浮かぶラグーンを国土に持つ、「持たざる国」ベロスの基幹産業を支える傭兵たちだ。
 基幹産業とはすなわち戦闘行為への傭兵派遣業であり、現在、内乱や紛争といった大規模な戦闘において彼らは国家側に雇われ、傭兵産業の大口雇用――内乱を起こされた国側の募集――を完全独占、市場の寡占化を成立させている。
 が、この寡占化を脅かす存在がある。
 一つは、元ツンフター、派遣軍の脱走軍人。
 ベロスのために戦う事を良しとせず、派遣軍から逃げ出した彼らはそれでも歴戦の傭兵である。派遣軍という組織にある種の手数料を支払わなくて済む分、フリーになった彼らの需要は非常に高い。
 もう一つは、ベロス以外の傭兵、フリーランサーの中でも特に実力のある傭兵。
 反逆者たちの戦力を支え、民間人を守り、時に敢然と体制に牙を剥く彼らは、様々な戦場を経験する事でツンフターよりも実力をつける場合がままあった。内乱が起こった際、そんな彼らを反逆者に雇わせまいと、先手を打って国側が雇う事例がここ数十年で増えている。
 ベロスにとって、傭兵派遣は国を支え、数十万の国民を養うただ一つの産業だった。その命綱が、逃げ出した裏切り者やよその国の者に脅かされるなど、あって良いはずがない。
 だから、そういった邪魔者を排除するための部隊が創設された。

 それこそが、特務旅団。
 全てのフリーランサーが唾棄するほどに憎む、黒衣をまとった死神ども。

 その中でも第一猟兵連隊といえば、脱走したツンフターの追跡と排除を主な任務とする精鋭中の精鋭。
 それが出張ってきたという事は、つまり、そういう事なのだ。

 イズーはベロス人で、追われる身なのだ。


 だが、
「だが、解らねぇ」
 ブローチを彼女の目の前から引っ込め、手の中でもてあそびながら、トリスは軽く目を伏せかぶりを振った。
「それでどうしてあんたの息子が狙われる? あんたが狙われるならまだしも、何故奴らは、あんな子供を追いかけ回して殺そうとした?」
 第一猟兵連隊の任務は、脱走兵の暗殺だけ。その家族や関係者は放っておかれるのが普通だ。
 だから、イズーがただの脱走兵であるならば、第一猟兵連隊は彼女だけを狙うはずで、彼女の息子を狙う理由も必然性も存在しない。
 彼が狙われた。それはすなわち、狙われるだけの理由が彼にはあるという事。
 その理由こそが、あんな子供をあんな目に遭わせたのだ。
 あんな、年端も行かない子供を。
 静かにトリスの内で燃え盛る怒りの炎とは裏腹に、イズーはあくまで冷ややかに答える。
 差し出しかけた手を振り払う、そんな取りつく島のない口調で。
「――……貴方には、関係ないわ」
「……そうかよ」
 呻きと溜め息が同時に漏れた。
 そして、半ば自棄っぱちのような感情がポッカリと胸に浮かんで根づいて取れなくなった。


 ――なら、もう知るかよ。


 感情が命ずるまま、トリスは足を踏み出す。イズーが出てきた扉の奥隣、自分たちが泊まっている部屋に向かって。

 すれ違いざまに、イズーの手を奪うように引っ掴んで。

「――っ!? トリス、何を――」
「黙ってろ」
 うろたえた声をトリスはもう聞かなかった。ただ、無理矢理従えた彼女の顔をチラリと窺う。
 驚愕と困惑に強張る顔は、それでも美しく、それどころか、可愛くさえあった。
(……あー、ちくしょう)
 こっそり吐息する。
(いつの間にこんなにイカれた?)
 だが、もう認めよう。
 自棄っぱちのように、認めよう。
 イズーのほっそりとした――長剣を片手で軽々と振り回すとは思えないほどにほっそりとした手首を掴んだまま、トリスは部屋の戸を開けた。所在なさげにベッドに腰かけていたアルネが顔を上げ、こちらの剣幕にギョッとして、更に無理矢理引っ張ってこられたイズーの姿に唖然として、
「……何を、しているの?」
 ようやく紡いだ言葉はそれだけで、しかしそれを無視してトリスは一方的に告げる。
「アルネ、父ちゃんはこれから出かける。だからお前は隣で坊主の看病をしながら留守番してろ」
「……は? 叔父様、何を――」
「誰が『叔父様』だ。いい加減『お父さん』って呼べ」
 アルネが目を見開いた。
 六年間、アルネはトリスをそう呼んだ事は一度としてなかった。彼女にとって父親は死んだ父、トリスの一番上の兄だけだから。
 そしてトリスもまた、アルネにそう呼ぶよう強制した事は一度としてなかった。口では父親と言っていても、そうなろうと心がけていても、最後の一線で踏み込めないでいた。
 アルネから父親を奪ったのは、突き詰めていけば彼自身だから。

 だが、もうやめだ。
 何かに遠慮するのも、グダグダ考えて結局中途半端なままで何も出来ないでいるのも、もうやめだ。

 待ってろとイズーに小さく告げて、トリスは乱暴な足取りで部屋に入る。隅に置いてある硬革鎧を慣れた手つきで身につけ、
「……私と一緒に来るつもり?」
「悪いか?」
「相手が誰だか、分かっているの?」
「第一猟兵連隊だろ。一個小隊か? 三人殺したから、あと六、七人か。二人でやりゃすぐに終わる」
「貴方には関係ないって――」
「うるせぇ。そんなの知るか」
 戸口を振り返りもせず、乱暴な口調で切り捨て――手甲をはめ、
「いいか、関係ないとかあるとか、そんなのもう知った事じゃねぇんだ。俺が、この俺自身が、あんたに、あんたたちに関わっていくと決めたんだ。文句は言わせない」
「……私の意志は無視?」
「あんただってこっちの言葉は無視だろうが」
「…………」
 強い語調で断言して、突っ込んで――具足をブーツの上からはき、
「――俺は昔、聖業軍にいた」
「……?」
「クソ国王の言いなりになって、『沼の民』や『泉の民』の虐殺に加担してた。
 六年前、『沼の民』掃討作戦の最中に女房が死んだ。殺したのは『沼の民』の子供で、俺は子供だって気付かずに殺しちまった。まだ十歳にもなってないようなガキを、この手で、斬り殺した」
 思い出すだけで気分が悪くなる過去を、他人事のように語り――だが掌は嫌な汗をかいている――立てかけてあった大剣を背負って、
「それで何もかも嫌気が差した。
 マハール統一だなんて謳ってるが、聖業軍のしている事は単なる略奪と虐殺だ。それを司法院の役人をやっていた兄貴たちに喋った。一番上の兄貴がその事を調べて、聖業軍の行動に正当性がない事を証明しちまった。それがクソ国王の逆鱗に触れた。不敬罪で拘束されて、処刑された。俺は、聖業軍の機密を漏洩させたって名目で不名誉除隊、異動してから貰った勲章から騎士団時代の功績まで、全部剥奪、抹消された。
 でもそれだけじゃ済まなかった。司法院の長官だった親父や要職にあった兄貴たちは揃って罷免されて、俺の家は爵位も領地も王都の屋敷も家財も全部取り上げられた。親父は病気に見せかけて毒殺されちまった。
 これでも結構どん底なのに、クソ国王のやる事はえげつなくて、付き合いのあった貴族たちに援助を禁じやがった。おまけに何を警戒したのか、刺客まで寄越してきやがって、俺たちはあちこち逃げ回るしかなかった。その中でお袋と兄貴の嫁さんは、心労が元で死んじまった。
 俺たちは、バラバラに逃げるしかなかった。二番目の兄貴はマハールの辺境に、三番目の兄貴はゴドランドに、俺は……兄貴の一人娘を連れて、行く当てもない旅に出るしかなかった」
 淡々と、一気に話して――壁にかけて乾かしていたマントを取ろうとして、手の動きが止まる。

 取り潰しにあった一族の家名を取って、オークール事件と俗称されるその事件。
 遡れば王家の傍流であり、何人もの王妃を輿入れさせ、法の番人として多くの法曹家を輩出した名門が公爵位を失い貴族の身分まで剥奪される、そのきっかけを作ったのは何を隠そう、法曹一家に生まれておきながら武の道を選んだ、出来損ないの末っ子公子だった。
 優秀な兄たちを見返す事が出来る、と、聖業軍がどんな事をしているのか知っておきながら目をつぶり、喜んで騎士団から引き抜かれた愚か者。
 なのにたった二年で聖業軍の毒に耐えきれなくなり、優秀で有能な長兄に弱音を吐いて死地に追いやって、妻も長兄も両親も義姉も守る事が出来なかった、生き延びる価値もない役立たず。

 それが、トリスタン=ドークール。

 その名を捨て、かつての愛称と亡き妻の旧姓を名乗る負け犬は、マントを手に戸口のイズーをようやく振り返った。
 突然聞かされた身の上話に、どう反応して良いか判らない――痛ましさとも哀れみともつかない曖昧な表情をしている彼女に、肩を竦めてみせる。
「俺が、マハールにいたがらない理由だ。……あんたの質問に、まだ答えてなかっただろ」
「……だから今度は私に、身の上話をしろと?」
 身構えるイズー。明らかな警戒の態に、トリスは思わず苦笑した。かぶりを振る。
「あんたの話は聞きたい。あんたがどこで生まれ、どんな風に生きてきて、何があってベロスから離れたのか、俺は知りたい。でも、話したくないならそれで良い」
「…………」
 警戒されている。
 何か魂胆があるのでは、と裏を読まれている。
 値踏みをするような、見透かそうとするような眼差しは、それでも昨日ほどに鋭くも冷たくもなく、険しくもない。
 それどころか戸惑いに揺れ、フラフラと彷徨わってさえいる。その様に苦笑を深くして、彼は戸口に向き直った。
「あんたの事を知りたいけど、でも今は、俺の事も知ってほしい。
 だから、俺から先だ」
 イズーは。
 僅かに瞠目すると、再びこちらに視線を定めて、信じられないとばかりに震える声で一言、
「どうして……?」
 トリスは、笑う。
 苦笑ではなく、多くの女たちを――場末の酒場の歌姫であっても娼婦であっても、今際の際にマリアが選べと言ったような、強くてたくましくて一本芯が通っていて凛とした彼女たちを魅了した、少年のような笑顔。

「あんたが好きだからだ」

 告げた言葉は昨日と同じだけれど、今度こそ、気の迷いでも勢いでもなく、本心からの言葉だった。
 イズーはただ目を見開き、呆然とし――まあ、今はそれでいいやと納得して、やはり同じように呆然としてポカンと口を開けているベッド際のアルネを振り返った。
「ってわけで、後は任せたぞ」
 嫉妬と尊敬の対象だった長兄、その忘れ形見である彼女は、目元くらいにしか実父の面影がない顔を曇らせて、
「……戦いに、行くの?」
「ああ」
「……怪我、したのに?」
「ああ」
 あっさり頷けば、アルネは何か言いたげに口を開けたり閉じたりする。
 しばらくそうしていたが、そうやって口にしたのは、
「………………行ってらっしゃい」
 胸いっぱいの思いが言葉にならない、しっくり来る言葉が見つからない――そんなもどかしさで少し泣きそうになりながら、それでも送り出そうとする娘の頭を、トリスは少し笑って撫でてやった。
 そういう風にしてやるのも、この六年間で初めての事で、
「行ってくる」
 返した声は、自分でも笑ってしまうほどに穏やかだった。
 笑ってしまうほどに、父親らしい声だった。

 

 

 

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