―5―



 口にした瞬間、自分にかかっていた魔法が綺麗に解けたような、ひどく現実味を帯びた夢から完全に覚めたような、そんな非現実的な感覚が漂いながらも妙に冷めた心持ちで、トリスは完全に我に返った。
 それから、自分の口の中にまだ余韻として残る言葉を反芻し、その意味を理解し、今更のように唖然とする。
(………………………………は?)
 目の前には、再び目を丸くしたイズー。
(は? あれ? 俺、今……何、言った?)
 好き。
 好き?
 好き、って言ったか?
 イズーに、好きって、俺のものにしたい、って……――
 おい。
 おいおいおい。
 ちょっと待て。なあおい、ちょっと待て、ちょっと待て俺。


 そんな事言うつもり、最初っからなかったはずじゃねぇか。


「……あら、まあ」
 という呑気な声は、いつものイズーの声音だった。
「貴方、私の事が好きだったの」
「あ、いや、えーと、今のは、その、勢いと言うか言葉の綾と言うか何と言うか――」
「そうだったの。私はてっきり……」
 一旦言葉を切り、困惑したように頬に手を当てて――

「私の事なんて、一夜の遊び相手くらいにしか見ていないのだと思っていたのだけれど」

 放たれた言葉に、再び愕然とするトリス。
 しかし、胸に突き刺さった驚愕には戦慄という毒が塗られていた。
 その毒は一瞬にして全身に回り、彼を身震いさせる。寒気にも似たそれは、端的に言えば恐怖だった。
 気付かれていた?
 見抜かれていた?
 見破られていた!?
 言葉を失い、ただただ目を瞠る事しか出来ない彼に、イズーは困ったような視線を投げた。
「好き、と言うけれど、貴方は私とどうなりたいの? 恋人? 夫婦? それとも、やっぱり一夜の遊び相手?」
 重ねられた問いに、トリスは何一つとして答える事が出来ない。
 何と答えれば良いと言うのだろう? こちらの目的は、「適当に抱いて、適当に親しくなって、煩わしくなってきたら捨てる」事だというのに。
 他にはなかったはずなのに。
 愛を囁くつもりはなかった。
 都合の良い時に都合良く抱く、それだけのつもりだった。
 だが、その目論見を見破られていた。穏やかに微笑むその裏で、イズーは冷静に、冷徹に、こちらを観察し、推し測っていたのだ。
 トリスの人格を。
 近付いてきた目的を。
 そんな事が出来るなんて、思いもしなかった。彼女はただ柔和に微笑むばかりで、能天気で、どこかズレていて、世間知らずなところさえあって――
 ――……考えてみれば、出来て当然の話なのだ。
 美しいイズー。荒くれ者、社会の落伍者が集う傭兵業界にあって、彼女の存在は良い意味でも悪い意味でも目立ち、浮く。
 トリスより前に、彼女に言い寄る者がいなかったはずがない。
 トリスより前に、彼女を腕づくで物にしようとする者がいなかったはずがない。
 それどころか、襲われていないはずがないのだ。この業界はそういう世界だ。アルネだって穴さえ空いていれば良いような飢えた手合いに何度か襲われかけているし、もしかしたらビュウでさえ、そうかもしれないのだ。妙齢の、美しい女が放っておかれるわけがない。
 けれどイズーは強い。彼よりずっと。
 彼女はきっとたった一人で、己と我が子を、クズのような男どもの魔の手から守ってきたのだ。
 そんな姿を想像し、彼がまず真っ先に感じたのは、胸が締めつけられるような焦燥と、腹の底から灼き尽くされていくような怒りだった。

 ――駄目だ、そんな事、認められるはずがない。

 何に対してそんな風に思っているのか、何に焦燥を感じ、何に怒りを覚えているのか、それすらもよく解らないまま胸を掻きむしりたくなる衝動に歯を食い縛っている。
 何かを叫びたくて、何かを喚きたくて、だが色々な感情が胸の中で暴れ狂って確かな形を捕まえさせてくれない。
 その衝撃を一瞬で吹き飛ばしたのは、イズーがぶつける最後の問い。


「貴方は、ビュウの父親になれる?」


 一瞬、時間が止まった。
 外の雨音。厨房から聞こえてくる食器を洗う音。トリスたちと同じように、朝食が終わってもダラダラと食堂で時間を潰す客たちの話し声。その全ての音が遠退き、イズー以外の周りの景色は急に色を失って、自分と彼女以外に何ものも存在していない、そんな錯覚を味わう。
 喉が動かなかった。
 舌が動かなかった。
 それ以上に、頭がまるで動かなかった。
 言うべき事が出てこず、思いつかず、間抜けに口を半開きにして、それ以外何も出来ない。首を傾げる事も、指一本動かす事さえ、出来そうになかった。出来ると思う事すら出来ず、出来ないと思う事まで出来ていなかった。
 要するに、頭が混乱しきっていた。
 脳味噌の中で、いくつもの単語が無秩序に手を繋いでダンスを踊っている。「貴方」「父親」「親父」「クソガキ」「俺」「ビュウ」「なる」「なれる」「?」「?」「?」。ダンスの輪は延々と続いてグルグルと回って回り続けて回りすぎてグチャグチャのごちゃ混ぜになって一緒くたになってとろけて消えて、攪拌の渦から溶けきれなかった疑問符がポンポンと飛び出してくる。そいつらはトリスの意識が追いかけるよりも早くあちらこちらへと飛び回り、ついに一つの行動となって表出した。
「…………………………………………はイ?」
 すなわち、聞き返す声。
 長い長い沈黙を置かれて放たれた声はぎこちなく、まるで言葉を操る事に長けていない者が、その単語を、ただの音として、機械的に発したかのようだ。
 けれど。
 もちろんイズーにはこちらの混乱などどうでも良い事だった。しばらく感情の読み取れない眼差しでトリスを見つめていたが、不意に興味を失くしたかのように目を細めると、ふぅ、と小さく吐息した。
 冷ややかな態度。
 氷で出来た刃で切り刻むかのごとく、彼女は鋭くした視線をこちらに寄越し、鋭い言葉を一息に告げた。
「……あの子の父親にもなれない人と、深い関係になるつもりはないわ。遊び相手が欲しいなら、他を当たってちょうだい」
 と、残っていた茶を飲み干す。席を立つ。別のテーブルの片付けをしていた宿の女将に勘定を払う。悠然たる足取りで階段へと去っていく――その一連の行動の中で彼女は最早トリスに一瞥をくれる事もなく、トリスの方も彼女を目で追う事もなく、ただ硬直して、階段を上がっていく足音を聞くともなく聞いていた。
 足音が聞こえなくなっても、凍りついたままだった。
 混乱も体の強張りも消え、トリスの世界に音と色が戻ってきたのは、すぐ側からカチャリ、という音が聞こえた時。カップとソーサーがこすれあう音だ。ほんの数分前まで、トリスの眼前でイズーが立てていた音。一瞬彼女を連想してハッとし、けれどそこにいたのは茶器を下げる宿の女将で、不思議そうに見下ろしてくる中年の女将に、トリスはわけもなく笑い出したくなった。
 いや、実際に、クツクツと低く押し殺した笑いを立てていた。
 女将の表情は怪訝そうに曇る。何でもない、と手を振って下がらせて、彼はしばらく笑い続けていた。おかしくておかしくて仕方がない人間が、そうするように。
 疲れを宿した、不健全な笑いを顔に貼りつかせて。
 実際、おかしくておかしくて仕方がなかった。テーブルに突っ伏し、痙攣するがごとく身を震わせて笑っていた。いっそ酒でも飲むか。だが、朝っぱらから酒は如何なものか、とその衝動を制止する理性が厄介なまでに残っていた。
 それはこの国の騎士だった頃に身につけた節度だとか倫理だとかいったものだった。
 傭兵になった今となっては何の役にも立たないもの。しかしトリスの行動を未だに縛るそれ。まるで呪いのように。
 呪い。
 呪いのように、声が耳にこだましている。ビュウの父親になれる? 余りに耳に心地良く、だから余計に深く突き刺さって痛みをもたらす彼女の声。トリスの体を、心を、安っぽいプライドを、どうでも良い未練や痛みの記憶を、それこそどうでも良いと徹底的に切り刻み、斬り捨てる刃のような声。
 まだ笑ったまま、ノロノロと顔を上げ、トリスは窓の外を見やった。降りしきる雨と、灰色に沈むシュルースブールの下町の景色を見た。
「この俺が、あのクソガキの父親に、だと……?」
 笑える。滑稽すぎて笑える話だ。ビュウの父親? こちらはあのクソガキに殺されかけ、散々辛酸を舐めさせられてきたのに?
 無理だ。引きつった笑みでトリスはかぶりを振る。

 だって俺は、アルネの父親にすらなれていない。



§




 何だか面白くない。
 四ヶ月前――キャンベルの商人に雇われた時から面白くない事が続いていたが、昨日は決定的に面白くなかった。
 小雨の中、防水仕様のフードをかぶって道を行くビュウの頬は膨れていた。眉尻と目尻は吊り上がり、唇は尖り、分かりやすい怒りの表情を形作っている。歳相応にむくれた顔は、中々どうして可愛げがあった。
 買い出しの途中だった。朝食の後、小雨になったのを見計らって宿を出た。その時はもちろん母と一緒だったが、途中から分かれた。理由は、手分けしてやった方が昼食までには終えられると思ったからだった。
(――違う)
 内心で否定するビュウ。その材料は、買った品が入っている防水布製の袋の軽さ。六歳の子供が持つにしても軽すぎるそれは、つまるところ、買い出しのほとんどを母親が請け負った結果であった。ビュウに任されたのは、軽くてかさばらなくて、買いそびれても別に困らない品、例えば剣の手入れに使う研磨粉だとか防水のためにマントに塗る油だとか、そういった物の購入である。
 手分けしたところで、大して変わらない。
 それどころか、分かれてしまった方が面倒な事になる事くらい、ビュウは解っている。何せあの母の金銭感覚はあてにならない。子供のビュウが見ても明らかにぼったくりと思える値段設定の粗悪品を、特に吟味せず平気で買ってしまう。今までそれで何度痛い目を見てきた事か。それを防ぐために金銭感覚をシビアなまでに磨き、買い物の時にはいつもお目付け役として目を光らせていた。
 それなのに、今日、一緒にいないのは何故か。
 面白くないからだ。
 まったくもって面白くないからだ。
 シュルースブールの街に逗留して、今日で三日目。大雨で動けなかった昨日の朝食の後に何があったのか、ビュウのいる部屋に戻ってきたイズーは、淡く微笑んでこう言った。

『ビュウ、またお母さんと二人きりになっても、寂しくない?』

 それは、望んだ言葉のはずだった。
 二人きりって事はあのムカつく男と別れられるという事で、アルネと離れてしまうのは少し寂しい気がしたけれど、それでも母との二人旅に戻れるのであれば、その寂しさも大した問題ではないと思っていた。
 だが。
 頭の中で「買う物」リストを作っていたビュウは、母の浮かべた笑みを見て愕然としたのだ。
 触れれば壊れてしまう薄くて繊細のガラス細工を思わせる、脆くて儚くて、それでいてとても美しい笑みだったのだ。
 今にも泣き出してしまいそうな、綺麗な綺麗な微笑みだったのだ。
 ビュウはショックだった。
 こちらの方が泣きたいくらいに、ショックだった。
 何でそんな風に笑ってんのさ。
 何でそんなに泣きたそうなのさ。

 俺と二人きりに戻るのが、そんなに嫌なの、母さん――?

 口にしたかったけど出来なかったその言葉が、重いしこりとなって胸につかえている。
 面白くない。
 こんなに面白くないのは、四ヶ月前――オニール=ペアンとの契約が満了し、マハールのサルーン市で解放された日以来だ。
 あの男と次の仕事も一緒だと決まり、宿の部屋でむくれていたビュウに、イズーは少しウキウキした声でこう言ったのだ。

『ビュウ、お父さんがいたらな、って思った事はない?』

 ――ないよ、そんなの。
 ――だって、俺の父さんって俺が生まれる前に死んじゃったんじゃないか。
 ――父さんはいないのが当たり前で、それでどうして、いたらな、って思えるの。
 ――別に良いよ、いなくて。
 ――父さんなんか、いらないよ。
 ――母さんがいれば、それだけで良い。
 ――それだけでいい。それだけで良いからさ、母さん。

 そんな悲しい顔、しないでよ。

 ――というような事を考えていて、自然とうつむきがちになっていたからだろう。
 ドンッ、とビュウは何かにぶつかった。
 硬いけれど、建物の壁のような石の硬さではない。硬いけれど柔らかい……――つまり人の体だ、と遅れて気付いた。
 はたと顔を上げれば、突然ぶつかられて驚いてこちらを見下ろす男が一人。あの男より歳上に見える。三十代半ば、といったところか。質素だが丈夫そうな旅装は黒を基調としていて、何故だか戦場で死体をついばむ鴉を思い出す。
 ビュウを見下ろしてくる、驚いたように見開いているけれどどこか暗い陰を宿す、鋭い灰色の目のせいかもしれない。
 あるいは、腰の長剣のせいかもしれない。
 傭兵だろうか。だが放たれる雰囲気が、普段接する傭兵たちのそれよりもずっと剣呑だ。血まみれのくせして、それでもよく斬れる剣みたいだ。幻想の中に現われた剣の、その血臭が漂ってきそうで、ビュウは思わず息を飲む。
 傭兵だろうか。
 だが、違う。
 イズーや、あの男のような、ビュウが知る普通の傭兵たちとは――フリーランサーたちとは、何かが、違う。
 もう少しで掴めそうで掴めない違和感のせいだろうか。男はシュルースブールの街からひどく浮いていた。それはもう、目も当てられないほどの浮きっぷりだった。真っ白な羊の群れに何故か黒山羊が紛れ込んでいるのと同じくらい、とんでもなく浮いていた。たった六歳のビュウをして、哀れませしむほどに。
 六月には余りにも相応しくない、暑苦しい黒づくめ。
 陰気ですらある表情。
 全てが全て、この場に相応しくない。
 この場所が、目抜き通りから大分入り込んだ、人通りもないうらぶれた下町の、それこそ傭兵たちが集うような酒場の前であっても。
 どこであっても、この男は浮くのだ。酒場でも、斡旋屋でも、もしかしたら――戦場でさえ。確証もないのに確信だけがあった。
 心の中に恐ろしいほどにガッチリと根づいたその確信が、ビュウを後退りさせる。折りしも雨足はドンドン強くなり、雨音が少しずつ激しくなる。雨よけのフードをかぶらなければ雨粒が顔に当たって鬱陶しいだろうに、男はフードもかぶっていない。短く刈り込んだ暗褐色の髪と日焼けした顔を濡れるままにして、陰気な雰囲気をまとわりつかせた驚きの表情をこちらに向けている。
 ハッと、我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい」
 衝突した足からもう一歩離れて、軽く頭を下げる。
 相手の得体が知れなくても不気味でも――これでさっさと離れて、別れて、買い物に戻るのが利口だった。雨も強くなっているし――
「いや、こちらこそすまな――」
 男の言葉は、最後まで紡がれなかった。
 すまなかった。その言葉の途中に、ビュウが頭を上げた。早く買い物を済ませよう。早く帰ろう。そんな風にはやる気持ちが、自然と頭を上げる勢いを強くさせる。無駄についた勢いは慣性の法則のままにフードを後ろに引っ張り、つまりパサリッ、とフードが脱げた。
 露になる、ビュウの顔。
 男の目が、突然鋭くすがめられた。
 刹那、ビュウの頭のどこかで盛大に鳴りだす警報。危険信号だ。それに従い、身を翻す。
 いや、翻そうとした。
 けれど間に合わなかった。
「――だっ……!」
 目にも止まらぬ速さで伸びた男の左手が、ビュウを捕らえた。
 ビュウの、少し伸び気味の前髪を、鷲掴みにした。
 乱暴に掴まれ、引っ張られ、走る痛みにビュウは呻いた。ブチブチと、男の手の中で髪がちぎれる音がする。否応なく、そして問答無用に髪が頭から引き抜かれていく感覚に、恐ろしさと喪失感を同時に味わった。逃げようと身をよじる。だが逃げられない。男は強引に彼を引き寄せると、頭皮が根こそぎもがれそうなほどの力で前髪をグイッと上に持ち上げた。
 額が、さらされる。
 わざと前髪を伸ばし、わざと隠していた、額が。

「――額の中央やや右寄りに、翼を広げる竜の、痣」

 ビュウが隠していたものを認めた男の顔は、無表情だった。

「金髪碧眼、五歳から六歳ほどの男児」

 読み上げるような声音に抑揚はなく、顔同様、どこまでも感情が読み取れない。

「ミースからマハール中部方面に向かう商隊の中にそれらしき親子連れあり、という目撃情報を元にこんな街まで足を伸ばしてみたが……成程、人探しの基本はやはり目撃情報か。諜報部の仕事がいつもザルというわけではない、という事だな」

 淡々と押し殺された声音の中にひそむ歓喜を聞き取り、ビュウは身を強張らせる。
 そして絶句する。
 黒いマントを留めている、無骨な黒のブローチ。そこに彫られた紋章が、今更のように目に飛び込んできたから。

 ベロス王国。

「我が祖国ベロスの安寧のため、ビュウ=アソル、貴方に死んでいただく」

 男は、空いている右手で腰の長剣をサッと抜き払う――
 ザアザアと音を立てて降る雨に濡れ、鈍く輝く刀身を見上げ、彼ははたと理解した。
 母イズーが常に警戒し、接近しないよう心がけ、そしてビュウの見えない所で戦いを繰り広げていた敵。
 ベロス王属派遣軍特務旅団。
 いつの頃からか彼ら親子の命を狙う巨大な敵に、自分はとうとう捕まってしまったのだ、と。

 

 

 

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