―9―
ビュウの熱は、中々下がらなかった。
風邪を引いたのである。
余り休息を取らない強行軍の旅を長期間続けていた事に加え、雨に長く打たれすぎたのだ。体が冷えた事と、大人数人に暴行を加えられて更に弱った事が、風邪の本格発症のきっかけになったらしい。
それでも、翌朝には目を覚まし、うわごとを言う事もなく、アルネの呼びかけに対し――弱々しくはあるが――応じる様子を見せた。
そのビュウは、ベッドにおとなしく寝ていて、真っ赤で無表情の顔を天井に所在なさげに向けている。半開きになった口から漏れる呼吸は弱々しく荒い。アルネは、絞った濡れ手ぬぐいで彼の額の汗を拭ってやると、ヒンヤリしたそれをそのまま額に乗せた。
彼の潤んだ目が億劫そうに横手の窓に向けられる。
西側に面した窓。そこから見えるのは、午前八時の晴れたシュルースブールの街並みだ。
夜明け間近にやっと雨は上がり、今、街はこの時季としては稀有な日差しで濡れた輝きを放っている。しかしまた午後には雨が降り出すのではないか、そう思えるほどに、朝の爽やかな青空を覆う鉛色の雲の比率は余りに高く、流れも速い。
「眩しい? カーテン、閉める?」
看病のために、とベッド脇に据えた椅子から立ち上がりかけ、
「……い、い……」
「……良いのね? 大丈夫ね?」
ビュウが、緩慢だが確かに一つ頷いたのを確認し、再び腰を落ち着ける。椅子に置いていた服を取り上げ、繕い物の続きを始める。
と、
「……アルネ、さん……」
顔を上げ、ベッドを見やる。喉が渇いたか、と手近に置いてある水差しを意識し、
「ど、して……」
「え?」
「どうして、俺の傍に、いるの……?」
だが、そう問うている彼の顔は、その答えをどことなく予想しているように見えた。
トリスとイズー、二人が雨に流されても尚消えない血臭を微かに漂わせて帰ってきて、一夜が経過した。
その二人は今、いない。
出かけている。
どこに行ったかと言えば、買い物。何でも、昨日ビュウが失くした分を新たに買ってくるのだとか。
血を流し、鉄臭さをその身にまとわせてくるような戦闘の翌朝に呑気なものだが――実は、アルネ自身が二人に出かけるようけしかけた。
理由は、あるようでなくて、ないようである。
「少し、貴方と話がしたくて」
二人を、まるでデートのごとく出かけさせたのがアルネだという事に、薄々気付いているのだろう。ビュウの、ボンヤリとしているのにどこかこちらを責めるような眼差しが、少し痛い。
「話……?」
「端的に言えば、善後策の協議、かしら?」
善後策、だなんて、六歳の子供にはいささか難しすぎる単語だ。しかし彼はとても頭が良く、そして聡い。一体何の事か、と考え込む様子を見せ――
一瞬後、真っ赤な顔を、解りやすく不快にしかめた。
続けて漏れたのは、潰された蛙のような、何とも文字にしづらい呻き声だった。
そこまで嫌か。思わず目を丸くして、それからはたと合点が行って妙に微笑ましくなる。
「……お母様が、大事なのね」
「当然」
本当に風邪を引いているのか、疑わしくなるほどに強くはっきりとした口調で、ビュウはそう言いきる。
「母さんは、俺の母さんだ。ずっと一緒で、これからもそうなんだ。母さんさえいれば、他の奴なんて、どうでも良い」
相変わらず子供らしくない。
だがその内容は、何だか狭くて、他を寄せつけなくて、他を必要としない風を装っていて。そこに閉じこもろうとしている風情が、ある意味子供らしい。
しかし、
「でも、もうそんな事言っていられないわよ」
水を差すように告げた声音は、自分でもハッとするほどに冷ややかで事務的だ。
力を取り戻し、胡乱げな色を眼差しに乗せるビュウ。ほとんど睨みに近いそれを、アルネは怖じる事なく受け止める。
「あの人が本気になった以上、もう時間の問題よ。そして貴方のお母様も、それを受け入れようとしている。
また妨害する? でも貴方の妨害はあの人を止める事は出来なかった。これからはもっと止められない。
なら、どうする?」
突きつけられた選択に――
ビュウは、答えない。
沈黙したまま、視線をゆっくりと天井に移した。
彼の表情が、再びボンヤリと曇っていくのを、少しのもどかしさと苛立たしさ、それ以上の共感を持って見つめ――こっそりと、溜め息を吐いた。
この結末を歓迎すべきか否か、アルネは未だに決めかねている。
あんな男を押しつけてしまう事に対しイズーに申し訳なく思う気持ちもあるし、母親を取られるビュウに対する同情もあるから、妨害する気持ちもよく解る。
その一方で、彼女は少し嬉しいのだ。
トリスは――トリスタン叔父は、やっと何かを吹っ切れた。
思えばこの六年、彼はずっと色んな事を悔やみ、気に病んでいた。
家族を崩壊させた事、
アルネから両親を奪った事、
兄たちに生活の糧を失わせた事、
妻を守れなかった事。
たくさんの事を悔やんで、全て自分のせいだと思い込もうとしていた。いや、実際そう思い込んでいた。アルネに対して積極的に踏み込んでこようとせず、具体的には父親と呼ぶ事を強制してこなかったのは、突き詰めればその表われだ。
確かに、アルネ――アルネイラ=ドークールの父は、死んだトリスタンの長兄リシャール=ドークールであり、母はその妻アンリエッタ=ドークールである。その事実は今も変わらないし、変えようがないし、誰にも変えさせない。
そして、ある面では、確かに二人はトリスタンのせいで死んだのだろう。
だからと言ってそれでアルネイラがトリスタンを恨むかと言えば、そんな事はなかった。幸か不幸か、彼女は聡かった。ビュウと同じくらいに聡かった。大人たちの動きをそれとなく冷静に観察し、何が起きているのか、推測を立てるくらいに聡すぎた。
トリスタンのせいかもしれない。
だが、トリスタンのせいではない。
――叔父様が悪いんじゃない。叔父様も、お父様も、良い事をなさろうとしただけだわ。
それが、六年前のその時にアルネイラが出した結論だった。両親が死に、祖父母が死に、二人の上の叔父たちがそれぞれ都落ちし、アルネイラ自身はトリスタンに連れられて旅に出る事になった時、彼女はそういった色んな辛さを、その結論だけを支えにして乗り切ろうとしていたのだ。
だからトリスタンが父の代わりになる、と宣言した時、嬉しくもあったし、安堵もした。
亡き父と共に良い事をしようとした叔父が、父になってくれる。
他の誰がそうするよりも、ずっと受け入れられる事だった。何故ならアルネイラは、叔父に亡き父の痕跡を見ていたからだ。
けれど旅立ちの前後は嬉しさや安堵の気持ちを表現するどころではなくて、ただ生まれ育った家や故郷の街から追い出される事が悲しくて、寂しくて、余りにも速く進行した事態が現実感を奪っていて、もしかしたらこれは夢でふとした拍子に目が覚めてそこは屋敷の中の自分のベッドの上で、悲しくて混乱してメソメソ泣けば夢の中で死んでしまった母がやってきて、どうしたのアルネイラ怖い夢でも見たの、と優しく撫でてくれて――なんて事をつれづれと考えて。
その時、泣きもせず無表情でボンヤリ物思いにふける自分を、トリスタンがどんな風に捉えていたか、簡単に想像できるというものだ。
きっとそれこそが、彼にその態度を頑なに貫かせたのだ。
名目上の父であるという、態度を。
自虐的ですらある罪悪感は、女性関係にも発露した。何人か、これはという女性と巡り合っても、トリスタンがただ遊びで済ませたのは、死んだマリア叔母に操を立てたからだ。
自虐的で、生真面目すぎて、不器用で、誠実で。
でもこれは、誰も幸せになれない誠実さだ。
皆が不幸になる誠実さだ。
生きている者――彼自身はもちろんの事、アルネイラやイズー、そしてもしかしたらビュウでさえ――だけでなく、死んだ者まで蔑ろにしてしまうような誠実さだ。
その、間違った誠実さを、彼はやっと捨てた。
やっと、トリスタンは――トリスは、新しい一歩を踏み出せたのだ。
けれど、これから面倒事が山積みだろう。
まずはこの子だ。母親にたかる男が許せない、その点は余りに普通の男の子なのに、そこから先のやり方が大人も舌を巻くとんでもない子供。
そのとんでもない子供は、天井を見つめたままポツリと呟いた。
「……アルネさん、さ」
「うん」
「どうして、あいつの事、『お父さん』とかって、呼ばないの?」
「……あの人が、呼ばれたがらなかったからよ」
トリスが養父になり安堵したアルネであるが、彼の態度はとても納得の行くものではなかった。
養父でありながら、父親と呼ばせようとしない。いつもの癖でつい「叔父様」と呼んでも、それを訂正しようとしない。人前でさえ、だ。他人に父子と名乗り、それで怪訝そうな顔をされても、平然としていた。
アルネにはそれが、遠回しの拒絶に見えた。
長兄に対する遠慮というか、義理立てというか、「どの面下げて」という感情が多分にあったのだろう。自分は父と呼ばれるに値しない、と。
だがそれなら、トリスを半ば父として受け入れていたアルネの感情はどうなる?
トリスが養父となってくれる事に救いさえ見出していたアルネの心はどうなる?
心にポッカリと浮かんだ疑問はいつしか鬱屈した不満となり、トリスへの反発に代わり、彼女はいつの間にか父と呼ぶ事はおろか、叔父とさえ呼ばなくなった。
だが、
『いい加減「お父さん」って呼べ』
ああ、呼んで良いんだ。
やっと胸にストンと収まった、そんなしっくり来る感覚を味わったわけだが――
実際問題として、こちらは六年間ろくすっぽ父とも叔父とも呼んでいなかったのである。呼ばずに会話を成立させる方法が確立し、それで困る事なくやってこられたのだ。
お父さん。お父さん。自然に呼ぶ事が出来るだろうか? トリスの事をそう呼ぶ自分を繰り返し想像し、それが妙に恥ずかしくて、今朝になってもまだそう呼んでいない。
と、不意にビュウがポツリと虚ろに呟いた。
「……俺」
不意に改まった口調に、アルネもまた意識を養父への思いから眼前の子供へと戻す。声の調子と同じく虚ろでありながら、ただ虚ろなだけではないその赤い顔を見下ろし、アルネはただ、
「うん」
頷く。
「父親、とかって、解らないんだ」
途方に暮れた声音だった。
こちらがどうして良いか判らなくなるくらい、途方に暮れた声音だった。
だからアルネは、ただ頷く。
「うん」
「俺の、父さん、生まれた時には、もういなかったし。母さんも、あんまり、話してくれないし」
「うん」
「だから、解らないんだ。父親がいる生活とか、何かそういう、色んな事」
「うん」
「でも、母さんはそうじゃなくて、新しい人を見つけて、その人を好きになってて」
「うん」
「……母さんが泣くのは、見たくない」
と、表情を少し歪ませるビュウ。
眉尻を下げ、口を「へ」の字に曲げた、それは道に迷ってどうして良いか分からない子供が今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔だった。
「俺……どうすれば、良いのかな」
彼は今、まさに道に迷っていた。
イズーを思い、しかしトリスを受け入れられない自分の心を無視しきれず、どちらに従って良いか判らなくなっている。
子供は、いつでも親に振り回される。
親と、自分の心に振り回されてきた先達たるアルネは、その経験と不意の閃きから得た提案を、淡い苦笑と共に告げた。
「何もしなくて良いんじゃない?」
弟になるかもしれない子供は、目をまん丸にした。
§
魔法医からビュウに出立の許可が下りたのは、寝込んでから五日後の事だった。
その頃にはビュウの熱も下がり、怪我も大分良くなっていた。経過は順調、これなら旅に出ても大丈夫――ただし、と魔法医は怖い顔をしてイズーに命じた。
「母親だったら、子供に二度と無茶をさせるんじゃない。これからも旅を続けるなら、ちゃんと休息を取らせな」
今回の事は彼女にとって大いなる教訓となったらしい。イズーは神妙な顔で何度も頷き、ありがとうございました、お世話になりました、と何度も頭を下げた。
すると魔法医は、隣に付き添うトリスを見やって、やはり怖い顔をして、
「あんたも、父親で亭主ならちゃんと子供の面倒を見て、女房の手綱を取るんだよ」
父親。
亭主。
いやちょっと待てそれは違うんですよまだ、いえいずれはそうなれれば良いなぁなんて思ってるけど――とか何とか言おうとするより早く、治療代を受け取った魔法医はさっさと宿から出ていった。
顔を上げ、それを見送るイズーの顔が少し赤いのは……多少、自惚れても良いのだろうか?
「さあ、出る準備をしましょうか」
けれどそんな甘い気分もイズーのいつもの鉄壁のごとき母の笑みで覆され、ちょっとしょんぼりした気分でトリスは部屋に戻る。
武装も兼ねたいつもの旅装になり、自分の荷物を抱え、部屋を出た。
そこにビュウがいた。
新調した青いマントと、いつもの旅装。右側だけ短くなった前髪を誤魔化すためか、あるいは額の痣を隠すためか、巻きつけた青のバンダナはどうやらイズーがリボンにしていた物を借りているらしい。
そんな出で立ちの子供は、部屋の扉から少し離れた壁際に背をもたせかけ、今日は珍しく非常に子供らしい表情をしていた。
不満そうな膨れっ面だ。
数日前の自分ならいざ知らず、あんな事があった今では何だか可愛く思えてくるから人生分からない。部屋の戸を閉め、ニヤリと笑ってトリスは声をかける。
「何だクソガキ、何か――」
俺に用でもあるのか。
そう続けようとしたのに、続かなかった。
何故か。
「――ぐふっ!」
イズーを彷彿とさせる電光石火の素早さで間合いを詰めたビュウの貫手が、トリスの硬革鎧の隙間を突き、腹筋をえぐったからである。
「っていってええええええっ! 何この硬さ!? これほんとに人体!? ってかあんた人間!?」
いくら息を吐いているところを狙ったとは言え、ろくに鍛えてもいない子供の手で、鍛え上げた成人男子の腹筋を突いたのだ。最悪、指の骨が折れていてもおかしくない――左手を押さえてピョンピョン飛び跳ね痛がっているビュウを、トリスは身を屈め、突かれた腹を押さえたまま見つめた。多少の憐れみと、多分のザマ見ろという気持ちを込めて。
「こんの、クソガキ、が……。てめ、いきなり、何しやがる……!」
確かに鍛えられていない指だが、それでも油断しきっていたところをやられたのだ。痛い上に呼吸もままならず、言葉が途切れがちになる。
その鍛えていない指をブンブンと振り、無駄に息を吹きかけて、ビュウはあの不機嫌な膨れっ面を見せた。
「別に」
「……は?」
「アルネさんが、何もしなくて良い、って言ったから」
「はぁ?」
アルネが?
何もしなくて良い?
……何だそりゃ?
「だから、俺は何もしない。するのはあんた」
まるで意味の解らない言葉を放ち、間を置くビュウは、頭の中で疑問符にワルツを踊らせるこちらに向けてニヤリと笑ってみせる。
挑発するような。
妙に勝ち誇るような。
トリスが今まで見てきた中で、一番この歳の男の子らしい不敵な笑みだった。
「俺は、母さんみたいに甘くないよ」
そう、挑戦状めいた言葉をこちらの鼻面に叩きつけ、ビュウは踵を返して階下に去っていく。
「……何だ、そりゃ」
首を傾げて呻いたその時、ガチャリ、と後ろで扉が開く。
「何、今の騒ぎ?」
旅支度を終えたアルネだ。うっかりすれば趣味が悪く見える臙脂のマントを今日も優雅に着こなして、荷物を片手にトリスを不思議そうに見上げてくる。
「いや、あのクソガキが……」
階段を指差して言いかけ、気付く。
そちらに目をやったアルネが、楽しそうに笑った事に。
「ふぅん」
満足げに囁き、
「そう……早速始めたのね、ビュウ君」
「ってお前、あのクソガキに何を吹き込み――」
「はいはい、そんな話はどうでも良いから、天気の良い内にさっさと出発しましょ、父さん」
「おいこらアルネ、話はまだ――」
脇を通り過ぎて階段を降りていく娘の背中に、声を投げかけ――
……「父さん」?
「ってアルネ!? お前急にどうし――」
「先行っちゃうわよー」
「人の話を聞けー!」
怒鳴りながら、階段を降りる。
宿代の清算は、既にイズーが終えたらしかった。戸口の所で女将が客を見送り、主が受け取った代金を帳場に持っていこうとしている。
そして、開け放たれた扉の向こう、燦々と降り注ぐ初夏の日差しの下を歩く――大小三つの影。
立ち止まる。
振り向く。
楽しげに。
不満そうに。
ニッコリと、花のように愛らしく微笑んで。
ああもう。
呻いてトリスは駆け出す。
長逗留した宿と、図らずも大暴れしたシュルースブールの街と、この時季には珍しい青空を見せる故郷マハールから旅立つべく。
彼が駆け寄り、待っていた三人と共に市門へと向けて歩き出すその姿は、紛れもない家族のそれだった。
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