―5―
タイチョーの放った問いに、対峙するトリスは目をぱちくりとさせた。
その視線を、タイチョーは挑むような心持ちで受け止め、跳ね返す。地下道の出口に険悪な空気が満ち、それこそ一触即発の危うさを帯びる。
が。
トリスはこちらの視線を、不意にフッ、と鼻で笑って受け流した。
「何が……何がおかしいので、アリマスか」
「いやいや、まぁ、何だ?」
ヘラヘラと笑う彼。その態度が、神経を逆撫でする。
「何で、そんな事を?」
タイチョーはグッと奥歯を噛み締めた。
「……トリスタン殿は、マハール一の騎士だった、と聞いたでアリマス」
「……そうか」
トリスが相槌を打つまでに若干の間があった事、そしてその声に苦さが混じっていたのを、タイチョーは気付かない。
「剣の腕では右に出る者はなく、また他の将兵からの信望も厚く、武勇においても高潔さにおいても、諸国にその名を知らしめるほどの武人であった、と聞かされてきたでアリマス」
「…………」
「そんな貴方さえ……」
彼は顔を伏せた。瞑目する。
一つの光景が、目蓋の裏に蘇る。
四年半前。体を芯から冷やしていく雨が降りしきる、まだ春浅いマハール。
そこでタイチョーは。
血にまみれた己の妻を、見下ろしていた。
タイチョーは目を見開き、バッと顔を上げた。
――その光景から、逃げるように。
「そんな貴方さえいてくだされば、我々は――!」
隣のグンソーが身じろぎした。何かを言おうとする、そんな気配を感じる。
それを無視して、いや、それを言わせまいとして、タイチョーは問い詰めた。
「さぁ、お答えください、トリスタン殿。何故軍を去られたのです? いや」
トリスの表情は平静そのもの。
それが尚更、激情を駆り立てる。
「何故、マハールを捨てられたのですか!」
フゥ、と。
しばらくの沈黙の後、トリスが溜息を吐いた。
彼はタイチョーから視線を外し、しばらく目を宙に彷徨わせてから、困ったような迷ったような様子でボリボリと頭を掻いて、
「誤解が、二つあるな」
「……誤解?」
それこそ世間話でもするような何の気ない口調で放たれた言葉に、タイチョーはおうむ返しで答えた。
誤解。自分が、誤解をしている、だと?
「まず一つ。ちょっと腕の立つ騎士が一人や二人増えたところで、マハールの勝敗は変わんねぇよ」
「――! ……何故、そう言い切るでアリマスか?」
「そりゃあんた、マハールが負けたのはそれ以前の問題だからだ。大体、一個分隊同士の衝突ならともかく、国軍規模で行なわれる大戦闘の行く末が、たった一人の力で左右されて堪るか、ってんだ」
こんなの軍人の基礎知識だろうが、と続けるトリス。
「まぁ、詳しい事はこの作戦が終わった後にでもうちの馬鹿息子に聞いてくれや。あの馬鹿息子め、剣の腕は大した事ねぇくせして頭ばっかりでっかくなっていきやがったからなぁ」
「…………」
虚ろな目をして淡々と戦略を説明していた己の息子を思い出したか、トリスはゲラゲラと陽気に笑う。タイチョーはその様を、不快げにただ睨む。
その内に馬鹿笑いを引っ込めた彼は、口の端に仕方なさそうな、しかし皮肉げな微苦笑を浮かべて、
「……タイチョー殿、あんたは重装歩兵隊出身だったな?」
「……それが、何でありますか?」
「って事は、昔上官にリヴエールってジジイがいただろ」
懐かしいその名にタイチョーは僅かに目を見開く。それを見てトリスは、
「図星、みてぇだな」
しかし彼は別にどうでも良いとばかりに、こちらの応答を待たずして続けた。
「あのジジイなら、ある事ない事ベラベラ喋りまくっただろうよ。俺がいた時だって、やたらと喋り好きだったからなぁ」
「……それが」
タイチョーは、やっとの事で声を絞り出す。
「それが、何だと?」
「あのジジイの言った事を真に受けんな。ありゃ、ただの夢見がちなホラ吹き野郎だ」
と、肩を竦めてから。
継ぐ言葉は、むしろ弁明じみていた。
「別に国を捨てた、って思われてんならそれでも良かったんだけどな? あのジジイが要らん事を後進に喋って俺を英雄に仕立てた、ってオチならさすがに堪らねぇからよ――ま、もう一つの誤解は単純だ」
そして、告げる。
「俺は不名誉除隊を喰らった」
――トリスタン=ドークール。
法律の大家オークール家の一員で、法の正義のために命を捨てたリシャール=ドークールの末の弟。
マハールが誇る高潔な武人。剣においても人格においても、彼の右に出る騎士は一人としていなかった。
それが、そんな男が、不名誉除隊だと!?
驚愕の余り目を剥き絶句するタイチョーを尻目に、トリスは軽く肩を竦めて、言った。
「さて、無駄話はここまでだ。作戦開始までもうそんなに時間もねぇぞ」
§
マハール西部の大貯水池。
そこからやや南に下った高台に、古い城がある。
高台を東に下りて少し行けば、大貯水池の水門から流れる川にぶつかる。
七月十日、午前六時。
その高台のふもとに宿営していたグランベロス軍の駐留師団は、その時間に、川の東岸に突如現われた反乱軍の奇襲を受けた。
「元々マハールは自前の軍隊が強かったから、ベロス派遣軍を雇い入れる必要性がなかったんだな。周りの国――主にゴドランドやダフィラがしょっちゅう雇っていたから、マハールは尚更鼻高々だったわけだ。『俺の所は自前の軍で内乱鎮圧ぐらいしているぞ、どうだ』ってな」
とつとつと、ビュウは語る。
「その状況に、メリットとデメリットが一つずつ。まずデメリットは、そのおかげでグランベロス軍の実力というのを肌で感じる機会が少なかった事。実際、マハールが派遣軍を入れたのはせいぜい四、五回程度だった。その間隔が五十年前後空いている、となれば、グランベロスの力を実感したところでそれを継承する事も出来んさ」
一方で、その言葉を聞くラッシュはイライラし、トゥルースはハラハラし、ビッケバッケはビクビクしている。
「で、メリットの方は――こっちの方が圧倒的に大切だな。グランベロスは、マハールの地形特質に弱い」
ビュウの眼前にはグランベロス兵。淡々と喋るこちらに向かって、喚声を上げながら斧を大上段に振りかぶる。
そしてぬかるみに足を取られ、バランスを崩す。
「まぁ、こんな感じで――」
ザンッ!
左手に重い手応え。相手の首を落とし、ビュウはまだ説明を続ける。
「慣れていないからぬかるみには簡単にはまるし、慣れていないから動揺してジタバタする。慣れていないから靄の中に平気で突っ込んでくるし、慣れていないから右往左往している。
さすがに占領から四、五年経っているから演習の一つや二つやっていたとは思ったが……成程。ヒンデンベルクは本国からの演習予算も横領していたらしい。こりゃ嬉しい誤算だ」
「ってビュウ、あんた何こんな所で呑気に説明してんだ! どういう神経してやがるこの野郎っ!」
「そうです隊長! よそ見していると――」
「――トゥルース、左っ!」
ラッシュの突っ込み。トゥルースの抗議。そしてビッケバッケの悲鳴に、トゥルースが遅ればせながら左に顔を向け。
ドスッ!
そちらからやってきたグランベロス兵の首に、投擲された短槍が突き立った。
投げられた方向をビュウは見る。淡い乳白色の朝靄の中、知り合いのフリーランサーがしたり顔で「貸し一つだな」と唇を動かす。彼はがむしゃらに打ちかかってきた敵兵の剣を適当に受け流すと、隙を見て本来の得物である槍斧でその腹を薙いだ。それから、四人一組(フォーマンセル)を組んでいる仲間の援護に入る。
それに苦い顔で答えたビュウは、敵のいない間隙を探しながら、
「まぁ、こうなるな。次は気を付けろ。見通しが利かないのはこっちも同じだ」
「はい!」
グランベロスの一個分隊が朝靄の向こうから現われた。敵を見つけた相手は分隊長の短い号令の後、一斉に来る。
ビュウは前に出た。
「フレイムヒット!」
ジュヴァッ――!
土の含む水を一気に蒸発させる音。広がる炎の刃が兵士たちを薙ぎ払い、後退させる。
後方へと弾かれ、それでも尚向かってこようとする敵の姿を見て、ビュウは隣のトゥルースに、
「現在時刻は?」
「えっ? ――午前七時十八分三十九、四十秒!」
「あと二時間四十一分二十秒か――」
と、ビュウは右の剣を地面に突き立てると、開いた右手の親指と人差し指で輪を作り、それを口にくわえた。息を、大きく吐く。
――ピィィィィィィィィィッ!
朝靄の戦場に、指笛の甲高い音が響き渡る。中空で待機し、時折援護で炎を吐いていたサラマンダーが、それを聞きつけ舞い降りた。ビュウは右手をサッと上げ、下ろす。
それを合図に、サラマンダーは炎を吐く。
轟音。業火が炸裂し、敵分隊を焼き尽くす。
敵が火に包まれたのを確認したビュウは、左右に言った。
「下がるぞ」
「もうかよ!」
「では隊長」
「あぁ。――サラ!」
ビュウの声に、サラマンダーがバサリと羽ばたき、宙に浮く。
そして一声、高らかに、
「行け!」
命令を受け、紅の竜が朝靄を切り裂き、翔ぶ。
――作戦会議で、ビュウはこう言った。
赤い竜が見えたら、それが合図。
合図の意味は、「北に退け」。
作戦通り、反乱軍とマハール解放軍とフリーランサーの混成部隊は、徐々に徐々に、北の方角へと退いていく。
大貯水池のあるそちらもまた、高台になっていた。
§
七月十日、午前九時三十分。
本音を言えば、ジャンヌは、この作戦が成功するかどうかを疑わしく思っていた。
「――だってそうじゃん。ビュウ、っていったっけ、あの戦竜隊長? 会議の時、何か様子がおかしいな、って思ったら、風邪らしいじゃないか。そんな奴がフラフラの頭で考えた作戦なんか、上手く行きっこないって」
しかもその彼と来たら、そのフラフラの体で最前線に立つと言う。ジャンヌにしてみれば、それこそ「馬鹿な話」である。
「私はそうでもないと思うけど」
それに異を唱えるルキア。彼女は、泥で汚れた顔に力強い笑顔を浮かべた。
「確かに、ビュウの作戦は行き当たりばったりのようなややこしいようなで不安に思うけど……でもきっと大丈夫。だって今まで、ビュウの作戦で負けた事、ないもの」
「……まぁ、十四歳でキャンベルの『草原の民』の武力蜂起をその頭だけで鎮圧した、っていうのは聞いてるけどねぇ」
その話は当時、マハール軍の話題となった。若干十四歳の、実績もろくにないという少年騎士が、他の騎士たちを圧倒させる智将ぶりを発揮した、というのだから、とんでもない事である。マハール軍の慣例で言えば、十四歳なんてまだまだ訓練期間、軍議に参加する資格すら与えられない。
「でも、やっぱり不安だね、あたしは。こんなやり方、聞いた事ないし」
そう言って、ジャンヌはルキアの持つそれを見た。
懐中時計。
作戦会議の席で、ビュウがギョームに要求したのは、各隊に一つずつ、狂っていない正確な懐中時計を用意する事だった。
ルキアは、苦笑気味に肩を竦める。
「そうね。私も、聞いた事ないわ。でも」
彼女の青い瞳が、僅かに細められた。
「傭兵の人たちは、皆……信じてたみたいだったわ」
「……だね」
ジャンヌもまた思い出す。下座に座っていた傭兵たちは、皆、ビュウの策を面白そうに聞いていた。
そして、その中の一人がこう言った。
『それで勝てるんだな、「魔人」?』
それは、問い掛けというよりもただの確認。
当然だ、と無感動に呟いて頷いたビュウに、彼らは「ならこっちの勝ちだ」と楽しげに笑った。
それはそれは、ゾッとするような、獰猛な笑みで。
傭兵たちのその反応で、他の者たち――主に元マハール軍の士官たちは、ほとんど不承不承といった様子で、そのあやふやな戦術を採用したのだった。
「……ねぇルキア?」
「何?」
「『魔人』ってさ、何?」
「……ビュウの事、らしいんだけど」
ルキアの歯切れは悪い。
「実は、私も判らないのよ。……確か、キャンベルでサウザー皇帝もそんな風にビュウを呼んでいた気がするんだけど」
「ふぅん……」
サウザーもそう呼んでいた。その事実は、特にジャンヌの興味を引きつけなかった。それほどの知名度があの男にはあるのだろう、という程度にしか認識しない。
そこで、声が割って入った。
「おぉ〜い、ルキア〜、ジャンヌ〜」
ルキアとジャンヌは同時にそちらへ顔を向けた。
大貯水池の堤防。
中途半端に補強されただけの破損箇所のすぐ近くで、泥にまみれたドンファンとゾラの息子がうんざりした様子でこちらを見ていた。
その視線は、恨めしげだ。
「二人だけ喋ってないでさぁ〜、こっちを手伝ってくれないかなぁ〜」
「馬鹿言ってんじゃないよドンファン」
しかしにべもなく、ジャンヌ。
「汚れる仕事は男の仕事。ほらドンファン、気張りな。もう時間がないよ」
「えぇ〜、そんなぁ〜」
さすがに嫌になったらしい。仕方ない。ジャンヌはルキアを見た。その視線を受けたルキアは、フゥ、と一つ溜め息を吐いた。肩を落としうなだれて、
「ドンファンっ!」
パッと顔を上げれば素敵な笑顔。
張り上げる声は喜びと期待を絶妙にブレンド。
すると、ドンファンは見事にドキッ、とした。わざとらしく胸なんて押さえている。
「頑張って! もうちょっとよ!」
「はっはっは! 任せておきたまえ、ルキア! 要はアレアレアレ……こんな爆薬を設置するだけの仕事、この純情硬派なナイスガイ、ドンファ〜ンに掛かればお手の物、のつもりだ!」
そう叫ぶや否や、ドンファンの土の堤防を掘り下げるスピードが増す。それはもう、劇的に。
うおぉぉぉ、という雄叫びすら上げて掘るドンファンと、唖然としながらその様子を眺めるゾラの息子を見ながら、ジャンヌはニヤリと笑ってルキアを見た。
「やるじゃん、ルキア」
「あのねぇ……」
「ルキア、掘り終わったよ!」
「「早っ!」」
穴から顔を出したドンファンに、ジャンヌとルキアは思わず唱和。その声に彼は、
「ハッハッハ、これが愛の為せる業だよ!」
しかし二人は最早無視。背後で人工湖の方に大きな目を向けていたムニムニに歩み寄って、二人掛かりでその背中にくくりつけられた荷物を下ろす。それをゾラの息子が手伝いに来て、三人はそれを抱えて、穴へと歩み寄った。
ドンファンが慌てて穴から飛び出す。ジャンヌはルキアと共に荷物の梱包を解いた。
中には、爆薬。
後はもう無言だった。それを穴の中にソッと入れると、導火線だけ穴の外に残して、埋め戻す。それを終えてから四人揃ってワタワタとムニムニの元へと駆け寄る。その背に飛び乗ったら、ムニムニは飛翔した。見る見る内に、人工湖全体を見渡せるほどの高度に到達する。
ルキアが懐中時計で現在時刻を確認する。
ジャンヌは文字盤を覗き込んだ。現在時刻、午前九時四十分ジャスト。
二人は頷き合った。そして、ルキアがゾラの息子に対し、頷く。ゾラの息子も頷いて、ムニムニに命令した。
「む、ムニムニ、『ヘルファイア』だ!」
ムニムニが、どこかにあるらしい口から炎を吐く。その炎が、穴のあったあそこに直撃した。
そして、一瞬のタイムラグを置いて。
轟音と震動が、大貯水池を揺るがした。
そして堤防の補修箇所は、速やかに決壊し。
貯水池の水が、ドワドワという音と共に、瀑布と化す。
§
反乱軍は、北に徐々に押されていた。
「よぉし! 押せ! 押し上げろっ! この世界の覇者、グランベロスに逆らう者には等しく死が訪れる事を、奴らにとくと理解させてやれ!」
師団司令は本営で声を張り上げる。その声には隠し切れない喜悦。その居丈高な声音と言葉は、今のこの状況においては、士官たちの鼓舞に大いに役立った。
だから、気付かなかった。
――……ドドドドドドド……
「……ん?」
本営にいる参謀の一人が、聞き慣れない音に耳にした。伝令の声が忙しく飛び交う中で、その低い地響きのような音は、耳をすませないと聞き取れない。
一瞬気のせいか、と思った参謀は、しかし次の瞬間、その音がだんだんと大きくなっている事に気付き、首を傾げる。
何だろう、この音は――
その直後、彼は異変が起きつつある事に気付いた。カタカタッ、と司令がすぐ側に立つ指揮卓の上に置かれた駒が小さく揺れたのだ。
駒は、この付近の地図の上に乗せられている。それは、現在展開中のグランベロス軍と反乱軍の兵の配置を表わしていた。その一つ、地図の端にあった偵察小隊を表わす駒が、カタン、と倒れた。
「ん――」
と、師団司令がそれに目を落とした時。
全ては手遅れとなる。
ドドドドドドドド――
地響きともつかない轟音。いや、地響きを伴った轟音。揺れている!
士官の一人が天幕の外に走り出た。彼は悲鳴を上げた。しかしその悲鳴は、今や耳を弄するまでになった轟音に掻き消され、最早誰の耳にも届かない。
そしてその一瞬後。
七月十日、午前十時。
大貯水池から流れ出た大量の水は、谷間を流れ、鉄砲水となって駐留師団本営を直撃した。
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