―6―
展開していた部隊が、彼らの遥か後方にあった師団の本営が、突然の大水に押し流されていく。
貯水池の堤防を破壊して放ったその水流は、そのまま地形の理に従って、すぐ近くにある、大貯水池の水門から続く川へと合流する。グランベロス兵たちは、その流れに逆らいきれず、悲鳴と喚声を上げて流されていく。
その眼下の光景を唖然と見ているラッシュたち三人に、ビュウは、こう言った。
「な、言っただろ? グランベロス軍は、マハールの地形特質に弱い、って」
それを生かしたビュウの作戦は、こんなところである。
まずビュウは、隊を三つに分けた。
一つは、ルキア、ジャンヌ、ドンファン、ゾラの息子の四人にムニムニを付けた、工作分隊。
彼らの任務はただ一つ。こちらの指定した時間に大貯水池堤防の補修工事箇所に辿り着き、そこを破壊し、人為的な鉄砲水を引き起こす事。
一つは、ビュウが実質的に率いている、反乱軍、マハール解放軍、フリーランサーの混成部隊。
こちらの任務は、囮。
朝靄に乗じて川の東岸に現われ、速やかに渡河。靄で視界も悪く、突然の奇襲にグランベロスは浮き足立つ。同士討ちも誘える絶好の機会だ。
が、ビュウが、朝靄が立ち込めるこんな早朝を奇襲時刻に選んだのは、別に同士討ちを狙ってではない。
本当の狙いは、敵部隊を、足場の悪いぬかるみに誘い込みつつ、こちらが北の大貯水池ふもとの高台に逃げる事。
結果、グランベロスの師団は低地に取り残される事となり――
谷間を抜けて低地に流れ込んだ大量の水に襲われ、流されたわけである。
これらは全て、厳密な時間指定によって展開された。
ビュウたちは、朝の六時きっかりに奇襲を開始し、朝の九時五十五分までに高台に上らなければいけない。
ルキアたちは、朝の九時四十分までに堤防の補修箇所を破壊し、決壊させなければいけない。
一分一秒でも遅れれば、作戦は滞る。失敗する。味方側にも犠牲者が出る。
そのギリギリの賭けに、ビュウは勝った。
水が渦巻き、引いていく。
出撃前に、ムニムニに『氷の草』を大量に食べさせておいて良かった。戦竜は魔力を帯びた物を食べ、その魔力を己のものとする。氷の魔力を身に付けたムニムニは、堤防破壊後、しばらく待ってから『アイスブレス』で決壊箇所を補修したはずである。
水が引いた先程までの戦場には、ほとんど何も残っていない。
所々、木に引っ掛かった人や物があるだけ。その人も、もう息絶えている。
「さて――」
その成果を見届けて、ビュウはある方向に目をやった。
そちらにあるのは、こちらよりも少し高い位置にある古城。
レスタットが逗留している場所だ。
「後は、うちの親父どもの首尾次第か」
三つに分けた最後の部隊。
トリス、タイチョー、グンソーの、ビュウが見るに険悪になる可能性をこれでもかと秘めているトリオ。
彼らの役目は、「詰め」である。
§
(クソ、クソ、クソ――クソクソクソクソクソクソクソっ!)
地下道を早足で歩きながら、レスタットは胸中で罵倒を繰り返し続けた。
(クソクソクソクソクソ――どいつもこいつも役立たずめっ! 私を守る事も出来んとはっ! クソクソクソクソクソ――!)
彼に随行しているのは、四人の護衛兵のみ。視察のために連れてきた高官たちは、皆、古城に置いてきた。必要なかったからだ。この場から生還するのは自分だけで十分。師団が壊滅した今、総督である自分以外の何を優先しろと言うのだろうか?
『総督! ヒンデンベルク総督! お待ちを! 我々も――!』
馬鹿め。お前たちのようなすげ替えの利く連中など、切り捨てるのは当然だろう。耳に蘇る高官たちの悲鳴をそう切り捨てて、レスタットは歩く。歩く。
それよりも考えなければいけないのは、あの反乱軍だ。一個師団が全滅させられた。これは大失態だ。本国の耳に入れば、この首が飛ぶかもしれない――役職の意味でも、実際の意味でも。それはマズい。非常にマズい。
(まずは王都に帰還せねば――)
歩きながら、レスタットは考える。口元に手をやり、気が付けば爪を噛んでいる。悪い癖だった。けれどレスタットはやめようとしない。誰も止めない。ガリリと爪を噛み、考える。
(こちらの手駒は、残り一個師団。これを再編して奴らを叩き潰さねば――そうすれば逆に、本国から褒賞が与えられる!)
こんな時にも考えるのは点数稼ぎ。
だが思えば、これは一発逆転のチャンスだった。
マハール総督。それはとても美味しい地位ではあるが、レスタットは、一生この地位に甘んじているつもりはない。ゆくゆくは本国の執政官となり、目指すはやはり宰相だ。いや、もし上手く行けば、皇帝の地位さえ――
と。
護衛たちの足が止まった事に気付き、レスタットもまた、足を止めた。顔を上げる。イライラと、神経質に叫ぶ。
「おいどうした!? 早く歩け! 奴らが来る前に脱出しなければ――」
途中で止まった声が、殷々と地下道に響いては消えていく。
彼は、目を見開いた。灰色の瞳が小さく縮み、揺れる。
地下道の出口。それはすぐそこだった。差し込む陽光が、それを声高に主張している。
だが。
その陽光を切り取る影が、出口の前に立ち塞がっている。
それも、三つ。
その内の一つ、手前に立つ斧を持つ影が、一歩、こちらに歩み寄った。
「レスタット=フォン=ヒンデンベルク……――」
震える声が放たれる。壮年の一歩手前の、まだまだ若々しい声。その声の奥に潜む暗い情念に、レスタットは、一歩、後退りする。
「部下を見捨て、一人だけで、どこへ行くつもりでアリマスか?」
キラリ、と。
日の光を反射して輝く斧の刃に、レスタットは、悲鳴を上げた。
§
狭い地下道に、情けない割れた絶叫がこだました。
ギョッとするタイチョーたち。そして護衛役のグランベロス兵たち。
「おおおお、お前たちぃっ! そいつらを食い止めるんだよっ!」
唖然とするこちらを無視して、レスタットは震える声で命令を飛ばす。そして。
脇目も振らず、彼らに背を向け、元来た道へと走って逃げる。
それこそ、脱兎のごとく。
「――待つでアリマス!」
真っ先に動いたのはタイチョーだった。ダンッ、と一歩、大きく強く踏み出し――
行く手を、グランベロス兵が遮った。彼らは一斉に腰のレイピアを抜き払う。
レイピアは「刺し貫く」剣。甲冑の隙間を、時には板金その物を貫くその剣は、重装歩兵である自分とは相性が悪い。
ギリリと奥歯を噛むタイチョー。それでも、行かなければならない!
「――っらぁぁぁぁっ!」
ベキンッ!
蛮声。続いて何かが金属が砕ける音。剣閃に空気が動き、タイチョーの顔を撫でる。
レイピアを叩き折り、返す刃でその使い手を袈裟懸けに断ち切ったトリスが、好戦的な笑みを顔に浮かべて、叫んだ。
「行け!」
「……な」
「ここは俺らに任せて、あんたはあの腰抜けを叩っ切ってこい!」
タイチョーはハッとグンソーを見た。グンソーもまた、護衛兵たちに斧を構えつつもこちらに視線を送り、無言で頷いている。
再びトリスを見る。彼はもう、こちらを見ていない。残り三人になった護衛兵と切り結んでいる。
「……かたじけないでアリマス」
一言言い残すと、タイチョーは前に向かって走り出す。
止めようとする護衛兵の剣尖を弾き、流し、ただ前へと。
彼は、くすんだ青のコートに身を包むレスタットの背を、追った。
この地下道は、元々、脱出路だった。
しかし、この古城がどこかの貴族の居城として使われたのは、遥か昔の事である。この地方には時折王宮の要人が視察に訪れたため、この城その物は整備されてきたが、この脱出路自体は、捨て置かれた。
だから。
所々床が盛り上がっていたり。
敷石が浮いていたり。
壁の向こうの土から水が染み出て滑りやすくなっていたり。
『――ってな事になってるだろうから、もしヒンデンベルクが最後にここを脱出路に使っても、押さえやすいだろ』
呑気とすら言える口調でビュウは説明していたが、その通りだった。
ゴツ、ゴツと、軍靴を鳴らせてタイチョーは歩み寄る。
「……立つでアリマス、ヒンデンベルク」
常とは違う静かな、淡々とした声で、言うタイチョー。
たった今彼の目の前で、レスタットは、敷石につまずいて転んだ。
そのレスタットを冷ややかに見下ろして、
「お前も軍人ならば――」
レスタットの体が、ビクッと震えた。
「戦いの中で、死ぬでアリマス」
転んだ姿勢のまま、振り返り、こちらを見上げるレスタット。タイチョーはそれを、ただ見下ろす。ただ、見下ろす。立ち上がるのを、待って。
レスタットの視線が泳ぐ。表情が引きつる。顔の向きが、外される。完全にタイチョーから顔を背ける。
不意に、その肩が震えた。
「ヒッ……ヒヒヒッ……」
痙攣したような笑い声。体と同じく、声もまた震えている。何だ? 何を考えている?
訝るこちらの目の前で、レスタットが素早く動いた!
ヒュッ――
「――――っ!」
眼前に投げ出された「それ」を、タイチョーは反射的に斧で叩き切る。
それは失敗だった。
「…………っ!?」
視界が一気に潰される。ギョッと息を飲んだ彼は、その瞬間感じた違和感に、咄嗟に口元を押さえた。
何か、粉のような物を吸い込んだ。この粉は――
「ヒヒヒヒヒッ! 引っ掛かったな、この間抜けなのろまが!」
白濁した視界で、何かが動く。何かを感じ、身を捻るタイチョー。
ガツッ!
すぐ耳元、鎧の肩当てから響く固い音。見やる。穴が穿たれていた。
(レイピア――でアリマスか!)
「まったくまったく、間抜けだなぁ! 『軍人ならば、戦いの中で、死ぬでアリマス』ぅっ? はっ! 何を勘違いしているんだお前? 私を誰だと思っている? 私はマハール総督、レスタット=フォン=ヒンデンベルクだぞ! なぁんでその私が、こんなじめついた場所で死んでやらなければいけないんだ!?」
ヒュヒュヒュ――と空気を裂く音。目算でかわせる速度ではない。タイチョーは身を丸め、己の顔の前で手を交差させる。
小手を、肩当てを、兜を、レイピアの切っ先が削っていく。
「ヒヒッ! 私を、お前たちのような単細胞と同じにしてもらっては困るなぁ! 私はグランベロスの頂点に立つ男だぞ!? そんな私が――お前たちみたいな、使い捨ての駒と同等であるはずがないだろう!」
タイチョーは目を見開く。
使い捨て。
視察に来た総督府の高官たち。ビュウたちによって撃破されたマハール駐留軍の将兵たち。
使い捨て。
その言葉に、かつて失った自身の部下たちを思い出す。
そして、タイチョーと彼が率いる僅かな手勢を逃がすために――犠牲となった、妻を。
使い捨て。
何かが、込み上げてくる。
「――貴様……それでも」
トリスに対し感じたものよりもずっと強い、何か。
「それでも、軍人でアリマスか!」
斧を振るう。ブゥンッ、という身が竦む風切り音。白い粉の舞う視界の向こうで、ヒッ、という情けない悲鳴が聞こえた。
切り裂いた空気に視界が晴れる。そこで、レスタットは無様にも一歩退き、愕然と顔を青くさせていた。
情けない。何と情けない男だ。だが、これで終わり――
一歩踏み出そうとして、タイチョーは動けなくなった。
今度はこちらが愕然とする番だった。
体中が痺れ、力が入らない。言う事を聞かない。斧の柄尻に添えていた左手が、ダラリと垂れた。
これは?
「ヒヒッ……ウヒャヒャヒャヒャヒャ!」
そんなタイチョーを嘲笑って、レスタットは歪んだ笑い声を張り上げる。額に手を当て、喉を反らし、体そのものを仰け反らせ、彼は全身で嗤った。
「引っ掛かったな!? 引っ掛かったな、この単細胞の突進馬鹿が!」
反らした体を元に戻し、罵声を浴びせるレスタット。タイチョーは、ただ困惑するばかり。
「よくもまぁ、この私を脅かせてくれたものだ! だが、それももう終わりだよ! お・わ・り! ウヒ、ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!」
哄笑が地下道にこだまし、混じり合って鼓膜を震わせる。それに痛みを感じて、タイチョーは顔をしかめた。
「お前がさっき、その無粋な斧で叩き切ってくれた袋にはなぁ! 痺れ薬が入っていたんだよぉ! それほど強力な奴じゃあないが……でも」
と。
――ズカッ!
「ぐあぁぁぁぁっ!」
「……避けられないだろう?」
甲冑の隙間を狙って放たれたレスタットの突きが、その下に着込んだ帷子(かたびら)を貫き、タイチョーの右の脇腹に深々と刺さった。
激痛に叫ぶ彼は、見た。
レスタットの顔に、恍惚とした笑みが浮かんでいるのを。
背筋が薄ら寒くなったのを感じた。全身が粟立ち、この男の危うさを、おぼろげながらに思い知る。
ニヤニヤと薄気味が悪くなる微笑と共に、レスタットは、告げた。
「お前のような不細工、なぶってもつまらんが……――死ね」
ズカッ!
「っがぁっ!」
ズカッ!
「うぐぅっ……!」
ズカッ!
「ぎ、ぁあ……」
ズカッ!
「ぐおぉぉ……!」
ズカッ!
「ぐぐ……!」
ズカッ!
「ぐ、ぬ、ぉぉ……!」
左肩、左の二の腕、左脇腹、左足、右足、右の二の腕、と刺し貫いていくレスタット。その度に、タイチョーの食い縛った歯の隙間から、呻き声が漏れていく。
その様を満足げに見つめるレスタット。その顔を睨み返しながら、それでもまだ、彼は考えていた。全身くまなく痺れ、そのせいかレイピアに刺された痛みも鈍く、血が体を濡らすその感触すら、あやふやでも。
彼は、考えていた。
幸いだった。
右手の感覚は、まだ、残っている。かろうじて。微かに、ではあるが。「それほど強力な奴ではない」痺れ薬に、少しだけ感謝する。
――チャンスはおそらくたった一度。それを逃せば、もう、ない!
「――んー?」
レスタットがわざとらしく首を傾げる。何か思い付いた、と言わんばかりに目を輝かせて。
「まだ、右手の感覚はあるらしいなぁ……」
こちらの右手を見る。目ざとい。タイチョーの右手は、まだ、斧を握っている。なら、とレスタットは呟いた。その声は、どうしようもなく、楽しそうだった。
「その右手を潰してやるよっ!」
レイピアが、右肩めがけて繰り出された。
ズカッ!
「――あああああああああああっ!」
これまで以上の絶叫が、タイチョーの喉からほとばしった。
痛みが全身を駆け巡る。右肩から胸へと走り、背骨を突き抜け、左手の先から両の爪先まで、痺れを一切無視して一気に駆け抜けた。
その一瞬だけ、全ての感覚が戻ってくる。
今こそそのチャンス!
レイピアは今、ここにある!
ガシッ!
タイチョーは、左手で、右肩に刺さったレイピアの刀身を掴み、握り締めた。
「――な!?」
レスタットが驚愕の声を上げた。
「……捕まえ、た、でアリマス……!」
途切れがちになる声で、タイチョーはそれだけを紡いだ。その言葉に、レスタットは震える。恐怖で、震える。
「ば、ば、馬鹿なっ、馬鹿なっ!」
もがくレスタット。その度にタイチョーの右肩に痛みが走るが、それももう、あやふやになりつつある。
「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な――!」
左手の感覚はもうない。だが、決して離さない。貫かれようとも、首を落とされようとも。
そして、右手。
「ヒンデンベルク……」
斧をしっかりと握り締めた右手を、高々と、上げる。
「お前だけは、許さんでアリマス」
右腕を動かすだけで、肩がレイピアにえぐられ、傷が広がっていく。だが、もうそんな事は気にしない。ここでこの男を倒す。
「お前は、軍人なんかではないでアリマス。ただの、卑劣漢でアリマス」
ゆったりと、諭すように、言い聞かせるように、しかし厳然と言い放つ。哄笑を消し、恐怖に引きつった顔で青ざめ、歯をガチガチと鳴らせているこの男は、最早敵ですらない。
――そう。所詮この程度の男は、「敵」と呼ぶまでもない。軍人ですらないのだから。レイピアの柄を放さず、ずっと握り締めたまま、相手の間合いにいる。武器を捨て、丸腰になる恐怖に勝てない男など、軍人でも兵士でも何でもない。
「お前のような卑劣漢に」
上げた右手の角度が下がる。それに気付いたレスタットが悲鳴を上げた。
「や、や、やめろっ! やめろやめろやめろやめろやめろやめてくれやめてくれやめてくれやめてくれやめてくれっ!」
「お前のような卑劣漢に、このマハールをこれ以上汚させんでアリマス!」
振り下ろす。
――グシャッ。
頭部を砕かれたレスタットの体は、そのまま力を失い、レイピアを握ったまま、倒れた。
死んでも尚、丸腰になる恐怖に打ち勝てなかったか。右肩から抜けたレイピアと、それを握るレスタットの遺体を見下ろして、タイチョーは無感動に思う。
そしてタイチョーもまた、冷たく濡れた、地下道の床に倒れ伏した。
冷たい。
冷たい。
血が、流れて止まらない。
冷たい。
冷たい。
(このまま……)
あの日の雨を、思い出す。
妻の亡骸を、思い出す。
妻は、血塗れだった。
自分も、血塗れだ。
(このまま死ぬのも……良いで、アリマスなぁ)
タイチョーは、重くなってきた目蓋を、ついに閉じる。
どこかで誰かが呼んだ気がしたが、彼はついに、その声を聞かなかった。
この後、いくつかの戦闘を経て、マハール解放軍は、グランベロス駐留軍及び総督府の撤退を実現させる。
聖暦四九九九年、七月二十日。マハール王国、解放。
しかしそれらの戦場に、タイチョーの姿は、なかった。
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