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 グランベロス帝国皇帝サウザーの玉体を守る精鋭集団、親衛隊。
 その副隊長は、ラス・リオネル=ハルファーという名である。歳の頃は三十代前半。短く切って整えた髪は焦茶色、糸のように細い目の色は(判別しにくいけれど)黒。身長だけはやたら高く、その上痩せているため、ヒョロリと細長い印象を見る者に与える。
 階級は准将、上級兵種ベングリオン位にある――が、准将の軍服が悲しいほどに似合っていない。「着ている」ではなく「着られている」、まさにそんな形容がピッタリだ。しかも、服の上からでもそれと判るほどに鍛えられておらず、それでどうしてベングリオンなのか、誰もが首を傾げる謎である。
 そんな親衛隊らしくない彼は、その日その時、いつも通りサスァ・パルパレオス=フィンランディア将軍の後に従ってヒョロヒョロと帝宮の廊下を歩いていた。

 盛大に、呆れ果てて。

「サウザーめ、一体何を考えているんだ……! あの身体で、だぞ!? 一月以上も寝たきりだったのだぞ!? 馬鹿げているにもほどがある! ――ハルファー、お前もそう思うだろう!?」
「本音が出すぎですよ、将軍」
 何気ない口調でそう告げた途端、パルパレオスの力強い――床のタイルを踏み砕かんばかりの無駄に力強い足取りが、ピタリと止まった。目を丸くして少しきょとんとした後、ばつが悪そうな渋い表情を見せ、
「……すまない、ハルファー。少し熱くなりすぎた」
「慣れっこですから」
 気にしちゃいませんよ――言外にそう伝えたつもりだったのだが、パルパレオスの渋い表情は消えない。むしろ更に深まり、疑うような、窺うような目つきでこちらの顔をマジマジと見つめてくる。
「……本当にそう思っているのか?」
「疑いますか今更。長い付き合いだってのに」
「長い付き合いだから言うが、お前の顔は表情が読めないのだ。いつもそんな風に薄笑いだから、何を考えているのかさっぱり判らない」
「失敬な、将軍」
 と、憤慨してみせるリオネル。けれどパルパレオスの表情は尚も疑わしげ。
「いくら温厚な私でも怒りますよ」
「だから、その顔のどこが怒っているんだ?」
「怒っているでしょう、この辺りとか」
 自分で自分の眉間の辺りを指差してみる。パルパレオスはわざわざ背伸びをして――身長はリオネルの方が高い――覗き込み、
「しわ……か?」
「何で疑問形なんですか」
 呆れ混じりの口調で、リオネルはふと視線をめぐらせた。左手側、回廊の壁際には等間隔に窓ガラスがはまっている。夜の闇で真っ黒い鏡みたいになったガラスには、リオネルの顔がくっきりと映し出されていた。
 僅かに弓なりになった細い糸目は、少し笑っているようにも見えなくない。
 眉間はツルリとしていて、しわなど見当たらない。
 口元……は微妙。
 自分の顔との対面は、きっかり三秒で終わった。
「とにかく将軍、帝宮では言葉に気を付けてくださいといつも言っているでしょう」
「流された!?」
「いつどこで誰が聞いているか判らないんですから」
 パルパレオスの声をやはり流し、リオネルはサラリと告げた。対するパルパレオスは、何だか納得行かなさそうな顔をしていたが、
「……そうだな、すまなかった」
 と、諦めたように苦笑いする。
 サスァ・パルパレオス=フィンランディア将軍。皇帝から絶大な信頼を受ける親衛隊隊長、グランベロスが誇るクロスナイト、名実共に皇帝の右腕にして腹心、無二の盟友。
 しかしその実態は、サウザー皇帝に振り回されて四苦八苦する苦労人。元々根が真っ直ぐで生真面目なのだ。その生真面目さが災いするのか、納得の行かない事に対してはカッとしやすい。それで、周囲に誰もいないとなるとそれをこうして吐き出す。
 そんな迂闊さをたしなめられるのは、親衛隊でもリオネルくらいなものだ。その、言ってしまえば気安い間柄であるが故に、リオネルはこういう時、言葉を濁さずズバリと聞く。
「それで、どうするつもりで?」
「……それを、今考えている」
 再び苦虫を噛み潰したような顔になる上官。しかし、今度はそれほど熱くなっていない。不機嫌そうな吐息を一つ、大袈裟に吐いてから、パルパレオスはやはり不機嫌そうに吐き捨てた。

「ダフィラ親征だと? 何を考えているんだ、あの向こう見ず皇帝め」

 話は、数十分前に遡る。



「というわけで、反乱軍に親書を送ってみた」
 皇帝の寝室にて、話は唐突に、何故か自信満々の口調で始まる。対するパルパレオスは、首を傾げて混乱を露にした。
「……何を言っている、サウザー?」
「ダフィラで余と対決しろ、と書いておいた」
「ちょっと待て、待て待て待て」
 枕元まで呼び出されて、聞かされる話はこれである。パルパレオスの混乱は一気に最骨頂に達し、しかしサウザーの、伏線の欠片も見出せない言葉は止まらない。
「そんなわけで、俺はダフィラに出撃する。出撃部隊の編成と、俺がいない間の帝国の防衛、任せたぞパルパレオス」
「待て待て待て待て待てぇっ!」
「やかましいぞ、パルパレオス。俺は病人だぞ? カーナの戦竜ではないのだ、『待て』と言われても困る」
「人に無断で親書を送っておいて、どこが病人だ!?」
 そんな光景を、リオネルは皇帝の寝室の片隅に控えたまま見守っていた。どこか懐かしさを感じながら。

 何が「というわけで」ですか陛下。そりゃ将軍も動揺して「待て」を連発しますよ、カーナの戦竜隊みたいに。まぁ、陛下、貴方が聞くわけないんですけど。

 ほのぼのとした心境でいるリオネルとは対照的に、パルパレオスは必死に怒りを押さえ、
「……話を整理するぞ、サウザー」
 絞り出した声は低く抑揚に欠いて、どれだけの忍耐力を費やしているかが容易に想像できる。
「してみろ、パルパレオス」
 そんな腹心兼親友を、サウザーはニヤニヤと見やっている。さも面白そうに。
「お前は、反乱軍に親書を送った」
「ゴドランド政府経由でな」
「ダフィラで雌雄を決する、とか何とか、そんな事を書いた」
「この辺りで決着をつけるべきだと思ったのでな」
「『余と』?」
「『余と』」
「つまり、こういう事か、サウザー? ……お前が、直接、部隊を指揮して、反乱軍と、戦う?」
「そう言っているだろう、パルパレオス」
「で、その間、俺は本国の防衛?」
「グドルフに好き勝手されるのも困るしな」
「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 息の続く限りの絶叫――
 とうとう怒りが爆発したパルパレオス。耳元で騒がれているサウザーは、鬱陶しそうに耳を塞いでいる。もちろん堪えている様子はない。
「お前みたいな半死人が戦場に出るだと!? 死ぬつもりか!? 跡継ぎもいないくせして死ぬつもりかお前は! しかも俺は留守番!? 皇帝の親征に親衛隊長が同行しないなんて前代未聞だぞ!?」
「だったらお前が最初の事例になれば良い」
「そういう問題ではないだろう!」
「病人の耳元で喚くなパルパレオス、身体に障る」
「自分が病人だという自覚があるなら、そもそもダフィラに行くとか言うなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 そんな二人のやり取りを眺めながら、
(余り変わらないなぁ、この二人は)
 リオネルは、しみじみとそんな――場違い極まりない、ほのぼのとした――感想を抱いた。


 リオネルがこの二人と出会ったのは、十五年ほど前になるだろうか? 配属された中隊の、新たな隊長がサウザーで、繰り上がりで昇格した新小隊長――リオネルの直接の上官――がパルパレオスであった。
 それから現在に至るまで、二人に従ってリオネルはどれだけの戦線を潜り抜けてきただろうか。大多数の戦友はその中で命を落とし、少数の強靭な戦友が彼と共に二人に喰らいつき、それが現在の親衛隊の母体となった。
 だから、皇帝と親衛隊長の不敬罪スレスレのこんなやり取りは、リオネルにしてみれば見慣れた懐かしい風景なのだ。それこそ、中隊長と小隊長の口喧嘩から、師団司令と副官の衝突まで、危機感を抱く余地もないほどに馴染んだ二人のじゃれ合いである。
 ただまぁ、今も昔も変わらず思うのは、
(あんまり振り回さないでくださいよ、陛下。ただでさえ将軍、最近生え際を気にしてるんですから)
 破天荒なサウザーに振り回され、必死で抑止しようとして、パルパレオスの心労はいかばかりだろうか。
 きっと、それもまた慣れっこなのだろうが。


 と。
 不意に、サウザーはポンと手を打った。何気ない口調で、
「ならお前も来るか、パルパレオス」
「……何だと?」
 瞬間的に、パルパレオスは表情を曇らせた。怪訝そうにサウザーの顔をマジマジと見つめている。しかしサウザーはそんな親友の変化など歯牙にも掛けず、話をどんどんと進めていく。
「帝都をグドルフに任せるのはいささか不安だが、アーバインとバーバレラの目があれば奴もそうそう策動する事など出来んだろう。手駒はほとんど失った事だしな」
「ちょっと待てサウザー、お前まさか」
 そして。
 サウザー皇帝は、やたらと得意げな笑みを浮かべてパルパレオスの肩をポンと叩いた。
「よし、ではパルパレオス、ダフィラ親征部隊の編成は任せたぞ。帝都防衛の再編と、戦術の基礎案もな。俺は眠って英気を養う事にする」
「最初からそのつもりだったなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」



「……サウザーの奴め。あいつは昔っからそうだ。自分は思いつくままに言うだけ言って、面倒事は全部俺任せだ。同門の友人が一人いてな、そいつも昔はサウザーの部隊にいた事があったんだが、さっさとサウザーから離れ、さっさと国を出ていった。当然だ、こんな風に振り回されっぱなしではな」
「大変そうですねぇ、将軍」
「何を他人事のように言っている、ハルファー」
 と、前を歩いていたパルパレオスが、不意に肩越しに振り返ってきた。その眼差しは鋭い。と言うか珍しく藪睨みだ。
「お前は俺の副官だろう。山ほど働いてもらうぞ」
「はぁ、やっぱり」
 半ば予想していた流れだったので、リオネルは特に反発する事もなく、肩を落としただけであっさりと話を進めた。
「で、何を?」
「親征部隊の編成は任せた。俺は、帝都防衛の再編と戦術の基礎案を練る」
 吐き捨てるように、パルパレオス。その口調は投げやり気味だが、別に本当に投げ出しているわけではない事をリオネルは知っている。少なくとも、任せられる程度には信頼されているのだ。
(付き合いも長いし)
 王属派遣軍第八師団。リオネルはその幕僚に名を連ねていた。パルパレオスほど戦略・戦術面で才気を見せたわけではなかったが、パルパレオスでは出来ない事を彼はずっとやっていた。
 すなわち、

 物資・装備の確保。
 補給線の確認。
 行軍資金の捻出。
 その他諸々、戦術以前の無数の雑事。

 武術に長けているわけでも、戦術に秀でているわけでもないリオネルが、親衛隊副隊長をやっていられる理由。
 彼は、グランベロス軍でも稀な、裏方専門の高級士官なのである。

 自分のやるべき事を頭の中で列挙しながら、ふと思い付いた事を、リオネルは口にした。
「将軍、戦闘は防衛戦になるんですかね?」
「――……そうだな、サウザーはおそらくそのつもりなのだろう。それが?」
「いえ……」
 その時、リオネルの胸の内に一抹の不安がよぎった。
 だがそれが具体的にどんなものなのか、それが解らず、彼は口を噤んだ。





§






 戦端が開かれる前から、形勢は圧倒的不利。
 それを覆すには、どうすれば良いか。

 下準備を入念にすべし。

「ビュウさん、お手紙です」
「ご苦労さん」
 クルーが持ってきてくれた手紙を受け取り、ビュウは再び机に向かった。メモや封筒から出しっぱなしにされたままの便箋が散乱する、エキドナの研究室以上に混沌としている自分の机に。
 手紙の山の中に埋もれたペーパーナイフを取り出し、封を切る。便箋数枚に及ぶ手紙の内容を一分足らずで読み終えると、その要旨を手近なメモ用紙に殴り書きして、それを目の前の壁に画鋲で留めた。
 それからビュウは、椅子の背もたれに体重を預け、腕を組み、ふんぞり返るような姿勢で目の前の壁と睨めっこを始める。
(ダフィラか……)
 砂漠のラグーン、ダフィラ。傭兵時代に何度か訪れた事はある。燃料採掘権を巡る『砂の民』とダフィラ王家との対立は、グランベロスが介入する直前までダフィラの国情を危うくしていた。誤解を招く言い方をあえてすれば、他のラグーンよりも稼ぎ口が多かったのである。
 けれど――いや、だからこそ、だろうか。改めて思う。
(行きたくねぇな)
 砂漠という場所の苛酷さは、訓練された軍隊を以ってしても制覇を困難にする。息も凍る夜と日差しで火傷する昼、余りにも少ない水分、口にも目にも耳にも鼻にも入り込んでくる砂、それを凶器に変えてしまうほどに強い風。少し記憶を探っただけで、嫌な思い出はボコボコ掘り起こされてくる。
 ダフィラでまともに戦闘をしようとすれば、敵兵よりも凶悪な環境に対する備えをしなければいけない。

 砂漠用の行軍装備。
 十分な水と食料。特に塩。

 それらの解決の糸口となるメモを眺めながら、ビュウが次に思いを馳せるのは、
(次の課題は、圧倒的な戦力差か)
 サウザーが出てくるという事は、まず間違いなく親衛隊も出撃してくるという事。
 そして皇帝が戦場に出るならば、最悪ダフィラ駐留師団の全軍出撃もあり得る。
 そうなった場合、敵戦力はおよそ八万。その数を正攻法で覆すのは、反乱軍では不可能だ。
(となると、やらなきゃいけないのはズルい事、か。まぁ、いつも通りだな)
 ふと思いついたのは最大のズルい事――母をカーナから呼び寄せる――だが、母はビュウにとっての最後の切り札。ここで切るべき札ではない。それに、母にはカーナを任せているのだし、今カーナを動かれても困る。
 だから動かすのは、
(しかし、ベクタの二人が参加してくれるのは助かる。これでグランベロス相手だと尻込みする連中も動くはず)
 けれど、自分の人脈をフル活用して動員を掛けたところで、集められる数はたかが知れている。キャンベルやマハールでやったように、現地の反乱勢力に働き掛けて合流してもらうとしても、二万集まれば良い方だ。絶対的な戦力差は埋まらない。

 ならば、手駒を揃えると平行して、相手方に山ほどの工作をする。

 現状で出来る対策はこれくらいか――腕組みを解き、ビュウは大きく伸びをした。フワァと大欠伸もする。
 メモを貼り付けた壁のすぐ横、窓の外を見る。右が明るく、左が暗い。一瞬その空が宵の空なのか明けの空なのかが判らず、ビュウは目を瞬かせた。
 そういえば、どれくらい寝ていないだろう。ゴドランドを出る直前から、あちこちに手紙を出し、駆けずり回り、根回しだとか要請だとか買収だとかに明け暮れていた。時間感覚はいつの頃からか失せ、ファーレンハイトのこの自室を出るのは、食事に行く時とどこかに出掛けなければいけない時だけだった。
 それを自覚した途端、ビュウは眠気に襲われた。目蓋が急に重くなり、意識がもうろうとしてくる。その中、せめて時間だけでも確認しておこうと巡らせた視線が、ベッドの枕元に放り出されていた懐中時計を捉えた。手に取り、蓋を開ける。短針は五の数字を差していた。明け方の五時なのか夕方の五時なのか、そこを悩んでしまう辺り、相当疲れているようだった。
 フラフラと椅子から立ち上がり、ビュウはそのままベッドに倒れ込んだ。懐中時計を持ったまま、バンダナも取らないまま、着替えもしないまま、布団も被らないまま。
 目蓋が完全に下りきるその直前、ビュウは手の中の懐中時計を見ていた。だが、意識に上るのは時間ではない。

(……ハイフェーツの爺さん――)

 出会ったのは、八歳の時だったろうか。ビュウみたいな得体の知れない子供を気に入った、やはり得体の知れない物好きな老人だった。

(あんたから貰った物、全部使う時が来た……――)

 資産も。
 人脈も。
 知略さえ。
 ビュウは、彼から受け継いだ。
 ただ一つの事を為すために。



 目が覚めたら、空は朱色に染まっていた。
 手元の時計を見る、短針は五を差したまま、動いていない。十二時間も寝たという事だ。ビュウはククッと笑う。
 寝すぎなんだか寝なさすぎなんだか。確かにこの半月近くあちこち駆けずり回ったり飛び回ったりしたけれど、徹夜をしたのはここ二、三日だけだ。それくらいなら割と慣れているのだが、
(頭も使ったしな。アルシェディアからの返答だとかギルドや組合からの返事とかがやたらと重なったし……)
 ともあれ、夕方の五時ならば、夕食には間に合いそうだ。今日は夕食をちゃんと食べて、さっさと寝る事にしよう。幸い、ここ最近戦術の事で忙しくしているのがマテライトに認められて、見張りだとか哨戒飛行だとかの当番からは外されている。
 ベッドから起き上がろうとすると、体のあちこち、特に背筋と首筋がやたらと痛む事に気付いた。椅子にずっと座りっぱなしだったのと、変な姿勢で寝たのが悪かったらしい。慎重に起き上がり、慎重に筋を伸ばそうとして、

 コンコン。

 部屋に、ノックの音が転がった。
「はい?」
「ビュウ? 私、フレデリカだけど……ちょっと、良いかしら?」
 ビュウはすぐに戸を開けた。隙間から覗くのは、久しく見ていなかったフレデリカの顔。
 そして、その顔がギョッとおののいた表情に変わる。
「フレデリカ?」
「ビ、ビュウ……えっと、その……大丈夫?」
 おずおずとした、もっと言ってしまえば怯えた口調。一体何の事だ? そう思って、すぐに理解する。成程、余程酷い顔をしているらしい。ビュウは苦笑した。
「何とか。で、どうしたんだ?」
「あ……うん、その」
 何故か言い澱んで。
 フレデリカは、少し切ないような苦々しいような、そんな複雑な表情を見せた。

「ヨヨ様が、お呼びよ」



 反乱軍を乗せたファーレンハイトがゴドランド本土を出立して、かれこれ半月になる。
 季節はすっかり秋本番、暦は間もなく十月中旬。しかし、ファーレンハイトはまだゴドランド領空内にいる。
 理由は主に二つ。
 一つは、戦術上の理由である。つまり、こちらの体勢も整っていないのにフラフラとダフィラ領空内に入るのは自殺行為だし、偵察を飛ばすにもゴドランド側に留まっていた方がまだ安全である。
 もう一つは、ヨヨである。
 ヨヨの治療を途中で切り上げる形で、反乱軍はゴドランド本土から離れた。不安要素にはさっさと出ていってほしかったゴドランド政府とは異なり、エキドナたちヨヨの治療チームは最後まで出立に反対していたのである。そして妥協案が、
『そちらの艦――ファーレンハイトに、治療チームの者を乗せるわけにはいきません。ですので、通わせていただく』
 という事で、サウルが『テレポトレース』でわざわざ本土からファーレンハイトまで三日に一度くらいの頻度でやってきていたのである。で、その『テレポトレース』には転移可能距離というのがあり、つまるところ領空を出た辺りから転移が難しくなるそうなのだ。
 いっその事、サウルを拉致して――と不穏当な事を考える者もいたが(主にビュウ)、ゴドランドのグランベロス、反乱軍それぞれに対する態度を考えると、そんな無茶が出来るはずもなかった。サウルの反乱軍への参加は、最悪の場合、ゴドランドの反乱軍への肩入れと見られてしまう。ラディアはあんな形で排除されたが、ゴドランドはまだグランベロスの属州なのだ。
 それでも、今までファーレンハイトがゴドランド領空内に留まれた事、それはゴドランド政府が今まで反乱軍の存在を隠してくれていたおかげなのだ。それに感謝こそすれ、それ以上を求めてはいけない。

 ともあれ、そんなヨヨだが。


「神竜召喚を全面禁止にされたわ」
 枕元にやってきた途端、彼女はそう鼻で笑った。
「サウルによると、神竜を召喚する度に、私の心も体も神竜に蝕まれていくんですって。どうしても使わなきゃいけなくても、あと三回、それ以上は命の保証も出来ないそうよ」
 語る口調は、まるで他人事で、
「……まさか、神竜召喚を当てにしてたりしてないわよね?」
 そこだけ妙に不安げに尋ねてくるものだから、
「馬ぁ鹿」
 ビュウは、ヨヨの頭を軽く小突いた。
「誰が病人の力を当てにするか。――お前はゆっくり寝てろ。俺たちで何とかしてやるから」
 そう、ビュウは最初から、今回の戦術にヨヨを組み込んではいない。
 サウルやエキドナからだけではなく、普段の看病を担当しているプリーストたちからも、言われているのだ。

『ヨヨ様の衰弱が激しいんだ。最低でもあと一ヶ月は、絶対に無理させられないよ』

 だが、もしヨヨが戦える状態にあったとしても、ビュウは神竜を戦術に組み込んだりはしなかっただろう。
 それは大いなる敗北だから。

「でも、少し悔しいわ」
 と、不意にヨヨはそう苦笑した。
「今回ばかりは、私も戦場に出たかった……。せっかく決着をつけられるのに、寝ていなきゃいけないなんて」
 すごく残念。吐息混じりに、彼女は囁く。
 しかしその、どこか遠いところを見つめるような眼差しに、ビュウはポツリと、
「……良かったじゃないか」
 ヨヨは視線をビュウに戻す。
「パルパレオスと、戦わずに済む」
「馬鹿言わないで」
 ピシャリとヨヨはこちらの言葉を遮った。その目に、にわかに剣呑さが宿る。
「私がそんな私情を挟むと思っていたの? 見くびられたものね」
「……失礼いたしました、殿下」
 頭を下げたビュウから視線を逸らしたヨヨは、少し間を置いてから、でも、と呟いた。
「でも、そうね……私情を挟んだとしても、やっぱり私も戦場に出たかった」


 どうせ私と彼は、結ばれないんだもの。
 だったら私が彼を殺して、永遠に私だけのものにしてしまいたいじゃない。


 ポソポソと囁かれた言葉は小さく、けれどゾッとするほどの情念を含んでいて。
 何て言葉を掛けようか、ビュウがそれを探している内に、ヨヨはやけに晴れやかな笑顔を見せた。
「だけど、良いわ。代わりに貴方が行ってくれるんだもの。貴方がサウザーを倒す、それで我慢してあげる」
 そして彼女は改めて、強い光を宿した若草色の双眸でビュウを射抜いた。

「ビュウ=アソル佐長。王太子として貴方に命じます。――サウザーを、舞台から引きずり下ろしてきなさい」

 向けられた笑顔は、余りにも晴れやかで、余りにも痛々しくて。
 抱き締めて、こう言ってやれれば良かったのだろうか。

 嘘を吐け。
 望んでもいない事を口にするな。
 正直に言え。お前の望みを。お前の本当の望みを。俺が必ず何とかする。何を犠牲にしてでも、お前の願いを叶えてやる。

 けれど、

「御意に」

 口に出来たのは復唱の言葉で、それがヨヨを更に深い奈落へと落とし込むものだと知っていたのだけれど、ビュウはそれ以外の言葉を持っていなかった。
 ビュウもまた、同じ奈落から抜け出せずにいるのだから。





§






 聖暦四九九九年、十月六日。
 グランベロスを出撃したダフィラ親征部隊が、ダフィラに到着する。
 反乱軍のダフィラ入りは、これより遅れる事十日、十月十六日未明。
 反乱軍と皇帝の会戦は、十月十八日の早朝に始まる。
 だが、戦端はそれよりもずっと前から開かれていたのである。

 

 

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