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それで結局どうなったかと言えば、
「いやあ、本当に助かりましたぞ、イズー殿! 貴女のおかげで、我が商会の商船はおろか、キャンベル・マハール航路を利用する全ての船が救われた! 貿易ギルドを代表して礼を言います!」
「あら、そんな、大した事はしていませんわ」
「何をおっしゃるか! 貴女のその剣! 貴女のそのたおやかな腕から繰り出される優美にして壮絶な剣技が、あの忌々しい空賊どもを一掃したのです!」
「私一人の力ではありません。他の方々がいたから出来た事です」
「おお、ここで謙遜するとは! 貴女はやはり素晴らしい女性だ、イズー殿。私に妻と子がなければ、貴女に求婚しているところです」
「まあ、ご冗談を」
マハール、サルーン市――
キャンベル・マハール航路の終着点もしくは出発点のこの街は、マハール王国の、そしてオレルス世界最大の交易空港都市である。オレルスの空のほぼ中央に位置するマハールは、ラグーン間の行き来の中継点であり、すなわち世界貿易の要であった。
その玄関口の、空港にほど近い、ペアン商会マハール支店の応接室で、彼女は優雅に笑う。対するペアンは、十日前からは考えられない上機嫌な饒舌ぶりで歯の浮くような賞賛の台詞を吐きまくり、彼女の息子をげんなりさせる。
そしてげんなりしているのは、トリスも含めた他の傭兵たちもご同様。それもそのはず、彼らだってこの十日で結構活躍したのである。何せイズーのたっての願いで残してもらい、報酬も彼女と同等の値段にしてもらえたのだから。誰も彼もイズーの役に立つべく必死で働いた。
……まあ、一番活躍したのはイズーだが。
金髪碧眼の美しきクロスナイト、イズー=アソルの活躍とは何ぞや。
すなわち、
航路上の小ラグーン群にひそんでいた空賊たちを、出会った端から撃破。撃破。撃破。
甲板に移ってきた直後に撃破。
甲板に移ってくる前に撃破。
甲板にわざわざ移らせてから撃破。
甲板にこちらから移っていって撃破。
縦横無尽。八面六臂。その活躍にトリスたちが唖然としている間にも、撃破。撃破。撃破。
優雅に、あでやかに、たおやかに。
それまで孤立したグループが点在しているだけだった空賊たちは、わざわざ小ラグーン群の側をこれ見よがしに飛ぶペアン商会の船と、イズー=アソルの美しくも凄絶な快進撃に一致団結した。空賊たちにとって存亡の危機だったからだ。まして――
その船が、飛んで火に入る何とやらのごとくフラフラと小ラグーン群の中に入ってくれば。
『多分ねー、今中に入ればワァッて来るよ、ワァッて』
『まあ、ワァッて来るの?』
『うん、ワァッて』
『あら、そう。……じゃあ、中に入っちゃいましょうか』
ノリは買い物、中身は戦術。
それまでイズーが派手に暴れていた理由が、空賊たちに危機感を持たせ、か細いつながりしか持たなかった彼らを連帯させ、一致団結させてまとめてくるように仕向ける事だったとは、雇われてから七日目のその時まで気付かなかった。
それ以上に、そんな戦術を五歳かそこらのクソガキが考案したという事実に、愕然とした。
そして、そんなクソガキの戯言としか思えない言葉を、イズーが本気で実行し、実現してしまっている事に、唖然とした。
ともあれそんなこんなで、近年キャンベル・マハール航路を利用する船舶を悩ませてきた空賊問題は、ここに(おそらく一時的に、であろうが)解決。
この報せを受けたマハール王国はペアン商会を褒めちぎり、貿易ギルドのお偉方もこぞって拝みに来る始末。おまけに当局からいくばくかの謝礼が出たとなっては、ペアンも得意の絶頂だろう。
ただ、ここで真に評価すべきは彼の公正さ。親から受け継いだ事業を己の才覚で大きくした大商人は、謝礼金を己の懐にしまい込む、なんてしみったれた真似をしなかった。
――トリスは、先程手渡された真新しい紙幣を見下ろす。その束の分厚さを意識する。
八千ピロー。
元々の報酬、一日七百ピロー×十日=七千ピローに、一千ピロー上乗せ。尚、一番活躍したイズーには二千ピローの上乗せ。
マハール王国の内緒は苦しい。トリスが知る頃よりもずっとしみったれた事になっているだろう。ペアン商会に下された謝礼なんて、本当に「いくばくか」しかない事くらい、想像しなくても解る。
だが、この辣腕会頭はその謝礼以上の額を傭兵たちに報奨金として支払った。
(……あのクソ陛下とは器が違ぇぜ)
「――では、私はこの辺りでそろそろ……」
イズーのそんな声が、トリスを思考の沼から引き上げた。一瞬のうたた寝から目覚めた時のような、焦りにも似た居心地の悪さではたと目をやれば、傭兵たちの中で唯一ソファに座ってペアンと談笑していた彼女が、息子と共に腰を浮かせている。
ペアンは名残惜しそうに口を開けた。
「もう行かれるのですか、イズー殿」
「ええ。お世話になりました、ペアン会頭」
「よろしければ、もう少し逗留していかれては如何か? 我が妻も貴女をもてなしたいと申しておりますし、ギルドの幹部たちも是非貴女にお会いしたいと――」
「嫌ですわ、ペアン会頭。私はただの傭兵、もてなされる身分ではありません」
「で、では――私も小細工を弄するのはやめましょう」
立ち上がった彼女を追いかけるように、ペアンもまた立ち上がった。身長は同じくらいか、彼の方が心持ち低いか。恐ろしいほどに真剣な眼差しで、ほぼ同じ高さのイズーの碧眼をまっすぐに見据えた。
そしてその口から飛び出したのは、
「どうか、我が商会専属の傭兵となっていただきたい」
まるで求婚にも似た――それは勧誘の言葉。
「いや、貴女でしたら私兵団の団長の座を用意しましょう。契約期間は設けません。報酬は月にピローで二千、私兵団長として出撃するような場合には特別手当として一回につき八百、衣食住の保障は全てしますし、ご子息の教育についても全てこちらが手配しましょう」
トリスは、そして居並ぶ傭兵たちは、目を剥いた。
破格にもほどがある条件。
マハールにおいて、軍の士官の年俸がおおよそ五千から六千、将軍位にまで上り詰めてようやく一万に手が届くか届かないか、そんな水準である。
ペアンが提示した条件では、年収が将軍の年俸の二倍以上になる。
高すぎる。そう思う一方で、トリスはこうも思っていた。
安い。
イズー=アソルという剣士を私兵団の団長として正規に雇うのであれば、その額の更に二倍でもいいとトリスは思う。それほどに彼女の剣は凄まじかった。もし彼女がツンフター――ベロス王属派遣軍の傭兵――であったなら、文字通り引く手数多、彼女のためにほとんどの国が財政を傾ける事だろう。雇うため、報酬を吊り上げに吊り上げて。
果たして、それほどに買われている女は、
「……申し訳ないのですが」
苦笑して、やんわりとかぶりを振る。
まるで破産でもしたかのように、表情を凍りつかせるペアン。それはトリスたちも同じだった。これだけの好条件を蹴るとは! 絶句する彼らに、イズーは、ほんの少しだけ表情を暗くかげらせた。
「私は、一所にいる事は出来ないんです。――たくさんの人に、迷惑をかけるので」
§
呆れるような、腹立たしいような、何とも胸がムカつく気分だった。
アルネはそんな心持ちで、トリスの後ろを無言で歩く。そのトリスは、そんなこちらの様子に気付いているのかいないのか――まあ、気付いてないわよね、だってそういう人だし。苛立ち混じりの吐息を一つ。しかしそれも周囲の喧騒に紛れ、前を行く彼には届かない。
サルーン市はオレルス一の交易都市だ。ここには世界中から人と物が集まり、ここから世界中に運ばれる。目抜き通りには人が溢れ、露店が立ち並び、呼び込みの声や値切りの駆け引きがあちらこちらから聞こえ、アルネの耳を聾していく。
喧騒、人込み、人いきれ。一歩進む度に体がぶつかり、もみくちゃにされる。道を逸れて路地に避難してしまいたくなるが、その衝動を何とか抑えた。トリスのマントを掴むこの手を離せば、迷子になるのは必死。そんな無様な真似は出来ない。
だから、苛立ち混じりの吐息をもう一つ。
「……?」
横合いから視線を感じたのは、その時。
見やれば、どことなく澱んだ空色の二つの眼と遭遇した。
「……ビュウ、君?」
この十日で何度か話す機会のあった――しかし、決して親しく話したわけではなかった――幼子の名を呼べば、まだ少年とも呼べない彼は、うんざりした、子供にしては険のある表情でチラと視線を上に送る。
上、すなわち、
「なあイズー、あんた、何であんな良い話蹴っちまったんだ?」
「聞いていなかった? 私は一所にいる事は出来ないの」
「そりゃまた何で」
「話さなくてはいけないかしら?」
ニヤニヤ笑って興味本位に尋ねるトリスと、
微笑みながらも素っ気なく追究をかわすイズー。
この瞬間、アルネとビュウの心は一つだった。
ああまったく、面白くない!
ペアン商会の支店を辞し、目抜き通りをまっすぐ西進。揃って街の中心から離れる形を取っているのは、もちろん、行く先がたまたま一緒、なんていう出来の悪い偶然によるものではない。
(またこの人の悪い癖が出たわ)
ビュウと同じように、子供らしからぬ険のある目でトリスの無駄に大きな背中を睨みやり、アルネはフンと鼻息を荒くした。
悪い言い方をすれば、トリスは女にだらしがない。
少しでも自分の好みの女性と見たら、すぐに声をかけ、口説く。子供っぽさと男らしさを宿す顔立ちのトリスは、客観的に見れば「素敵な男性」の部類に入るらしく、アルネの把握している限りでは、口説き落とせる確率はほぼ九割。
しかし、長続きは決してしない。何せこちらは旅から旅の傭兵暮らしである。前提の段階で、長続きするはずがないのだ。
(でも――)
アルネは知っている。長続きしない一番の理由。それを思うと、心の中に黒々とした重たい澱がわだかまるのを感じた。
(……最低だわ)
内心で、吐き捨てる。
トリスの口説き文句は尚も続く。喧騒を突き破って耳に届いてくる、他の何よりもそれから彼女は逃げ出したかった。
だが逃げられない。
逃げられない内に、イズーはビュウの手を引いて食堂に入る。当然のごとくトリスもアルネを伴って入り、当然のごとく同じテーブルに着く。
イズーが特に気にしていない風情だったのが、彼女にとっては救いであり、逆に申し訳ない気持ちに駆られた。
「……ごめんなさい、イズーさん」
丸テーブルの向かいに座る彼女に小声で謝れば、
「ん? 何が、アルネちゃん?」
聞き返してくる声が優しい。無礼なこちらを責める調子がまるでないのが、何だか余計に申し訳なくて、
「ん? アルネ、お前何謝ってんだ? まさかイズーに何かしたのか? ならもっとちゃんと謝れ――」
「黙ってて」
能天気なトリスの明るい声が神経を逆撫でしていく。自然と飛び出した刺々しい声を、しかし彼はいっそ腹立たしいほどに意に介さなかった。
「それより飯だ飯。イズー、あんたは何食う? ――ちょっとそこの姉ちゃん、今日のオススメは?」
話をさっさと切り替え、イズーに声をかけ、食器を下げようとしていた給仕の女性を呼びつける。すがすがしいまでの空気の読まなさ。殴ろうか、そう思った時――右隣、トリスとは反対側からチクチクと刺すような空気が放出されているのに気付く。
ビュウだ。
その眼差しに、その表情に、アルネはゾッと背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
視線に物理的な影響力があるなら、殺傷能力を持っているのではないか。そう思うくらいに、刺々しく、毒々しい、敵意と嫌悪を剥き出しにした目だった。
確かに、ずっと一緒だった母親がどこの馬の骨とも知らない男につきまとわれていれば、子供――特に男の子としては面白くも何ともないだろう。
だが。
それにしても、その目はない。
トリスについて六年近く戦場暮らしをしているのは伊達ではない。アルネはそんな目を何度も見てきた。憎悪、そして殺意。敵に対して向けられるそれが、命に関わるほどに危険なものである事くらい、彼女はよく知っている。
同時に、それは五歳の子供がする目では決してない。
だがそれ以上に、そんな彼の視線を反対側のトリスがまるで気付いていないというその事実が、何というかもう穴があったら入りたい。
「……ごめんね、ビュウ君」
ビュウに顔を寄せ、耳元で小さく囁く。
すると、彼の表情が少し和らいだ。
「アルネさんの、せいじゃないよ」
疲れたような苦笑いは、やはり五歳児の浮かべるものではない。思わず眉尻が下がった。
そんな二人のやり取りの最中にも、トリスは一人で騒々しく喋っている。給仕から今日のオススメ料理を聞き出し、じゃあそれで良いかとアルネの分の昼食まで注文し(こちらの意見は無視である)、下心が透けているようで透けていないようでやっぱり透けている親切な笑顔でイズーの意向を聞き、彼女とビュウの分まで頼み、注文を聞いた女給仕の背中に人懐っこく手を振る。
今日ほどこの男をぶん殴りたいと思った事はない。
が、悔しい事にまだ十一歳のアルネは腕力でも素早さでもトリスには到底及ばない。拳は届く前に受け止められるのがオチで、よしんば届いたとしても、大して威力はないだろう。よし、今日から拳を鍛えよう。アルネがそう心に決めた頃、注文した料理が厨房から運ばれてきた。昼には遅い時間帯、客の入りもそれほどではなく、料理人も忙しくないのだろう。
魚の香草焼きは、美味しかった。
マハールは水の国、漁業の国である。キャンベル、ゴドランド、ダフィラ、カーナ。ベロス以外の国を今まで訪れたが、魚の美味しさでマハールに勝る国はなかった。
何より、久しぶりのマハール料理というのが嬉しかった。
キャンベルの羊料理も、カーナの牛料理も、確かに美味しかったけれど、やはりマハールの魚料理には遠く及ばない。アルネの舌は、既にマハール料理を一番美味しいと感じるように出来てしまっているのだ。
この香ばしさを、どれほど夢に見た事だろう。
燻製や塩漬けではない魚を、取れたて新鮮の魚を、どれほど食べたかった事だろう。
気が付けば彼女は無心に魚を食べていた。丸々一匹の香草焼き。ナイフとフォークを使って丁寧に半身を切り取り、骨から剥がし、皿に置いて改めてナイフを入れる。無我夢中で咀嚼する。焼いた皮目の香ばしさとプリプリの食感に夢見心地になる。
ああ、やっぱり、お魚最高。
それまでトリスに抱いていた腹立たしさを全て忘れ、さあもう半分と器用に魚を裏返そうとし――
「ところでイズー」
そんなアルネの様子に苦笑していたトリスが、不意にイズーに話しかけた。
「あんた、これからどうするんだ?」
「そうね……斡旋屋に行くわ。また商船の護衛の仕事を探すつもり」
「じゃあ、良い斡旋屋を紹介しようか。昔世話になったとこなんだが、コネが広くてな、良い仕事が見つかるぜ?」
「まあ、いいの?」
「もちろん。これ食い終わったら案内するよ」
「なら、甘えてしまおうかしら」
「って母さん!?」
バンッ! ビュウがテーブルを叩きつける音で、アルネは我に返る。
そして、今聞き流しかけた会話でどんな事態になっているのか気付き、咄嗟にトリスを睨んだ。
「ビュウ、お行儀悪いわよ。駄目じゃない、食事中にテーブルを叩いたり椅子の上に立ったりしては。座りなさい」
「うん、母さん……じゃなくて!」
「そーだぜ坊主ー、行儀悪いぞー」
ギリリ、と聞こえてくる歯軋り。突き刺すようなビュウの、そして咎めるようなアルネの鋭い視線を、やはりトリスはまるで気にしない。
気付いていないわけではないだろう。だがあっさりと黙殺すると、いつもの能天気で大雑把な笑顔をイズーに向け、
「じゃ、決まりだな」
勝ち誇るような宣言に、
(……また、悪い癖が出たわ)
アルネは嘆息する。これから起こる事が目に見えるようだった。「この仕事をやろうかしら」「おお良い仕事だな。じゃあ俺もそれやってみるかな」「また一緒ね」「そうだな」――一つの仕事が終わる度にその繰り返し。そうして、トリスはわざとらしくイズーと行動を共にするのだろう。
口説き落とすために。
きたる不毛な日々を想像し、せっかくの魚料理が美味しくなくなっていくのを、アルネは感じた。
§
事は、トリスの目論見通りに運んだ。
複数の傭兵を募集している仕事を受けるようイズーを誘導し、自分もまた同じ仕事を選ぶ。次はゴドランドに行こうと思ってたんだ、とか何とかそれらしい事を口にして。
わざとらしい? 堅い事言うんじゃない。どうせ旅から旅へと渡り歩く日々、これはと思った女を追って行き先を決めてはいけないなんて、誰が決めた?
こうして、二つの家族は旅路を同じくする。
一ヶ月目。
商船の護衛をしてゴドランドに渡った。
ゴドランド政府から異端視されて追われている魔法結社に雇われ、逃亡を手助けした。
双剣を操るイズーの恐ろしくも美しい戦いぶりに、役人どもが震え上がった。
その中、ビュウに毒殺されかけた。
二ヶ月目。
ゴドランドからキャンベルへ。
年中行事のように起こる『草原の民』の部族間抗争に盛大に巻き込まれた。
イズーが草原を疾駆してあっという間に手打ちに納めた。
その中、ビュウに暗殺されかけた。
三ヶ月目。
キャンベルと各国を結ぶ貿易航路を飛び回った。
空賊退治に手を貸した。
トリスに背中を守られて、イズーは空賊団に躊躇なく斬り込んでいき、容赦なく殲滅させていった。
その中、ビュウに謀殺されかけた。
四ヶ月目。
とうとう我慢できなくなり、宿での夕食の後、イズーの目を盗んでビュウをとっ捕まえた。
「いい加減にしとけ、クソガキ」
宿の裏手に連れ出して、凄む。ドスを利かせた声と引きつった笑みは、普通の子供にしてみればチビってしまうほどの恐怖だが、生憎目の前にいるのはそんじゃそこらのガキとは格が違う。窓から漏れ落ちる頼りない光の中、トリスを見上げてくるその目は、先日六歳になった子供とは思えないほど冷ややかだ。
「お袋に近付く男が気に入らないのは解る。何とか追い払いたいのもな。
だがなクソガキ、限度ってモンがあるだろ。俺だから何とか生きてるが、並みの野郎だったらてめえ、お袋の傍で三回も殺してる事になるんだぜ?」
ここでトリスが「お袋の傍で」という言葉をわざわざ入れ、しかも区切るように言い放って強調したのには、一応わけがある。
この歳頃の男児がそうであるように、ビュウもまたマザコンである。常に身近に危険があり、母親に四六時中守ってもらっているような状態なので、その程度はそこらの子供よりも重症だ。――むしろ、そうでない方が逆におかしく、かつ、情緒の発達にとんでもない問題があると疑われるのだが。
だからこその強調。大切な母親の傍で、自分から進んで手を汚すのか、と。それを母親に悟られ、悲しませたいのか、と。
果たして――
ビュウは、沈黙を破る。
「三回じゃない」
トリスが、まるで予期していなかった言葉で。
「十二回だ」
ニィヤリと、笑う――
その笑みは、子供が浮かべてはいけない類の、とてもとてもいやらしくて、陰惨で、酷薄で、残忍なもので。
春もようやく過ぎ去る頃合いの暖かな宵だというのに、トリスは背筋に真冬にも匹敵する寒気が這い上がるのを感じ、身震いした。
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