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 聖暦四九八四年、二月。
 キャンベル両王国の春はまだ浅く、所によっては雪がちらつくこの季節。オレルス世界の情勢は、相も変わらず不安定だ。
 確かに、世界全体を巻き込むような大がかりな動乱は、この二百年ばかりない。
 けれど、それだけと言ってしまえばそれだけ。
 どこのラグーンも大なり小なり問題を抱えていて、その問題は、暴動や内紛、治安の悪化という形で時折表面に現われる。
 そしてそういうところにこそ、傭兵の雇用が発生する。

「今回諸君らにしてもらいたいのは、我がペアン商会の商船の護衛だ」

 ビュウとアルネが腰かけるソファ。そのソファとテーブルを挟んで対峙するソファに深々と座り、オニール=ペアンは二人の子供の後ろに立つ傭兵に話を始める。
 オレルス有数の貿易商会を束ねる男は、五十を過ぎているというのにまだまだ若々しかった。身なりはどこまでも上品で、特にきちんと整えたひげは、どことなく嫌味ですらある。
 ともあれその紳士然とした今回の雇い主は、騎士の従卒のように後ろに控えていた若い男から巻物を受け取り、それをテーブルの上に広げた。
「……キャンベル・マハール航路か」
「その通り」

 キャンベル・マハール航路――
 キャンベル産の穀物をマハールに運ぶ、そのメインルートである。オレルス世界の貿易が穀物を求めるマハールによって発展していった歴史を考えれば、その航路は世界史を変えた道だった。
 広げられた地図では、その航路を――キャンベル・ラグーンとマハール・ラグーン、そしてその周辺空域を南から斜めに見下ろしている。
 地図とは、元来真上から見下ろす形のもの。だが、複数のラグーンを含む地図となると、東西南北の位置関係の他に、高低差を描かないといけない。斜めに捉える分、ラグーンの地形や正確な距離感が掴みにくくなるが、大雑把な位置関係を把握するにはちょうど良い。

「知っているとは思うが、昨今、この航路における空賊の被害が急増している。被害が多発しているのは、ここだ」
 オニール=ペアンの指が、地図の上に置かれた。
 キャンベル・ラグーンとマハール・ラグーンのちょうど中間地点にある小ラグーン群。航路の最短直線ルートのど真ん中を塞ぎ、小島の密集具合のせいで迂回を余儀なくさせる、非常に面倒な存在だ。
「これまでに五隻、当商会の商船も被害に遭っている。空賊に遭遇しないよう小ラグーン群の側を迂回するルートを選択するが、用心に越した事はないのでね。
 諸君らにはペアン商会私兵団に一時的に参加し、明日マハールに向けて出航する商船の護衛を担当してもらう」

 地面の上も空の上も治安が不安定なこのご時世。
 それぞれのラグーンの治安を守る軍はもっと大きな内乱に目を向けていて、マハールの司法騎士団やゴドランドの警察組織のような地域ごとの治安維持機構は、都市の秩序を守るので精一杯。都市と都市とを結ぶ街道上は、無法地帯になっている場所さえある。
 それと同様で、空の上もほとんど無法地帯である。ラグーンより遥かに広い空には、どこの国も監視の目を満足に行き届かせられない――領空内であっても、ラグーンのすぐ側を見回るだけで精一杯。空賊に襲撃されたとしても、大概の場合、公空上で襲われた場合と同じく自己責任という名目で放ったらかしにされるのが慣例だ。
 結局のところ、自分の安全は自分で守らなければいけない。
 というわけで、金のある者は私兵団を自前で揃え、金のない者は傭兵を何とか雇い、金が有り余っている者はその二つを併用して安全を確実なものにする、というわけである。

「契約期間は、今日からマハールに到着する日まで。概算で七日から十日といったところか。報酬は一日五百ピローだ」
 へぇ、とトリスは感嘆の声を上げた。
 拘束期間が七日から十日で、三千五百から五千ピローの稼ぎ。
 しかも、実際に命を張らなければいけなくなるのは明日からで、つまり今日は特に危険にさらされる事なく五百ピローが懐に入ってくる。
 加えて、これは商船の護衛。お抱え私兵団の他の団員も乗り合わせるから、その分負担も軽い。
(ボロい仕事じゃねぇか)
 この仕事を紹介してくれた馴染みの斡旋屋を、心の中で拝む。
 思案げに、しかし自信に満ちた表情で居並ぶ傭兵たちを順に見るペアン。自信にも満ちるだろう。これだけの好条件を蹴ろうとする傭兵はいない。
 誰からも異存も疑問も出ない、それを確認して、彼は後ろの付き人を振り仰ぎながら、言った。
「では、この条件で不満がなければ、契約書にサインを――」

「ちょっと待った」

 不意に差し挟まれたのは、
 子供が発した、制止の声。

 思わずトリスはギョッとソファを見る。
 しかし、アルネではなかった。彼女もまた、驚いた様子で隣を見つめている。
 そう、隣。アルネの隣に座るのは――

「ビュウ?」

 トリスの隣に立つ女傭兵が、おっとりとした声を上げた。異様な緊張が漂いだした応接室には、余りにも場違いな声。
「どうしたの。おなかが痛いの?」
 ズレた問いを投げながら、女はソファに座る息子の顔を覗き見る。つられてトリスもソファを覗き見て――アルネと同じく、驚きに目を見開いた。

 部屋に入ってきた時のような、ボンヤリした表情ではなく。
 あるいは、母親に手を出そうとする見知らぬ男を威嚇した時のような、子供らしい怒りの表情でもなく。

 子供らしさというものが欠片も感じられない、鋭利で、冷徹な無表情だった。

(何だ、このガキ……――)
 トリスは、愕然とする。
 ビュウは、まだ五歳くらいだ。
 アルネよりも歳下だ。
 だというのに……何という表情をするのだろうか。トリスの背筋に寒気を這い上がらせる、この冷ややかさは何だろうか。

 ビュウの変貌に、飲まれていたのはペアンも同じだった。
 しかしそこは百戦錬磨の大商人。彼はすぐに気を取り直して、取り繕った穏やかな笑みをビュウに向ける。
「どうしたのかな、坊や。何か分からない事があるのかな?」
 子供好きのする笑顔に、しかし当の子供は表情を微動だにさせる事なく、
「納得が行かない」
 子供らしくない、はっきりとした物言い。ペアンは、僅かに笑みを引きつらせながら、
「何が、納得行かないのかな?」
 あくまで穏やかに問いかける。
「報酬」
 対するビュウは、どこまでも子供らしくない話し方――って、報酬!?
 美女の手前、とこれまで取り繕っていた態度をかなぐり捨てて、トリスはソファの背もたれから身を乗り出した。
「ちょっと待てクソガキ、てめえ何を――」

「五百じゃ安い」

 瞬間。
 オニール=ペアンの笑みは完全に凍りつき。
 ホクホク顔だった傭兵たちは硬直し。
 アルネはポカンと大口を開け。
 トリス自身も、あり得なさすぎる事態に言葉も出ない。
 唯一、彼の母親だけが、
「あらまあ」
 と、呑気な声を上げた。思わずトリスは女を睨みつける。
 事態が解ってるのか、この女!? あんたの息子のせいで、せっかくのボロい仕事がふいになりかけてるんだぞ!? 天下のペアン商会の仕事にケチをつけるなんて、馬鹿のする事だぞ馬鹿の!
「安いの、ビュウ?」
「安いよ」
 どこがだ! 傭兵たちの心の声の唱和を、トリスは聞いた気がした。
「そうなの? 前に受けた仕事も、同じくらいの報酬だったと思うけど……」
「あれは、本当に護衛だったから。でも、これは違うよ」
 違う?
 訝しげに眉をひそめ、しかしと思い直す。所詮は子供の戯言。怒鳴りつけてでも喋るのを止めなければ、とトリスは口を開き、
「これは、囮だよ」

 出かけた言葉が、吐息となって掻き消えていった。
(……囮?)
 応接室の空気が、冷えきり、凍りつく。

「――はははっ、面白い事を言うね、坊や」
 それを破ったのは、ペアン自身だ。口を開けて笑う彼は、ニヤニヤと、面白そうに――そして脅すように、ビュウを見下ろす。
「囮、なんて言葉を知っているなんて、中々賢い坊やだ。貴女の息子さんかな? いや、将来が実に楽しみだ。
 じゃあ坊や、小父さんに教えてくれるかな。どうして囮だなんて思ったんだい?」
 所詮は子供の戯言。ペアンとトリスの抱いた思いは、この瞬間、確かに同じだった。

 そして次の瞬間、見事に、徹底的に、覆された。

「じゃなかったら、母さんたちを雇う理由がない」

「ただの護衛だけだったら、私兵団だけで十分」

「それに、空賊に遭わないようにするだけだったら、小ラグーン群の側を通る以外のルートを取ればいい」

「燃料代の節約、なんて事はないはずだ。だって、空賊に襲われて積荷を奪われる方が大損だもん」

「俺たちの乗った囮の船に小ラグーン群の側を飛ばせて、空賊と戦わせる。その隙に、積荷を乗せた本命の船がマハールに向かう」

「母さんたちが空賊を倒せば、それで良し。もし全滅しても、ペアン商会の船が落とされたって事実が出来る。それがあれば、軍も動く」

 応接室は――
 水を打ったように、静まり返っていた。
 誰もが、ビュウの言葉に聞き入っていた。子供らしからぬ、余りにも理路整然としたその説明を。
(何だ、こいつは――)
 トリスが抱く、危機感にも似た思い。
 それはおそらく、場に集った誰もが感じた共通の思いだ。他の傭兵たちも、アルネも、オニール=ペアンも、その付き人も、誰もが愕然と、そして化け物を見るような目付きでビュウを見つめている。
 ビュウは、その視線を真っ向から受け止め、見つめ返していた。
 まっすぐな瞳。まるで、晴れ渡った青空のような。
 どこまでもどこまでも高く、抜けるように透き通って、しかし底が決して見えない……――

「――つまり」
 誰もが告ぐ言葉を見失っていたその中で、ただ一人、声を上げた者がいる。
 おっとりとしたその声は、彼の母親。
「私たちは、命懸けの戦いに行かされそうになっていた、という事かしら? 報酬に乗せられて」
「うん」
「まぁ……」
 と、何やら考え込んで――彼女は不意に、トリスに顔を向けた。
「それで一日五百ピローは、安いのかしら?」
「……は?」
 思わず聞き返す。
「傭兵を始めてそろそろ三年だけど、どうもこういう相場とかには疎くて……。一日五百なら、この間の仕事よりもずっと良いと思うんだけど」
「何馬鹿な事言ってんのさ母さん!」
 甲高い怒鳴り声は、それまで淡々とした喋り方しかしていなかったビュウのもの。
 彼は、解りやすい憤りの表情を作って、こちら、というか母親を振り返っていた。
「あのね、こういう本隊のための陽動任務なら、一日五百は安すぎ! 普通はその倍を出してもらわないと!
 大体この前の仕事は、母さんがろくに値段交渉もしないで返事しちゃうから、一日二百とかそんなあり得ない報酬になったんじゃないか! あれでどれだけ大変な目に遭ったと思ってるのさ! 経費抜いたらろくに手元に残らなかったじゃん!」
「こらビュウ、そんなに大声を出したら他の人に迷惑でしょう」
「そういう問題じゃないでしょ母さんー!」
 怒鳴り声と表情は確かに子供なのに、話の内容は何だかとっても子供らしくない。というか、子供にさせたくない。
 しかし同時にとっても頷ける内容で――確かに、ここまで明確に死地に追いやられる仕事なら、一千は欲しい――、複雑な気分をトリスは味わう。
 それは他の連中も同じだったらしい。微妙なげんなり顔をしていた彼らは、しかしふと表情を険しく変えた。
「――おい、どういう事だ?」
 ひげ面の傭兵が、低く押し殺した声をペアンに投げつける。
「このガキの言った事、本当かよ? あんた、俺たちを空賊と無駄に戦わせるつもりでいたってのか?」
「……どういう事か、説明してもらおうか」
「納得、させてもらいたいなぁ」
 これまでろくに喋ってこなかった他の傭兵まで、ペアンに噛みつかんばかりの勢いだ。
 大商人の優位は崩れた。彼は焦りと苛立ちの表情で傭兵たちを見回すと、表情そのままのイライラした声を上げる。
「こ、こんな子供の戯言を信用すると言うのかね!? この私の言う事よりも、こんな子供の言う事を!」
「だったら、納得行く説明をしやがれ!」
 怒鳴り返すひげ面。彼はソファから身を乗り出すと、その長く太い手を伸ばし、テーブルの向こうのペアンの胸倉を掴み上げた。ぐぇっ、呻くペアン。付き人がひげ面の手に取りつき、焦りと怒りの表情で、
「も、文句があるなら帰ればいい! 傭兵なんて掃いて捨てるほどいるんだ!」
 その言葉が、
「……何だと?」
 トリスの神経を、逆撫でした。
 睨みつける。ひっ、怯えて小さく悲鳴を上げる付き人。その小心ぶりをせせら笑う。
「掃いて捨てるほどいる、だぁ? ああ、そうかもしんねぇな。だがな」
 嘲笑を含んだ言葉を切り、右手を背中にやる。右の肩口から突き出した、大剣の柄へ。
 握る。オニール=ペアンと付き人の顔色が青くなった。
「だからって、使い捨てられる謂れはねぇぜ――!」
 抜剣。

 ――ギィンッ!

 トリスは、我が目を疑った。
 見えなかった。
 まるで見えなかったのだ。
 もちろんトリスとて、本当にペアンとその付き人を斬り捨てようとしたわけではない。そんな事をすればキャンベル中で指名手配され、最悪『草原の民』たちに狩り立てられる。
 寸止めにして、脅しにするつもりだった。
 だから、殺気なんてろくに込めていなかった。普通の傭兵ならば、それで反応が遅れるはずだった。

 それだというのに!

 トリスの、子供の身長ほどもある刀身の剛剣を、左手片方で構えた剣だけで受け止めたのはビュウの母親、女傭兵だった。
 見えなかった。
 まるで、見えなかった。
 彼女の抜剣の動きも。
 こちらの剣を受けられる位置にまで移動した、その動きも。
 ――まるで、察知できなかったのだ!
 愕然とする彼に、女は小首を傾げ、ニコリと微笑んだ。
「駄目よ、こんな所で剣を抜くなんて」
 悪戯した子供を注意する母親のような声音。
 余りに優しく、余りに穏やか。
 ほんの一瞬前まで応接室に満ちていた痛いほどの緊張感が、あっという間に霧散した。その中トリスは錯覚を覚える。とっくに死んだはずの実の母にたしなめられている、そんな錯覚だ。そして不意に胸に痛いほどの哀切が湧き起こり、腰砕けになりそうになる。
 呆然と、抜き身の剣の切っ先を床に下ろした。肩の力が抜けていくその様に、女は目を細めて頷く。そうそう、それで良いの、良い子ね――同い年くらいの女にそんな態度に出られて、普段だったら腹立たしいはずなのに、今は何やら気恥ずかしく、そしてまだ少し胸が痛い。
 驚いて、混乱して、気恥ずかしくて、懐かしくて、同時にそれらの感情がどこか遠い。それは彼女に見惚れているから。彼女の全てに意識が注がれているから。だからただ呆然と、その一挙手一投足を見つめ、一言一句に耳を傾ける。
 彼女は、トリスと向き合ったまま、チラリと肩越しにペアンを見やり、
「ペアン会頭、ご無事で?」
「あ、ああ……」
「それは何より。
 ところで、傭兵なんて掃いて捨てるほどいる、とおっしゃったけれど」
 ヒュンッ、と――
 振り向きざま、女は剣を握ったままの左手を振るった。風切り音だけが響く中、彼の目には、彼女の手が不意に消え、銀色のきらめきが走ったようにしか見えない。
「こういう事が出来る傭兵も、掃いて捨てるほどいるのかしら?」
 ――チン。
 それは、納剣の音。
 まるでその音を待っていたかのように、オニール=ペアンの、形の整えられたひげの片方が、綺麗に剃り落とされた。
 ギョッと表情を強張らせた傭兵たちを見て、ペアンは訝しげな顔をする。ハラリ、とひげが膝に落ち、それを見下ろし、スッキリした鼻の下を撫で、指の腹に血が一滴もついていないのを見て、
「な……!」
 それきり、絶句する。
 長剣でひげを剃り落とす――言うのは簡単だが、実現するのは不可能に近い。彼女の位置、すなわちペアンのほぼ真正面から振り向きざまに剣を振るって剃る、となると、角度的にひげに触れる部位は切っ先になる。
 剣の中で、一番鋭く、一番肌に触れる面積が少ない部位である。それでひげを剃る? 出来の悪い冗談だ。目測を少しでも謝れば鼻の下をザックリと斬り裂き、血が盛大に噴き出して大惨事になるのが目に見えている。
 まして、振り向きざま、という、目測を測るどころではない体勢からの一閃。
 それで。
 ペアンの鼻の下には、傷一つなく。
 よく切れる普通の剃刀で剃ったのと同じようによく剃れていて。
 ペアンは、見開いたままの目を、ゆっくりと彼女に向けた。
「――……貴女の、名は?」
 そう問うた表情からは、既に衝撃が薄れていた。
 驚愕はある。だがその驚愕は、むしろ――小さな市場でとてつもない掘り出し物を見つけ、そのお買い得ぶりに仰天する、歓喜に満ちた商人のそれだ。
 まっすぐに見つめてくるペアンに対し、彼女は――凄腕の剣士は、底冷えするような凄みを加えて優雅に微笑む。
 薄紅色の唇が、ゆっくりと動いた。

「イズー=アソル」

 微笑を含んでいながら、その声はまるで斬りつけるような鋭さを宿している。
 そんな声を叩きつけられながらも、ペアンの目に宿った強い光は決して消えない。
 それどころか、
「……いくらなら、雇われていただけるか?」
 逆に問うそれは、言い値で雇うという意思表示に他ならない。
 雇い主、しかもこんな大商人が下手に出る。この業界ではまず見られない光景。ベロスのツンフターならともかく、彼らのようなフリーランサーは、雇い主に好きなようにこき使われるのが定番である。
 女――イズー=アソルはニコリと笑みを深める。
「七百」
 しかし、そう言い放ったのはイズーではない。
「一日七百ピロー。それでなら、この仕事、受けるよ」
 ビュウである。
 賢しげに、淡々と、母親を差し置いて値段を突きつけるクソガキはニヤリと笑う。
「安くない? 俺の母さん、強いよ? こんな仕事、母さんだけで十分だし。母さん一人に一日七百ピロー払って、それで済むんだよ? お得だと思うんだけどなー」
 実に子供らしくない、狡猾な笑みを、さらにいやらしく深めて、
「どうする?」
 問う口調は、そこだけいっそ嫌味なほどに子供らしく――
 背後で付き人が顔を引きつらせているのを知ってか知らずか、大商人はクツクツと笑った。
「七百か……こちらが提示した金額よりは高く、しかし実力を見てしまった後では安く感じる値段……。中々絶妙な値段の設定をするね。いや、将来が実に楽しみだ」
 先程と同じ言葉を、けれど今度は紛れもない賞賛を込めて呟き、
「よろしい。一日七百ピローで、イズー殿、貴女の腕を買わせていただく」
 怯える事もおののく事もなく、まっすぐに彼女を見上げるペアン。その視線に対し、イズーは、
「承りましたわ、ペアン会頭」
 貴婦人のごとく優雅に腰を折る。
 それはまるで何かの芝居のようで、トリスは半ば呆然と見守るだけだったが、はたと気付いて胸に恐怖が巣食った。
(――……おい、おいおいおい、ちょっと待て、ちょっと待て)
 笑う大商人と笑う女傭兵。全ては円満解決、と言わんばかりに。だが、
(ちょっと待て――俺は、俺たちは、どうなる?)
 すっかり置いてけぼりを喰らった、イズーの実力には明らかに少し足りない、自分たち十把一絡げの傭兵は?
 傭兵稼業をしている連中の懐具合なんて大体同じ。皆財布はからっけつだ。

 この仕事が駄目になったら、どうなる?
 明日の朝飯を、どうやって食えばいい?

「――それでもちろん」
 戦慄に身を凍らせていた彼の耳に、不意に飛び込むのは何かを確認するイズーの声だった。
「他の方にも、七百ピローは払っていただけるんですのね?」
「え?」
「は?」
 ビュウとペアンの、不思議そうで怪訝そうな声が重なった。そんな二人の様子に、彼女もまた不思議そうな顔で、
「あらだって、私一人で空賊と戦うなんて無茶は出来ないわ。誰かと一緒でないと」
「冗談を、イズー殿! 貴女ほどの方がたかが空賊ごときに遅れを取るなど――」
「取りませんわ。でも」
 自信満々、という風情でもなく、ただ事実を事実として述べている、そんな事務的な口調でサラリと言ってのけて、イズーは嫣然と微笑んだ。

「どなたかに、背中を守っていただきたいんです」

 その瞬間、わけの解らない衝撃に襲われるトリス。
 まるで『サンダーゲイル』が脳天に直撃したかのようだった。痺れを伴った衝撃はトリスの頭から背骨を伝い、胸を衝き、身を震わせ、足を竦ませる。
 心臓が、止まるかと思った。
 それほどの衝撃だった。
 口の中がカラカラに渇いていた。喉もだ。唾を飲み込もうとして、飲み込めず、喉が変な風に痙攣して、乾いた粘膜同士がひっついて、嫌な感触が喉全体に広がって、空咳を何度かして――
 そこまで段階を踏んでようやく、トリスはその言葉を口にする事が出来た。
「六百」
 漏れ出た声は自分でも驚くほどに大きく、鋭く、ピシャリと打つようにはっきりしていて、弾かれたようにペアンが、そしてギョッとしたビュウが見上げてくる。
「それで高いと思うなら、元々の報酬でいい。それでいいから、――俺を雇ってくれ」
 軽く目を見開くペアンとその付き人、笑みを崩さないイズー。
 その両者に挟まれる形で、ソファの上のビュウはあからさまに嫌そうな顔をする。
 けれどそれを最早意に介さず、トリスはイズーの目をまっすぐに見据えた。
「あんたの背中を、守らせてほしい」

 刹那――
 トリスの脳裏をよぎったのは、ある懐かしい面影だった。毅然とした立ち姿。褐色の髪をひっつめ、堅苦しい軍服をまとった二十歳ほどの女。その表情は、背筋をまっすぐに伸ばした姿勢ほど凛としておらず、何かを諦めているような、泣きたいのか笑いたいのか判然としない淡い色を見せている――

 不意に襲いきた胸の疼痛と罪悪感に、チラと表情をかげらせるトリス。
 だが、ほころぶ花のような笑顔をイズーが見せたから、彼はそのかげりを懸命に押し隠す。罪悪感を押さえ込み、平静を装って、むしろニヤリと不敵に笑ってさえみせる。
 しかし、内心では葛藤が吹き荒れていて……――

 罪悪感と喚起の狭間にいたから、トリスは気付かなかった。
 見つめあう二人を見上げるビュウが、これまでで最大級の不機嫌面を見せていた事を。
 この時から、この二人の激しくも陰惨で、しかし内実を知ってしまえば割と微笑ましい闘争が始まった事を。

 

 

 

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