―3―
語り終えたビュウは、懐かしむような微笑を浮かべていた。
けれどそこには哀しさがある。フレデリカはそれを見て取った。
だから気付いた。それを確認するために、彼女は、口を開く。
「……それが、あの橋なの?」
三日前にビュウが渡らなかった、あの白い橋。橋の袂に立った彼は、利き腕を犠牲にしてまで渡る事を拒否した。
彼女の問いに、ビュウは答えなかった。だがその沈黙こそが、フレデリカの問いが真実である事を雄弁に語っている。
「だから、なのね」
「…………」
「だから、渡らなかったのね。――渡れば、橋が落とされるから」
「――……笑ってくれてもいい」
沈黙の果てに、ビュウはそう言った。苦い笑みと共に。
そして、とうとうと語りだした。
「おかしいだろ? あの頃とは違って、俺は自分で選んで軍人になった。作戦のために、今まで色んな物を壊して……踏みにじってきた。それに罪悪感を覚えた事もなかった。敵を倒して、生き残るためにはなりふり構ってられなくて、そういうのを気にした事もなかった」
と、ビュウは肩を竦める。
「……ずっと、忘れてたんだ」
「…………」
「三日前、あの橋に行くまで、ずっと――今まで」
「…………」
「だから、ただの感傷なんだ。あの橋を落とせなかったのは。……でも、虫のいい話だろ? 今まで橋なんていくつも平気で落としてきたのに、あの橋だけそうしない、なんて」
「…………」
「偽善も、良いところだ」
そう言った彼の笑みは。
苦く、暗い。
何か言わなければ。フレデリカは咄嗟にそう思う。そんな焦燥感に駆られた。慰めでも気休めでも、何か言わなければ――だが、何を言えば良いのだろう? 傭兵として育ち、軍人として生き、戦争屋としての業を骨の髄まで理解し、思い知っている彼に、それこそそんな事を今まで考えた事もなかった自分ごときが、何と。
フレデリカが紡ぐ言葉を考えあぐねていた、その時だった。
医務室の扉が、控えめにノックされた。こちらの応答を待たずに押し開けられ、
「――隊長」
隙間から顔を覗かせたのは、トゥルースだった。戸惑いと不安と、そして僅かな不信を宿した顔で室内を一瞥し、ビュウに視線を止める。
「査問会が始まります。艦長室に」
「もうそんな時間か」
査問会。その単語にフレデリカはハッとした。
ビュウはこれから、三日前の作戦の責任を問われるのだ。立案しておきながら、独断専行で全てをふいにし、軍全体を一時的にであっても危険に陥れた、その責任を。
「ビュウ――」
「じゃあ、フレデリカ、また」
言葉が見つからないフレデリカに淡く微笑んで、ビュウは椅子を立った。何もかもを悟ったかのようなその笑みは、見ているだけで痛々しい。
戸口へと向かうビュウ。それを迎えるようにトゥルースが扉を更に開ける。彼は医務室を出る。その、一歩。
「――偽善なんかじゃない」
フレデリカはそう言い放った。
ビュウは、ピタリと足を止める。
戸口で立ち止まる背中。彼女は、続けて言葉を投げた。
「偽善なんかじゃないわ、ビュウ。それは……貴方の、良心よ」
「――違うさ」
間髪入れずに否定が返る。声は、固い。
「そんなのじゃない。そんな……まっとうなモンじゃない」
それから少し口ごもり、ポツリと、言う。
「次はきっと、あの橋を落とす」
彼は肩越しに振り向いた。
「それでもフレデリカは、そんな風に言えるのか? 俺は、どこまで行っても戦争屋で……壊す事しか、出来ないのに」
「でも貴方は、守る事も出来る」
返したその言葉に、ビュウは、ハッと目を見開いた。
その碧眼を見つめ返し、フレデリカは、フワリと優しく微笑む。
「次があるなら、こう考える事も出来るのよ。あの橋を落とさないようにするには、どうすれば良いか、って」
「…………」
「ね?」
小首を傾げてみせる。その様に、ビュウは――
「――そう、かな」
フッと、笑みを見せた。しかしその笑顔は、常の彼からは考えられないほど自信と力を欠いていて、気を抜けばすぐにでも不安の内へと落ち込んでいってしまいそうだ。
だからフレデリカは、一つ大きく頷いた。
ビュウを、力付けるために。
「そうよ。貴方は……優しい人だもの」
その言葉に、彼は何を思ったろうか。言葉を失ったように、微笑のまま、目を伏せる。
「――隊長、そろそろ」
「あぁ、分かってる」
トゥルースの催促の言葉で彼は顔を上げた。その表情は、もういつもの彼だった。平静とした、平然とした、微かに笑みを湛える決然とした顔。一軍の将の顔だった。
偽善と自嘲する事も、不安に揺れる事も、もうない。
ビュウは、今度こそトゥルースを伴って部屋を出る。フレデリカは、今度こそそれを黙って見送る。
慰めでも。
気休めでも。
フレデリカの言葉は、ビュウに、伝わった。
その証拠に、彼は、扉を閉める瞬間こちらに顔を覗かせて、
「フレデリカ」
笑う。
今度こそ、はっきりと。薄い作り笑いではなく、二十代の青年らしい快活な笑み。
「ありがとう」
パタン、と扉は閉められる。
音は余韻となって医務室にこだまし、その中に、ビュウとトゥルースの足音が壁を隔てて響く。それを聞きながら、フレデリカは再びベッドに横になった。
ふと思い出すのは、あの橋だった。三日前、ビュウが左腕を犠牲にしてまで守り通そうとした、あの純白の橋。それほど注意して見たわけでもないのに、橋の姿はフレデリカの脳裏に鮮やかに蘇る。
丘も木立も疎らな平原を走る蛇行した川。そこには、真っ白な橋が一つ、架かっている。
かつて、大勢の橋大工たちが誇りを持って架けたその橋。
道を繋げ。
町を繋げ。
人を繋げ。
心を繋げ、今日もただ静かに川辺に佇んでいる。
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