―3―




 ガサリッ――

 不意に鳴った茂みに対し、パルパレオスは即座に抜き身のままだった剣を一閃した。
 柄から掌へと伝わる、何かを断ち切った確かな手応え。苔むす地面を見下ろせば、そこには茎の中途から両断された巨大な花が転がっていた。
 毒々しい色の花びらをつけた、巨大な――そう、本来の「花」とは明らかに異質な、しかし「花」としか言い表わせない、人の背丈と同じほどのそれ。

 魔物。

 この大森林地帯には魔物が住んでいる。
 そんな話は聞いていたが、まさかこれほどまでに多いとは――

「無事か、フィンランディア」
「もちろんでございます、陛下」
 刀身に付着した、緑色の粘つく体液を振り落とし、パルパレオスは背後を振り返った。
 そこにいるのは、彼の主君にして生涯の親友であるサウザー。自らも剣を抜き払い、背後に美しい女をかばっている。
 サウザーは、やや顔を曇らせて、周囲を見回し呟いた。
「よもや、これほど魔物がはびこっているとはな……。
 皆、周囲への警戒を怠るな。ヨヨ王女を何としてでもお守りするように」
 周囲を守る四人の親衛隊員が、それぞれ無言で頷いた。大声を出そうものなら、魔物を呼び寄せかねない。歴戦の彼らはそれを承知している。
「では、先に進むとしよう。――さぁ、王女」
 と、サウザーは背後の女に呼びかける。しかし、彼女は微かに顔を青ざめさせ、胸元を押さえたまま、立ち尽くしている。
 その様子に、サウザーとパルパレオスは、どちらからともなく顔を見合わせた。

 この森に入って以来、皆を襲う奇妙に閉塞感。
 彼女はそれを、明確な恐怖を伴った形で感じているようだ。

 目配せする主君に、パルパレオスは一つ頷いて、彼女に歩み寄った。
「さぁ、王女」
 微笑む。すると、怯えの色に染まる彼女のエメラルド色の双眸が、パルパレオスに向けられた。
「参りましょう」
「…………ええ」
 その声にいくらか震えを残しながらも――

 亡国の王女ヨヨは、サウザーとパルパレオスと親衛隊一個分隊に守られながら、大森林地帯の奥へと進む。





§






 まったく、愚かな事だ。
 この男たちは、解っているのだろうか?
 自分という存在を養う事。あるいは、この属州巡検を行う事。
 それで、一体どれほど国家財政が圧迫されているのか。このくだらない事に、どれだけ国民の血税が注ぎ込まれているのか。
 まったく、愚かな事だ。
 国内の諸都市の治安向上。基礎教育の普及。帝国本国の産業の振興。それらに付随するあらゆる法令の整備。
 そんな、為政者として当然な事も中途半端なままにして、本国を離れて遊び歩くなど。

 この男、サウザーをそれに駆り立てるのが己の存在というのなら。



 何と、この身の呪わしくも厭わしい事か。





§






 ……気分が。

「――アニキ? どうかしたのかな? 顔がちょっと青いけど……」
「うん? あぁ……いや、何でもない」
 心配げなビッケバッケの言葉にかぶりを振って、ビュウは、しかし唇を真一文字に引き結んで胸元をさすった。胸甲に覆われたそれをさすったところで、何が良くなるわけではないのだけれど。

 気分が。
 気分が、悪い。

「それにしても、まったくもって気味悪いのぅ!」
 マテライトの大声が、深緑の薄闇にこだまする。茂る木々の葉のせいで陽光が全く届かず、苔に覆われた地面。それを見下ろし、金メッキ鎧の老人は腰に手を当てていた。
 いや、見下ろしているのは地面ではない。
 たった今彼が屠った、巨大な植物型の魔物。
「こんな気色悪い連中がうろつき回っておるなど……――おいビュウ! 何をやっておるんじゃ! 先を急ぐぞ! ヨヨ様の御身が危ない!」
「あぁ、分かってる」
 答えつつも、別にビュウは、それほど危機感を抱いているわけではない。
 ヨヨに魔物が襲い掛かっても、同行するサウザーや護衛兵がどうにかするだろう。この森にいる魔物は、数こそ多く体躯こそ大きいが、これといった脅威でもない。それよりも。

 それよりも、この、吐き気が。

 ……それこそ、切羽詰まったものではない。すぐにでも胃の中にあるものを残らず吐き出したい、というほど激しいものではない。非常に軽い嘔吐感だ。無視しようと思えば出来るものだ。
 だが、それが、この大森林地帯に入ってからずっと――かれこれ二、三時間以上――続いている、となると、話は違ってくる。体調不良は、行軍に影響を及ぼす。

(……そうだ。薬)

 まるで天啓のように閃いたその単語。今まで思い出さなかったのが不思議なくらいだ。
 ビュウたちより後方で、周囲を警戒しているプリーストたち。そこにいるフレデリカなら、何か良い薬を持っているかもしれない。何せ彼女には持病があり、驚くほどの量を常備薬として携帯している。
 ビュウは周囲をチラリと見回した。魔物の襲来は、傍にいる戦竜たちが報せてくれる。自分が少し離れても、マテライトやラッシュたちが対応できるはずだ。ならば――
「ラッシュ、少し後ろを見てくる。ここは任すぞ」
「え? ――あ、おい、ビュウ!」
 その戸惑いの声を無視し、ビュウは、元来た道を逆走するようにプリースト隊に小走りに駆け寄る。気付いて顔を上げたのは、プリーストたちを守っているルキアだった。
「あれ、ビュウ。どうしたの? 怪我?」
「いや、違う。こっちはどうだ?」
「どうだ、って……まぁ、今のところは平気。皆、大きな怪我もしてないしね」
「そうか……」
 実際そのようだった。後方で前衛を援護してくれている連中は、見たところ、大事はなさそうだ。そんな事に本当に安堵しながら、フレデリカの姿を探して――

 ウィザード隊と行動を共にしているセンダックが、青い顔をして震えているのに気付いた。

「……センダック老師?」
 ビュウは彼を呼んだ。その様子が尋常でない、と感じたからだ。こちらに顔を向けたセンダックの表情に、ビュウは、その印象を更に強いものにする。

 センダックの表情は、怯えた者のそれであった。

 こちらの姿を見とめたセンダックは、それこそすがる目をしてちょこまかと歩み寄ってきた。
 ……一瞬、吐き気が酷くなったのは気のせいだろうか?
「あぁ、ビュウ……良かった。わし、何か、怖くて……」
 気分が悪くなければ、このはっきりしない物の言い方にも、顔色一つ変えずに我慢してみせよう。だが、今ビュウを襲っている、脈打つように断続的な吐き気。これが神経を刺激している今、センダックの眼差しも口調も、はっきり言って鬱陶しい。
 そのささくれた気分も、次のセンダックの言葉で一気に吹き飛んだ。
「何か、この森に入ってからずっと、こう、背中がゾクゾクッ、として……」
「――え?」
 この森に入ってからずっと。
 自分の吐き気のように。
 己とこの老参謀の奇妙な共通点。それへの驚愕は、続く言葉でにわかに強められる。

「わし、この感覚、知ってる……。カーナの、バハムート神殿と同じ感覚……。
 もしかしたら、この森に、神竜が……?」

 バハムート神殿。
 神竜。
 ――ドラグナー。

 ドクンッ、と――
 先程よりもずっと強い吐き気がビュウを襲い、彼は堪らず、体を折り曲げた。
「――ビュウ!? ビュウ、ちょっと、どうしたの!?」
「いや……何でも、ない」
「だって、そんな、顔色そんなに悪いのに……」
 差し伸べられたルキアの手を丁重に押し退けて、ビュウは、しばし呼吸を整えてから、上体を起こす。その目は、まっすぐにセンダックに向けられた。
「どういう、事だ?」
 それだけ問うと、しかしセンダックは困惑した表情でフルフルと緩くかぶりを振る。
「分からない……。でもわし、ワーロックだから……ずっと陛下のお傍にお仕えしてたから、分かる。この森に、神竜がいる」
 断言した。ビュウは表情を険しく引き締めて、周囲に注意を向ける。

 神竜のいる森。
 そこに、ヨヨを連れて入ったサウザー。

「……サウザーはこんな所に、何の用事があると思う?」
「それも分からない……。でもきっと、姫と関係あると思う」
「……だな」

 ――本音を言えば。
 今すぐ、この場から逃げ出したかった。
 ここにいてはならない。ビュウの本能が、そう告げている。いてはきっと、取り返しのつかない、後戻りの出来ない道を歩む羽目になる、と。

 ここに、この七年間、最も忌避し続けてきたものがある。
 正確には、忌避してきたものの、証明となるものが。

 逃げたい。
 逃げたい。

 ……でも逃げられない。

(ヨヨ)

 彼女がいるなら、行かなければならない。
 それを誰よりも忌み嫌っていた彼女がここにいるのならば、自分一人だけ尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかない。
 息を吸って、吐く。それだけで、大分気分がマシになった。
 大丈夫。まだ、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、ビュウは、マテライトたちの所へと戻ろうとし――
「――あれ?」
 そのマテライトたちの姿が、いつの間にか消えていた。いるのは、ちょうどビュウへと駆け寄ってきたビッケバッケだけ。
「ア、ア、アニキぃーっ!」
「どうした、ビッケバッケ。オッサンたちは?」
「それが……」
 そしてビッケバッケは、とんでもない報告をしてくれた。
「何か、サウザー皇帝を見つけたみたいで……タイチョーさんと二人で飛び出しちゃって、ラッシュとトゥルースが追いかけて行っちゃった」

 …………………………

「――あんの短気ジジイがっ!」
 そしてビュウも駆け出した。





§






 大森林地帯の中枢たる、開けた台地。
 ポッカリと木々が途切れ、燦々と光が降り注ぐそこは、この広大な深緑の闇の中で唯一、鮮やかに輝くエメラルドを湛えている。
 これまでの陰鬱な風景に神経をすり減らしてきた者にとって、その場所は、ハッと息を飲むほどの美しく見えるはずである。

 だがそこに、その景色とは相容れない気配を撒き散らす者たちが、二手に分かれて睨み合っていた。

「ヨヨ様っ! ヨヨ様、爺にございます! マテライトめにございます! お助けに参りましたぞ!」
「……カーナの旧臣たちか。大分狩り出したと思ったのだが、まだ残っていたのだな」

 戦斧を構え闘志を剥き出しにするマテライト、タイチョー、ラッシュ、トゥルースの四人。
 彼らに対し、サウザーは、左右に控える親衛隊員に、片手を上げて合図する。

 戦いを始まりを告げる喚声が、どちらからともなく上がる。


 
 台地の上に、緑の小山がある。
 苔と雑草に覆われた、それは竜の化石だった。
 眼下で始まった戦いをまるで嘲るように、それは、翼を折り畳み、尾を体に巻き、頭を横たえた腹に押し付ける、そんな眠る姿勢で佇んでいる。


 その竜の化石を、パルパレオスの背にかばわれているヨヨが、チラリと振り仰ぐ。
 一瞬だけ誰の目からも死角になったその表情は、青ざめたままで変わりはなかったのだが――その双眸だけは、一転して、溢れんばかりの憎悪に彩られた。

 

 

 

目次次頁へ前頁へ