――……おんぎゃあ、おんぎゃあ、おんぎゃあ、おんぎゃあ…… 赤ん坊。 赤ん坊の、声。 力強くも激しい赤ん坊の泣き声が、闇夜に反響していった。 夜も更けた貧民街の狭い路地。周りを取り囲む雑多な廃屋には灯りはなく、人の気配もほとんどない。命が絶え果てたかのような暗闇と静寂の中、こだまする赤ん坊の泣き声はそれらを恐れ、拒んでいるかのようだった。 火がついたように泣く赤ん坊に、反応する気配は一つもない。 ――いや、 「――――――ああ、よしよし、よしよし……」 不意に、泣き声とは別の声がした。 女の声だ。まだ若い。あやす声はどこか虚ろで、ひどく疲れている。 その時、空に浮かぶまばらな雲の切れ目から、月のか細い光が差し込んだ。 貧民街の闇が、弱々しくも払われる。 照らし出された声の主は、二十歳をいくらか過ぎたばかりの女だ。長い旅の途中らしい、身にまとう旅装は哀れなほどに汚れていた。服だけではない、無造作に束ねられた長い蜜色の髪も、それを束ねるリボン代わりの青のバンダナも、服の上に身につけた革製の防具も、泥や埃、そして――返り血で、汚れきっていた。 白い細面もまた、同様だった。 だがそれ以上に、その美しさがくすんでしまうほどの疲労が目についた。やつれきった顔は、声同様どこか虚ろで、見る者を不安にさせる危うさをはらんでいる。それを感じ取っているのか、女が腕に抱く赤ん坊は中々泣きやむ様子を見せない。 女は、赤ん坊を大切そうに抱いている。 汚れ一つない絹のお包みの中、生まれてからそれほど経っていないだろう男の子に目を落とし、ぼんやりと見続ける。 ふと、女は赤ん坊に人差し指を近づけた。 すべすべして、ぷっくりした、桃色の柔らかな頬を軽くつつこうとしたのだ。意識したわけではない。ただ自然に指を近づけていた。だが、女はハッとして寸前で止める。 赤ん坊に比べて、自分の何と汚れている事か。 泥、砂埃、汗、垢、そして、血。 赤ん坊に触る手ではない。 赤ん坊に触れていい手ではない。 だが、 「…………っ」 女は、息を詰める。 泣き疲れたか、ようやく声を落としだした赤ん坊が、不意に手を伸ばし、 女の人差し指を、握った。 弱々しい、力で。 女は目を見開く。 赤ん坊を凝視する。 見開かれた碧眼に涙が浮かぶ。赤ん坊の、女と同じ色合いの青い目がパチクリと瞬きし、くすぐったそうな笑い声と共に細められた時、その涙は頬を伝って流れて落ちた。 ああ―― 女の吐息が、ほの白い月光に溶けて消えた。 その口元に、徐々に、笑みが浮かんだ。 虚ろさばかりが目立った無表情が、どうしようもないほどの安堵と歓喜の微笑に取って代わられた。 「ビュウ……――」 愛おしさを込めて囁かれた名に、赤ん坊がきゃっきゃと笑う。 彼女は我が子をしっかりと抱き直すと、そっと頬を寄せた。 「こんな所に、いたのね……――でも、もう大丈夫よ。お母さんが、いるから。ちゃんとここにいるから。もう絶対に離さないわ。絶対に、絶対に……」 小さく、囁くように語りかけ―― 女は決然と表情を引き締めると、再び動き始めた。 急がなくては。 早くここから離れなければ。 我が子と身一つで旅立って、やっとここまで来た。だが気を抜いている場合ではない。追っ手はまだ来るだろう。自分と、この子を殺しに。 ――誰にも、 ウトウトとし始めた赤ん坊を起こさないよう、細心の注意を払いながら女は歩き始める。 ――誰にも、この子に手出しをさせない。殺させない。 命に代えても、守り抜く。 長旅で疲れきり、重くなった足を引きずって、街の外へと向かう女。 その足は、確かに、この聖国カーナの王都に向けられていた。 §
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