もちろんそれは空砲だ。いくら軍人だからと言って、任務外に、しかも民間人相手に実弾を発砲できるはずもない。 だが効果はそれで十分だった。座敷で繰り広げられていた、情けないほどの乱痴気騒ぎ。銃声三発で、一瞬にして沈静化する。 それを認めてようやく、ユイはゆっくりと座敷を見回した。ウォン家とタウンゼント家、それぞれの親類縁者。見覚えのある顔、初めて見る顔。どれもこれも目を丸くして、今何が起こったかを理解しきれないでいる。 落ちた薬莢がその熱で畳を僅かに焦がすのも気にせず、ユイは天井に向けていた銃口を下ろす。硝煙を吹き消すと、その拳銃を携えていたバッグにしまって、 「さて、皆様お静かになった事ですし、早速ですが本題に入らせていただきます」 「ユ、ユユユ、ユ、ユ、ユイ? お、おま、お前、いきなり、な、何、何を――」 壊れた音声データのように言葉を明瞭に紡げないのは、座布団にへたれ込んだまま――多分、腰を抜かしているのだろう――こちらを見上げる、喪服姿の長姉だった。ユイは笑って、 「お久しぶり、ケイ姉さん。今のは、一番手っ取り早い鎮圧方法だけど、それが何か?」 「な、何か、ってお前――」 口を開閉させるケイを無視して、ユイは座敷をザッと一瞥する。元は襖で間仕切りされた座敷は推定三十畳。ユイの記憶が確かなら、奥にはもう一間あったはずだが、襖が閉じられている。という事は……マイとロバートの遺体は、そちらに安置されているのだろう。 後で対面くらいしなければ、と思いつつも、そう長くヒノに滞在できるわけでもなかった。元々ユイは、仕事のついでに故郷に寄ったのだった。そうしたら、次姉夫妻の殺害を聞かされ、上の甥が怪我を、下の甥が意識不明の重体である事を聞かされ、病院に駆けつけて―― きっと自分がそうする義理はないのだろう。 未婚のまま子供を産み、相手の男とは結局結婚しないままダラダラと関係を続けている軍人のユイ。地主の長男と結婚し、その子供を産み、ヒノ政庁で公務員をしていたマイ。昔から仲が悪かった。何かと対立していた。 自分がカインを引き取る義務はない。だが。 だがユイは、そうすると決めたのだった。 「さて、皆様――」 ポカンと口を開け、両目を見開いたまま座敷の入り口に立つこちらを見上げる一同。その間抜けな顔に冷ややかな作り笑いを向けて、ユイは宣言した。 「皆様が今後の扱いに悩んでいらっしゃる姉マイの遺児カインは、この私が引き取りたいと思います」 銃声に驚いて家を振り仰いだカインに、タイキは笑って、 「あぁ、気にしなくていいよ。どうせ空砲だし」 「……空砲?」 「ユイの仕業だ。大丈夫。死人も怪我人も出ないさ」 「ユイ叔母さんが、何で……」 「多分、一番手っ取り早いからだろう」 何がだ。 そう聞こうかと思ったが、それよりも早く、相手が本題を切り出した。 「とにかく、今ユイが皆の説得に行っているけど、君自身の決断がなければどうしようもない。だから、俺はユイに代わって提案する」 「……提案?」 「ユイの家に、来る気はないか?」 ユイの家。 「中央に……?」 「そう、中央――セントラル3=テンゲンだ。君にとっちゃ、そう悪い話ではないと思うが?」 「何で――」 「?」 「何で……ユイ叔母さんが?」 呆然と問うと、タイキは目をしばたたかせてから、困ったように顔をしかめて首を傾げる。 「うーん……それは、何と説明したものか……。いやね、実は、俺もそれについてはちゃんと理解できていないんだよ」 「何だよ、それ」 無感動に、カイン。すると相手はハハハ、とあっけらかんと笑い、 「うん、そうだな。確かに、何だよ、だね。そうなんだが……」 と、言葉を濁してから、タイキはしばらくカインから視線を外した。それから、ポツリポツリと、 「……彼女は俺に、何故君を引き取るのか、そのちゃんとした理由を話してくれてはいないんだよ。だから、それについては俺も何とも言えない。……もしかしたら、ユイもどうして引き取りたいと思ったのか、よく解っていないのかもしれないな。ただ、俺が解る事と言えば」 そう言葉を切ったタイキを見上げる。彼の黒い瞳は、遠いどこかを見ていた。 この青く晴れ渡った空。その向こう。カインがまだ見た事もない遥かな暗黒の絶対真空。あるいは、その先。 「彼女は、君を引き取ると決めた。そして、決めた事は必ずやる」 それがユイという女。 カインはそれを知っていた。 彼は、しばらく考えてから、ふと口を開いた。 「……あのさ」 「何だい?」 「中央に行けば」 脳裏をよぎるのは白い風景。 白い、白すぎる病室。白い壁と床の部屋の中央に置かれた、白いベッド。そこに仰向けに寝かされた弟は、体中に管が取り付けられて、それぞれが何かしらの医療機器に繋がっていた。 その姿は……泣く事も出来ないほどに、痛々しく見えた。 ほんの数日前まで、元気にカインの手伝いをしてくれていた弟が、今はもう、動く事はおろか、自分の力で自分の意思を伝える事すら出来なくなってしまっていたのだ。 「あいつは……治るの?」 「さぁ?」 タイキはあっさりとかぶりを振った。余りにも簡単に、それこそ間髪入れずに。 その素っ気なさにカインが思わず目を瞠ると、向こうはこれといって表情も動かさず、 「君の弟の怪我は、そういうのに慣れてる俺から見ても余りに酷い。中央の最先端の医療を受けさせたところで、完治どころか意識が戻るかどうか……。まぁ、分の悪い賭けみたいなもんだ」 そう、言葉を切って。 タイキはカインを見下ろした。 その目は、厳しかった。 「だが、賭けるのは君だ」 カインは口ごもった。 長い硬直から最初に脱したのは、初老の男だった。 ユイはその男を何度か見た事があった。一度目は姉の結婚式、二度目は新年の挨拶回り。鷹揚な、しかし礼を重んじる男だと、彼女は記憶していた。 名をリチャードというその男こそ、マイの舅、義兄ロバートの実父、すなわち、カインの祖父である。 「……何を、馬鹿な事を」 リチャードが重い口を開いて、ようやくそれだけを言う。ユイは余所行きの笑顔を決して崩さずに、その言葉を真っ向から受け止めた。 「君が、カインを引き取る、だと? 馬鹿な事を……。カインはロバートの長男だ。いずれ、このウォン家を継ぐ子だ。それが、祖父であるこのわしを差し置いて、君が引き取る、だと? こんな日に、冗談は――」 「こんな日に冗談を言うほど暇でもないですわ、私も」 その言葉をあっさりと切って捨てると、しかしユイは威儀を正して彼の前に正座した。 この親類たちだ。ここでどんな茶番を繰り広げてきたか、大体予想は付く。 だが、例え茶番であったとしても、守らなければいけない礼はあるのだ。 ユイはリチャードに向かって、深々と頭を下げた。 「改めまして――この度は、ご愁傷様でございます」 「……今更、何を」 「先の無礼はどうぞご容赦ください。ああでもしないと」 頭を上げ、チラリと彼の背後に群がる親類たちに視線を向ける。 「私の話も通じなさそうでしたので」 その言葉を受けたリチャードは、やはりチラリと、目だけで親類らを見やる。しかし何も言わずに、ユイに視線を戻した。 「それで、一体どういう了見で、あの子を引き取るというのだ、君は?」 「その方が、皆様色々と面倒がなくてよろしいかと思ったのですが?」 彼女の言葉に、一部の親戚たちは目を伏せる。色々と思い当たる節はあるらしい――まぁ、当然だろうが。 「それに……あの子の治療は、ヒノでは出来ません。中央に移送したとしても、一般の病院では難しいでしょう」 「…………」 「重度の脊髄損傷、及び脳幹を初めとする一部脳の重大な機能喪失……。脊髄は、かろうじてクローニングによる移植治療が可能ですが、脳はそうはいきません」 「……………………」 「私は仕事柄、医療方面に顔が利きます。帝国中央医療総合病院で、最先端の脳外科手術を受けさせられます」 「………………………………………」 「カインは」 甥の名を出すと、リチャードの表情が動いた。 「カインは、弟の治療を最優先に考えています」 「――だが」 と。 リチャードは、絞り出すように呻いた。 「だからといって、わしは、そう簡単に『はい、そうですか』とカインを君に連れていかせるわけにはいかん」 「そうでしょうね」 ユイはあっさりと頷いた。 「私だって、無理にカインを連れていこう、というわけじゃありません。あくまであの子の意思を尊重します。ですから――」 彼女はそこで口をつぐんだ。 背後に気配を感じたからだった。そしてユイの後ろを見たリチャードが、ハッと表情を変える。険しさから、痛ましさへ。 「カイン――」 ユイは背後を振り返った。タイキに付き添われて、左頬の白い絆創膏が事件の傷跡を想起させて痛々しいカインは、十歳という年齢には不釣合いな険しく思い詰めた表情で、座敷の入り口に立ち尽くしていた。 少年は、ボソリと、小さく唇を動かした。 「俺」 ゴクリと、誰もが続く言葉を待つ。 「ユイ叔母さんの所に行く」 「……決まりですわね」 ユイは微笑んだ。 結局のところ、何だかんだ言ってカインの意思は全面的に受け入れられた。 地方の慣習はともかく、汎銀河帝国の法体系では一個人としての意思が認められるのは六歳からだ。カインの決意に水を差すような事を言い出した親戚たちには、ユイがそう言って黙らせてしまった。 それを見ていると、 「……叔母さんって、凄いんだ」 「何、知らなかったの?」 「再確認しただけ。でさ」 と、カインは隣を見上げる。 「何で、ユイ叔母さんと一緒じゃなくて、俺といるの?」 家の中にいるのも何となく気詰まりするから、と庭に出ていたカインに、タイキはくっついてきていた。まるで寄り添うように。 こちらの問いに、彼は困ったように笑って、 「いや、何と言うか……まぁ、俺にも色々あるんだよ。分かる?」 「ユイ叔母さんと結婚してないから居づらいの?」 「……はっきり言うねぇ、君も」 苦笑いもそのままに、タイキは小さく呟いた。 「君くらいの歳の子供にそういう事をズバッと言われると、何と言うか、身につまされる思いがするね」 「俺の母さんが言ってたんだ。あんたの事、色々」 「どんな風に――は、聞かない方がいいな。ユイから聞いた限りだと、君のお母さんは随分キツい性格だったみたいだし」 「まぁね」 タイキと子供たちと共に姉夫婦との対面を済ませたユイは、時間がないから、と、通夜の席でカインの今後についての詳しい話を親戚たちとしている。引越しや転校手続きといった一般的な話題から、警察の捜査状況やら宇宙軍の現状やらそれにまつわる中央の現状やら、そういう子供にすれば特殊な話題まで。 「……一つ、聞いていい?」 「何を?」 「あんたがさ、キリトとトウカの父親なんだろ?」 「そうだけど、それが?」 「って事はさ、普通ならユイ叔母さんと結婚してるはずだろ?」 「まぁ、そうだな」 「何で結婚してないんだよ」 まだ十歳のカインには、子供を作る事とはどういう事か、とか、子供を作るような男女がどういう関係にあるか、とか、そういう生臭い事は解っていない。 ただ理解している事というのは、父親がいて、母親がいて、子供がいる――それが、普通の、そしてあるべき家族の姿だ、という事。 なのに、この男はユイとの間に子供を儲けていながら、ユイと結婚していない。マイはそれを「無責任」と罵っていたが、カインも母の言葉には頷けるところがあった。 キリトとトウカの父親なのに、ユイと結婚していない。ユイたちと一緒にいない。それは、正しい父親の姿なのだろうか。 それでは……あの男と、同じではないか。 妻を無視し、子供を蔑ろにし、家に寄りつかなかった、自らの父と。 カインの直截な問いに、しかしタイキは、 「さぁ?」 思わずガクッ、と肩を落とす。それからすぐに睨みつけ、 「何だよ、それ」 「何だよ、って……君ねぇ、大の大人がそんな事真面目に話すと思う?」 「……………………」 冗談めかして答えたタイキだったが、それでも睨むこちらを見て、真剣に問うている、という事は解ったのだろう。何か答えよう、と唇を動かす。 「……まぁ、何だ。簡単に言ってしまえば……――ユイは、結婚を望まなかったんだ」 「叔母さんが?」 「そう。 もう八年近く前になるか――ユイが妊娠した、つまりお腹にキリトが出来たと聞いた時に、俺はすぐに、結婚しようと言ったんだ。でも彼女は、その必要はないと言った」 「……何で?」 結婚の必要はない? 必要がないとはどういう事だろう? というかこの男、結婚しようと、つまり責任を取ろうとした? 頭の中に満ちた疑問符は、顔にまで出てしまったのだろう。こちらの顔を見たタイキは、やはり微苦笑していた。 「何と言っていいか――君にはまだ、難しい話かもしれないけど」 そう前置きして。 「多分彼女は、意地を張ったんだろう」 「意地?」 「そう。子供が出来たからと言って、結婚して男にすがるような弱い女じゃない、と――あのお歴々に言ってやりたかったんだろう。随分嫌味を言われていたみたいだから……」 そして、彼はポツリとこう言った。 「俺は、そんな彼女だからこそ、支えてやりたかったんだけどなぁ……」 その表情。 困ったような、諦めたような、仕方のないような。 しかし、どうしようもなくいとおしげな。 それを見た途端カインは理解した。 だから、その言葉は自然と口を突いて出た。 「……あんたみたいな人が俺の父さんだったら良かったのに」 「え?」 「何でもない」 カインはかぶりを振った。そうしながらもふと思い返すのは、あのどうしようもない両親だった。 文字通り、どうしようもない両親だった。 揃って家庭を顧みなかった。家事もろくにしなかった。人の事ばかりにケチをつけて、自分たちがそれ以下である事を理解しようとも――いや、気付こうともしなかった。 タイキを見る。彼は、黙したカインから視線を外し、先程と同じように向こうで仲良く遊んでいるキリトとトウカを見つめている。ふと二人がこちらを見ると、それに合わせて、彼は子供たちに軽く手を振る。それ以外は何も言わず、何もせず、しかしその眼差しもその動作も、全てが我が子への愛に満ちた、そう、見守っている、という事をそのまま体現している。 そんな眼差しも動作も、生まれてこの方、カインは受けた事がなかった。 普通の家庭で生まれたはずなのにどうしようもない両親に育てられたカインと、未婚の母に育てられながらもちゃんと父母の愛を受ける事の出来るキリトとトウカ。歳の近い従兄弟同士で、この差は何なのだろう。 マイがかつて、「結婚して責任も取らないような最低な男」と評した、タイキ=ヨシカタ。 この男が、父だったら。 所詮単なる仮定法なのは解っているのだが。 「――カイン、いらっしゃい!」 家の方から呼び声がする。張りのあるアルトボイスはユイのものだ。 「あんたがいないと話にならなくなってきたわ――まったく、これだから田舎は! どうしてこう、しがらみが多いのかしら!」 喚く叔母の声は相当苛立っている。カインは思わずタイキを仰いだ。彼もまた、こちらを見下ろしていた。 タイキは、妙に疲れた顔で、 「……まぁ、頑張りなさいな」 「……うん」 それは何も、ユイに当たり散らされる事だけではないのだろう。どうであれ余り愉快な思いをする事はないな、とカインは頷いて歩き出す。 ふと立ち止まり見上げた空は、腹が立つくらいに青かった。 人が死んだのに、それでも空は晴れ、美しい。 死んだのはあの両親だというのに、何故こんなにも腹が立つのだろう。 答えが出たのは、その十五年後だった。 |