―7―
愕然とした表情でこちらを見上げるサウザーと――
不敵な表情で彼を見下ろすビュウと――
視線の交錯は僅か一瞬。
そこから先の行動は、両者とも迅速そのものだった。ビュウはゴーグルとマスクを戻すとラッシュたちと共にアイスドラゴンの背から飛び降り、対するサウザーたちは迎え撃たんと一歩踏み出す。
それを牽制する、アイスドラゴンの氷のブレス。
「――――っ!」
防御のために踏みとどまる事を強いられるサウザー。ダフィラの強い日差しに煌めく氷の嵐、それを斬り裂くようにして――飛び込んでくるのは、ビュウ=アソル!
ギィンッ!
ぶつかり合う刃。散る火花。耳障りな剣戟の音はすぐさま戦場の一部と化し、ラッシュたちは喚声を上げて親衛隊員との交戦を始める。
サウザーに左からの剣閃を止められたビュウは、すぐさま右の剣で胴を薙ごうとした。サウザーは退いて剣尖をかわす。ビュウは更に一歩踏み込む。同時に繰り出された左の突きは、サウザーの剣によって難なく弾かれた。
今度は、サウザーが返す刃で斬り下ろしてくる。速い剣撃。ビュウはそれを真っ向から受けるのを諦めた。代わりに左の剣でいなし、受け流し、距離を取る。
互いに間合いの外。膠着の中、サウザーが唇を動かした。
「――成程な」
そこから漏れ出たのは、唐突と言えば唐突な納得の言葉だった。ビュウは続く言葉を待つ。
「この砂と同じ色の装備の者たちは大掛かりな囮、空と同じ色の装備の貴様たちが余を直接討つ本命、か。わざわざ戦竜を、乗騎から青いドラゴンに乗り換え、空の色に溶け込んでまで」
不敵な笑みが、口の端に浮かんだ。
「砂色の者たちを展開させ、その中に貴様の乗騎のサラマンダーを混ぜる事により、さも貴様たちが前線にいると錯覚させる。その上で、空色の装備でこの空に擬態して、頃合いを見計らって余に突撃を掛ける。反乱軍の兵士たちは砂色の装備しか着ていないと錯覚させれば見抜かれづらい、二段構えの目くらましに、戦竜を換えてまでの偽装か。
見事、と言うより他にない」
「サウザー皇帝こそ、ご明察、お見事」
頷いたビュウに、サウザーは鼻で笑って、白々しい、と吐き捨てた。
「だが、見事なのはここまでだ。ここより先は――」
サウザーの足元に、砂煙が上がる。
それは強い踏み切りによって上がったもの。
ビュウは咄嗟に剣を構える。双剣を交差させて、頭上へ。
ギギィンッ!
「――知略も運も介在しない、力と力の対決だ」
そうしてガッチリと噛み合う、三つの白刃。
それを挟んで対峙する、二人の男は――
とてもとても楽しそうに、笑っていた。
まるで獣のように、獰猛に、狂暴に。
サウザーの剣を、払う。
しかしそれくらいでサウザーはバランスを崩さない。むしろ払った勢いを利用して一旦ビュウと距離を取り、かと思えばまた打ち掛かってくる。一撃、二撃。重い剣撃を左右の剣でさばく。飛び散る火花。その間隙にビュウは左の突きを繰り出し、サウザーはそれを極小の動作でかわし、こちらの懐までは入ろうとする。繰り出されるのは、突きの剣尖。ヒュッ、という軽い音と共にそれは空気を切り裂き――
ビュウは、左手を乱暴に払った。
ガィンッ!
虚を突かれたサウザーの顔。左手の手甲――お高いゴドランド呪鍛合金製のそれは、キャンベルの大森林地帯での戦闘の時と同じく、見事にサウザーの剣を弾き飛ばした。一瞬できる隙。ビュウはその間に意識を集中させる。思い浮かべるのは氷。鎌のように湾曲する氷の刃。ラッシュたちを援護するアイスドラゴンから力を借り、ビュウはイメージそのままの刃を解き放つ。
「アイスヒット!」
追撃に放たれた『ヒット』の氷刃を、サウザーはいささか余裕を失った表情で睨み、そして、
「――くだらん!」
一喝と共に一閃されたサウザーの大剣は、氷刃をあっさりと叩き砕いた。
(冗談――!)
ビュウは内心で舌打ちをする。戦竜の魔力が混ざった『ヒット』の刃を、「砕く」なんて。「弾く」や「受け止める」のではなく「砕く」――それには、氷を刃の強度にまで高めている戦竜の強固な魔力、それを凌駕するだけの精神力が必要だ。はっきり言って、人間業ではない。
(母さんと親父以外で初めて見た……! 成程、さすがはサウザーか!)
神竜に蝕まれた体で、まだこれだけの余力を残しているとは、予想外だった。
サウザーの剣撃を弾き、自分からもその弾かれた勢いで後ろに退いて、ビュウは頭を切り替える。最初の目論み――戦いを長引かせて、サウザーのスタミナ切れを狙う――は駄目だ。あるいは、最初から見込みが甘かったのだ。相手は、腐っても皇帝サウザー。弾かれ、砂を蹴立てて着地し、そして距離を詰めてくる彼を睨み返しながら、ビュウは一つ、深呼吸をした。
自分の見込みが甘かった。
楽をしようなんて、甘すぎた。
――なら後は、腹をくくるだけだ。
剣を振りかざし、飛び込んでくるサウザー。
その相手の懐に――逆にこちらから、一歩踏み込む。
「――――!?」
何事かと、驚くサウザーの顔。それを視界の片隅に捉えながら、ビュウはまず左の剣を地面に突き立てた。解放される左手。拳を握る。更に一歩、サウザーの懐へ。
体捌き。衝突しないように、お互いが体を横に向けてすり抜けようとする。その最中、ビュウはサウザーの顎に握った左拳を繰り出した。
カチリ。
左の仕込み手甲の機巧が作動。毒針が飛び出し、サウザーの顔を狙う!
「――ちぃっ!」
顔色を一変させて、サウザーは体を大きくひねった。毒針はサウザーの顔すらかすめず、空を貫く。
ビュウはすぐに拳を引いた。同時に、こちらは握ったままだった右の剣を突きの形で繰り出す。体勢が不安定だったサウザーはそれを受け止め、そして、
(これはどうだ?)
――カチリ。
鍔迫り合い、互いの手が接近する中、ビュウの右の手甲から薄い刃が三枚、射出される。鎧のような金属には簡単に阻まれるが、剥き出しの肉には効果てきめんの刃。サウザーは色をなして飛び退いた。しかし避けきれずに、刃に指を僅かに裂かれる。飛び散る赤い色。サウザーの苦々しげな顔。
「小賢しい真似を……っ!」
吐き捨てられた声は尚苦々しい。指から血を滴らせた皇帝が剣を振り上げるのと、ビュウが突き立てた左の剣を掴んで振るったのは、ほぼ同じタイミングだった。
ギィンッ――重く打ち鳴らされる金属音。もたらされるのは、音と同じくらいに重い衝撃。ビュウはそれを堪える。堪えて凌いで、そして――笑う。
「小賢しくて結構……」
サウザーが、ギョッとした表情を見せる。
「俺は『魔人』――」
剣を溜めの形で構えて、
「勝ちの拾い方に、浄も不浄もねぇ!」
思い描いた形と、戦竜の魔力を混ぜ合わせて、
「アイスヒット!」
放たれた氷刃は、電光石火の速さでサウザーへと肉薄し――
サウザーは。
虚を衝かれた表情でいたが、
すぐに獣のような険しさを顔に上らせて、
「ラグナレック!」
目も眩むほどの閃光。
その中で、ビュウは、自分の『アイスヒット』が『ラグナレック』に喰い尽くされるのを見た。
その瞬間。
ビュウは、確かに笑った。
――かつて母はビュウに語った。『ラグナレック』には致命的な欠点がある。技の全てが大振りで、大袈裟で、要するに放ってから次の動作に移るまでにどうしても時間が掛かる。
『ラグナレック』。それはサウザーの得意技。そして、ビュウが仕掛けた一つの賭け。
(――勝負だ、サウザー!)
そこから先、彼はまるで何かに取り憑かれたかのように動いた。
蛇行して迫り来る『ラグナレック』の光刃。ビュウはそれを僅かな挙動だけで避ける。鼻先スレスレの所をうねって走り抜ける『ラグナレック』、それを見送る事さえせず、彼は一歩大きく足を踏み出した。『ラグナレック』を放った姿勢のまま硬直しているサウザーに向かって!
一歩。サウザーの剣の切っ先が僅かに揺れる。
二歩。歯を食い縛って剣を振り上げようとするサウザー。
三歩。ビュウはその剣に狙いを定める。
四歩。地面を蹴って前に出した足を、そのまま振り上げて、
――ガキィッ!
「――なっ……!?」
下段から上段へ、斬り上げようとしていた剣を、ビュウは――踏みつける!
眼前には、サウザーの致命的に歪んだ表情。
(貰った――!)
ビュウは、剣を繰り出す――
――直前、風を感じた。
「――――?」
異変は、まず聴覚が捉えた。うるさいほどの風の音。ゴウゴウと、ビュウビュウと――
「ビュウ、危ねぇっ!」
どこかから聞こえるラッシュの悲鳴――
しかしその忠告も間に合わず、ビュウは、サウザーと共に突然戦場に巻き起こったつむじ風にさらわれていった。
§
――異変は、あっという間に状況を覆した。
始まりは、強くなっていく風だった。強さの余り、フレデリカは防砂頭巾が飛ばされないように押さえなければいけなかった。
最初は、砂漠特有の突風だと思っていた。だが、空模様が変わってきた事でそんなものではないと思い知らされた。
「つむじ風……!」
真っ先にそれを見つけたのはコルテだった。フレデリカも、反乱軍や傭兵連の他の魔道士たちでもまだ見つけられなかった異変に、彼女は真っ先に気付いた。
「皆さん、風が来ます! 地面に伏せて――誰か、紫の信号弾を!」
紫色は不測の事態を知らせる合図。コルテはそれで以って連合全体につむじ風の事を伝えようとしたのだろう。
けれどそのつむじ風は、コルテの予想を遥かに上回る速度で戦場に乱入した。
フレデリカは見た。ゴウゴウと唸りながら、渦巻き走る巨大な灰色の塊を。
下から、上へ。外から、内へ。つむじ風は勢いよく空気を吸い込み、砂を巻き上げながら、走る。巻き起こる風は凄まじく、防砂頭巾を押さえながらすぐ傍のモルテンにすがりつくので精一杯だった。
悲鳴が聞こえる。退け、退け、退け。だがそれももう遅い。
つむじ風は、北東方向から走り込んできた。
そして、全てを巻き込み、全てを飲み込み――
フレデリカは、目を見開く。
「――ビュウ……!?」
灰色の渦巻きの中、
青色をまとった人影が、舞ったように見えた。
――それが、彼だという確信もないのに、
「モルテン、お願い!」
「――フレデリカさん!?」
風の唸りの中、コルテの悲鳴を無視して。
フレデリカは、モルテンの首にしがみついて、つむじ風の渦の中へと飛び込んでいった。
胸に巣食った衝動に、突き動かされて。
§
つむじ風の大渦に飲まれ、ビュウは宙を舞った。
「うわ――」
足はあっさりと地面を離れ、体が強すぎる風圧に持っていかれる。その風が体を翻弄する。それこそ風で舞い上がる木の葉のように、ビュウの体は暴風の中でクルクルと踊った。頭は上になり、下になり、すぐに天地が判然としなくなる。握っていたはずの剣は風の中で消え失せた。縦に横に回転しながら、それでも彼は、自分がつむじ風のどの辺りにいるのか、把握しようと目をこらす。
けれど、何も判らない。視界は一面舞い上がる砂。それらは空を覆いつくし、太陽を遮り、嵐のような灰色の薄暗さを生み出す。ゴゥゴゥと耳を聾する風音はまるで獣の唸り声のようで、どこかで誰かが叫んでいる気もしたが、それが誰なのか、そして本当に叫んでいるかどうかも判らなかった。もしかしたらそれは自分だったかもしれない、という可能性さえ、否定も肯定も出来なかった。
右に左に揺さぶられ、錐揉み回転をし、更につむじ風の渦に飲まれてグルグルと回る。内蔵も脳味噌もグチャグチャになるほど揺らされ、目を回す寸前、ビュウはそれを見つけた。
自分と同じように錐揉み回転をしている、サウザー。
「――――!」
次の瞬間、我に返るビュウ。両手両足を使って何とか姿勢を安定させると、ビュウ以上に暴風に翻弄されるサウザーをジッと睨んだ。
そして、気付く。
(気絶、している?)
まさか。そう思う一方で、それも当たり前かと納得する。病人にこの風はキツすぎる。
姿勢の安定は僅か一瞬だった。ビュウの体は、再び暴風によってもてあそばれる。視界がグルリと回転する直前、ビュウはサウザーに併走するように浮かぶ影を見つけた。
(あれは――)
見えたのは僅か一瞬。だがその一瞬で十分だった。
(ドラゴン――?)
反乱軍(うち)の戦竜か。いや、違う。伊達に戦竜隊長ではないのだ、飛び方を見ればどの戦竜か判る。あれは反乱軍の戦竜ではない。帝国軍、おそらくは――パルパレオスのドラゴンだ。
つむじ風にさらわれたサウザーを助けあぐねているのだろうか。それともこれから突入するつもりなのか。結論が出ないまま視界が幾度も回転し、ビュウは自分のすぐ傍に浮かぶ赤と青の影に気付いた。
「――待て!」
叫ぶ。二つの影が、たじろぐように動きをぎこちなくさせた。
「サラ! アイス! お前たちは来るな! 来るんじゃない!」
この風は異常だ。嵐の比ではない。こんな中に突入させては――サラマンダーやアイスドラゴンの羽が、千切れてしまう。
二匹の戦竜は、ビュウの命令に忠実だった。つむじ風の外で待機している。それで良い。自分の事も顧みず、彼はそれにただ安堵する。
戦竜に助けられなければ、どうなるか――そんな事はどうでも良かった。
――本当なら、とっくに捨てていた命だった。
いつ、どこで失くしても惜しくはなかった。
何やかやで今まで生きてきたが、……別に、今、ここで死んでしまっても構わない。
だから、このまま、つむじ風から放り出されて、地面に激突してしまっても。
そんな、ビュウの思いを打ち破るような、
「ビュウ――――っ!」
ビュウはハッと目を転じた。
声の方向、左から白っぽい影がこちらに向かってまっすぐに突っ込んでくる。それが何か、理解と同時にビュウは愕然と呻いた。
「モルテン……!?」
馬鹿な。戦竜たちが、ビュウの命令を無視して飛び込んでくるなんて。いや、違う。背中に誰かいる。誰かしがみついている。風で防砂頭巾が取れて、三つ編みにした金髪が踊っていた。
「ビュウ! ビュウ――!」
「――フレデリカ……!?」
(どうして――?)
答えの出ない問いは、砂の壁を突き破って接近してきたフレデリカの姿でどこかに消え失せた。
フレデリカは、ビュウに向かって手を伸ばしていた。懸命に、風に翻弄されながら、風に翻弄されるビュウを捕まえようとして。
どうして、こんな事を。こんな危険な真似を。この風は異常だ。ビュウも戦竜を突入させるのを諦めた。それなのに、何故彼女はやってきた? 何故、風に翻弄されながらも手を伸ばしてくる?
どうして、ここまでする?
消え失せた問いの代わりに、次から次に浮かんでくる疑問。まるで涸れる事を知らない泉のよう。呆然とする中、しかし彼は一つの答えを得た。
こんな所で死ぬのは許さない。
――そんな風に言われた気がした。
だからビュウは、オズオズと手を伸ばして、
「きゃあ――!?」
「――フレデリカ!?」
荒れ狂う風にフレデリカの体がついにさらわれた。モルテンの背から離れ、どんどんと遠ざかっていく。ビュウは手を伸ばす。だが届かない。届かない!
「モルテン!」
ビュウは叫んだ。声に応じて傍にやってきた白い戦竜の首にしがみつく。
その時、彼は察知した。
やはりこのつむじ風は、戦竜には強すぎる。モルテンの飛び方がおかしい。もしかしたら翼を痛めているかもしれない。
だが、
「許してくれ、モルテン……!」
呻くビュウ。キュルルとモルテンは啼く。
『大丈夫ダヨ、ビュウ』
「ありがとう――」
キッと顔を上げ、彼は高らかに命を下した。
「行け!」
バサリッ、とモルテンが翼をはばたかせた。
風に逆らい、飛ぶ。バサッ、バサッ。翼を動かす度にその飛行は力強くなっていく。けれどやはりその飛び方はぎこちない。ごめん。すまない。許してくれ。様々な言葉が浮かんだが、ビュウは出かけたそれを全て飲み込んだ。そんな言葉は後回しだ。今は、フレデリカを!
モルテンは風に流されていくフレデリカに向かってまっすぐに飛ぶ。つむじ風の渦の中は異様なほどに風が荒れ狂い、風向きが一定しない。それでもビュウは、ようやくそこに法則を見出す。
見切る。
「そこだ――!」
その声に従ってモルテンが飛ぶ。途端、まるで押し出されるようにスムーズに飛び出した。風の流れを掴んだビュウの指示が、モルテンを自由に飛ばせる。フレデリカへと向かって。
「フレデリカぁ――っ!」
肉薄。ビュウは声の限り叫んで手を伸ばした。だが彼女は先程のように手を伸ばしてこない。どうして。すぐにその理由を知る。フレデリカもまた気絶しているのだ。サウザーのように。
(どうする?)
風が阻んで、フレデリカを掴むのを許さない。三度目の失敗でビュウはやり方を変える事にした。周囲に素早く視線を走らせる。縦横無尽に流れる砂粒が風の流れを教えてくれる。それを読み解く。読みきる。
ビュウは、モルテンの背から飛んだ。
そして、抱きつくように――フレデリカの体を、捕まえる!
その勢いのまま、ビュウとフレデリカはついにつむじ風の中から脱出する。体をなぶる、呼吸もままならないほどの風からの解放感。そのまま始まる自由落下。遅れてつむじ風から逃れたモルテンは――間に合わない!
だがビュウは少しも焦らなかった。自分の傍には、別の戦竜がいてくれる。
「サラ!」
そこから先を言わずとも、相棒はビュウの意志を理解した。赤い影が電光石火の速さで飛来する。サラマンダーはフレデリカを抱くビュウを背中に乗せる。衝突。ビュウは咄嗟にサラマンダーの首にしがみつく。横転を免れる。安堵する間もなく、彼は上体を起こすと腕の中のフレデリカに視線を落とした。防砂ゴーグルとマスクを外して、
「フレデリカ!? フレデリカ!」
その体を二、三度揺さぶり、軽く頬を叩く。う、と小さな呻きが漏れた。少しして、ゴーグルとマスクに隠れた顔がビュウに向く。
「……ビュウ?」
やっと、ビュウは安堵の息を漏らした。溜め息のように深く息を吐いて、
「――……良かった」
思いが胸にしみ、自然と口から突いて出た。え、と呆けたように呟くフレデリカに笑う。
「良かった――無事で」
フレデリカが身じろぎ一つして、それから動かなくなった。また気絶してしまったのだろうか。ゴーグルとマスクに隠れて表情は見えない。だが、特に異常がないなら安心だ。ビュウはもう一度、今度は少し軽く安堵の息を吐いて、そうしてようやく一つの事を思い出す。
サウザーと、パルパレオスは。
ビュウはハッと視線を巡らせた。駆け抜けたつむじ風の向こう、同じように浮かぶドラゴンの影がある。その上にうずくまる人影。目をこらすまでもなく判った。パルパレオスは、首尾よくサウザーを助ける事に成功したのだ。
そのドラゴンが、不意に動いた。つむじ風の乱入で戦闘を中断していた帝国軍の上を飛び回り、そのまま北西の方向に飛んでいく。
そしてそれに呼応して、帝国軍もまた北西方向へと動き始めた。
撤退――
「追え! 一人たりとも逃がすな!」
「深追いするな! 先にこっちの被害を報告しろ!」
叫んでいるのはマスゥードと――もう一人は、カイツだろうか? 錯綜する指示に反乱軍右翼は混乱しだす。左翼のマテライトたちの方はまだ落ち着いている。だが、あちらが混乱しだすのも時間の問題だろう。ダフィラ革命軍は、結局寄せ集めだ。戦闘と、つむじ風と、グランベロスの撤退と。様々な出来事に興奮して暴走しないとも限らない。
混乱する指揮系統を立て直さなければ。
けれどビュウは、まだ動けなかった。
助かった安堵――ではない。安堵に代わって、胸にポッカリと浮かぶ感情がある。こぼしたインクのように徐々に徐々に広がっていく黒々とした感情。
それは、端的に言えば、後悔に似たものだった。
サウザーを取り逃がした事、ではない。それによって作戦が失敗した事でもない。もっと個人的な事だ。
(俺は……何を考えた?)
戦竜たちを制し、もしかしたら死ぬかもしれない、という考えが頭をよぎった、あの時。
このまま死ぬのも構わない、だと? その想念の馬鹿馬鹿しさに、ビュウの表情は強張り、体が微かに震える。
死にたかったのか、俺は?
いつか、答えの出なかった問いがビュウの脳裏に亡霊のように浮かび上がる。
俺は、どうしたいのだろう。
(これがその答えか……!?)
ヨヨと心中しようとした自分がいる。
その一方で、意地汚くとも生きようとしている自分がいる。
矛盾した態度。矛盾した思い。そのどちらが本当の自分なのかが判らない。
俺は、どうしたいのだろう。
あの瞬間、死に抗おうとしなかった――それが、答えだとでも?
戦闘はもう終結し、死の危険は完全に去っている。
それでもビュウは、すぐ傍に死神の気配を感じて身震いしていた。
十月十八日。
ダフィラ会戦は、戦端が開かれてから僅か半日ほどで終結する。
皇帝サウザーが意識不明の中、親衛隊とダフィラ駐留師団はダフィラからの撤退を選択。ダフィラ解放連合の一部が追討を掛けるが、作戦司令ビュウ=アソルは早々にそれの収拾に乗り出した。
そしてこの二日後、ダフィラ王国は崩壊の時を迎える。
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