煮立つ鍋に、カップ四分の一の薄口醤油を回し掛ける。

「――おぉい! 酒、酒はどぉしたぁ!?」

 それから、落とし蓋。電熱コンロの温度を弱め、コトコトと煮ていく。

「お義兄(にい)さん、ちょっと飲みすぎじゃないですか――」

 背後でチン、と小さな音がする。電子レンジのタイマーが切れた音。

「おぉ、コウキ君じゃぁないか! ちょっと、こっちに来て、まぁ一杯――」

 レンジの中から、温めていたかぼちゃを取り出す。煮た時のようにホクホクしている。

「ねぇねぇ、住職さんへのお経代っていくらぐらい包めばいいの?」

 それを裏ごしするために、木べらと篩(ふるい)を持ってくる。温めたかぼちゃを裏返した篩の上に乗せ、木べらで横に滑らせ、押し付ける。

「五万くらいでいいんじゃない?」
「何を言ってるの、メアリ。もっと用意しないと。ウォン家はお経代を渋る、なんて言われたら恥ずかしくて道も歩けなくなるわ」

 ――その手が、止まる。

「そうですか、伯母さん?」
「そうよぉ。だから、最低十万は包んでさしあげるのよ? ――大丈夫、ロバート君が結構残しておいてくれてるから、十万くらい平気で出るわよぉ」
「ちょっとちょっと! こっちのお皿もう空よぉ! お料理はどうしたの!」
「おい、酒! 酒はどうした!」

 遠くから聞こえてくるのは、耳にするのも堪えがたい騒音だった。声も、話している内容も。
 だが、不思議と心は平静だった。この木べらを放り出し、台所を出て廊下を曲がりくねった先にある座敷で飲んだくれている親類たちに怒鳴り込んでも良いのに、そうしようという発想すらない。
 それは、多分――

「カイン――あらヤだ、一人なの? サカキノのシュナさんやタノガヤのセイカちゃんは?」
 台所の入り口から声が転がり込んできた。困惑して気遣わしげな、しかしどこか他人事のような調子を持った女の声。
 肩越しに振り返る。黒い留袖に身を包んだ女が、パタパタと気忙しげにこちらへと歩み寄ってくる。
 母の姉のケイ=サクラ=タウンゼント。その面差しは確かに母によく似ていたが、しかし厚化粧したその顔は、何とも言えず見る気が失せる。
「……座敷の方に行った」
「座敷に? ……嫌だわ、この子に料理を全部押し付けるなんて!」
 と言うか、その座敷から来たんじゃないのか、あんたは? だったら気付いたろ、父の従兄の嫁さんやら母の又従妹さんやらが座敷にいれば。
「お料理がまだか、ってジェイムズさんが騒ぎ出しちゃってねぇ。でも、カイン一人なら仕方ないわよねぇ」
 ジェイムズ。飲んだくれている父の弟。実兄の葬式で、何でそんなに酒を飲むんだろうかあの人は。
「……そこの」
「え?」
「そこにあるの」
 ケイの傍にあるテーブルを顎で示す。先程出来上がったばかりの魚料理がそこにあった。
「あら、ちょうど良かった! じゃあ、これ持ってっちゃっていいわね?」
「うん」
「あー、良かったわぁ。ジェイムズさんってば、うちの人にもお酒飲ませちゃうから……」
 とか何とかブツブツぼやきながら、ケイは皿を持って台所を出ていく。両親を亡くして間もない甥っ子には、特に気遣いもないらしい。
 まぁいいか、と彼はボンヤリと思う。あの喧騒がそのまま全部自分への気遣いに回されるのは、考えるだけでうんざりする。いや、そもそも、あの親戚たちはこちらを気遣う事は多分ないだろう。座敷の騒ぎを遠くに聞いていれば分かる。
 あんな両親を輩出した、ウォン家とタウンゼント家の親類縁者たち。その性質については、両親の性格を見ていれば何となく予想がつくというものだ。

 きっと、だから、なのだろう。
 あんな、通夜とは思えないほどの、奇妙な陽気さと死者を悼む気持ちなど皆無な打算に満ちた会話を聞いても、特に何も思わないのは。
 両親への失望は、そのままその兄弟姉妹たち、あるいは従兄妹たちへの失望へとつながり――


 だから、彼の感情は動かない。
 両親があんな死を遂げても、涙一つ流さない。
 親戚たちが自分本位の会話を繰り広げていても、怒り一つ湧かない。

 左頬に大きな絆創膏を張った喪服姿のカイン=ウォンは、再び黙々と、かぼちゃの裏ごしを始めた。



 カインの両親が死んだのは、五日前の事だった。
 殺されたのだ。
 発見したのは、夕飯の買い物に行っていて帰宅したカイン自身だった。
 直後、カインもまた殺人者に襲撃を受けた。しかし、殺人者は何故かカインを殺さずに生かした。その意図を、捜査に当たる警察は掴みかねている。
 その辺りの事情をカインが知ったのは、その翌朝、四日前だった。殺人者に襲われ、気絶したカインは病院に搬送されていた。
 そして聞かされたのは、自分の他に生き残った弟の事だった。負わされた怪我はヒノで治療しきれるものではなく、中央でなければ無理だ、と。

 だからカインの今の関心事は未だ意識も戻らない弟だけにあり、こんな茶番劇じみた葬式には、最初からないのだ。



 そもそも、何故故人の遺児であるカインが料理をしているか、といえば、その理由の一端にはウォン家の葬式に関するしきたりがある。曰く、一族の者の葬式は本家で執り行う。曰く、通夜で出される料理は全て仕出しの弁当や出前で賄うのではなく、手作りとする。曰く、通夜は葬式前日の昼間から始め、親類だけでなく近所の人たちにも、死者とのお別れをしてもらう――
 旧家だか名家だか知らないが、迷惑な話だ。
 父ロバートは、ウォン家の長男だった。いずれは、ウォン家がこの本家一帯に所有する土地のほとんどを相続するはずだった。母のマイは、そんな父に嫁いだ、いわゆる「長男の嫁」だった。だから当然葬式をタウンゼント家ではなくウォン家の主導で執り行い、もちろん喪主は、カインの父方の祖父母、ロバートの両親だった。
 要するに、この葬式において、自分の担う役割は余りに少ない。そして手持ち無沙汰でブラブラしていると、親戚が何やかやと構ってきたり、「長男の長男なのだからああしろこうしろ」と要らないお説教をしてきたりする。
 あの親戚たちに構われるのならば、いっその事台所を占拠して一人黙々と料理をしている方が余程気楽だった。何も考えなくて済む。
 何も、考えずに済む。





 坂の上に、その家は建っていた。
 築百年近く経つらしい、古く大きな木造家屋。それを人伝に聞いた時、随分と驚いたものだった。木造で築百年。合成特殊建材を一切使わないで、百年。それは、現在の基準からするととんでもないものだった。
「……ここまででいいわ」
 タクシーの運転手にそう短く告げ、彼女は後部座席に座る子供と男に降りるように言った。
 車外に出る。中央標準時はまだ秋だというのに、ヒノのこの地方はもう冬も間近だ。晴れ渡った青い空が、何だか場違いな雰囲気を醸し出している。
「――さて」
 と、彼女は腰に両手を当てる。坂の上の屋敷を見据え、
「作戦は、解ってるわね?」
「作戦って……君ねぇ、俺たちは君のお姉さんのお通夜に来たんだよ? そんな、この前のバスティア反乱軍掃討作戦の時みたいな言い方は――」
「何を言っているの、タイキ」
 彼女は背後の男を振り仰ぐ。黒いスーツに身を包み、しかし左右の手で子供たちと手を繋ぐ彼は、服装さえ変えれば、そのまま子供と遊びに行くくたびれた父親の姿をしている。
 だが、
「ここから先は戦場よ。気を抜かずについてらっしゃい」
「……だから、何でお通夜で戦場――」
「キリト、トウカ、段取りは分かってるわね?」
「父さんと一緒に、カイン兄ちゃんを確保」
「それから、おうちに来て、って頼むんだよね!」
 二人の子供――キリトとトウカの答えに、彼女は満足げに頷く。それから、子供たちの父親――決して「夫」ではない――であるところのタイキ=ヨシカタの顔を改めて見て、
「子供たちの前で、情けない失敗はしないでよ?」
「……了解しました、少佐殿」
「よし。なら――」
 そして。
 やはり黒いスーツに身を包んだユイ=サクラ=タウンゼントは、ニヤリと不敵に微笑んで、坂の上の家、ウォン本家を見上げた。
「戦闘開始」





 座敷からの騒音は相変わらずで、しかしカインの手もまた相変わらず動いている。
 別に構わない。あの親戚たちがプロデュースするこの茶番劇に付き合わなければいけないのは、明日までだ。明日が終われば――
(……俺、どうなるんだ?)
 両親は死んだ。つまり、扶養者が。
 では、これから先自分はどうすればいいのだろう。順当な線でいけば、誰かに引き取られる、だが――
(嫌だなぁ……あのオッサンたちの誰かのトコに行く、なんて)
 ウォン家もタウンゼント家も多産の家系。それはつまるところ、親戚が多い、という事実に他ならない。
 父には、弟と妹がそれぞれ一人ずつ――ジェイムズに、メアリ。
 母には、姉が一人、妹が二人――姉がケイ、妹がユイとレイ。ユイだけまだ姿を見せていない。
 五人の叔父・叔母たちの中で、ユイ以外は全て既婚者。そしてそのユイも含めて、全員に子供が、家族がいる。
 例えば誰かに引き取られたとする。一家の団欒の中に、その一家ではない、しかし血の繋がったカインが入る。完全な他人ではなく、かと言って家族とも言いがたい、中途半端な異物が。
 そうした時の、違和感にも酷似した居心地の悪さを想像し、彼は身震いした。気遣い、気遣われ、延々と続くよそよそしさの中で日々を過ごす。想像しただけで胃がよじれるようだ。
(……でも、どうだろうな)
 ある可能性に思い当たり、カインはその予想に訂正を加えた。十中八九、あの親戚たちは自分を引き取る事に積極的になれない。いや、むしろ、甥を扶養する、という義務をなすりつけ合うだろう。それこそ積極的に。
 何せ、子供の世話もろくに出来なかった両親の兄弟姉妹だ。期待が出来るはずもない。
 となれば、己の引き取り手はやはり祖父母だろうか。特に父方は、ロバートの死にいたくショックを受け、その嘆きたるやカインを凌ぐほどだった。息子の忘れ形見、といって引き取ろうと考えるのは、想像に難くない。
(けど、そうしたら)

 今尚意識の戻らない弟は、どうなるのだろう。
 ヒノでの治療は不可能。中央に移送するしか、ない。

 それは、自分自身の事よりもずっとずっと重要な事だった。
 そして思い当たる。十中八九どころか、あの親戚たちは絶対に自分を引き取らない。カイン自身の養育費も含めて、弟の莫大な治療費を捻出しようとは考えない。何せ、ロバートが僅かばかり遺していた金を住職への謝礼金を初めとする葬式費用に当てようと考えているのだ。そんなハイエナみたいな連中が、自分の資産が減るのを歓迎するものか――

 そしてその時に、台所に甲高い声が転がった。

「カイン兄ちゃんっ!」
「カイン君久しぶりーっ!」
「――だぁっ!」

 ガツンッ。

 歓声と同時に背後から襲った衝撃が、カインをつんのめらせ、よろめかせ、流し台のへりに頭をぶつけさせる。その痛みに堪え、堪えきって、
「……あ、ごっめん兄ちゃん」
「大丈夫ー?」
「……なわけあるかよ!」
 ぶつけた額を押さえて後ろを向く。
 そこに見出した姿にカインが痛みも怒りも忘れてきょとんとするのと、相手が場違いなまでに笑いながら挨拶するのは、ほぼ同時だった。
「兄ちゃん、久しぶり!」
「元気だった?」
「……キリト、トウカ」

 キリト=サクラ=タウンゼントと、トウカ=サクラ=タウンゼント。
 母マイのすぐ下の妹ユイの子供たちで、カインの従弟妹である。キリトはカインより二歳下で八歳、トウカは更に一歳下で七歳だ。
 喪服なのか、キリトはお仕着せのような黒のブレザーとズボンを、トウカは可愛らしいフリルつきの黒のワンピースを着ている。
 と、いう事は。

「叔母さん……来たのか?」
「うん。今、お座敷の方に行ってる」
「でねカイン君、ちょっといい?」
「へ――って、おいっ!」
 こちらの了解も待たずに、トウカはカインの左手を掴んだ。そのままグイッと引っ張る。裏ごしするのに相当の未練を残しながらも、カインはそれに従わざるを得なかった。木べらを放り投げ、引っ張られるままにされる。
 カインを伴って、キリトとトウカは台所を出る。親戚たちが宴会を続ける座敷とは反対方向に進み、玄関を出て、
「父さーん!」
「カイン君確保ー!」
 玄関の方に背を向け、辺りを眺めていた黒スーツの中肉中背の男が、キリトたちの声を受けて振り返った。
「……父さん?」
 キリトが呼び掛けに用いたその単語に引っ掛かるカイン。ユイは、結婚していない。いわゆるところの未婚の母。だが、キリトが「父さん」と呼んだ。
 では、あの男が。
「おーぅ、ありがとう。じゃ、二人とも向こうで遊んでなさい」
「えー? 僕も兄ちゃんと話がしたいしたいしたいしたいぃー!」
「あー、駄目駄目。父さんの話が終わってからだ。その後で、ゆっくりしなさい」
「ちぇーっ。……トウカ」
「カイン君、絶対うちに来てね! 来ないとヤだよ! 絶対だからね!」
 キリトに手を引かれて去っていくトウカが力強くそう言った。が――「うちに来て」?
「……先に言われちゃったな。まぁ、その方が早いかな?」
 本家の庭には池がある。そこで泳ぐ鯉を見に行った二人を見送って視線を戻すと、男はいつの間にか傍にいた。カインはギョッとして、一歩退く。そんなカインの、傍からみれば無礼な行動に、男はまるで顔色を変えず、
「いや、そう警戒されてもなー。君とこれからの話をしたいだけなんだが」
 だがカインは警戒を解かなかった。表情を精一杯険しくして、男を見据える。
 歳の頃なら、四十歳かそこらだろうか。もしかしたら、もっと若いかもしれない。やや浅黒い顔に浮かんだ老獪な薄笑いは、どうにも男を老けさせている。
 彼を見上げて、カインはボソリと呟いた。
「……俺」
「ん?」
「あんたの事、知ってるよ」
 マイは、折に触れてその男の事を話題にしていた。無責任な男だ、と。一度しか挨拶に来ないなんてどういうつもりだ、と。
「……君のお母さんから?」
 一つ頷く。そうかそうか、と男も大きく頷いて、
「けど、改めて自己紹介だ。――初めまして、カイン。俺が、キリトとトウカの父親の」

 その自己紹介の仕方は妙に回りくどかった。
 それもそのはずだ。マイの話が確かなら、その男はユイと結婚しなかった。だから、血縁上は当然のこと、戸籍上から考えても、本来カインとは無関係だ。

「タイキ=ヨシカタだ」

 ダンダンダンッ!

 タイキが名乗ると同時に、家の中から銃声が響いてきた。

 

 

 

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