子供の頃の私は病気がちで、薬代やら医師への報酬やら、両親には随分と金銭的に迷惑を掛けていたと思う。
 ある時の話だ。珍しく体調の良かった私は、珍しく両親と一緒に出掛けた。その道すがらにあったおもちゃ屋の、窓際に飾られていたぬいぐるみに、私の目は釘づけになった。
 大きくて、可愛くて、フワフワモコモコしていて。一目見て好きになった。欲しいな、と思った。
『フレデリカ、どうしたんだい? ――あのぬいぐるみ?』
『ううん、お父さん。何でもないの』
 その頃から私は遠慮ばかりする子で。
 いらない気遣いばかりして、欲しい物を欲しいと素直に言えないで。

 それは今も変わらない。










歪形トライアングル

1.臆病者






 それはとてもとても気持ちの良い昼下がりだった。
 空は快晴、風は爽やか。戦闘はここ数日ご無沙汰で、ファーレンハイトからも私たち反乱軍からも血腥さが抜け落ちつつある。そのせいか艦内の空気はとても平和で、ほんの少したるんでいる。私自身ものんびりと穏やかな気分でいた。
 その唐突な一言が、私の平穏を切り裂くまで。


 ねぇフレデリカ、ビュウが欲しい?


「…………………………え?」
 と私は聞き返す。我ながら間の抜けた声だった。
 空耳か。思わずそう断じそうになる。投げ掛けられた声はきちんと耳に入ったはずなのだが、何かとても現実感に乏しかった気がして、頭の中で繰り返そうにもどうにも曖昧なままフワフワと形を定めず漂っている。
 貴賓室の奥、ベッド際で私は中途半端に首を傾げた。
「……ヨヨ様、一体何を?」
 問いながら、サイドテーブルの上の小瓶を片付けようと手に取る。
 ヨヨ様の今日の診察は終わった。相変わらず良くも悪くもならない体調。神竜を切り離す事が出来ないなら、せめてゆっくり休んでいただかなければ。だからさっさと御前を辞そう――そう思ったその時、

「欲しければあげるわよ、ビュウ」

 ガチャンッ!

 小瓶は、不意に力の抜けた私の手から滑り落ち、床で砕けて破片と薬液を撒き散らす。
「あ――」
「……あら、大丈夫、フレデリカ?」
 呆然と見下ろす私と、ベッドの上で目を瞬かせるヨヨ様。申し訳ありませんっ、と口早に言って、私は清拭用のタオル――ベッドから中々離れられないヨヨ様は、お風呂にも中々入れない。だから調子の良くない時は、濡れタオルで体を拭くのだ――を引っ掴んだ。薬液を拭くと同時に散らばった小瓶の破片も取る。
 それほど経たず、作業は終わる。
「失礼いたしました、ヨヨ様」
「いいわよ別に、それくらい」
 あっけらかんと微笑むヨヨ様。笑みをたたえた双眸は優しく鷹揚で、だと言うのに私は何故か底冷えしていくようなものを感じた。
 獲物を見つけ、ニヤニヤと笑いながらどういたぶろうかと思案する猫――そんな埒もない想像が、フッと頭をよぎって消える。空想の余りの幼稚さに私は笑いそうになった。

 笑えなかった。

「それで、フレデリカ」

 ヨヨ様が、私を、

「どうなの?」

 獲物を見つけた猫を思わせる、ウキウキとした残酷な笑みで睨み据えていたから。

 私に出来た事と言えば、
「ど……どう、とは?」
 と、声を震わせるくらい。ヨヨ様は嫌ね、と笑みを深めて、
「とぼけるなんて駄目よ、フレデリカ。私は全部お見通しなんだから」
「一体何の――」
「ビュウが、好きなんでしょう?」
 優しく笑みを含んだ声だと言うのに、私はザックリと一刀両断された気分を味わった。
 ヨヨ様は笑っていた。口元をにんまりと笑みの形にして、笑っていた。
 けれどその眼差しはどこまでも鋭く、透徹としている。
 何もかも見透かし、貫き通す眼だ。怖い、と私は思う。腹の底からジワジワと湧き上がり、胸をチリチリとあぶるように浸食していく、それは紛れもない恐怖だった。戦いの中、敵に感じるものと同等の――いや、それ以上の恐怖がそこにあった。
 怖い。
 私は後退りしようとする。
 怖い。
 しかしヨヨ様の眼差しがそれを許さない。
 怖い。
 身じろぎした途端にすがめられる目。剣呑と不興を増やす視線。逃げる事は出来ない。真っ向から向き合うしかない。そう悟らされる。
「――――――ご冗談を」
 微笑む。仕方なさそうに。――そう見えるよう、強張りそうになるのを必死にこらえて。
「欲しいとかあげるとか……ヨヨ様、それじゃまるでビュウが物みたいです。いくら何でも、物扱いは――」

「だって、ビュウは私のものだもの」

 空気が凍りついた。
 少なくとも私にはそう感じられた。
 絶句し、呼吸すら忘れて目を瞠る私を、ヨヨ様は何を思って見つめ返してきているのだろう? 深まる嗜虐的な笑みからは、もう何も窺えない。
「だから、欲しければあげるわよ? どう?」
 ベッドの上で、にっこり微笑んで小首を傾げてみせる――

 その瞬間に私が感じたのは、全身の血が沸騰しそうなほどの怒りと、全身の力が抜けてその場に崩れ落ちてもう二度と立ち上がれなくなってしまいそうなほどの失望だった。

(そんなの――)

 私は、声に出さないまま、叫ぶ。

(そんなの――)

「欲しければあげる」――その上から目線の言葉に斬り捨てられ、踏みにじられた私の矜持が憤怒の叫びを上げる。

(そんなの、最初っから知っているわよ――!)


 ――……最初から知っていた。
 ヨヨ様とビュウはとても強い絆で結ばれていて、その絆がどんな種類のものなのかは外から見ているだけの私にはまるで理解できないけれど、そこに私が立ち入る隙なんて毛先ほどもない。
 そんな事、最初から知っていた。
 カーナがまだカーナ王国と名乗れていた頃、私がビュウと出会い、恋に落ちるその前から、とてもよく知っていた。二人の噂は、興味があろうとなかろうと、いやでも耳に入ってきたのだ。
 だから。
 だから、最初から見ているだけで十分だった。
 ただ遠くから見つめて、今日も格好いいとか、少し疲れてるのかなとか、眼が合っちゃったどうしようとか、そんな事を考えて、はしゃいだり落ち込んだり――私の恋は、それだけで十分だったはずなのだ。
 でも、カーナは滅ぼされて、生き残った私たちは懸命に生き延びて、ビュウに率いられて反乱軍を結成して。
 その中で、私はビュウの視界に入るようになった。
 時々体調を悪くする私を、彼は気遣ってくれた。
 それは彼の優しさだ。他の人にも向けられる、上に立つ者の当然の気遣いだ。
 解っているのに、私は期待してしまった。
 お互いの距離が縮まっていたと、愚かにも勘違いしてしまった。
 ヨヨ様が戻ってきて、その事にすぐに気付いて、自分の馬鹿さ加減にベッドから起き上がれないほど落ち込んで、それなのにビュウは様子を見に来てくれて、わざわざ雑談にまで付き合ってくれて――
 解っているのに、期待した。
 ビュウはヨヨ様のもの。誰よりも理解していたはずなのに、……諦めきれなかった。

 ああ、と嘆息する。


 私は、ただの馬鹿だ。


「いる? いらない?」

 目の前にぶら下げられたのは、ずっと前から欲しかったもの。喉から手が出るくらい、欲しくて欲しくて仕方なかったもの。
 だけど、私は馬鹿で愚図だから、
「……やめてください、ヨヨ様」
 餌をちらつかせる残酷な猫から視線を逸らす。逃げるように。
「ビュウは、物じゃないんです……――そんな言い方、可哀相です」
 プライドも見栄も体裁も忘れて飛びついてしまえばいいのに、そんな当たり障りのない事しか言えない。
 そんな自分に腹が立つ。でも――他にどうすればいい? だってビュウは、私のものになるはずがないのだ。

「――あら、そう」

 ヨヨ様は一気に表情を消した。
 愉快で残酷な笑顔が、一転、つまらなさそうな無表情に変化する。細められた目はもう私を睨むどころか見てさえなく、それは、おもちゃに飽きた子供がそれをポイと捨てる様に似ていた。

「前々から思ってたけど、やっぱり貴女、優等生ね」

 見ないどころか顔を背け体勢を変え、ヨヨ様はモソリとベッドに潜り込む。私の方に背を向けた姿勢で、不意に上掛けから白魚のような手を出したかと思ったら――
 それを、ヒラヒラと振った。
 鬱陶しい羽虫を払う動作。

「つまらない臆病者に用はないわ。――下がりなさい」

「――……かしこまり、ました……」
 溜め息と共に吐き捨てられ、私はもう消え入りがちな声を絞り出す他ない。薬箱と診察記録と小瓶の破片を挟み込んだタオルを抱え、一礼して貴賓室を後にする。
 胸からお腹に掛けて重くわだかまる、この黒々とした澱のような感情を何と名づければ良いのだろう。怒りとも悲しみとも違う、もっと黒くて汚らしくて目を向けるのも汚らわしいこの感情、自分がこんな気持ちを持っているなんて、信じたくない思いたくない――
 肩を落とし、悄然と、トボトボと私は歩き、扉を開け、


「――――あ」


「――――…………っ!」


 そこにいた人物に。
 私は今度こそ、告ぐ言葉を失くした。

「フ……フレ、デリカ……――」

 ビュウ。
 ビュウが、いた。
 手には紙の束。ヨヨ様への報告書? だがそんな事はどうでもいい。
 扉に貼りついていた姿勢。
 私の顔を見て「しまった!」と言わんばかりにしかめた顔。
 気まずげに逸らされた視線。
(あ――)
 分かった。
 解ってしまった。
(あ――)
 聞かれたのだ。
 立ち聞きされたのだ。
 ビュウに。
 よりにもよってこの人に――一部始終を!

 そこから先は、もう衝動のままだった。

「…………っ!」
 そんな事をする必要などないのに、私はビュウを突き飛ばした。その拍子に薬箱やらが床に落ちる。ガチャンッ! フレデリカ――箱が落ちた危うい音とビュウの声が聞こえたが、全て無視して私は逃げ出した。女子部屋に飛び込む。
 そしてその勢いのまま、自分のベッドに突っ伏した。
 馬鹿だ。
 馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。
 私は、どうしようもない馬鹿だ。
 やっと解った。
 解りたくなんかなかったけれど、解ってしまった。
 私が抱いたドス黒い感情、その正体は、怒りでも嫉妬でも何でもない。

 羞恥心。

 それも、身の程を知った事による恥ずかしさ、ではない。
「優等生」「つまらない臆病者」そんな言葉で自分の安っぽさを明らかにされた、恥を掻かされた、それをビュウに知られてしまった――


 そういう、自己保身の羞恥心だったのだ!


「……フレデリカ? どしたの?」
 上から掛けられる声はディアナのもの。気遣いの裏に好奇心が見え隠れしているけれど、今はもうどうでもいい。
 最悪だ。
 最低だ。
 どうしよう――
 そんな言葉が頭の中でグルグル回っていて、私は自己嫌悪のループに入る。
 自分が嫌になる。
 これほど醜いとは思わなかった。
 自分の身の程を知り、諦めようとしたはずなのに――それでも自分の底を暴かれた事が、それもビュウの聞いている所で面目を潰された事がとにかく恥ずかしい。
 そんな自分の浅はかさに腹が経ち、同時に、開き直って「ビュウが欲しい」と素直に言えない自分のいい子ぶりに吐き気がする。

 ……子供の頃欲しかったあのぬいぐるみは、どうしただろうか?
 私ではない誰かの手に渡り、そして捨てられたのだろうか?

 私はいつもそうだ。
 物分かりのいいふりをして諦めて、それなのに結局未練はいつまで経っても捨てられない。
 そんな自分への嫌悪感に泣きたくもないのに涙が出て、私は少しの間子供みたいに泣いた。

 

 

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