―7―




 七月二十五日。
 マハール王国解放宣言から、五日。


 早朝。
 あるかなしかの小雨が降る王都の空を、一頭のドラゴンが飛翔した。
 銀色の空に映える、鮮やかな紅の色。
 その背に乗る真っ青なマントとバンダナを身に付けた青年は、大きな花束を抱えていた。





§






 ビュウを見ませんでしたか。

 問われてトリスはこう答えた。
「いや、見とらんなぁ」
「そうですか……」
 と、問いの主、フレデリカはガックリと肩を落とす。余程トリスの回答に期待していたのか、すっかり意気消沈し、何となく黒っぽいオーラを四方八方に放射する。
「あぁ……ありがとうございました、トリスさん」
 吐息と共に頭を下げ、彼女はクルリと回れ右。
「でも、行き先には心当たりあるぞ、お嬢さん」
「本当ですか!?」
 再び回れ右で一回転。三つ編みが踊り、ローブの裾がフワリと舞う。そうしてこちらを向いた彼女の顔は、コミカルな動作とは裏腹に、藁をも掴む必死なそれだった。
「ご存知なんですか!? ビュウは今、どこに!?」
 詰め寄る彼女に、トリスは答えた。
「多分、北の大塩湖だな」
「大塩湖……?」
「おぅ。国営塩田のある大塩湖だ。あの馬鹿息子の事だ、どうせあそこに行ったんだろうさ」
「こんな、雨の中?」
 驚いた様子で、彼女は右側に目を向けた。

 彼らが今いるのは、マハール王宮の渡り廊下の一つ。
 そこは練兵場に面していて、この雨の中、訓練に勤しむマハールの兵士や士官、それに反乱軍の者たちがいる。
 マテライトの檄が飛ぶ練兵場は、夜半からの雨ですっかりぬかるんでいた。
 シトシトと、耳をそばだてなければ聞き取れないような雨音しか響かせない今日の雨は、小降り。
 空は明るい。きっと夕方までには晴れるだろう。

「まだ、風邪も治ったばかりなのに……」
「うちの馬鹿息子の事なら気にすんな、お嬢さん。一回風邪引きゃぁ、同じ場所で二度は引かんさ」
 フレデリカはでも、と言い募る。その表情は心配そうだ。トリスは笑い、皆まで言わせない。
「それで二度引きゃぁ、今度こそ笑い話だな。よし、盛大に馬鹿にしてやろう」
 がっはっは、と笑い声を上げ――

 ――カツン。

 廊下に響くその足音に、すぐに声を引っ込めた。
 渡り廊下の手すりに背を預けているトリスの左手側に、フレデリカが立っている。その反対側、トリスの右手側の方から、誰かが来る。
 見やる。
「お、もう起きても平気なのか?」
 件の人物は、声を掛けられて伏せがちにしていた顔を上げる。
「タイチョー殿」

 ――彼がレスタットを倒した、あの後。
 タイチョーが負った怪我は酷いもので、トリスとグンソーは大慌てで本隊に合流した。
 プリースト隊がその場で魔法による治療を施したが、特に右肩の傷は酷く、一朝一夕で治癒できるものではなかった。
 しかもタイチョーは、右利き。
 利き腕が使えなくなった彼は、結局、その後のいくつかの戦闘を、ベッドの上で過ごす事を余儀なくされたわけであった。

 あれから解放宣言がなされるまで、全ての戦闘で最前線に立ったトリスである。タイチョーの顔を見るのは、実に十五日ぶりの事だった。
 まだ全快とはいかないらしい。右手は三角巾で吊っているし、頬もこけたように思う。顔色そのものは、大分良いのだが。
 レスタットを倒し、十五日。その間に、彼の中に何かしらの変化がもたらされたようだった。こちらを見るその目は以前とはまるで違う。刺々しさも責める色も消え失せ、代わりに何とも言えない申し訳なさが浮かんでいる。
「トリスタン殿……」
 声を掛けられてから、優に数秒。トリスの名を呼ぶのに、躊躇いがあったか、それとも覚悟が要ったのか。どちらにせよ、彼は、一旦止めた足を再び動かし、トリスの前に立った。
 そして。
「これまでの非礼、許していただきたいでアリマス」
 と。
 彼は、腰を折り、深々と頭を下げた。
 隣のフレデリカが面食らっている。トリスとタイチョーの間にあった軋轢を知る者は、グンソーと、……もしかしたら、ビュウだけだ。いきなり非礼を詫びる現場に遭遇したら、何が何やら解らないだろう。
 もちろんトリスは、それをフレデリカに説明する気はない。今は彼女の存在を頭の隅に追いやる。それから改めて、タイチョーの短く刈り込まれた後頭部を見下ろした。
「とりあえず、頭を上げてくれや」
 タイチョーは動かない。
「別に、俺ぁ気にしてねぇからよ。頭、上げてくれねぇか」
 タイチョーは、動かない。
「……俺もな、前の女房が戦闘で死んでな」
 タイチョーは、僅かに身じろぎする。
「その時は、色々恨んだもんだ。援護に遅れた仲間とか、命令した上官とか、馬鹿げた事やりだした王様とか……――だから、あんたの気持ちも解るんだ」
 タイチョーは、ようやく顔を上げた。
 その目は見開いている。
「トリスタン殿も……奥方を?」
「おぉ。二十一年前にな」
 そして、彼の言葉に含まれていた微妙なニュアンスを、悟る。
「……あんたもか」
 押し黙るタイチョー。その無言の肯定に、トリスは淡く笑う。
「まったく、お互いどうしようもねぇなぁ。女房一人守れねぇ、なんてよ」
「……その通りで、アリマスなぁ」
 ようやく笑みを見せるタイチョー。苦笑気味のその薄い笑みは、どうしようもなく、哀しい。
「それにしても、トリスタン殿も、二十一年前に奥方を亡くされて――」
 しみじみとしたタイチョーの言葉が。
 何故か止まった。
 見やれば、彼の表情がやや凍り付いている。哀切に満ちた微苦笑が消え、代わりに、怪訝そうなしかめっ面が面に上がっている。
 タイチョーはその表情で、首を捻った。
 耳が肩に付くのではないか、というくらいに捻った。
「……トリスタン殿?」
 その姿勢のまま、問うてくるタイチョー。
「奥方を亡くされたのは、二十一年前、何でアリマスね?」
「正確には、二十一年前の、あれは……四月だったなぁ」
「確かご子息のビュウは、今年で二十一歳でアリマスな?」
「そういえば、あいつももう二十一かぁ。いつの間にかでっかくなったもんだなぁ、うちの馬鹿息子も」
「……おかしいでアリマス」
「何が」
「フレデリカ、カーナ出身の貴女なら知っているとは思うのでアリマスが……」
 タイチョーは、急に話をそれまで蚊帳の外だったフレデリカに振った。
「ビュウの誕生日は、いつぐらいだったでアリマスか?」
「え、えーと、確か……五月だったと思いますけど?」
「おぉ、五月の十六日だな、うちの馬鹿息子の誕生日は」
「あれ、じゃあ」
 フレデリカがポツンと言った。
「計算、合いませんね」

 ………………………………

 これらのやりとりに、トリスはあれ、と首を捻った。
(って事は、つまり……)

「フレデリカ、一般的に赤子というのは……」
「十月十日、母親の胎内で成長して、それから生まれてくるものですけど……」
 二人の視線が、何故かトリスに突き刺さる。
 しかも微妙に痛い。
 その奇妙な沈黙を、タイチョーが、気まずそうに破った。
「あ、あの、トリスタン殿、つ、つまりビュウは……――」

「俺の実子じゃねぇぞ?」

 タイチョーの言葉を遮って放った回答に。

 二人とも、絶句した。

 つまりそこを勘違いしていたのだ、この二人は。
(あの馬鹿息子め、何も話しとらんのか)
 まぁ確かに、そうそうベラベラと話す事でもないが。

「大体俺とビュウとじゃ髪の色が違いすぎるだろう。もしあいつが俺の実の息子なら、あいつの髪はもう少し赤毛じみているだろうよ。ほれ、あの」
 と、背後の練兵場を肩越しに振り返り、指差す。
「ラッシュくらいにな」
 二人はポカンと口を開けたまま、トリスの指差す先を見る。
「それにあいつが俺と今の女房の子供なら、あいつカーナ人の血なんか一滴も流れてねぇ事になるぞ? そんな奴を国軍の中枢には据えんだろう」
 沈黙が。
 一拍。
 二拍。
 三拍。
「……………………え、そう……なんですか?」
 フレデリカがようやく反応した。そうなんです、と頷くトリス。
「俺の女房はベロス人だ」
 え、と二人が呻く。
「更に、元ツンフター――派遣軍軍人」
 えぇっ、と更に驚く二人。
「何かよく知らんが、脱走したんだと」
 二人はもう声もない。
 ここまで話してしまっては、説明するしかあるまい。自分たちの過去を。
 赤の他人にそれを語るのは、抵抗があるのだが――

 要は、一番話してはならない事を話さなければ良いだけの事。

「ビュウの本当の父親――こいつは、純粋生粋のカーナ人だな。そいつと出会ったのが、逃げ延びた先のカーナの片田舎。小さな店をやってたんだが、病気か事故かで、ビュウが生まれる直前に死んだらしい。女房――イズーは、ビュウを産んでから、知り合いのいた王都に出てきて……ベロス派遣軍の特務旅団に見つかったそうだ」
「派遣軍の、特務旅団、でアリマスか?」
 無言で頷くトリス。
「派遣軍特務旅団は、通常の師団とは違って、主に脱走兵や、派遣業に邪魔なフリーランサーを始末するのが任務でな。十八年前、連中に見つかったイズーは、ビュウを連れてカーナを離れて、フリーランサーになったそうだ。他に食っていく方法がなかった、ってな」
 ベロス派遣軍の兵士たちは、戦いしか知らない。
 戦いしか知らないから、戦場から離れれば生きる術がない。
 ――特務旅団に狙われたフリーランサーの大半は、こうして戦場から離れられなかった元派遣軍兵士だった。
 実を言えば、イズーのように特務旅団に狙われて十年以上も無事でいるフリーランサーの方が、圧倒的に少ない。
「では、ビュウとあの傭兵たちというのは……」
「その時からの付き合いだ」
 ビュウは昔から、頭が良く回った。『逃げのアソル』とかいう捻りのない渾名を貰うほどに。その頃の息子は脱出作戦を得意としたから、そのための二つ名だった。
「あの馬鹿息子の一声であの連中が集まってくれるのは、昔あの馬鹿息子がやらかした『悪戯』のおかげでな。その『悪戯』のおかげで、『魔人』なんていう二つ名が付いたんだが……」
 今は多くの者が彼を『魔人』と呼ぶ。
『魔人』。
 僅か十歳でフリーランサーにとっては仇敵であるツンフターたちを腹の底から震えさせたビュウは、その瞬間に、全てのフリーランサーの誇りとなった。
 ツンフターが勝手に付けた二つ名こそ誇らしい。

 その名をビュウが得たのは、十一年前。
 あの、雨が降りしきるマハール北部のあの事件。

「……あれから、十一年、か」





§






 十一年前、ビュウはその頭脳で以って、マハール聖業軍、ベロス派遣軍と渡り合った。
 弔い合戦と呼ぶには余りにも利己的な戦い。

 その舞台となった大塩湖のほとりに立って、ビュウはただ静かに物思いにふける。
 大塩湖。オレルスでも数えるほどしか存在しない、塩水の湖だ。土壌の塩分が湧き水と合わさって塩水となり、この荒涼とした窪地に溜まった。それが、この湖の成り立ちである。
 湖のほとりには、所々、白くキラキラと輝く部分がある。塩の結晶だ。水分が蒸発し、塩の塊となって縁に残る。それを採取して売れば、相当な収入になるのだ。有名な岩塩鉱のいくつかが掘り尽くされつつある昨今では、塩の価格は高騰している。
 そんなマハールの財政を支える大塩湖は、今日は何だか沈んでいるように見えた。晴れの日ならば、太陽の光が湖面と塩に反射して、湖全体がキラキラと輝くのだけれど。
 だが、雨というのは良いのかもしれない。ビュウは手に持つ花束を見下ろした。

 かつて。
 かつてこの湖一帯を、ある部族が住処としていた。
『塩の民』。
 彼らはもういない。そのほとんどが十一年前に死んだ。彼らの最後の巫女と共に。生き残った僅かな者たちは、その多くがマハールから離れて散り散りとなった。
 十一年前。
 一人の少女が、ここで死んだ。
 ビュウの腕の中で。
 ビュウはそれを見ていた。ただ見ていた。何も出来ず、涙をボロボロと流しながら。

 ビュウは空を仰ぐ。
 降る雨が顔を撫でる。
 花束を持つ手に力が入る。
 目を閉じる。目蓋に蘇るあの光景。

 耳に蘇る、彼女の最期の言葉。


『ビュウ、覚えていてね。
 雨が降る時、この空の彼方に新しい世界が生まれる事を。
 私の魂は雨に溶けて、その世界で姿を変えて生き続けるの。
 だからビュウ、悲しんでは駄目よ』


 イルン。
 雨が降る度に、俺は君を思い出すよ。



 ビュウは目を開けた。
 花を束ねていた紐を解き、そのまま空へと投げ放つ。

 解き放たれた花が、雨のマハールの空に舞った。
 雨降る大塩湖へと、舞っていく。

 その光景を見納めて、ビュウは大塩湖に背を向けた。
 少し離れた所にはサラマンダー。いつもと変わらない顔なのに、何故だか心配そうな顔をしているように見える。
「待たせたな、サラ。……帰ろうか」
 サラマンダーの顔に頬を寄せ、首に抱くように手を回して、ビュウは囁いた。サラマンダーがキュウ、と鳴き、
『大丈夫?』
「……大丈夫だよ。ほら、行こう。お前も雨は好きじゃないだろ?」
『ソウデモナイヨ』
 ビュウは笑う。何だよそれ、と。
 サラマンダーはビュウを背に乗せ、すぐに飛び立った。

 どちらも、大塩湖を振り返らない。





§






 …………………………………………

 妻の死が誰の責任か、と言えば、それは間違いなく、自分のものである。
 当たり前の事だった。彼女は自分の妻だった。自分と共にあの戦場に立っていた。守ると約束した。守り抜くと誓った。約束も誓いも守れなかった。逆に守られた。その結果妻は死に、自分は今、こうして、ここに立っている。
「自分は……情けない男で、アリマスなぁ……」
 ポツリと、タイチョーは呟いた。声は吹いてきた強い風にさらわれ、消えていく。
「本当に……情けない男で、あります……」
 自分に向けた言葉ではなかった。聞く者は誰もいないけれど、しかし、自分以外の誰かに向けて放つ言葉だった。

 ――まだ結婚していない頃、彼女とよくここに来た。ここで虹を見る事が出来れば願うが叶う、というジンクスを信じて。虹はいつも出なくて、出ない出ないと子供が駄々をこねるように喚いた自分を、彼女はただ微笑んで見つめていた。

 レインボゥブリッジ。
 ターズ湖の縁を縫うようにして架かるそれは、元は岩山であった。マハールの雨に晒され、浸食され、いつしか橋のような形をした硬い岩盤だけが残った。
 ターズ湖のほとりから王宮の正門近くを繋ぐこの橋の真ん中に、タイチョーはいる。
 昼過ぎ。
 雨はまだ、止まない。


 あの時、タイチョーは、思い切って尋ねてみた。
『何故、不名誉除隊になったのでアリマスか?』
 トリスは答えた。
『俺の一番上の兄貴が、不敬罪で死刑になったからだ』
 トリスの兄――オークール家の長兄、今は亡きリシャール=ドークール。
 タイチョーが彼について聞いた話というのは、法の正義を守って死んだ、とそれだけ。
 だが、タイチョーにはそれで十分だった。後は、事前知識で補える。

 タイチョーがマハール軍に入隊したのは、ちょうど今から二十年前の事だ。
 その頃の王宮というのはドタバタしていて、軍の下っ端中の下っ端、見習い、使い走りだったタイチョーの耳にさえ、騒動の一端が飛び込んできたものだった。
 公爵位を剥奪されたオークール家。
 公職から一掃されたオークール家の者たち。
 当時のオークール公――リシャール、ギョーム、トリスの父――は病没し、残されたギョームたちは王都追放となった。もちろん、領地は没収である。
 不敬罪に問われ、死刑になったリシャール。彼はきっと、国王に何か異議を申し立てたのだ。それも、死刑になるような重大な事を。
 そして今から十一年前、これらの決定を下した国王グレゴワール七世が崩御し、グレゴワール八世が即位した。
 グレゴワール八世は、即位してすぐに、オークール家に公爵位と領地を返上、リシャール=ドークールの名誉を回復させ、オークール家におよそ十年間の補償を気前良く払った。ギョーム=ドークールがオークール公として公職に復帰し、司法院の長官に就任したのは、確かこの三年後である。
 聖業軍の解散も、同じ時期だった。
 それから後、オークール家の名誉は完全に回復された。リシャール=ドークールは「反逆者」ではなく「法の番人」という栄誉を墓碑に戴き、マハールから姿を消したトリスタン=ドークールもまた「高潔な武人」と称えられた。

 真相が何だったのか。具体的な事は、タイチョーには解らない。
 ただ一つ解るのは、リシャールは正しい事をし、トリスはその正しい事のために軍を追われた。それだけだ。
 自ら望んで退役したのではなく。
 望んで、国を捨てたのではなく。


 逃げていたのは、タイチョー自身だった。
 自分の責任をまっすぐに見つめられず、トリスにそれを突きつけた。
 そしてトリスは、そんなタイチョーを、一度として非難しなかった。
 その名に違わぬ高潔な人物。それに比べて、自分は。
「こんな男の、どこが良かったんでアリマスか、お前は……」
 こんな男が夫で、妻は幸せだったのだろうか。
 いや、とタイチョーはかぶりを振った。そんなはずはない。自分は余りにも情けない男だ。国を守れず、部下を守れず、妻すら守れなかった。死なせてしまった。逆に守られてしまった。そんな男が夫で、彼女が幸せだったはずが――

 その時。
 雨が止んだ。
 銀色の雲に切れ目が出来て。

 サァッ、と一条の陽光が差し込んだ。

 そしてタイチョーはハッと目を見開く。


 虹。
 虹が。
 それはとてもとても美しい、虹色の弧が。

 レインボゥブリッジの空に、音もなく現われ、輝く。


 銀色の空を背景に輝く虹に、タイチョーはただ見入っていた。
 結婚前、ここによく妻と来た。
 虹が出ないといつも喚いた。
 妻はただ笑っていた。
 あぁ。
 あぁ。

 せっかく虹が出たというのに、最愛の妻はここにいない。

 あぁ。
 あぁ。
 ほんの僅かで良い。瞬き一つ分でも良い。声だけでも良い。だから、せめて、せめて――

「ねぇ、貴方?」

 声が。
 声が。

 タイチョーはハッと目を見開いた。驚愕で体が、心が震えた。
 隣を見る。

 そこには妻が、生前の姿のまま、立っていた。

 こちらを見上げる彼女。
 澄んだ瞳が、笑みに緩む。

「私、貴方と一緒にいられて、本当に、幸せだったのよ」

 本当よ、と首を傾げる。

「だから、……ありがとう」

「セリーヌ!」
 タイチョーは叫んだ。
 自分の叫び声で、ハッと我に返った。
「……セリーヌ?」
 周囲を見る。見回す。風が吹いた。何事もないように、ただそよぐ。

 何事もなかったかのように、レインボゥブリッジの上には、自分一人。

 妻の姿は、どこにもない。
 夢か現か幻か、まるで――まるで、ただの白昼夢のように。

「セリーヌ……――」
 タイチョーは、妻の名を囁いた。脱力し、その場にひざまずく。
 思い出す。出会った頃の妻を。恋人になり、逢瀬を重ね、求婚し、結婚し、そして夫婦となってからの妻を。
 彼女は、いつでも笑っていた。
 あんなにも笑っていたではないか。
 あぁ。
 あぁ。
 タイチョーは嘆息する。滲んだ涙がポタポタと落ちた。
 目を閉じれば思い出す。彼女の笑顔を全て。
 自分は、幸せだった。
 彼女と一緒にいる事が出来て、本当に幸せだった。
 彼女もきっとそうだった。ずっと笑っていた。自分の隣で、あんなにも笑っていてくれた。
 妻が幸せだったかどうか。
 それだけで、十分ではないか?
「セリーヌ……」
 タイチョーは顔を上げる。
 虹は、消えていた。

 だがあの美しい虹は、妻の笑顔と共に、きっと心の中でずっと生き続ける。
 ずっと。
 ずっと。

「自分も……幸せだったでアリマス」

 そして。
 都合の良い幻覚でも。
 自分を癒すためだけに思い出した声でも。
 会いに来てくれて、

「ありがとう……!」

 

 

 

目次次頁へ前頁へ