実は私は、死ぬはずだった。
縛りつける鎖と背負った罪のため、私はもっと早くに死んでいるはずだった。
生の続行は希望していないもので、望まないまま生き永らえた私は、仕方がないのでおまけみたいな人生を少しでも意義のあるものにしようと思案する。
鎖も罪も私のもの。私はこれらを抱えて死ぬべき人間だ。
しかし、死ぬべきでない人間が私と一緒に死ぬと言ってくれた。
そういうわけで私は、彼を死なせない方法を思案し続けている。
歪形トライアングル
2.裏切者
端的に言って、その時の私は機嫌が悪かった。
空は快晴、風は穏やか、ここ数日戦闘はなくてファーレンハイトは開店休業状態。皆が皆ポッカリ開いた穴のような平穏に浸かりきって、艦内の空気はまったりと緩んでいる。
面白くも何ともない。
見せつけるかのような空の青さは陽気でいる事を強制しているみたいでイライラするし、ぬるいそよ風も気持ち悪くて鬱陶しい。戦闘がないのも腹が立つ。敵兵に神竜召喚を喰らわせて憂さ晴らし、と洒落込めないではないか。
でも一番イライラするのは傍にいるプリースト。
そもそもの不機嫌の原因。
フレデリカは、儚さを漂わせる控えめな微笑を顔に貼りつかせ、診察の後片付けをしていた。その様子を、ベッドに起き上がったまま何の気なしに眺めていた私は、ふと、思いつくままにこんな言葉を口にした。
「ねぇフレデリカ、ビュウが欲しい?」
「…………………………え?」
律儀に動きを止め、たっぷり間を空けて、問い返しの母音を声に乗せるフレデリカの表情も声音も、いっそ滑稽なほどに間が抜けていた。何を言われたのかが分からない、理解できない、ときょとんと見開かれた碧眼が言っている。
「……ヨヨ様、一体何を?」
愛想笑いにしても固い薄笑い。困惑と怯えの匂いを私は嗅いだ気がした。心のどこかが、井戸から汲み上げたばかりの水に手を浸したかのようにスゥッと冷めていく。
思いつきの暇潰しが審査に変わった瞬間だった。
「欲しければあげるわよ、ビュウ」
その瞬間のフレデリカの反応は劇的で、中々の見物だった。
まず彼女は、しっかり持っていたはずの薬瓶をスルリと落とした。ガチャンッ! 派手な音と共に瓶は割れ、薬液と破片を撒き散らす。それに対する反応は一拍遅い。あ、と忘我の態で呻く。そのまま声も掛けずにただ見ていればどういう行動に出たのだろう。でも思わず声を掛けてしまった。大丈夫? するとフレデリカは慌てた様子で掃除を始めた。さっき私の体を清めたタオルで床に広がる薬液の水溜りを拭き、破片を取る。
十秒にも満たない僅かな間の出来事だ。てきぱきと掃除を終えたフレデリカは失礼いたしました、と恐縮する。私はにっこりと笑みを見せた。
「いいわよ別に、それくらい」
刹那、強張る彼女の表情。チラと差す怯えの陰。私の中で増す苛立ち。それと比例して深まっていく笑顔。
「それで、フレデリカ――どうなの?」
「ど……どう、とは?」
フレデリカの声は震えていた。言葉はどもり気味だ。視線は泳いでいる。まるで捕食者に狙われた小動物の風情。
表面に出さないようにするのは中々大変なのだ。
イライラとかムカつきとか、そういう類の胸をざわめかせる感情は。
「嫌ねぇ。とぼけるなんて駄目よ、フレデリカ。私は全部お見通しなんだから」
「一体何の――」
「ビュウが好きなんでしょう?」
果たして――
フレデリカはヒュッと鋭く息を飲むと、今度こそ表情を凍てつかせた。
笑みと共に見つめる私に向けられる恐怖の視線。怖がっている。当然か、と思う一方で、このくらいで何を臆病な、と無情に斬り捨てる私がいる。そんなこちらの視線が余程怖いのか、フレデリカは僅かに身じろぎした。
逃げるように。
逃げるか。この程度で。この私の前から。スィと目を少し細めて睨むように見やれば、彼女はビクリと身を震わせて硬直した。それきり逃げる素振りは見せなくなる。そして、
「――――――ご冗談を」
微笑んだ。何とも出来の悪い取り繕いの笑顔。目は相変わらず泳ぎ、頬はヒクヒクと痙攣して、パッと見ではとても笑顔には見えない。
「欲しいとかあげるとか……ヨヨ様、それじゃまるでビュウが物みたいです。いくら何でも、物扱いは――」
――衝動だった。
知った風な口で毒にも薬にもならない事を言って、肝心の事から目を背けるフレデリカへ、私は必殺の一撃を繰り出す。
「だって、ビュウは私のものだもの」
フレデリカは絶句した。
呼吸まで止めて、見開いた目で私を見下ろしている。
その双眸に、恐れや怯え以外の色が走ったような気がして、私は更に嬉しそうに笑った。首まで少し傾げてやって、
「だから、欲しければあげるわよ。どう?」
今度こそ、私はそれを見て取った。
言い放った次の瞬間、フレデリカの瞳の中に露になった感情の色。
それは紛れもなく、怒り。
私が欲しかった感情。
もう一押しか。私は更に挑発の言葉を投げつける。自分でもわざとらしいほど朗らかに、そしていやらしい傲慢さを込めて、
「いる? いらない?」
ここまでやってあげたのに、
「――……やめてください、ヨヨ様」
怒りが消えた。
スッと外された眼差しから、私が待ち望んだ憤怒が嘘のように綺麗さっぱり消えていた。
「ビュウは、物じゃないんです……――そんな言い方、可哀相です」
道徳の本にでも載っていそうな、耳に心地いい上っ面だけの言葉。
――ああ。
自分の顔からストンと表情が抜け落ちるのが、鏡を見ずともよく判った。
――この女は、逃げるのね。
私の挑発から。
自分の欲望から。
「――あら、そう。前々から優等生、って思っていたけれど、やっぱりそうね」
さっきまでの好戦的な高揚感が、それこそ嘘のようだ。私自身が馬鹿馬鹿しくさえある。
この女で、憂さ晴らしをしようとしていた事が。
こんな女をけしかけて、ビュウにアプローチさせようとしていた事が。
こんな女に、一瞬でも、大切なビュウを譲ってやってもいいと思ってしまった事が。
興が削がれた、白けた気分で私は布団の中に戻る。気分はイライラを通り越して徒労感でいっぱいだ。ああ、馬鹿らしい。こういう時は不貞寝に限る。
上掛けを頭から被り、その隙間から手を出して、
「つまらない臆病者に用はないわ。――下がりなさい」
手で追い払う仕草をする。少しの沈黙を挟んで、かしこまりました、という途切れがちで消え入りそうな返事が聞こえた――気もしたが、もうどうでも良かった。私の興味は既にフレデリカを離れ、ビュウが持ってくる予定の報告書に移っている。
だと言うのに。
扉が開く音の直後に聞こえた声に、私はハッと身を強張らせた。
「あ――――フ……フレ、デリカ……――」
ビュウの声だった。
条件反射のように耳に神経を集中させる私。鋭敏さを増した聴覚が続けて捉えたのは、ガチャンッ! という派手で危険な音と、
「フレデリカ――!」
どこか切なさを宿したビュウの呼び声。けれどそれに答える声はなく、廊下を走り去る足音だけが布団越しに微かに届いてくる。
駆け去るフレデリカの背を、ビュウはどんな顔をして見つめているのだろうか。扉が閉められたのは、それから少し間を置いての事だった。
溜め息が聞こえる。ビュウの良くない癖は、必要以上に彼を老け込ませている。それから何か物音。入り口近くのテーブルに何かを置いたのだ。数秒前まで私が待っていた報告書を。
「――……で、いつまで寝たふりしてんだ?」
微かな棘と多量の呆れを含んだ声が、上掛けを貫いて私の耳に突き刺さる。
「レディの会話を立ち聞きしていた騎士が退出するまでよ」
面白いやら面白くないやら、私の返す声はぶっきらぼうで素っ気ない。揶揄に揶揄を返せば、「あっそ」という呆れの声音。
「じゃあ戻って寝るか。徹夜明けだし」
「冗談よ」
「知ってる」
この呼吸こそが私たちだった。
ビュウの足音が近付いてくる。私はあえて起き上がらなかった。ビュウの顔を見る気が起こらない。
そんな私を呆れているのか、それとも別の事に呆れたのか、深々と大仰に溜め息を吐くビュウ。
「……何て話題を持ち掛けてんだ、お前は」
ズズズ、と壁際の椅子を手近に引き寄せて、座っただろうビュウの苦りきった声。私は淡々と返す。
「間違った事は何も言ってないわよ」
紛れもなく、ビュウは私のものだ。
そして同時に、誤解を恐れず明言するなら、私はビュウのものだった。
そんな彼にフレデリカは間違いなく恋し、しかし私の存在に遠慮して諦めようとしている。
――ああ、イライラする。
「……で、どうしてあんな話をフレデリカに?」
あんな話――ビュウをあげる、の事か。
「駄目だったかしら?」
「当然だ」
「でも本当は、ビュウもフレデリカの事が好きなんでしょう?」
ビュウは。
――……答えない。
……前言撤回。
私の苛立ちの原因は、やはりこの男だ。
フレデリカは、その一つの収束点にしか過ぎない。
苛立ちのまま私は吐き捨てた。
「――寄り掛かってしまいなさいよ」
「……何?」
怪訝そうなビュウの声。私は構わず早口に言い募る。
「全部さらけ出して、フレデリカにもたれ掛かってしまいなさいよ。すがってしまいなさいよ。
そうされて」
苛立ちを僅かに含んだ素っ気ない声が、いつしかドロドロといやらしい挑発の響きを伴う。
「悪い気がする女なんて、いないわよ」
……私とビュウの関係は、深くて強くて、そして救いようがないほどに歪んでいる。
主従。兄妹。友人。恋人。その全てであり、どれとも異なる私たちの関係は、突き詰めていけば私が望んでも得られなかったものに繋がり、その事がいつしかお互いを縛る鎖になっていた。
そしてある時、それに罪というとんでもない重荷がぶら下がった。
それらはどうしようもないほどに重く、下ろしてしまえばどんな事が起こるか判ったものではなく、そうして思い悩んだ挙げ句、私たちは一時心中まで考えていたのだ。
でもそれから何年か経ち、私もビュウも少し変わった。私はパルパレオスという恋人を――僅かな期間ではあったけれど――手に入れ、ビュウはいつの間にはフレデリカに好意を抱いていた。
私の得たものは、かつて得られなかったものの代償とするにはとても足りなかったけれど、それでも少しは満たされた。
だから、もう十分。
どうせ私は神竜に蝕まれて死ぬ。それならせめて――
ビュウが幸せに笑っているところを見てから死にたい。
そしてそれが、私でも彼の家族でもなく、フレデリカによってでしか果たされないのであれば。
私は喜んで、ビュウをこの鎖と罪から解き放とう。
だと言うのに。
「――冗談じゃない」
ビュウの声は暗くて重くて、しかし決然とした意志を反映してどこまでも固くて揺らいでいなくて、
「他人に丸ごと寄り掛かるなんて出来るか。こいつは、無闇にさらしていいもんじゃないだろう」
その言葉の根底にあるもの。
それは、私への愛。
自惚れでも何でもない。ビュウは私を愛している。私がビュウを愛していて、その愛はパルパレオスへのそれとはかなり違うけれど、彼へ向けるものよりも遥かに大きいのと同じように。
その想いが、嬉しい。
嬉しいと思っている自分が、心底嫌いになるほどに。
――ああ、イライラする。
「……失くしたって知らないわよ」
「最初から得てもいないのに?」
ビュウの声に自嘲が混じる。それ以外の感情――切なさや愛しさのようなものも。
布団に潜っていて、本当に良かった。
そんな声を絞り出すビュウの、複雑で、そしてきっと胸が痛むほどに切ないであろう表情を見ていたら、どんな気持ちになってどんな言葉をぶつけるか、自分でも判らなかったから。
「もういいわ。――一人にして」
「ああ」
素っ気ない言葉に少しだけ安堵する。
そうだ。結局私はビュウにすがっている。そうしてようやくこの足で立っている。そうでなければ私はとっくに歩くのを諦め、この命を手放していただろう。
私の命をこの世に繋ぎとめているのは、やはりビュウなのだから。
だから。
だから。
だから私は、フレデリカにビュウを奪ってほしいのだ。
私という存在に押し潰されて、彼が不幸になってしまう前に。
でもフレデリカは略奪してくれず、パルパレオスは私よりサウザー皇帝を選び、私に欲しいものを無条件でくれるのは今も昔もビュウだけだ。
「だから……――やっぱりあげないわ」
臆病者にくれてやるほどビュウは安くないし、私の執着も軽くない。
薄暗い布団の中で私は笑った。
涙がこぼれた。
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