―6―
先月ようやく六歳になったビュウだが、六年と一ヶ月弱しか生きていない中で、「身も心も凍りつく」という体験をしたのはこれが初めてだった。
背筋から全身に寒気が這い回るのは、何も頭から雨に濡れつつあるからだけではない。何も考えられず、ただ呆然と硬直しているのは、何も見知らぬ男にいきなり髪を掴まれて衝撃を受けているからだけではない。
いやむしろ、それらはどうしようもなく小さな出来事で――
そう。生まれて初めて、剣を振りかざされ、はっきりとした殺気を向けられている事に比べれば。
ビュウはただ愕然と見上げるしか出来なかった。掲げられた剣の放つ、鈍色の空にも染まらない銀光が彼の中の柔な部分をズタズタにし、動こうという意志を一切合財奪っていた。
――殺される。
最早竦む事しか出来ず、そんなビュウを、男は哀れむように見下ろしている。
――殺される。
その視線に微かな優越の色を見て取って、零下の寒空の下に裸で放り出されたかのような、恐ろしいほどの寒気を感じる。
――殺される。
そして、剣が斜めに振り下ろされ、
――殺される。
その刃によって左肩から袈裟懸けに断たれ、鮮血を撒き散らして倒れる自分の姿を想像し、
――殺される。
――俺が死んだら、母さんどうするかな。
――あいつと再婚するのかな。
――俺がいないから、しめしめと思って、再婚するのかな。
(冗談じゃねぇ!)
――ビュウ=アソル、六歳。
三歳までカーナで育ち、以降、凄腕のクロスナイトである母に連れられ、世界各地を放浪、否応なく暴力と暴虐と謀略の巷に頭の先までドップリと漬かってきた。三歳という、物心がつくかつかないかの頃に反抗の余地も与えられないまま血と阿鼻叫喚が支配する世界に入らされた幼子は、その優しさの欠片もない世界に馴染むしかなかった。
幼児特有の、凄まじいまでの成長力と適応力で以って。
戦場を揺りかごに、断末魔を子守唄にしてきた彼にとって、あらゆる死の危険は、普通の子供が暮らしの中で遭遇する危険――例えば道を歩いていて石につまずくとか、猛犬に追いかけられるとか――と大差なかった。
石につまずけば、前にたたらを踏んで転ばないようにするか、転んでも両手を突き出して酷くすりむくのを防ぐ。
犬に追いかけられれば、石を拾って投げつけるか、あれば棒を振り回して追い払う。どちらもなければ、ひたすら睨みつけて威嚇し、寄せつけない。
普通の子供がそういう対処法を本能で、あるいは経験で身につけるのと同じレベルで、ビュウもまた、死の危険を察知し、抗う本能を発達させていた。なまじ戦場慣れをしているそこらの傭兵よりも、ずっとずっと高い水準で。
だからビュウは、その本能に従って動く。
左手をマントの中、背中のベルトの辺りにサッと突っ込む。
出す。
その手には、男が掲げる刃と全く同じ凶悪な輝きを放つ、鋭い短剣。護身のために与えられた、工作用とも料理用とも違う、紛う事なき戦闘用の短剣である。
振るう。
一閃させる。
自分の前髪を掴む、男の左手に向けて。
いや、違う。
――ザンッ!
ビュウは、傭兵に掴まれたままの自分の右側の前髪を、根元から、何のためらいもなく切り離す!
「なっ……!?」
傭兵の体は、引っ張っていた力の流れのままに後方へ大きく傾いだ。その手に握られたままの、断ち切られた金色の髪の毛に愕然とする相手の様子を尻目に、ビュウは続く行動にもためらいを見せない。
体勢を立て直そうと、傭兵はたたらを踏もうとする。右足を下げるべく、地面から浮かせ――
その瞬間を見計らい、ビュウは、地についたままの左足に体当たりをかけた!
「――――っ!」
当然の成り行きとして傭兵は体勢を完全に崩す。そのまま後ろに倒れ込む。ビュウは最後まで見届けなかった。見届ける暇も余裕もなかった。踵を返し、脱兎のごとく駆け出す。
「っ……待て! ――エゼル、クライス! あの子供を――」
その言葉も気にしない。ただ走る。道を駆け戻って最初の角を右に曲がり、その次の角を左に曲がり、右に曲がって、もう一度右に曲がって、今度は左に、また左に――それをがむしゃらに繰り返す。
……気が付けば、さっきいた下町界隈とは全然違う場所の、路地とも呼べない建物と建物の隙間に身をひそめていた。
完全に、座り込んでいた。
息が上がっていた。
胸の奥で心臓が荒れ狂い、痛いほどだった。
足はガクガクし、もうしばらく休まなければ一歩だって動けないだろう。
はぁーっ、はぁーっ、と喘ぐような呼吸を繰り返し、ビュウは考える。
(――……逃げられない)
子供の足で走れる距離などたかが知れている。まして、初めて訪れた街で土地勘もない。それは特務の傭兵も同じはずだが、大人と子供の基礎体力の差は余りに大きい。
逃げきれない。
ならば、選択肢はただ一つ。
(……戦うしかない)
決めた瞬間、ビュウの頭の中から自分にとって不利な要因――自分が、実戦経験はおろか、武術の類をまるで知らない子供である事――は捨て去られた。
そんな事実は邪魔だ。
必要ない。
必要なのは、考える事。
戦う術を。
勝つ策を。
武器は短剣だけ。これ一振りで、あの傭兵を倒さなければならない。
黙したまま、左手に握ったままの短剣と、そして、こんな時にも手放す事のなかった荷袋を見下ろすビュウの表情は、冷徹に、冷酷に、だんだんと刃のごとく研ぎ澄まされていく――
§
特務旅団第一猟兵連隊に所属するトーヴェ・ミハエル=アウストは、それを見つけた途端口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
青い布である。
それが、木箱とゴミと瓦礫の山の陰から、チラリと覗いていた。
子供の後を追いかけて駆けずり回り、辿り着いたのはシュルースブール右岸地区の片隅も片隅、下町と貧民窟の中間地点のような一角だ。
昼食の時間帯のせいか、この雨のせいか、それとも元々住んでいる者が少ないのか、人通りはなく人の気配もほとんど感じられず、無人の街さながらの空虚で寂れた雰囲気が漂っている。それに一役買っているのが、朽ちかけたあばら家一歩手前の様相を呈する周囲の建物。
その瓦礫の山は、彼が立つ袋小路の入り口から、向かって右側のあばら家の壁際に積まれていた。
この辺りの建物は全て二階を持たない低い小屋ばかりだが、その屋根の高さにまで瓦礫を積み上げた住民に、アウストは礼を言いたくなった。
そんな、如何にも隠れるのにうってつけの物があるから、子供は浅知恵で済ませてしまうのだ。
知らず内に口元に笑みが浮かんだ。けれど、その灰色の目は鋭くすがめられたまま。
(『戦女神』の御子と警戒していたが……やはり子供か)
その目には、落胆と優越の色。
瓦礫の山の陰にひそめば、こちらの追跡から逃れられると思ったのだろうか。だとすれば、余りにアウストを甘く見ている――第一「猟兵」連隊は、例え猟場が異国であっても、獲物が年端も行かない子供であっても、決して狩りの手を緩めない。
だからこそ、慎重に歩を進める。
足音を殺し、ひっそりと、山の陰から見える青い布へと歩み寄る。
あの子供がまとっていた、マントへと。
子供は、動かない。
怯えているのか、逃げる時には脱げてしまっていたフードをかぶり直し、その場にしゃがみ込んでいる。
アウストの笑みは深くなる。
右手の剣を強く握り直し、瓦礫の陰にうずくまる、マントに包まれた背中に手を伸ばして――
掴んで引いたその拍子に、マントの下にあったゴミの山が崩れた。
「な、に……?」
呆然と、手を見下ろすアウスト。握り締めたマントと、足元に崩れて転がるゴミとを見比べる。
そして、不意に聞こえてくる、タンッ、という小さな音。それは、頭上から――
ハッと顔を上げた時にはもう手遅れ。
鉛色の雨雲を背景にして。
ベルトに抜き身の短剣を挟んだあの子供が。
両手で持った袋を振り上げて、アウスト目がけて屋根の上から飛び降りてくるところだった。
ゴンッ――!
衝撃。
激痛。
目の前が一気に暗くなり、チカチカと星が瞬いた。
それはアウストの顔に力いっぱい振り下ろされた袋による攻撃。真正面から受け止め、彼は小さく呻いてよろめいた。瞬間、鼻腔を満たす鉄臭さ。それからタラリ、と鼻の下に生温い濡れた感触が垂れ下がる。
視界の暗転はすぐに収まる。だが、鼻筋から脳天に直接響く打撃の余韻は抜けきらず、フラフラするところに再び襲いくる二撃目。ぬかるむ地面から立ち上がり、目一杯体をひねって遠心力を利かせて、ドンッ! 腹を突き刺す重い打撃。がはっ、と息が詰まる。
子供は回る。袋はアウストの膝を、すねを、執拗に打ち据え続ける。まさかいきなり遭遇するまい、と思って具足もつけてこなかったのが完全に裏目に出た。骨も砕けんほどの激痛に目を剥くアウスト。この時になってようやく、何故ただの袋で殴られてこんなに痛いのかを理解した。
袋には、何かが詰められている。
おそらくは、すぐ側の山から拾い集められた、瓦礫が。
子供はそれを振り回す。脚、膝から下を中心に何度も何度も打ちつける。詰められた瓦礫がアウストの脚の骨を砕く。よろめく。ついに地面に膝を突く。
測ったように、その瞬間にもう一度顔に瓦礫入り袋の一撃を受けた。変な姿勢で仰け反る。顎にもう一撃。吹っ飛ばされるようにして仰向けにぬかるみに倒れ込む。
そのアウストの腹に、子供が乗っかった。
鼻血で真っ赤に汚れたアウストの顔が、愕然と凍りつく。
子供は、左手で短剣を逆手に持ち、右手でそれを支え、
少し背中を逸らした姿勢から、振り下ろす。
ザムッ!
「がっ……!」
口から、くぐもった呻きが漏れた。
短剣は、彼の喉を正確に貫いた。ズルッ、刀身の抜けた穴からヒュウヒュウと空気の抜ける音が鳴り、噴き出した鮮血が子供の顔を、体を、盛大に汚し、しかし子供はそれを全く気にかけずに再び短剣を振り下ろす。
ザムッ!
ザムッ!
ザムッ!
ザムッ――
何度も何度も喉を斬り裂く刃。体は痙攣しながらもおぞましい感触はいつしか遠く、アウストはただ愕然としたまま地に倒れ、己を殺しつつある子供を見上げていた。
その、道端の石ころでも見つめるような無表情を、ただ見上げていた。
(――……これ、が、『戦女神』の、御子……)
何となりふり構わない戦い。
何とがむしゃらな殺し。
何と、無様な姿。
だというのに、その姿はかつて遠くに見た『戦女神』の舞踏のごとき美しくも凄絶な戦いぶりよりも尚恐ろしく――
(悪鬼……か……――)
それが、トーヴェ・ミハエル=アウストの最期の思考だった。
§
敵の目から光が失われた事に気付いたのは、何十回目かに振り下ろした短剣が、血に滑ってビュウの手から抜け落ちた時だった。
「あ」
ビュウの前髪を掴んだ、あの暗褐色の髪の傭兵。そのズタズタに裂かれた首元に転がった短剣は刃も柄も血まみれで、彼は今更のように、自分の手を、服を見下ろす。
「……わぁ」
口から漏れていったのは何とも抑揚のない声。無感動なそれと同じく、彼の表情もまた、人形のように無表情で、人間らしい感情が欠片もなかった。
両手は真っ赤になっていた。
服の前面は赤い染料をぶちまけたかのようだ。
右側の前髪だけが根元から切られた彼の顔は、頬も額も返り血を浴びていて、それで無表情なものだから、ひどく無残で、凄惨なはずなのに、どこか現実味を欠いていた。
ともあれビュウは、自分の尻の下でピクリとも動かなくなった男を再び見下ろして、
「……疲れた」
――それが、ビュウが初めて人を殺した瞬間に得た感想の全てだった。
肩を落とし、空を仰ぐ。何かこう、激しく燃え盛る心の一片が、黒焦げの隅になってボロッと取れてしまったかのようだった。先程までの恐怖や緊張、興奮や戦意が、まるで全部嘘だったように綺麗さっぱりなくなってしまっている。
あるのは、これまで味わった事のない脱力感。
目の前の出来事が、どこか本で読む夢物語のように思える非現実感。
「……お腹減ったなぁ」
そうだ。いつまでもこんな所にいられない。早く帰って、母さんと一緒にお昼ご飯を食べよう――現実離れした思考と共に、ようやく立ち上がろうと腰を浮かして、
真後ろから来た鋭くも重い衝撃で、ビュウは前のめりに吹っ飛び、顔から地面に突っ込んだ。
「…………!?」
目に、鼻に、口に泥が入り、頬を、顎を地面がこすり上げる。突然の出来事に彼は何が起こったのかにわかに理解できず、遅れてズキズキと痛み出した背中と、聞こえてきた足音と声に更に遅れて理解が追いついた。
「――この悪童が……」
若い男の声だった。袋小路の入り口から近付いてきた足音はビュウの傍で止まり、
ドッ!
「――――っ……!」
鋭い衝撃と痛みが腹を襲う。蹴りだ。痛い。痛みは腹を突き抜けて背中へ、そして全身へと駆け巡り、腹の底から問答無用に突き上げてくる衝撃となって口から抜け出る。いや、口から出たのはドロドロとした液体だ。ビュウは何度も何度も咳き込み、反吐を吐いて、吐き終えてもまだえずき続けた。
その体を再び襲う蹴り。今度は胸。ブーツの硬い爪先がめり込み、ビュウの胸骨を軋ませ、まだ小さな肺を押し潰す。
痛い。
痛い、痛い、痛い。
苦しい。
呼吸が出来ない。
胸を押さえ、涙目になって空気を喘ぎ、それでも何とか顔を上げた彼の目に飛び込んできたのは――冷ややかな嫌忌の表情で見下ろしてくる二人の男。
その内の一人――ビュウを蹴った方が、憎悪と憤怒をありったけ込めたおぞましい声音で呻く。
「よくも、小隊長を……!」
刹那、彼は全てを悟った。
エゼル。
クライス。
敵は、この男一人ではなかったのだ!
エゼルだかクライスだかの蹴りが再びビュウを襲う。
その爪先は、再び彼のまだ柔らかいみぞおちに深々と突き刺さり。
「…………死ね、悪童が――――――――」
殺意に満ちた声に引きずられ、ビュウの意識は、ズルズル、ズルズル、暗い底なし沼に沈んでいく。
ズルズル、ズルズル、ズルズル、ズルズル……――――
§
……時間は、少し遡る。
「……え?」
トリスの告げた言葉に、アルネはこちらを振り返って怪訝そうに眉根を寄せた。
雨雲のせいか、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。下町の宿屋らしく部屋の内装は簡素を通り越して殺風景で、狭い部屋に何とか押し込まれた二つのベッド以外に注目すべきところはほとんどない。
並べられた二つのベッド、その窓側のベッドに腰をかけ、窓に向かってボンヤリした明かりを頼りに繕い物をする、娘の針を持つ手がピタリと止まった。繕っているのは服だ。トリスの物でも、アルネの物でもない。ビュウの服。あのクソガキの繕い物を請け負う程度に、アルネとイズーの関係は良好だった。
トリスとは違って。
「今、何て?」
午後になったら消耗品――保存食だとか、傷薬だとか、包帯だとか――を買いに行かなければならないだろう。マハール生まれマハール育ち、生粋のマハールっ子だが、雨の中出かけなければいけないのは憂鬱だ。ベッドのもう一つ、戸口側の方の上に荷物をぶちまけ、再び手元に視線を落として整理に没頭するトリスは、もう顔を上げようとしなかった。
しないまま、窓の方に向けて言葉を投げる。
「だから、明日出発するから準備しとけ」
「明日、って……ちょっと待って。この分じゃ明日も雨よ。こんな雨の中、イズーさんがビュウ君を歩かせるわけ――」
「あっちは関係ねぇ」
アルネが凍りついたのが、気配だけで伝わってきた。
「四ヶ月もダラダラと一緒に旅してきたが、いい加減あのクソ生意気なガキと顔を合わせるのも嫌になってきたしな。
この街で、別れるぞ」
娘から言葉は、返ってこない。
部屋に落ちる沈黙が、身を卑屈に縮こまらせてしまいそうになるほどに居心地悪い。それを崩そうと、トリスは少しの間の後に取り繕う言葉を続けた。語調に茶化すような明るさを加えて。
「偶然と惰性が重なって、一緒にいただけなんだ。また二人に戻るだけだ、大した事じゃねぇだろ。
それに、お前だって嫌だろ? 俺がイズーに言い寄ってるの見るのは。悪かったな、お前の気持ちも考えないで。ってか、俺はいつも何かっちゃあ女を追いかけてばかりでお前の事放ったらかしにしてたな。悪い。これからはちゃんとお前の事を優先して――」
「やめて」
ピシリ、と。
不自然なまでの饒舌さを遮り、嘘臭い騒々しさにひびを入れる、アルネの声はどこまでも硬く、抑揚に欠けていた。
荷物整理の手を止めるトリス。それでも顔を上げない彼に、言葉の追撃がかかる。
「偶然と惰性が重なって? 自分から尻尾を振ってイズーさんの跡を追いかけ回していたのに? また二人に戻るだけ? 随分簡単に言うのね、私がイズーさんとビュウ君と打ち解けるのにどれだけ頑張ったかろくに知りもしないくせして。
私の気持ちも考えないで、って、今も全然考えていないじゃない。私の事を優先して? 私を言い訳に使うのはやめて」
「言い訳だなんて――」
「言い訳だわ!」
視線を上げかけた彼を打ち据える、苛烈な感情の爆発。
言葉の勢いのままに繕い物を放り出し、ベッドから立ち上がってこちらに向き直ったアルネは、肩をいからせてトリスを睨みつけた。
その目が、少し潤んでいる。
「言い訳にしてるじゃない、今回の事も、前の事も、その前も、ずっと前も! 素敵な女性を見つけて、言い寄って、だけど仲良くなったら私がいるからとか旅を続けなきゃいけないからとか言って捨てて! 卑怯よ! 別れる本当の理由は、私でも旅でもないくせに!」
ゾワッ、と総毛立った。
心臓を冷たい手で直に掴まれたような、そんな体の内側を走る冷気は驚きと慄きによるものだった。弾かれたように顔を上げ、体を起こしたトリスは、しばらく目を見開いて娘を見つめていたが、ある思いが胸に湧き上がるにつれて、知らず内に肩の力を抜いていた。
それは、まさか、という思い。
(アルネにも、見抜かれてたのか……?)
「私が、知らないと思ってたの?」
こちらの考えを見抜いたかのような言葉と共に、目尻を手の甲でサッと拭うアルネ。
泣かせてしまったか、と思う間もなく、彼女は言葉を継ぐ。
「私が知らないと、気付いてないと、本当に思ってたの? 貴方が女性を捨てるのは、本当に好きになりかけていたからだって。本当に好きになったら、『あの人』を裏切る事になるって、そんな風に思ってるからだって……。
でも、イズーさんの事は本当に好きになっていた。そうでしょう? 私、イズーさんならって思ってたの。イズーさんとなら、きっと貴方は前を向ける、って……。それなのに――」
と、アルネはしゃくり上げた。その目からはもう隠しようもないほどに大粒の涙がボロボロとこぼれ、アルネはそれを手で何度も何度も拭うけれど、拭った傍からまたこぼれて落ちる。
不意に、歩み寄って、抱き締めてやりたい衝動に駆られた。
抱き締めて、トリスの服を思うままハンカチ代わりにさせてやって、落ち着かせて、「俺が悪かった」と言ってやりたかった。
だがトリスは動けなかった。
父親なのに、父親になったはずなのに、なろうと決めたはずなのに、足を動かす事はおろか、ちゃんと向き直る事さえ出来なかった。
そんな事すらしてやれないほどに、トリスが知らず内に自らを縛る鎖は重く、絡まりすぎている。
その鎖が、認める事を阻んでいた。
「もう、やめて……。いつまでも言い訳にしてたら、マリア叔母様が可哀相だわ――トリスタン叔父様……!」
『――今度は、私よりも強い人を選んでくださいね』
――マリア。
君以外の女性を選ぶわけがないだろう。
例え君以上に強い人がいても、俺は、その人を選ばない。
本当に、愛してしまったとしても。
トリスは視線をアルネから外すと、無言のまま踵を返した。
壁にかけていたマントを引っ掴み、羽織ると、部屋を出る。
「叔父様――!」
娘の、いや、姪の悲鳴から、逃げ出した。
間違いがどこから始まったのか、自分でも分からない。
亡き妻以外の女に惹かれる自分を否定しようとした時か、アルネを引き取った時か、妻を守りきれずに失った時か――
それとも、マリアと結婚した時か。
親が決めたマリアとの婚約を、了承した時か。
正午に向けて雨足が強まる中、トリスはただ足の赴くままに右岸地区の下町を歩いていた。フードなどかぶっていないから、頭は濡れるに任せ、そのおかげで前髪が額にベタリと貼りつく。
掻き上げる気にもならない。
貼りつく前髪の鬱陶しさも、降りしきる雨の冷たさも気にせず、トリスはただ自問を続ける。
(俺は……間違ったのか……?)
何を間違ったのか。
どこで間違ったのか。
どうすれば、間違いを正せるのか。
分からない。
まるで、分からない。
見当もつかない。
(教えてくれ、マリア……兄上)
立ち止まって、空を仰ごうと顎を上げ――
かけた時、ふと視界に見慣れたものが飛び込んできて、トリスは普通に真正面を向いた形で首の角度を固定させた。
それは、金色と空色。
金色は髪。
空色はマント。
人通りがない下町の路地裏の遥か前方、トリスから見て右の角からすごい勢いで飛び出してきた小柄な人影は、脇目も振らず奥の方へと走り、そして出てきた角から二つ先の角で左に曲がった。
(今のは……クソガキ?)
何故、こんな所に?
ここはシュルースブール右岸地区の下町だ。同じ下町でもトリスたちが逗留している宿から随分離れているし、何より、クソガキことビュウは母親と共に買い出しに出ていたはず。市や商店が多いのは、この右岸地区ではなく、運河を挟んだ反対側、左岸地区のはず。
(まーたいつものケチケチぶりで安い店探してやがるのか……?)
だとしても――あれほど血相を変える必要はないはず。
何故だろう、胸がザワザワと騒ぐ。
何か嫌な予感がする。
予感は、すぐに的中した。
ビュウの出てきた右の角から、黒づくめの男が走り出てきたのだ。
反射的に物陰に隠れたのは、抱いた嫌な予感のせいか。
ちょうど酒場の裏口らしい、扉のすぐ近くに置かれた酒樽の陰から窺うトリスの視線の先で、やはり道の右側、別の角から同じような黒づくめがもう二人、バラバラと駆け出してきて最初の男の元に駆け寄る。
最初の男は残り二人に何事か指示を出すと、二人がそれぞれ別の方向――一人はそのまま右から左へ直進、もう一人はこの道をそのまま奥に直進――に走り出すのを見送って、自分もまた駆け出した。
ビュウが入っていったのと、同じ角へと。
ぎょっとして、今の一連の光景が意味するところを理解するトリス。すなわち、
(追われてる……? あのクソガキが? 一体何をやらかしやがった?)
だが気になるのは、あの揃いのお仕着せめいた黒い服だ。一見するとただの旅装、だがとても剣呑な雰囲気を放つ服。
軍服と戦闘服の中間に見えた。
そんな服を着ている連中が、堅気の人間であるわけがない。堅気でない人間が子供一人を追いかけ回すなんて、ただ事であるはずがない。
トリスは酒樽の陰から飛び出し、走り出した。
ビュウの入っていった左の角を曲がり、少し先の角を右に折れる黒いマントの端を見つける。それを追う。人一人通るのもやっとの細い路地を右に曲がり、その次は左、また右、もう一度右――
しかしそうして進んでいる内に、トリスはマントを見失う。
(どこだ……?)
貧民街一歩手前といった風情の、細い道の両側にあばら家が立ち並ぶみすぼらしい街角に立ち尽くし、周囲を鋭く見回す。
(どこだ……?)
黒いマントはおろか黒づくめの男も、そしてあのクソ生意気な子供の姿もない。
(どこだ……?)
どこかから何か聞こえてこないか、耳をすまそうにも、ザアザアと、地面や建物に落ちて弾ける雨粒の音がやけにうるさくて、集中できない。
(どこだ……!?)
それでも、はやる気持ちを必死で抑えて耳をすます。雨音と、その中にひそむ微かな音を聞き分けるべく、目を閉じ、必死に意識を聴覚に集中させる。
軍人然とした男たちが、ビュウを、六歳の子供を、追い回しているのだ。
――……子供は、死なせない。
血の繋がりもなければ縁を結びたいとも思わない、ただひたすらにクソ生意気で、腹立たしくて、こちらを殺そうとするようなとんでもないクソガキだが――これ以上、トリスの手の届く所で、子供は絶対に死なせない!
――――…………ゴッ……
それは、
――……ゴッ……
どこかから聞こえてくる、鈍い――打撃音。
トリスはハッと目を開けると、定めた音の方向へと向けて走り出す!
あばら家とあばら家の間の細い道を行き、角に来ては止まって耳をすます。音が聞こえる。角を右へ曲がる。次は左。その内に音が途切れる。焦燥が膨れ上がる。だが走る内にまた聞こえ出す、ドスッ、ボグッ――先程よりももっと鈍く、もっとくぐもって、もっと聞き取りづらい音。一体何の音だ。その答えは、トリスが最後の角を左に折れたところで、目に飛び込んできた。
左に折れた先は、袋小路になっていた。
そこに、人が四人、いた。
いや、違う。それは少し正確ではない。
人が三人と、物が一つ、だ。
生きた人間が三人と、物と化した血まみれの死体が一つ。
死体は、先程見かけたあの黒づくめの一人。
生きた人間の方は、立っているのと、地面に転がっているのとに分かれた。
立っているのは二人。黒いマントの、どちらも若い男。
そして。
転がっているのは。
泥の中に死体のように転がって、若い男の内の一方から為す術なく腹を、背中を足蹴にされているのは。
「ビュウ……!?」
たった、六歳の子供が。
トリスと同じほどか、あるいは少し歳下の大人二人に、寄ってたかって蹴られ、転がされ、泥まみれになって、ピクリと動きもせず、意識があるのかないのか、いやそもそも、生きているのか死んでいるのか――
――衝動だった。
そう叫んだのは、昨日、イズーに「好きだ」と告げた時以上の、腹の底から湧き起こってきた業火のごとき激情、その突き上げるような衝動だった。
「てめえら――」
殺気と怒気を、嫌というほどに声と表情に乗せて。
「うちのガキから、離れろ!」
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