―4―
あんな茶番に付き合わされて、あんたも大変だったな。
いつの間にか背後に立ち、肩越しにこちらの手元を覗き込んできた男は、そう苦笑混じりの声で囁いた。
振り返る。そこに立っていたのは、刃物を思い起こさせる鋭利さと物事を斜めに見る皮肉さとを表情に同居させている、黒髪黒目の男だった。その気配は、昨日の会議の時よりも丸い。他の者を徴発するような素振りは微塵もなく、むしろ他者の事など知った事かと言いたげな雰囲気は、飄々としてさえいた。
「……何の事じゃ?」
「とぼけるなよ、マテライト卿。昨日の会議、あんた、いやあんたら、アソルの坊主と一芝居打ったろ」
言いながら、彼――カイツ=ベクタはマテライトにスッと手を差し出した。その手にあるのは干し肉の包み。後方の輸送隊から貰ってきた物だろう。日没から現在に至るまで、ノンストップで行軍してきたからちょうど腹が空いていた。ありがたく受け取るマテライト。
包みを開け、中の干し肉を食べ始めて、一分、二分。いつの間にかカイツもマテライトの隣に座り込み、モソモソと塩味の利いた干し肉を食べている。そうして、一枚目が食べ終わる頃、
「いつから、気付いておった?」
「割りと最初から」
マテライトの問いに、カイツは間髪を入れずにあっさりと答えた。流れるような、不自然さが一つもないやり取り。だからマテライトは彼の答えに疑問も抱かなかった。ああそうなのか、とあっさり納得する。
代わりにぼやくのは、
「ビュウの馬鹿者め……わしに余計な恥を掻かせおって、まったく」
溜め息混じりの愚痴に応える者は、いない。
どういう事なのかと説明すれば、話は少し複雑だ。
端的に言って、ダフィラ革命軍と『砂の民』は、表面上こそ仲良くしているが、実際には目に見えないところでいがみ合ってばかりなのだ。燃料採掘権とその利益を巡る両者のいさかいは、グランベロスの支配下にある今でも続いている。
そのダフィラ内紛の縮図に加わった、アサシンギルドと傭兵連。
どちらも、ビュウの戦術上欠かせない存在だった。アサシンギルドにはグランベロス士官をある程度暗殺してもらわないといけなかったし、傭兵連には足りない戦力を補ってもらわないといけない。しかし、ダフィラ側の二勢力はこの二つに対し大なり小なり不信感を持っている。
金さえ貰えれば、誰でも暗殺するアサシンギルド。
金さえ貰えれば、誰とでも戦う傭兵連。
ともすれば四つ巴の闘争に発展しかねない現状を納めるにはどうすればいいか。
『というわけで、一芝居打とうと思う』
作戦会議の前日、あの場に同行した反乱軍サイドの者たち――マテライト、センダック、トゥルースに告げられたビュウの言葉が、その答えである。
つまり、反乱軍は「繋ぎ」をしたのだ。
四者の利害を調整し、ダフィラ解放という大義に向かって足並みを揃えさせる。そのためにビュウはゴドランド出立以前から走り回り、会議の席でマテライトと言い合う事もしてみせる。
そして、ビュウが言い出した賞金首狩りも、結局はその一つなのである。
「俺はアソルの坊主と付き合いがそれなりに長いしな。あいつの手口は知ってるし、俺が振った金の話にわざと乗っかってきたのも知ってる。知ってるか? あいつはな、金に汚ぇガキだが、人前で報酬の話を考えなしにちらつかせるような、礼儀知らずじゃねぇんだぜ」
カイツの笑った声は、どこか誇らしげにも聞こえた。それは、ビュウを子供の頃から知っている故か。
「聞かなくても解るさ、あいつの考える事なんてよ」
カイツの振った、報酬の話。
それに乗ってビュウが提示した、賞金首狩り。
ビュウの思惑はこうだ――まず、傭兵たちに支払われる報酬を漏らし、傭兵連に対する不満をあおる。直後、それ以上の金が手に入るかもしれないチャンスを提示して、そちらへの期待と意欲を膨らませる事で、元々あった不満をうやむやにさせる。
そうなれば、誰もがビュウから支払われる報酬を目当てに、彼の作戦に従ってがむしゃらに戦う。そうせざるを得なくなる。
金という即物的な物を使って、ビュウは四者の足並みを無理矢理揃えてみせたのだ。
思い出したように、カイツはクツクツと笑った。
「おっそろしいガキだよな。小芝居で人の心理を操作して、自分の作戦に従わせて、金に糸目もつけねぇで。――まさかこの作戦だけで全部バラ撒くつもりじゃねぇだろうけどよ」
その言葉に、マテライトは何か引っ掛かるものを感じたが――しかしカイツがマテライトの手元を見つめるので、彼もまた、意識をそちらに向けた。
そこにあるのは、戦場になるであろうこの一帯の地図だ。王都方面を上に、ダフィラ解放連合――ダフィラ革命軍、『砂の民』、反乱軍その他諸々の連合勢力の通称は、そうでっち上げられた――の本陣を下に据えた地図は、様々な書き込みがされている。地形や敵の拠点に与えられた便宜上の呼び名、進軍ルート。マテライトが率いるAチーム、カイツが率いるBチームの混成部隊は、地図上では左回りルートを取っている。
そして、左回りルートの最初の目標は、地図上では本陣の左斜め上、地図の中ほど左側に描かれた山地の北側に寄り添う城砦跡、そこに配備されているダフィラ駐留師団の一個旅団だ。
その山地――便宜上の呼び名は山地A――はマテライトたちのすぐ側にあり、目標とする城砦跡――山地Aにちなみ、呼び名は城砦Aである――には、明日の朝早くには辿り着く事だろう。予定通りに。
だが、本当に作戦通りに行くのだろうか?
一抹の不安がよぎり、マテライトはカイツを見やった。闇夜の中、冷たく降り注ぐ星明かりとかぼそい月明かりを受けて、彼の皮肉げな笑みがボンヤリと浮かんでいる。
「急にアソルの坊主が信用できなくなったか、マテライト卿?」
「む、別にそういうわけでは――」
「いや、良いんだぜ? 中にゃ二十一のガキの言う事にホイホイ従うのに抵抗を感じる奴もいるだろうさ」
「……お主もか?」
この作戦の主力となるAチームとBチーム、その一方の指揮官が作戦司令の命令に従わない、など。それがもたらすあらゆる不利益を想定しながら、マテライトは単刀直入に問うた。するとカイツは、すっかり見慣れた皮肉げな笑みと共に、
「さぁて、どうかな」
「お主――」
「だがまぁ、ツンフト相手にアソルの坊主が手ぇ抜く事ぁねぇし、あいつは何度もツンフトを出し抜いてやがる。フリーランサーの中で、あいつ以上の戦術家はまずいねぇ。何たって、唯一ハイフェーツの爺様に認められた奴だからな」
そしてカイツは、マテライトを見る。
その眼差しには皮肉げなところも飄々としたところもなく、こちらがたじろぐほどの真摯な熱と鋭利な冷気を込めて、彼ははっきりと告げた。
「俺は、ビュウの作戦を信頼してるぜ」
§
「私は、ビュウ君の作戦を信頼していませんわ」
素敵な笑顔と共に、Cチーム指揮官コルテ=ベクタははっきりとそう宣言した。
それを聞いて、フレデリカはふと思う――何で指揮官の口から作戦司令への不信感を聞かなければいけないのかしら?
「だって、そうじゃありません事? こんな作戦、無茶苦茶ですわ。――皆様も、そうお思いになりません?」
「うーん、それは……」
「確かに、無茶苦茶言われているような気もしますけど……」
「いや、でも、無茶苦茶はいつもじゃない?」
言い澱むアナスタシア、それとなく同意するエカテリーナ、フォローとも思えないフォローを入れているディアナ。どの意見に賛同すべきか、迷うフレデリカはニコニコと微笑んでいるコルテを見やった。
コルテは、傭兵連のウィザードだ。光の加減によっては銀色にも見える淡い金髪と、褐色の双眸。如何にも「大人の女」という風情の落ち着き払った知的な美貌を持っている。
「大体ビュウ君の作戦は、昔からこうなのですわ。特にツンフトを相手にする時。自分は前線に立たないからと、前線に立つ私たちに無茶ばかり要求するのです。特に彼のお母様なんて苦労されてましたわ。いつも戦術の要を任されていましたもの」
「……ツンフト?」
余り聞き覚えのない単語に、フレデリカは首を傾げた。するとコルテははたと気付いた顔をして、
「あら、ごめんなさい。ついいつもの癖で。ツンフトとは、旧ベロスの国営傭兵集団、王属派遣軍の通称です。私たちフリーランサーが、勝手にそう呼んでいただけなのですが」
と、口元を手で隠してコロコロと笑う姿は淑女然としていて、言葉遣いと共に育ちの良さを窺わせる。これでどうして傭兵をやっているのか、まったくもって謎だ。
そういえば、コルテとBチームのカイツ=ベクタは同じ姓を名乗っている。それもどうしてなのか分からない。先程ディアナが突っ込んでいたが、あっさり濁されていた。ビュウなら知っているのだろうか。どうも旧知の仲のようだし。
「フリーランサーって、確かビュウも昔は」
思い出したように尋ねるディアナに、コルテはえぇ、と一つ頷いた。
「ビュウ君も、かつては私たちと同じようにフリーランスの傭兵として戦っておりました。その頃の彼の役目は、純粋に頭脳労働でしたけれど。でも……」
ふと、コルテは虚空を見上げた。視線の先にそびえるのはこの青黒い闇の中で尚黒々としている山地。地図上では一番下に位置する、便宜上の呼び名は山地C。連合本陣のすぐ近くにある山地だ。
Cチームは現在、山地Cの北側に待機中である。
「前線に出ずとも、彼の中のツンフトに対する怒りと憎しみは私たちと同じでした。いえ、もしかしたらそれ以上でしょう。ですから彼はハイフェーツ翁の後継者になったのだし、こんな無茶な作戦を立ててでもツンフトの裏を掻こうとしている」
語る言葉は淡々としていて、先程までの上品な笑みはすっかり消えていた。山地Cを睨むように見上げたまま、コルテは口元を引き結んで押し黙る。
その胸に去来する思いが何なのか、フレデリカには知る由もない。
だがきっと、ビュウには理解できるのだろう。かつて、コルテと同じ戦場に立った事があるだろう彼には。
こういう時に、思い知らされる。
それがつまり、フレデリカとビュウの間に横たわる、どうしようもないほどの距離なのだ。
それに気付き、フレデリカはにわかに胸を押さえた。叫びだしたいとも、泣き出したいとも言えない、ただ胸の中でグルグルとうねる衝動。顔を僅かに歪めて、彼女はそれを堪える。やり過ごす。
「――フレデリカ? どうしたの、胸が苦しいの?」
「……ううん、何でもない」
ディアナの気遣いの言葉にかぶりを振る。微笑んでみたが、きっとディアナの目にはその笑みは弱々しく映った事だろう。友人の表情から、心配の色は消えない。
そんなフレデリカの思いなど露知らず、コルテは再び語りだす。
「ですから皆さん、明日の作戦は必ず成功させましょう。私たちのパートで転んでしまっては元も子もないのですし、私たちがいてこそ作戦が成功したのだと、あの無茶な子に胸を張ってやりましょう」
そんな彼女の言葉に場の雰囲気は和らぎ、そこここでクスクス笑いが漏れる。ようやく衝動が収まりつつある中、フレデリカはボンヤリと思った。
私たちがいてこそ、作戦が成功したのだ、と。
――そんな風に、ビュウに胸を張れるかしら。
その時、この距離は少しは埋まるだろうか?
答えはきっと、やってみなければ判らない。
§
「やらずとも判るだろう。そんな事をすればどうなるか」
「そうなの?」
重ねて問えば、黒衣をまとう相棒のサジンは呆れたような冷ややかな眼差しをゼロシンに向けてきた。当然だろう。そう目で言いながら、相棒は簡略された周辺地図に指を這わせる。
「グランベロス本陣がここ」
闇の中、僅かばかりの月光に照らし出された地図の上部、王都の手前に立ち塞がる城砦を、サジンは指し示す。
「敵本陣に接近する最短ルートは、これ」
サジンの指はスススと這い進み、地図の中ほどでS字を描いた。
地図上、あるいはこの周辺には、三つの山地がある。
一つが、山地C。連合本陣のすぐ北にある山地で、地図で見れば一番下、やや右寄りに居座っている。
一つが、山地A。A、B両チームの戦術目標である城砦Aを北側に抱く山地は、山地Cの北西、地図上では真ん中の左側にある。
最後の一つが、山地B。ゼロシンたちが属するDチームの戦術目標である城砦Bを南側に持つ山地で、こちらは山地Aの東南東、地図上では真ん中右上寄りにデンと構えている。
サジンがS字を描いたのは、山地AとBの間の空間である。渓谷、と言えなくもないが、それにしては幅が広すぎる。幅、おおよそ一キロ弱。一キロもあれば、二つの軍隊が輸送隊込みで簡単にすれ違える。
「ここを普通に通ろうとすれば、どうなる?」
「本陣前の防衛ラインと衝突」
「その前に城砦A、Bの守備隊がすっ飛んでくる」
二つの城砦は、このS字渓谷に常時目を光らせている。ここを進軍しようとすれば、見通しの良い砂漠だ、すぐに物見に見つかって適当な部隊を寄越されて左右から小突き回されるのがオチだ。
そして、もしそれを突破できたとしても、本陣前の分厚い防衛ラインが待っている。
つまり、正面突破は自殺行為。
だから、ゼロシンには尚更不思議で仕方なかった。
「なら、どうしてアソル作戦司令はグランベロスの布陣に真正面からぶつかろうとしてるんだ?」
『魔人アソル』のやり口は、一言で言って、まっとうではない。
いくら確保した本陣がグランベロス側のほぼ真南とはいえ、反乱軍はグランベロスよりも後にダフィラ入りしているのだ。グランベロスの布陣を見て、臨機応変に自陣の布き方を変えてもおかしくない。
もっと言えば、グランベロスには南から進軍すると見せかけて、左右から挟撃するよう布陣する、くらいの事をしてもおかしくないのだ。
だが、彼の作戦と布陣、進軍ルートを見ると、これは明らかに――真っ向からグランベロスとやり合うつもりだ。
それは、何故だ?
「余り詮索しない事だな、ゼロシン」
地図を畳み、懐にしまい、サジンはボソリと呟いた。どういう意味だ? 視線で問い掛ければ、彼はチラリとこちらを見てくる。
「頭目から聞いているだろう。今後、俺たち二人はビュウ=アソル個人に雇われる事となる。雇い主の腹を探っても長生きできんぞ」
「それはそうかもしれないけど……」
「無駄話はここまでだ。戻るぞ」
「――え、あ、ちょっと待ったサジン!」
ゼロシンが抗議する間に、サジンは風のように駆け去っていった。まさにアサシン、砂地を走っているのに足音一つ立てていない。身を低くして、ゼロシンは相棒の背中を追う。Dチーム本隊に戻る事に集中しながら、それでも意識のどこかには、サジンの言葉が引っ掛かっていた。
今後、俺たち二人はビュウ=アソル個人に雇われる事となる。
『「魔人」のツンフト潰しには我々アサシンギルドも一枚噛んでいる。サジン、お前はゼロシンと共に反乱軍に参加しろ。アソルのツンフト潰し、それがもたらす莫大な利益を得るために』
ゼロシンは知っている。いや、裏の世界に生きる者で少し事情に明るい者なら、誰でも知っている。かつて『魔人アソル』がツンフターとどんな闘争を繰り広げたのか、その結果がどうだったのか。
だから思う。もしかして、と。城砦Bの様子に異変なし、と本隊への報告の文言を頭の中で組み立てながら、その一方で、おぼろげな結論が出る。結論と言ってしまうには余りにもあやふやな、憶測の域を出ないものだけれど。
ビュウ=アソルにとって、これは私怨を晴らすための戦いなのだろうか?
§
もちろん、私怨で戦うはずもない。
私怨は私怨、仕事は仕事。公私の別くらいきちんと出来る。
ただ、それでも、
『ドウシタノ、ビュウ?』
「……何でもないよ」
擦り寄ってくる相棒たる竜の首を撫で、不安げなその目に苦笑混じりの声で答えてやる。いや、自嘲気味の声、だろうか。少し判らない。
そう、公私の別くらいはきちんと付けている。そうでなければ戦竜隊隊長、反乱軍幹部、会計役、作戦司令、そんな様々な役職につき、その任務を遂行する事など出来るはずもない。
ただ、それでも、
頭の中に浮かんでは消える、
それは、かつてサウザーに殺された、たくさんの仲間たち。
守りたかったたくさんの人々。
そして、ビュウに全てを託してこの世を去った、一人の物好きな老人。
彼らの顔が、その最後が、ビュウを戦いへと突き動かすのもまた、事実なのだ。
ビュウは懐中時計を取り出した。蓋を開ける。文字盤の針は、午前二時である事を指している。
十月十八日。
作戦開始時間まで、あと、三時間半。
§
十月十八日、午前六時。
西城砦――ダフィラ解放連合における便宜上の呼び名は、城砦A――の東側にある物見台。その時、そこに詰めていたのは歳若い兵士だった。不寝番から間もなく解放される彼は、欠伸を噛み殺しながら、東の地平線から顔を覗かせる太陽に目を細めていた。
夜明け。夜明け。薄明の中で灰色だった砂漠は、朝日が差し込んだその瞬間、表面に掛けられていたヴェールを一気に剥ぎ取ったかのようにベージュ色にキラキラと輝きだす。その中、砂丘が落とす影は夜を思わせる複雑な陰影を作る。太陽が高く上る頃には灼熱地獄になる事など想像も出来ないほど、朝の砂漠は美しい。
が、悲しいかな、彼にはそれに見惚れる精神的余裕はほとんどなかった。夜の見張りはキツい。眠い。早く兵舎のベッドに入りたい。交代要員が来るまでの僅かな間、そんな時でも気を抜くなというグランベロス軍の精神をすっかり忘れて、彼は睡魔に降伏しかけていた。
それくらいに、現在のダフィラ駐留師団の緊張はほころびていた。何せ皇帝のダフィラ入りと共に厳戒態勢が発令されて、十日余り。反乱軍は来ない、補給物資は行き届かない、殺された大隊長の代わりは決まらない、と士気も体制もガタついているのである。本陣のサウザー皇帝が重い病で寝込んで命令も下せない、という噂も聞く。これで大丈夫だろうか。そんな不安が、特に末端の兵士を中心に広がっているのだ。
今日も、異常なし。反乱軍は来るのだろうか? 交代要員が物見台に上がってくる足音を聞きながら、彼は噛み殺しきれなかった欠伸を漏らし――
次の瞬間、目を疑った。
一瞬、徹夜のせいで目がかすみ、それで幻覚だか何だかを見たのではないか、と思ったほどだ。目をこすり、瞬きを繰り返し、それでも見えるものは同じで、彼は唖然と目を丸くするばかり。
南東の砂丘に、竜を従えた複数の人影が、揺らめいている。
彼はハッと我に返り、物見台に上がってきた同僚に叫んだ。
「本丸に報告! 四時の方角に戦竜隊とおぼしき影を確認!」
それを聞いた同僚は、一度隣に立って南東の砂丘に目をやると、大慌てで物見台を降りていく。
そして、西城砦はにわかに騒然となった。
本丸において、旅団長と副官が喚きあっていた。
「四時の方角に敵影だと!? いつの間にそれほど接近された!?」
「判りません! 今朝になって、突然現われました!」
四時の方角はほぼ南東。ちょうど、西城砦のある山地と東城砦――こちらの反乱軍での呼び方は城砦B――のある山地との間隙、正面突破をする場合に通らなければいけないS字路の入り口付近だ。卓上の周辺地図に、物見が見たという敵影を表わす駒を置く。喚いたおかげで少し冷えた頭が、これぞ好機と告げていた。
ようやく来たか。旅団長はニヤリと笑う。
「ノコノコと出てきて……――遊撃大隊に通達! 出撃、四時に現われた敵を撃破せよ!」
「はっ!」
十分後、遊撃大隊の隊長代理は、慣れない指揮に四苦八苦していた。元々の大隊長は先日殺され、正式な辞令が下りるまで臨時に指揮を取れと旅団長に命令されたのだが、彼は中隊長に昇格したばかりで、大隊を指揮する能力はまだなかった。
だから、遊撃大隊の兵士たちは混乱と困惑の中、進撃した。フラフラと、オドオドと。
まさか、こんな事が。
物見や哨戒に気付かれる事なく、あれだけの部隊が砂丘の上に集結するなんて!
東の空から昇った陽に地面が温められ、ユラリと砂丘上の影が揺らめく。その数は、おおよそ二個中隊ほどだろうか? 二個中隊と言えば、グランベロスの基準で換算するとおおよそ百人強。それだけの数が動くとなれば、当然それなりの痕跡が残る。それなのに、毎日のように周辺に目を光らせていた物見兵や哨戒兵が、まるで気付かなかったなんて。
反乱軍とダフィラの反乱勢力は、どんな魔法を使ったのだ?
まさか、その魔法で他に伏兵を潜ませているのでは。
魔法に疎いグランベロス兵にとって、それはあり得ない事のように思われた。それが妄想を産んだ。妄想だと解っていたけれど、目の前に揺らめく竜を従えた影、それがこの戦場ではどんな事でも起こり得ると告げていた。
だから遊撃大隊は、一時の方角に急に出現した味方を見た瞬間、その妄想が現実になったのではないかと疑った。
自分たちの正気をも。
「馬鹿な、何故味方がここに!?」
一時の方角は、遊撃大隊にとって左手後背。左側の兵士たちはその方向を視界に収めていたはずだ。だが、ここに至るまで味方の接近に気付く声は上がらなかった。
西城砦の遊撃大隊に広がる動揺。それは、味方――東城砦から出撃してきたであろう大隊も同じだった。砂丘の裾野で二つの大隊はうろたえ、惑い、まるで幻のように現われた味方が本物なのか偽物なのか判断を下せずにいる。
まるで、幻のように。
まるで、見えないカーテンの向こう側から急に出てきたかのように。
一体何が起こった!?
――だから彼らは気付かなかった。
自分たちが既に、最初目的にしていた砂丘の上に立っている事に。
そこに、目指したはずの敵影が嘘のように掻き消えていた事に。
混乱していたから、その事実に気付くのが遅れ――
大爆発が、砂丘もろとも二つの大隊を吹き飛ばした。
西城砦の物見兵は、それを唖然と見ていた。
「馬鹿な……」
彼は見ていた。
彼が見つけたはずの、砂丘の敵影。それが、ユラユラと揺れていつの間にか消えたのを。
この西城砦から出撃した大隊と、東城砦から出撃した味方は、接近してもお互いに気付いた様子もなく、砂丘の上で初めて遭遇したかのようにうろたえていたのを。
そしてその直後、謎の爆発が二つの部隊を吹き飛ばしたのを。
「――り、旅団長に、報告を……」
ようやく自分の任務を思い出して、彼は物見台の下にいる伝令に叫ぼうと身を翻す。しかし、その直後に視界の端に赤い色が走り、彼はハッと振り返った。
それは、突然の出現。
城砦の東側から超低空で接近し、そして城壁に沿って真っ青な大空へと舞い上がる、
目も覚めるほどに鮮烈な、緋色の戦竜。
§
同じ頃、東城砦。
物見台の兵士は、眼前の光景を信じられない気持ちで見下ろしていた。
砂漠の地面を這うように飛んでくる戦竜。
それに伴走するように突進してくる、うごめく砂色の何か。その大群。
いや、違う。
あれは、人間だ。
砂色の頭巾とマントを着た、反乱軍!
「敵襲――――――っ! 五時の方角より、反乱軍接近!」
半鐘を鳴らし城砦中に警戒を呼び掛ける。だが、もう遅い。低空から急上昇した戦竜の吐く火が、雷が、城砦を蹂躙し始める。
そして、かねてからの連続殺人事件により、城砦中の指揮系統はすっかり混乱しきっていて――
十月十八日、早朝。
ダフィラ会戦、始まる。
|