―4―
「……何だと?」
「あんたの飲み物の中に毒を入れたのが一回、あんたを直接刺そうとしたのが五回、船から突き落とそうとしたのが三回で、母さんを上手く誘導してあんたを敵の中に孤立させようとしたのが三回――うん、十二回だね」
数え上げ、両手の指を折り、自分の足し算が合っている事を確認して、少し誇らしげに胸を張って。
だがそうして笑うビュウに、トリスは戦慄を禁じ得なかった。
十二回。
十二回?
考え込むトリス。心の中に作りつけた棚から記憶を下ろし、引き出しを引っ繰り返して底までさらう。
ゴドランドで毒殺されかけた。
キャンベルで刺されかけた。
船の甲板上での戦闘で謀殺されかけた。それは、イズーがビュウの誘導に従った結果だった。いつの間にかイズーと離されていて、トリスは敵に囲まれていた。
トリスが把握しているビュウの暗躍は、その三つだけだ。
だが、本当はその……四倍?
更に記憶をすくい上げる。言われてみれば、確かに思い当たる節はあった。甲板の上で、普段は寄ってもこないのにやたらと傍にいるビュウに首を傾げた事があった。人混みで殺気を感じて剣を抜きかけた事があった。何度も、何度も。
あれは、つまり――
表情を強張らせ、化け物を見るような目つきになったトリスに、ビュウは、低く押し殺された声音でボソリと無感動に、
「……あんた、しぶといね」
「――――っ!」
息を飲み、彼は一歩後退りする。
ビュウの顔から笑みが消えていた。
人形のような――いや、いっそ人形の方がマシだ。ビュウが浮かべているのは、目だけが憎悪と殺意でギラギラと輝く、ひどく危険な無表情。近付けば斬り捨てる、そんな雰囲気はまるでよく斬れる剣のようで、そんなところが戦闘中のイズーによく似ている。
だがそれは、決して似て良い部分ではない。
六歳。六歳だ。六歳といえば、トリスはまだ母親にひっつき、すぐ上の兄とじゃれ合い、将来剣で身を立てる事なんか考えもせず、血腥(なまぐさ)い事になんか触れもせず、ただ当たり前のように無邪気に屋敷の庭で転げ回っていた。誰かを憎いとか、殺すとか、そんな事は思いつくよすがさえなく、その日をどうやって楽しく過ごすか、食事の、おやつのメニューは何か、そんな平和な事ばかり考えていた。
それが普通だ。
普通の、はずだ。
ビュウが放つ、静謐で空虚で凶暴な雰囲気に飲まれ、トリスはただ言葉を失う。自分の信じる「普通」、己の足元を支える常識だとか知識だとかが音を立てて崩れ、よろめくような錯覚を覚える。いや、違う。錯覚ではない。実際に彼はよろめいた。たった六歳の子供が放つ殺気に気圧され、ジリジリと後退し、路傍の石につまずきかけたのだ。慄いていたところに足に何かがぶつかったものだから、飛び上がるほど驚き、声なき悲鳴を上げたこちらを、ビュウは鼻で嘲笑った。
「しぶといけど、それだけ。あんたは母さんよりずっと弱い。あんたは母さんの傍にいなくていい」
と、その時、トリスはハッと目をみはった。
ビュウの表情が、変化した。
人間味に欠いた殺気に満ちた無表情でも、嘲笑でもない。
「――……母さんは、俺が守るんだ」
それは。
とてもとても子供らしい、怒りと嫌悪と決意の顔。
とてもとても子供らしい、歳相応の独占欲の発露。
向けられる感情は先程よりもずっと生々しく、刺々しく、激しく、熱く――だというのに、トリスは気勢が削がれるような、拍子抜けするような、白けるような、そんな何とも言えない中途半端で醒めた気持ちを味わう。
何だ、という思いだった。
何だこいつ――ただの、子供じゃないか。
白けた気分と同時に歩み寄る感情は、ある種の安堵。肩の力を抜き、目を丸くし、口を半開きにし、見せる間抜け面にビュウの苛立ちが目に見えて増す。盛大に顔をしかめ、精一杯眉間にしわを寄せ、目を細めているのか鋭くしようとしているのか判らない睨み方をすると、プイッ、と顔を背けて踵を返し、宿に戻っていってしまった。
夜の空の下、残されたのはトリス一人。
「……あの、クソガキが」
やっと呟いたその言葉に、それまで込められていた刺々しさや憎々しさはまるでない。
……子供は、嫌いだ。
大体奴らと来たら、人の言う事は聞かないし、変なところで小賢しいし、かと思いきや浅はかで爪が甘くて、そのくせ大人を平気で軽んじて、小馬鹿にして、それが自分たちのいずれきたる未来である事など想像もしない。
何より、弱くて儚いくせに、大人と同じ、いや、それ以上の「命の感触」を持っている。
夢の中で斬り殺した子供の、その感触がまだ手に残っているようで、トリスはベッドに横たわったまま顔をしかめた。悪夢と言うにはすっかり慣れ親しんだその夢の中、殺した子供の顔がどんなだったかが思い出せない。
髪は、金髪だったか。
目は、碧眼だったか。
表情は、薄ボンヤリしていたか。それともこちらを戦慄させるほどに残忍な笑みを浮かべていたか。子供らしい怒りに燃えていたか。
ゆっくりと持ち上げた腕で、目を覆う。部屋を満たす微かな明かりは夜明けのそれ。目を閉じ、腕で蓋をして、仮初めの暗闇を取り戻しても、眠気はすっかり覚めて二度寝など出来そうにない。
気分が悪い。
だから、子供は嫌いだ。
鼓膜を静かに震わせる、窓外からの雨の音。
マハール名物、六月の雨季がもたらす長雨。いつから降り出したかも定かではないそれが、憂鬱な気分を余計に掻き立てる。
その憂鬱が、現実的なものへと変わるまで、あと三時間。
「困ったわ……」
その現実的な憂鬱を、イズーが――珍しい事に――深刻な口調で口にしたのは、一階食堂での朝食が終わって子供たちがそれぞれ宿屋部分の二階に引き上げた後だった。
雨が降りしきる窓の外のように、暗く曇った表情をしている彼女。一緒に旅をして五ヶ月目、それはトリスが初めて見る表情だった。
何事においてものほほんとしていて、どこかかズレた姿勢を崩さず――と言うか、ズレを修正するという発想を持たず――、いつも淡い笑みを浮かべて平然としている彼女が、今は、口調と同じ深刻な顔をする。何やらとても珍しいものを見た気がして、思わずポカンとした。
一体何事かと、続く言葉を待てば、
「これじゃ、出発できないわ」
何だ、そんな事か。拍子抜けしたようにトリスは吐息する。チラリとやる視線の先、食堂の窓の外は確かにザアザア降りの大雨で、とても出発できそうな天気ではない。だが、
「二、三日すりゃやむさ。ちょうど良いじゃねえか、ここのところ全然休んでなかったんだし」
しかしイズーはかぶりを振る。
「前にも言わなかったかしら。私は、一所に留まってはいけないの」
と、食後のお茶を一口。
もちろん、その言葉は覚えている。四ヶ月前、オニール=ペアンに慰留を求められた時、イズーはそう言って断った。そしてこの四ヶ月間、ずっとどこかに落ち着く事なく、休息で長めに逗留する事もなく、旅から旅へ、戦場から戦場へと渡り歩いている。
はっきり言って、おかしい。
異常だ。
「何でだ?」
窓の外から、視線を向かいに座る彼女にやる。
「何で、一所に留まっちゃいけない?」
「そうね……」
カチャリ、とカップをソーサーに戻して、イズーは淡く微笑んだ。
優しさを宿していながら、それ以上踏み込んでくるのをやんわりと拒む、そんな拒絶の笑み。
「貴方がマハールにいたがらない理由は?」
「…………」
トリスは、口をつぐむ。再び窓の外を見やる――ふりをしてそっぽを向いた内心では、イライラが大分表に出ていたか、と流通路上の自分の行動を省みていた。
イズーの言う通りだ。
マハールには、長居したくない。
そもそも、このシュルースブールまで来る予定ではなかったのだ。
シュルースブール。
マハール西部、やや中央寄りの街である。西部の空港都市ミースを終点とする西部流通路の中継点の一つとして、そこそこ大きく発展してきた歴史を持つ。マハール国内の物資は西部流通路に乗り、シュルースブールや他の中継都市を経由して、ミースに至ってゴドランドやダフィラに送られていく。
そして、この逆の流れもまた然り。
数日前までトリスとイズーが従事していたのは、ゴドランド・マハール航路を行く商船の護衛だった。本来ならミースで報酬を受け取り、解放されるところが、その終着点の更に向こう、シュルースブールまで来てしまった。
雇い主の段取りが悪かったからである。
要するに、陸路を護衛する傭兵が用意できていなかったのだ。それで代わりにトリスたちの契約が昨日まで期間延長され、雇い主の商隊が運ぶ荷物の終着点シュルースブールまで来る羽目になったわけだ。
で、昼過ぎにこの街に到着し、報酬を受け取ってお役ご免となり、宿を取って夜が明けたら――この大雨である。
大誤算。
本来ならミースで一泊し、マハールから出る商船の護衛か何かの口を見つけてさっさとこの国から去る予定だったのに、ズルズルとこんな内陸の街まで来て、しかも雨に足止めされている。
流通路の先には、マハール王都がある。
トリスとアルネには二度と足を踏み入れる事が許されていない、懐かしくも恨めしい生まれ育った街が。
沈黙を守るトリスを、イズーは穏やかな目で見つめた。
「貴方に触れられたくない話題があるのと同じように、私にもある。それだけの事。何か問題があるかしら?」
顔だけは窓に向けたまま、視線だけを動かして彼女を見る。
この四ヶ月で、すっかり見慣れたイズーの穏やかな微笑み。柔らかく、温かく、全てを包み込むような慈愛に満ちた笑顔。
しかしそれは同時に、こちらの追究をはぐらかす笑みで。
この四ヶ月でその笑顔しか見た事がない事に、トリスはとっくに気付いていた。
問題?
そんなもの、
「……あるぜ」
それも、山ほど。
きょとんと目を丸くしたイズーを、改めて顔ごと向き直って見つめ返す。
朝からの雨。朝食を食べてすぐにアルネは繕い物の続きをやると言って二階の部屋に引き上げ、ビュウもまた買い出しのリストを作ると部屋にいる。トリスがイズーに近付く度に不機嫌な雰囲気を発し続けていたコブ二つが揃って席を外している、今がチャンスだ。
「俺は、あんたの事が知りたい」
――四ヶ月。
四ヶ月だ。
行動を共にするようになって、一年の三分の一が経過したのである。季節は初春から、気が付けばもう夏は目の前。マハールの南部の方に行けば、気の早い夏空が拝める、そんな時季になったのだ。
そして、寝食を共にし、戦いにおいては背中を預けあっているのだ。同性ならば友情が育まれて当然だし、異性であるならば、極限状態に付き物の恋愛に似た連帯感が芽生えていてもおかしくない。
それなのに、イズーの柔和さに隠された壁は、初めて会った頃とまるで変わりない。いや、こちらが彼女を口説くような素振りを見せる度に、明確に距離を置き、壁を作り、そこから先に踏み込む事は許さないと言外に通告してくる。
――この距離を、縮める。
そんな決意と共に放った言葉は、
「……知ってどうするの?」
そんな問い返しで、回答の義務がこちらにあっさり移される。トリスは思わず肩をコケさせた。
今更、それを聞くか? 怒鳴りだしたいやら泣き出したいやら、ゴチャゴチャしてきた感情の中でただ押し黙るトリス。けれどイズーの表情を見て、背筋にゾッとしたものが走るのを感じた。
それは、寒気。
戦慄とも感動ともつかない震え。
イズーは笑っていなかった。
表情から柔和さを全て排除し、空色の双眸に真冬の冷たさと底知れなさを宿して、剣呑なまでに鋭い顔でトリスをジッと見つめている。
――美しい。
まるで、初めて「美」というものに遭遇した子供の心境だった。
笑っている時のイズーは春の野に咲く花のようだが、射殺さんばかりに鋭い眼差しを向けてくる彼女は、さながら厳冬の荒野に吹き荒れる純白の雪だ。
刃のような雪片が、トリスに答えを強制する。はぐらかす事を決して許さないと何よりも饒舌に語る。神が下す託宣のようだ。人間ごときに拒絶する術はない。
「……あんたを」
この時――
トリスはどうしようもないほどに、イズーに魅入られていた。
真冬の厳しさと美しさを凝縮したかのような彼女の美貌は、トリスの頭の中を、真夜中の猛吹雪さながらの真っ白な闇に塗り替える。身震いするほどに深くて暗い真白の闇に見入り、魅入られ、そこから逃げ出すという選択肢さえ思いつけない。
四ヶ月前、あれほどの罪悪感をトリスの胸に呼び起こしたあの面影さえ、白い闇が掻き消し、取り込み、いずこかへと持ち去る。
トリスに出来る事はただ、屈服するだけ。
イズーに。
自分の胸に間欠泉のごとく湧き上がった、衝動に。
「俺の、ものにしたい」
その衝動がトリスを操る。唇を動かし、言葉を紡ぐ。
決定的な、言葉を。
「あんたが、好きだ」
|