俺は昔からずるくて小賢しくて、自分では動かずにどうやって家族を守って戦場で生き残るか、そんな事ばかりに頭をひねっていた。
で、ずるくて小賢しいから、二君に仕えた。
一人は、今は亡きカーナ王。
もう一人が、ヨヨ。
忠誠と愛を捧げた、俺にとってたった一人の真なる主君。
騎士が王に忠誠を誓い、王がそれを承認する儀式、臣従礼。二回目の臣従礼をしたその日、俺は悟った。
俺はきっと、幸せになれない――と。
歪形トライアングル
3.卑怯者
空が、白い。
徹夜明けで酷使しすぎた目に快晴の日差しは余りに眩しくて、舷窓から艦内に漏れさす光さえ暴力的に視神経をいたぶり蝕む。
帳簿と報告書の同時処理なんか、二度とやるか。心に誓った俺の足は貴賓室に向かっている。この報告書の提出先はヨヨだ。マテライトのオッサンが処理してくれりゃあいいのに――内心で愚痴をこぼしながら扉の前に立ち、ノックをしようとする、そんな俺のボウッとした頭にヨヨの声が扉を貫いてガツンと一発衝撃を喰らわせた。
「ねぇフレデリカ、ビュウが欲しい?」
(………………………………………………………………………………は?)
「…………………………え?」
睡眠不足の頭は言葉の意味の理解を拒み、胸中でもらした戸惑いの声とかぶるフレデリカの困惑気味な問い返しが、それ故にありがたかった。
一体何が何やら、説明してくれなければ解るものも解らない。俺は耳をそばだてる。
「……ヨヨ様、一体何を?」
「欲しければあげるわよ、ビュウ」
――ガチャンッ!
ヨヨのおかしな言葉の直後に、何かが割れる危うい音。何が割れたのか。大丈夫か。そうして部屋の中に乱入して、今のわけの解らないやり取りをうやむやにしてしまえば良いものの、呆けた頭を抱えた俺は展開についていけずにポカンと口を半開きにするばかり。動く、という選択肢さえ浮かばない。
何かを割ったのはフレデリカであるらしかった――ひどくありふれたやり取りが貴賓室で繰り広げられる。謝るフレデリカと鷹揚に許すヨヨ。さっきまでの奇妙に緊迫した空気がそれで霧散し、うやむやになり、あの妙な話題も終わった――
「――失礼いたしました、ヨヨ様」
「いいわよ別に、それくらい。――それで、フレデリカ、どうなの?」
――……終わっていなかった。
あっけらかんとした口調が、徐々に愉快そうな、それでいて撤退を許さない奇妙な圧力をはらむ。自分に向けられたものでもないのにビクリと身を震わせる俺。
「ど……どう、とは?」
フレデリカの声も震えている。可哀相に――思わず同情した。見た目は深窓の姫君だが、ヨヨの本性は苛烈な激情を抱えた暴君だ。微笑みながら周囲を圧倒する事などお手の物。それに掛かってしまえばマテライトのオッサンでさえ何も言えなくなるし、ヨヨの猫かぶりに騙されていたらしいサウザーだって自分の誤りを悟るだろう。
「とぼけるなんて駄目よ、フレデリカ。私は全部お見通しなんだから」
「一体何の――」
「ビュウが好きなんでしょう?」
フレデリカが絶句する。
俺も絶句する。
頭が混乱し、思考が一気に乱れる。文脈は崩壊、単語はバラバラ、果てには文字にまで分解され、無数の文字と疑問符が手に手を取って踊りだし、脳内はいつしか豪華絢爛で大混乱の舞踏会だ。調子外れのワルツまで聞こえてくる。クルクルと踊る文字と分解から免れた単語と疑問符の輪の中、俺はようやく意味の取れる組み合わせを見つけてそれを思考に乗せた。
(ヨヨ……お前、何を――?)
「――ご冗談を。欲しいとかあげるとか……ヨヨ様、それじゃまるでビュウが物みたいです。いくら何でも物扱いは――」
フレデリカの強張った声を遮って。
ヨヨの声が、遥か高みから響く。
「だってビュウは私のものだもの」
それは獲物を弄ぶ嗜虐的な捕食者の声音。
「だから、欲しければあげるわよ。どう?」
笑みを含んだ、いっそ清々しいほどに傲慢な言葉。
「いる? いらない?」
フレデリカに向けられ、そして彼女の心を切り刻んでいるヨヨの酷薄で楽しそうな言葉が、俺の心にまで突き刺さる。
(ヨヨ――)
有り体に言えばショックだった。
ヨヨにそんな風に思われているとは、少しも思っていなかったのだ。
(俺はもう……お前にとって必要じゃ、ないのか……?)
俺はヨヨのものだった。
同時にヨヨは俺のものだった。
俺にとってヨヨは剣を捧げるたった一人の主君であり、ヨヨにとって俺は命を託せられるたった一人の騎士だった。
お互いにとって、たった一人。それはすなわち、お互いがお互いのものだという事。俺たちは確認し合ったわけでもないのにそう認識し、そして今に至る。
もちろん解っている。俺たちの関係は歪んでいる。そして十中八九間違っている。それでも――いや、それだからこそ、俺たちの絆は強固で、サウザーがしゃしゃり出てこようがパルパレオスが間に入ってこようが、決して変わる事のないものだった。
少なくとも……俺は、そう信じていた。
(お前は……俺を、捨てるのか?)
カーナがグランベロスに滅ぼされ、俺とヨヨが離れ離れになって、数年。
俺たちは変わった。
だからいつか、ヨヨが俺から離れる日が来るんじゃ、と思っていた。覚悟もしていた。パルパレオスとの事を知った時、来るべき時が来たかと思ったものだ。
だが、パルパレオスは。
反乱軍(こちら)側ではなくグランベロス(あちら)側の人間で。
ヨヨを俺から奪おうとするどころか、傍にさえおらず。
醜く見苦しい事に、俺はその事実に安堵したのだ。
失望するのではなく。
ヨヨは、俺のもののまま。
俺は最低だ。ヨヨが俺から離れていく事を予感し、覚悟し、そして本来ならばその日が来るのを喜びと期待と共に待ち望まなければいけないのに、俺は奪われる事を恐れていた。
ヨヨを救えるのは、俺ではなくパルパレオスなのに。
その事を、この世界の誰よりも理解し実感していたのに。
俺はヨヨに去られるのを怖がっている。
捨てられたくない。
捨てないでくれ、ヨヨ。
「――……やめてください、ヨヨ様」
執着でがんじがらめになった俺の思考を解き放つ、フレデリカの強張って震える声。
「ビュウは、物じゃないんです……――そんな言い方、可哀相です」
懸命に絞り出された声の方こそ哀れを催す。自分でもよく解らない感情に胸を衝かれ、ただただ立ち尽くすしかない俺は、ヨヨのつまらなさそうな声に一緒になって打ちのめされた。
「あら、そう。前々から優等生、って思っていたけれど、やっぱりそうね」
吐き捨て、切り捨てる声。馬鹿馬鹿しいとさえ思っている鋭さと容赦のなさは、フレデリカの弱腰を侮蔑する。
「つまらない臆病者に用はないわ――」
不意に声がくぐもった。厳しい声音が聞き取りづらい。それから続くフレデリカの声も、何か言っているとは判るのだが、何を言っているのか、どうにも聞き分ける事が出来ない。
そのせいで、
――ガチャッ。
「――――あ」
扉がいきなり開き。
そこから悄然とした顔を覗かせたフレデリカと、バッチリ目が合い。
俺は一瞬で頭が真っ白になった。
しまった。どうしよう。この世の終わりかと思うほどに暗く落ち込んだフレデリカ。俺はずっと立ち聞きを。ヨヨがあげると。フレデリカが、俺を好き、だと。
――では、俺は?
努めて意識の外に追い出していた疑問が、戦慄するほどの何気なさで戻ってくる。
刹那、俺は自分がどれだけ大馬鹿野郎なのかを思い出し、思い知った。
そうだ、俺は、
「フ……フレ、デリカ……――」
この人が、好きだ。
それは、自覚してはいけなかった想い。
けれど俺は気付いてしまった。自覚してしまった。抱いてはいけないと思いながら抱き、捨てなければと思いながら捨てられず、本音を必死に押し殺して彼女が向けてくれる視線の意味をあえて無視し続けた。
でも、それももう限界だ。フレデリカは顔に朱を上らせると、今にも泣き出してしまいそうな顔で俺をドンッ、と突き飛ばした。その拍子に彼女の手から落ちる薬箱。床に当たったそれが立てる物騒な音よりも、駆け去る彼女の背の方が気になって、
「フレデリカ――!」
踊る三つ編みが、金色の光を残して廊下の向こうに消えた。
行ってしまった。
反射的に追おうとして足を蹴りだし、コツン、と床に落ちた薬箱に当たった。拾い上げる。そうだ、これを返す口実で女子部屋に――いや、今行くのは得策ではないか。ほとぼりが冷めるのを待つか、ディアナに話を通して一芝居打ってもらうか――
そこまで考えて、不意に我に返った。途端に口元に苦い笑みが浮かんだ。
得策ではない? ほとぼりが冷めるのを待つ? ディアナに一芝居打ってもらう? ……何を馬鹿げた事を。
体裁を取り繕う必要があるのか?
彼女に好感を持たれようとする必要があるのか?
――ない。
そんな必要はない。
俺は、この想いを捨てなければいけない。
貴賓室に入る。
扉を閉め、入ってすぐ左側にあるテーブルに報告書と薬箱を置く。その動作の最中に溜め息が漏れていき、どうにも暗い気持ちが胸を支配するのだが、ここは気持ちを切り換えていかなければならない。すなわち、
「――……で、いつまで寝たふりしてんだ?」
奥のベッドに尖って呆れた声を投げる。布団の膨らみ、先程まであれだけ感情豊かにフレデリカをけしかけたり嘲笑ったりしておきながらすぐに寝入る、なんてあり得ない上に下手な演技をしている俺の主は、身じろぎもせず、さも当然とばかりに、
「レディの会話を立ち聞きしていた騎士が退出するまでよ」
「あっそ。じゃあ戻って寝るか。徹夜明けだし」
「冗談よ」
「知ってる」
俺は肩を竦めるとベッドに歩み寄り、わざと大袈裟に溜め息を吐いてみせた。そんな事ぐらいでヨヨが動じるわけもなく、壁際の椅子を引き寄せて座る。
「……何て会話してんだ、お前は」
「間違った事は何も言ってないわよ」
まったくもってその通り。
だから余計にタチが悪い。
確かに俺はヨヨのものだ。彼女がいらないと言うなら、俺はそれに従うまで。
しかし、
「……で、どうしてあんな話をフレデリカに?」
ヨヨの意図が掴めない。
俺を本当に捨てる気なのか。
俺を置いて、一人で全部背負い込むつもりなのか。
そうして――死ぬつもりなのか。
「駄目だったかしら?」
そんな事を聞いているのではない。当然だ、と頷けば、ヨヨは当たり前の事を言う声音で聞いてくる。
「でも本当は、ビュウもフレデリカの事が好きなんでしょう?」
――やめてくれ。
――意識させないでくれ。
――どうしてお前が、そんな事を言うんだ。
――俺はお前に忠誠を誓った。
――お前が望むなら、この命を捨てたって構わないんだ。
――だから、やめてくれ。
――一人で死のうとしないでくれ。
「――寄り掛かってしまいなさいよ」
吐き捨てられた刺々しい言葉。懊悩する俺はその意味を掴み損ねる。
「……何?」
「全部さらけ出して、フレデリカに持たれかかってしまいなさいよ。すがってみなさいよ。
そうされて、悪い気がする女なんて、いないわよ」
淡々としていた口調が、終わりに行くにつれてまとわりつくような粘性を帯びる。
その言葉は、俺が開くまいとしていた思考の扉をあっさりと粉砕する。そこにあった未来予想図を俺は垣間見る。
笑いそうになった。
事実、それは失笑ものだった。
自惚れでも何でもなく、俺は確信する――さらけ出し、俺がそうするように求めれば、フレデリカはきっと寄り掛からせてくれるだろう。俺を縛る鎖と、そこにぶら下がる罪を、全部一緒に背負って生きてくれるだろう。
そうしてきっと、しおれていく。
朽ちて落ちる花のように、しおれ、枯れていく。
「――冗談じゃない」
俺はきっぱりと言い切る。自分でも驚くほどに固く強い語調が口から滑り出た。
「他人に丸ごと寄り掛かるなんて出来るか。こいつは」
そう。俺とヨヨが縛りつけられているものは、
「無闇にさらしていいもんじゃない」
何より、俺自身がさらしたくない。全てをさらして、その果てに待つのは傷つき苦しむヨヨだ。
ヨヨは、もう十分傷ついた。
十分すぎるほど傷ついて、苦しんだ。
だから、もうこれ以上傷つけさせない。
俺はヨヨを救えない。ヨヨが落ち込んだ暗い奈落から引っ張りあげる事は出来ない。俺もまたその奈落にいるからだ。
俺に出来る事はただ一つ。
ヨヨを守る事。
ヨヨがこれ以上傷つかないよう、あらゆる害悪からこの身を呈して守り抜く事。
だから、出来ない。
しない。
「……失くしたって知らないわよ?」
失くす? 俺はクッと喉を鳴らす。出てくるのは己を嘲る声。
「最初から得てもいないのに?」
そして得るつもりはない。今までも、これからも。
全てをさらけ出せば、確かに俺は幸せになれるかもしれない。けれどヨヨは傷つき、フレデリカは不幸になる。
だったら、俺は一生幸せになんかなれなくていい。
「もういいわ。――一人にして」
「ああ」
俺は貴賓室を出ると一直線に甲板に向かった。昼寝中の戦竜たちが目を覚まし、鎌首をもたげて喜びの低い鳴き声をもらす。彼らの頭をひとしきり撫で、安心させ、再び午睡にまどろむのを見守ってから、俺は空を見上げた。
眩しくて、腹立たしいほどに晴れ渡った真っ青な空。
俺は目を細める。
もっともらしい理由を色々つけて、しかし結局逃げ回っているだけのずるくて小賢しいくて卑怯な俺を、嘲笑うかのような青い空だった。
笑いも涙も出なかった。
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