―8―
奏でられる楽。
振る舞われる料理の匂い。
そしてそこかしこで響く歓声や嬌声。
いささか退廃的な雰囲気に傾きつつある宴会のど真ん中を、マテライトはまっしぐらに突っ切っていた。時折、踊り子のような格好をした半裸の女たち――国王のハーレムから解放された女たちの中から残った者で、新たな男を見つけようと躍起になっている――に声を掛けられるが、そんなものには目もくれない。別に戦闘でもないのに着込んだままの金メッキ鎧をガチャつかせ、向かうは大広間の端も端。
酒盃を傾けるでもなく、料理に舌鼓を打つでもなく。目当ての人物は、冷めた目つきでどんちゃん騒ぎを眺めていた。呆れるように、嘲るように。
マテライトが鎧を着たままなら、彼は武装はしていないまでも、戦闘服のままだった。要所要所に金属が縫い込まれているという黒の上下は、何となれば人畜無害な喪服に見えなくもないその見た目とは裏腹に、斬り合いの時にも匹敵する剣呑さを彼に与えている。
黒光りする、抜き身の刃。そんな鋭利さと危うさを感じながら、マテライトは彼に声を掛けた。
「こんな所におって良いのか?」
カイツ=ベクタは視線をこちらに寄越した。すると、先程まで冷めていたはずのその目に親しみの温もりが宿る。浮かべた笑みが相変わらず皮肉げなのはご愛嬌、といったところか。彼は会釈を寄越すと、
「これはどうも、マテライト卿。あんたこそ、隊の若いのの手綱を取ってなくて良いのか?」
と、広間の中央付近を指差す。カイツの隣に立ったマテライトはつられてそちらを見、表情を苦くした。
そこにいるのは、ヘビーアーマー隊のバルクレイ。
言い寄ってくる女の肢体に、あたふたしている。
「……今日くらい、大目に見る」
「そういう顔じゃねぇぜ、マテライト卿」
「そういうお主はどうなのだ」
バツ悪げに話を逸らす。
「ラス・リオネル=ハルファーを討ち漏らしたというのに、随分平気な顔をしておるな」
「あんたこそ、忠犬を逃がしたってのに悔しそうじゃねぇな」
「ふん。ビュウめのミスに比べれば大した事はない」
「同感だ」
二人は、皮肉げに笑い合う。
ハルマトワ砂漠で行なわれた会戦から、既に五日。
その間にダフィラ解放連合はグランベロス軍を小突き回してダフィラから追い出し、ダフィラ王国を転覆させるという革命を成功させた。
グランベロス撃退の余勢を勝手の殴り込みは、ダラけていた国王とその取り巻きを叩き出した。が、リベロ=アブウェル率いるダフィラ革命軍の詰めが甘く、国王と王族の一部は逃亡したまま、行方が知れない。
それでも革命は成ったのだ、と祝賀の宴会を始めてしまう辺り、随分いい加減だ。
マテライトやカイツが宴会を冷めた目で眺めてしまうのは、宴会の狂騒がどうにも茶番じみて見えるからだった。そして、冷めた目で見るどころか最初から参加していない者もいる。
ビュウは、この場にはいない。
それで、と。
カイツが不意に表情を改めた。
「何か、話があってきたんじゃねぇのか?」
読まれていたか――
だが、それなら話は早い。マテライトはやはり表情を改め、頷くと、
「聞きたい事があってな」
「何なりと」
別にカイツはマテライトの部下ではない。一時行動を共にした仲。それだけだ。だからマテライトの問いに答える義務はない。
しかし、一つの戦場を共に生き抜いた戦友としての義理を、果たそうとしてくれている。
それがありがたくて、マテライトは言葉を選び――投げかける。
「ハイフェーツとは、何者なのだ?」
放たれたその名に、カイツはしばし目を見開き、それからクツクツと笑い出した。
「……そりゃまた、随分と唐突な質問だな」
「ごまかすな。このハイフェーツなる人間が、ビュウにあのような資産を提供したのではないか?」
油田だとか、鉱脈だとか、株券だとか。
それらは、カーナの一士官の手に届くようなものではない。そして、一介の傭兵ごときが手に出来るようなものでもない。
ならばビュウは、どこでそんなものを手に入れたのか?
『唯一ハイフェーツの爺様に認められた奴だからな』
作戦前、カイツはそう語った。それを元にした推論――というかこじつけである。
「……気になるか?」
「奴の資産が反乱軍の実質的な活動資金であるならば、尚更な」
カーナの敗戦からこれまで、逃亡資金、生活費、軍資金、全てがビュウの懐から出されている。後で国債扱いにしてもらう、そんな風にビュウは言っているが――その総額は、億を軽く越えているはずだ。
その莫大な資金で行われる事のいくつかは、反乱軍のような、地盤も不確かな組織には不可能な所業。それを可能にしてしまうビュウの資産にマテライトは不安を覚える。不明瞭さと、いつか自分たちがそれを当てにし、踊らされてしまうのではないか、という懸念と。
それを防ぐためにも、どんな小さな情報でもいいから、欲しかった。
「――正解だぜ、マテライト卿」
「何?」
カイツを見やる。彼は薄く笑っていた。
「アソルの坊主の金の提供元。あんたの推測で正解だ」
そこで言葉を切り、肩を竦める彼。もっとも、と続けた時には、その表情から笑みは消え去っていた。鋭さもなく、どこか茫洋とした――人が過去に思いを馳せる時に浮かべる無表情になる。
「けど、俺も詳しい事は知らねぇぜ。ハイフェーツの爺様とは仕事でしか顔を合わさなかったし、それも二、三回しかなかった。うちの頭領が爺様と仲が良かったから、色々と又聞きしてるけど、せいぜいそれくらいしか話せる事はねぇ」
「それで、構わん」
だから、と促すマテライトに、カイツは一つ小さく吐息した。
その唇が、動き、言葉を紡ぐ。
ありゃあ、稀代の変わり者だ。
「アソルの坊主は、昔から図抜けて知恵が回る奴でな。狡い小細工から大掛かりな作戦まで、よくまぁ色々思いつくもんだと俺たちは思ってた。それに目をつけ、面白がったのが」
「ハイフェーツ、か?」
頷くカイツ。
「エオシュア=ハイフェーツ。マハールの資産家で、オレルス経済の黒幕だとか怪物だとか呼ばれてた爺様さ。その爺様が、ちょっとした用事でアソルさんちを雇ったんだ。どうも坊主に色々吹き込んだのはその時らしい。
で、七年前にこの爺様がくたばった。その直前に、遺産相続人としてアソルの坊主を指名しやがって、ご懸念の金の出所は、ここだ」
むぅ、とマテライトは唸る。
新たな疑問が一つ生まれた。
「……何故、ハイフェーツはビュウを相続に指名した? そして、ビュウは何故遺産を相続した?」
問いに、カイツは不意に視線を逸らす。
それから、口の端を皮肉げに歪ませて、
「――さぁな。そこまでは俺も知らねぇよ」
嘘だ。
マテライトはそう直感した。
カイツは知っている。ハイフェーツがビュウに遺産を残したその理由を。ビュウがそれを相続した理由を。
しかしカイツはそれを話さない。嘘を吐いて、知らない事を装っている。
「――そうか」
嘘を吐くな、と追究する事も出来た。しかしマテライトが引き下がったのは、相手から答えを引き出すだけの材料がなかったからだった。材料というのは、例えば先程みたいな推測であったり、あるいは恫喝であったりする。
けれどそれがあったとしても、引き出せる自信はなかった。飄々として、皮肉げで、どこか信用ならない雰囲気を漂わせておきながら、芯として持つ意志はそれこそ一振りの剣だ。刃のように鋭く、鋼のように強固。一度言わないと決めたなら、彼は決して口を割らないだろう。
「聞きたい事はそれだけで、マテライト卿?」
「……うむ」
だから、マテライトはこれ以上の追求を諦めた。頷けば、カイツは苦笑にも似た薄い笑みを見せる。
「じゃあ、俺はこれで。失礼」
短い言葉と共に離れていくカイツ。このまま宴席を抜ける気か、その足は広間の出口に向かっている。
その背中を見送り、視界から消え去るのを見届けて――マテライトは、一つ、溜め息を吐く。
カイツは、何かを隠している。
ビュウと、その資産には、何か秘密がある。
(ビュウよ……お前の背後には、何があるのだ?)
これまで反乱軍を助けてきた、ビュウの資産。
ここに来て、それが暗がりに蠢く影のような得体の知れなさを伴いだした。
§
今――
ビュウの手元に、いくつかの封書がある。
そのどれもが、ビュウの戦略を支持する個人・組織からのものだった。今回の会戦の結果を受けての、まぁ要するにお小言である。
それらを総合し、要約すれば、こうだ。
サウザーをとっ捕まえられなかった、って、何やってんのさ。これ以上戦争を続けられても困るんですけど。
戦争なんてものは、長期間続けても良い事は何もない。戦場となった土地は荒廃する、人材は失われる、治安は乱れる、人の心に大きな傷を残す。戦争特需だとか復興の経済効果だとか、そんなものでは取り返しのつかないほどの痛手。
だからこそ、なるべく始めないようにし、始めてしまったなら多少手際が悪くてもさっさと終わらせる。兵は拙速を尊ぶ――ビュウがハイフェーツ翁から一番初めに習った、戦術の基礎だ。
サウザー拘束が成功していれば、実質、戦争はそこで終わった。
ビュウは、作戦に失敗したのだ。
「その割には、余り落ち込んでなさそうね?」
ヨヨはそう笑った。会戦終了から五日目にしてのようやくの報告は凶報とさえ言えたのに、彼女は何でもなさそうに笑っている。
「落ち込んで時間が戻るなら、いくらでも落ち込むさ」
ヨヨの枕元で、ビュウもまた笑う。
戦略ミスも作戦ミスも敗北も戦争の常。大切なのは、その後にどう行動するか――これもまたハイフェーツから教え込まれた心構えだった。
だと言うのに、ビュウは、あの直後に失敗を取り返そうとはしなかった。それが、その事だけが、ビュウの笑みから力を失わせる。
どうして、あのすぐ後にサウザーを追わなかったんだろう。
フレデリカがいたから? いや違う。あの時、俺は。
「――……なぁ、ヨヨ」
「何?」
「あのさ――」
――分からなくなってきたんだ。
――死にたいのか、死にたくないのか。
――お前と一緒に死のうと思った。死んでも良かった。そう思っていた。そのはずだったんだ。
――でも、今は自分がどうしたいのか、全然分からないんだ。
――いや、もしかしたら、初めからどうしたら良いのか、なんて分かっていなかったのかもしれない。
――だから、反乱軍なんて作って、グランベロスに喧嘩を吹っ掛けている。
浮かんだたくさんの言葉を、ビュウは飲み込んだ。
これは、ヨヨにぶつける言葉じゃない。
「……悪い、何でもない」
「そう……」
と、ヨヨは思案げに視線を天井辺りに彷徨わせる。
そうして、しばらくの静寂。
「――そういえば、フレデリカはどうしているのかしら」
「フレデリカ?」
ヨヨには全てを報告している。つむじ風にさらわれた時、フレデリカに助けられた事も。あの時以来少し熱を出してしまった事も。
「ダフィラ王宮で休んでる……けど」
「お見舞いとか、したの?」
「いや……」
戦闘後の処理だとか、革命だとか。目の回るような忙しさの中で、彼女の事はすっかり忘れていた。
「助けてもらった事、お礼言った?」
「……いや」
そういえば、あれから顔を合わせていない。
そんなビュウの思いを察したか、ヨヨは笑う。
ウフフと、とても楽しそうに、嬉しそうに――空恐ろしげに。
「ちゃんと言いなさい、ビュウ。これは命令よ」
そんな昼間のやり取りを思い出し、何やら不穏な予感を抱く。
ヨヨがああいう風に笑う時、大抵何か企んでいたりするのだ。ビュウはその企みにいつも振り回され、痛い目に遭ってきた。だからどうしても身構えてしまう。
で、フレデリカが休んでいる部屋の前で立ち竦んでいたりするのだが。
「うー……」
ありがちな木の扉。革命軍に攻め込まれた騒乱は迎賓棟にまでは届かず、荒らされた形跡は一つもない。
「うー……」
遠く響いてくる楽の音。聞こえる歓声が、大広間の宴会がまだ続いている事を教えてくれる。
「うー……」
でもまぁ、別段フレデリカに会う事そのものに身構える必要はない――
(って思う事までヨヨの手の内だったらどうしよう……)
けれど、それこそ考えても仕方がない。ビュウは観念し、ようやく扉をノックした。
コン、コン。
「――はい、どうぞ」
部屋の中から聞こえるささやかな声。ビュウは扉を開けた。
広々とした部屋。テーブルやソファなど、整った調度の奥に天蓋つきのベッドがあり、その上で、フレデリカは寝巻き姿で起き上がっていた。肩にショールを掛けていて、読書中だったらしい、手元に開かれたままの本がある。
彼女はこちらを見、きょとんとした表情で目を丸くすると、
「ビュウ? ――あ、やだっ、そうならそうって言ってくれなきゃ……!」
サッと顔色を変える。致命的なミスをしてしまった、とばかりに悔いて焦るその表情は異様に切羽詰まっていて、
「あー……うん、いや、ごめん」
ビュウは生返事しか返せない。が、フレデリカはパタパタと忙しなく髪やショールや寝巻きの襟元を直しだし、こちらの声など届いてもいない。
身づくろいが、ひとしきり終わったのを見計らって、
「で、もういいかな?」
「あ、はい、どうぞお構いなくっ」
「『お構いなく』って俺の台詞だと思うけど……」
苦笑と共に、ビュウは壁際の椅子を手繰り寄せた。フレデリカの傍に座る。
それから、何となくの沈黙。ビュウは何と切り出して良いかと言葉を探し、フレデリカは顔を僅かに赤く染めてこちらを窺ったり手元の本に目を落としたり。ダフィラの夜は寒いからまた熱でも出したんじゃ、と見当違いの事を考える。
(……見当違い?)
一体何が。しかしビュウはそれ以上考えなかった。思考を、止める。代わりに想起する元々の用事。
「――えーと、その……五日前は、ありがとう。その、助けてくれて」
言ってから、その言葉の間抜けさを思い知る。五日前はありがとう、って。もっと早くに言いに来る機会はいくらでもあったのに、一体何をしていたのだか。
けれどフレデリカは、そんな間抜けな言葉に顔を更に紅潮させる。
「え、やっ、そんな、お礼なんて……私の方こそ、ビュウに助けてもらっちゃって」
赤く染まった顔に、はにかんだ笑みが浮かんだ。
「ありがとう、ビュウ」
その笑みが、少し首を傾げた仕草が、何だかとても可愛くて。
あぁ、俺は――――
(――駄目だ)
無意識の自制。
(それ以上、考えるな)
思考を、止める。
「でも、急にどうしたの?」
「――……え?」
フレデリカの声に我に返る。気付けば、彼女はまたこちらに視線を向けていた。
「だって、ここのところずっと忙しそうだったじゃない。今日だって、大広間の方で宴会をやってるみたいだし……そっちにいなくて、いいの?」
「いや、それは――」
――別にあっちは俺がいなくても構わないし。
そう笑ってしまえば良かったのに、しかし、口から突いて出た言葉は、
「――……ヨヨに、言われてさ」
次の瞬間。
フレデリカの表情が、凍りついた。
「君にちゃんと礼を言っておけ、って。今日言われるまですっかり忘れてたんだから、馬鹿な話だよな」
笑う。
自分でもそれと判るほどに、乾いた笑いを。
けれどそれも長くは続かない。愕然と目を見開き、凍りついてしまった表情のまま、フレデリカはうつむいてしまっていた。重苦しいほどの沈黙。それに堪えかねて、ビュウの笑いは途切れがちになり――収まる。
しばらくして、
「――……そう、なの」
ポツリと、フレデリカが呟いた。
「ヨヨ様が――」
彼女の手が、震えている。ビュウはそれを見た。だが見ない振りをした。見てはいけない。そう自分に言い聞かせる。何でそんな風に言い聞かせているのかも解らないまま。
ほんの少し前までの和やかな雰囲気は、どこかへ消え去った。いや違う。ぶち壊したのは彼自身だ。わざとそうしたのだ。そうしないで済ませられたはずなのに。
どうして?
(それは――)
「……貴方にとっての一番は、やっぱりヨヨ様なのね……」
思考が途切れる。ビュウは再びフレデリカを見た。直後、彼女は顔を上げた。まっすぐに視線を寄越してくる。
僅かに濡れた瞳は、しかし強い光を宿していた。その光がビュウを射る。強く引き結んだ口元と、その苛烈なまでの眼差しに、彼はしばし息を飲む。
美しい、と。ポッカリと浮かんだそんな思いが、スルリと心に入り込み、そして奥底でどっしりと居座って動かなくなった。
声もなくその顔を見つめていたビュウに、フレデリカは、少し無理して笑った。
「ねぇ、ビュウ? 貴方は……私たちが初めて会った日の事、覚えているかしら?」
「俺たちが……初めて会った日?」
ビュウは記憶をさらう。ビュウが、初めてフレデリカに会った日――
「……確か、俺が十五の時で……怪我したラッシュを医務局に連れてった……」
六年前の、春の日。
その年の新入隊員だったラッシュが、よりにもよってビュウが監督している傍で怪我をした。
入隊以前からの仲だったビュウとラッシュである。こんな時に怪我する奴がいるか、うるせぇなもっといたわれよ、ギャアギャア喚きながらカーナ王宮の廊下を歩き、戦竜隊の練兵場から離れた医務局へ。そこで消毒にやってきた若いプリーストが、ビュウの顔を見た途端、何故か手に持っていた物全てを取り落とし、消毒液がラッシュの傷口に盛大にぶちまけられてラッシュは絶叫を上げて――
そのプリーストが、フレデリカだった。
「違うわ」
けれどフレデリカはかぶりを振る。違う、と。違う?
きょとんとするビュウに、彼女は微笑んだ。寂しそうに、悲しそうに。
「違うわ、ビュウ――私たちが最初に会ったのは、その日じゃないのよ」
やっぱり覚えてなかったのね、と。
溜め息のような囁きに、ビュウの混乱は増す。あの日じゃない。では、一体いつだ。
今にも泣き出しそうに微笑みながら、フレデリカは、答えを告げた。
「私たちが初めて会ったのは、その半年くらい前」
六年前の春の日の、半年前。
「七年前の、ちょうど今頃ね。こんな風に肌寒い、真夜中だったわ」
十四歳の、秋の、夜。
「貴方は、額に酷い怪我をして医務局に運び込まれてきたわ。運んできたのは副隊長さん。治療を担当した先生に、副隊長さんは口外しないでくれと必死に頼み込んでいたわ。私にも。私はただ、血だらけになった貴方の顔に驚いて、真っ青になっていただけで……」
ビュウは、愕然とその言葉を聞く。
フレデリカが語る日、それは――
(あの日だ……!)
「貴方の意識は朦朧(もうろう)としていて……そうね、だからやっぱり覚えているはずはないわね。でもね、それから私、ずっと貴方の事が気になっていたの。だって、真夜中にあんな酷い怪我をして運ばれてきたのよ? 一体何があったのか、気になるじゃない。
でも、貴方は戦竜隊で私は宮廷魔道士団――怪我の時でもないと接点なんてないし、貴方はほとんど怪我をしなかった。貴方が医務局に来たのはそれから半年後、それも他人の怪我だった。
どうしてあんな怪我をしたのか、怪我はもう良くなったのか、そんな事ばかり考えていて、半年も経ってて。貴方が平気な顔をして医務局にいた時、私は凄く驚いて……ラッシュには、悪い事をしちゃったわね」
クスリ、と笑みを深くするフレデリカ。けれどその目尻からは今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
ただ見つめるばかりのビュウに、彼女はねぇ、と言った。
「ねぇ、ビュウ、私ね……その頃からずっと、貴方の事が」
好きだったのよ。
ポロリ、
涙が、こぼれ落ちる。
けれどビュウは。
――好きだったのよ。
その甘い囁きが、耳にこだまして離れず、そして、だからこそ戦慄を深めていく。
戦慄――
そう。
ビュウはこの時、確かに戦慄していたのだ。
「……駄目だ――」
震え、慄きながら。
ビュウは、フレデリカから目を逸らし――囁く。
「駄目だ……俺は、俺は――」
「――うん、解ってる。だって、貴方にはヨヨ様がいるんだもの」
――違う。
反射的にそう言い掛けて、彼はハッと口を噤む。その様子にフレデリカは柔らかく微笑んだ。
「いいの。言いたかっただけだから。今のは忘れて。でも――」
その笑みが、崩れる。
クシャリと顔が歪んだ。フレデリカの両目から涙がこぼれ落ちる。止め処なく流れ落ちる涙は掛け布団にしみを作り、しかし彼女はそれを拭おうとしなかった。
「でも……私の事、何とも思っていないなら」
もう、優しくしないで。
期待するから。
ごめん、と。
小さく囁いて、ビュウはフレデリカの傍から離れた。
そして、ただひたすらに歩き出す。行き先なんて考えていない。何も考えずに足を動かす。ただ、先へ、先へ。彼女から離れて、離れて、離れて。そればかりを考えて歩き続ける。
そうして行き着いたのは、ダフィラ王宮の奥まった所にある庭園、その水場の側だった。地下から汲み上げた水を水盤に溜め、縁から流して水路で庭園全体に行き渡らせる。その水盤に歩み寄り、ビュウは水面を覗き込んだ。
夜の闇を宿した水面はビュウの顔を映しだす。水の噴き出し口が作る波紋がその像を歪ませるが、それでも、自分の顔色は判別できた。
真っ青だった。
その事がおかしくて、ビュウは笑い――水鏡には表情を強張らせたようにしか映らなかった――、不意に、いつも額に巻いている青のバンダナをむしり取る。
その下から現われたのは、皮膚を深く抉(えぐ)る、幾条もの醜い傷跡だった。
七年前の、傷。
ビュウはこれを、自分で付けた。
――あぁ。
嘆息が漏れていく。
この水面のように心はグチャグチャで、考えは一つとしてまとまらない。まとまりかけてはスルリとほどけ、千々に乱れて掻き消える。それの繰り返しだ。苦笑しか浮かばない。だというのに、水面の向こうの自分の顔は、今にも泣き出してしまいそうだ。
(――俺は)
止まっていた思考が、不意に動き出す。
見当違い。無意識の自制。彼女の震えを見ないようにして、自分から何もかもぶち壊しにした。
どうして? そんなの決まっている。今気付いた。いや、ずっと前から気付いていたのだ。気付かないようにしていただけで。気付いてしまえば、取り返しがつかなくなる気がしていたから。だがもう駄目だ。取り返しは、つかない。気付いてしまったから。
フレデリカに、好かれていた事に。
フレデリカに、恋していた事に。
(――俺は)
だが、駄目だ。駄目なのだ。ヨヨがいるからとか、そんな次元の話ではない。
この傷が追ってくる。
この傷の下にあったものが、追ってくる。
己の罪から目を逸らすな、と。己という存在の罪深さを忘れるな、と。どこまでもどこまでも追ってきて、ビュウを責め立てる。
だからビュウはそれを抉った。逃れようとして、十四歳のあの日に抉りだした。兵舎の部屋で血塗れになっていたのを見つけ、医務局に運び込んでくれたのはナルスだった。治さないでくれ。傷を消さないでくれ。意識を朦朧とさせながらも懇願したビュウの言葉を聞き、医師に頼み込んでくれたのもあの義兄だ。そうしないと、君はまた自分を傷付けそうだったから。後でナルスはそう語った。
だから傷は今も残っている。額の中央右寄り、かつて痣があったところに。
(――俺は)
ビュウは傷跡に痣の幻視を見る。ないはずの痣がせせら笑う。逃れられるものか、と。
そう。逃れられないのだ。逃れられない以上――フレデリカに寄り添う事は、出来ない。してはいけない。
そんな事を望むのも不遜なほどに、ビュウは、罪深い。
(――俺は……!)
水盤を拳で叩き、水面の自分の像を乱し。ビュウは崩れるようにその場に膝を突く。
「俺は、どうしたいのだろう」? そんな自問すら、この身には分不相応だった。それを今更思い知らされる。
死にたいのか、死にたくないのか?
そんな選択の余地など、ない。
死ななければいけないのだ。
十四歳の時、ビュウは家族に救われた。
今は、誰もいない。
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