―3―
借りてきた本をドサドサと執務卓に置いたナルスは、やれやれと腰を伸ばした。
「……義兄(にい)さん、年寄り臭いぞ」
「ならばご自分で借りに行かれたらどうですか、隊長?」
分かりやすい皮肉を、本を読み出す事で無視するビュウ。ナルスと同じく本を持ってきてくれたトゥルースは、さっさと違う仕事に戻っていった。
「しかし、こんな本を一体何に?」
「いや、ちょっとな」
そう曖昧に濁したのは、まだ事を公にしたくなかったからだ。
現状、カーナにとって長く続いてきた平和というのは、最早害悪でしかない。
危機感を持たない王とその取り巻きたち、ダラけきった軍部。彼らにとって「戦争」とは、文字通り対岸の火事なのだ。
その対岸の火事の火の粉が、忘れた頃に降り掛かってくれば――ビュウが恐れているのはそれだった。
国王らがそれで慌てふためきろくすっぽ指揮が出来なくなる事を、ではない。
その慌てようが露見して、敵にこちらの動向を知られて逃げられる事を、だ。
だからこそ、内密に。
まず把握すべきは、自分たちカーナがどれだけ敵を把握しているか、をちゃんと認識する事だった。それによって取り得る策は変わってくる。
しかし、今流し読みする限り――
「……期待外れだな。失敗だ」
「だったら最初から自分で選びに行ったらどうですか」
半眼で睨みつけてくる義兄の視線をやはり無視していると、
「大体そうしていてくれれば、私だってフォス佐長相手に嫌味を言わずに済んだというものを」
「――何だって?」
目を通していた資料から顔を引き離し、ビュウはナルスを見上げた。
「義兄さん、今、何て?」
鋭い語気で問い直すと、彼は目を丸くして、
「だから、諜報局のフォス佐長に嫌味を――」
「どこで」
「軍事資料室です。結局、何を探していたのかは分かりませんが」
「…………」
「隊長?」
考え込むビュウに、ナルスは重ねて尋ねてくる。対するビュウは、僅かに眉根を寄せて、
「……この間の事だけどな」
「ええ」
「フォスが、竜舎に顔を見せたんだ」
「竜舎に――?」
と、怪訝そうに、ナルス。ビュウは頷いた。
「おかしいだろ? うち以外の連中、特に諜報や司令部みたいな『制服組』は、絶対に竜舎なんか近寄らない」
「……確かに。この間司令部の士官が見学とか言って見て回っていましたが、竜舎にだけは顔をしかめて近付こうともしませんでしたし」
「なのにフォスは、竜舎に入りこそしなかったものの、入り口まで来ていた」
本を閉じ、執務卓に置く。それから腕を組んで、胡散臭そうに、
「フォスの奴、何を考えている?」
「……諜報が嗅ぎ回るような要因が我々にあるとは、思いませんが」
「俺もそう思うが――」
とビュウが言い掛けた、その時だった。
――コンコン。
戦竜隊詰め所、隊長執務室。
その扉が、ノックされた。
ビュウはハッと顔を上げると、一瞬にして表情を引き締めた。それから少しの沈黙の後に、
「誰だ?」
と、誰何の声を投げ掛けた。
応えはすぐに返ってきた。
「隊長、リッターです。報告書を提出しに来ました」
「報告書……」
「――この間、バートランドたちと一緒に北部群島のキァノン要塞の視察に行かせたでしょう」
「……そうだったな」
「忘れていたでしょう」
「何の事だ?」
と、無意味にそらとぼけてみる。もちろんナルスには通じないが。
いくつか説明をすれば――
まずバートランドというのは、ラッシュとビッケバッケの一応の姓である。
ラッシュ、トゥルース、ビッケバッケの三人は、カーナの下町で数年間浮浪生活をしていたのだが、ビュウと出会い、同じく軍人を志すようになった。が、入隊するにはそれなりに身元がしっかりしていないといけない。そこをビュウが、知り合いの引退した傭兵に頼んで、三人の後見人になってもらったのだ。
浮浪生活をする前は普通の家庭にいたトゥルースにはソルベリーという姓があったが、ラッシュとビッケバッケについてはあやふやだ。仕方がないので、便宜上、二人はその後見人の姓を自分のものとして名乗っている。が、そちらで呼ばれるのは余り好んではいない。
そしてキァノン要塞とは、カーナ・ラグーンのすぐ北に浮かぶ無数の小島の一つにある大要塞で、カーナ防空の拠点の一つである。司令部から視察任務を押し付けられ、更にビュウがそれをラッシュを初めとする何人かに押し付けたのだった。
そういった諸々の事を思い出して、芋づる式についでに思い出す。そういえば、その報告書の提出期限は今日だった。
「リッター、入れ」
「はっ!」
やや緊張を含んだ応答の声。直後扉が開き、背筋をしっかり伸ばして表情を硬くしているウィルが入ってきた。彼は後ろ手に扉を閉めると、一回敬礼して、
「北部群島キァノン要塞、視察報告書を提出しに来ました!」
「受け取ろう」
敬礼をやめたウィルは、大股に歩み寄ってくると、ビュウの机に紙の束を提出する。表紙には、「視察報告書」と読みやすい字で書いてあった。
「確かに受け取った。後で読ませてもらう」
「はっ!」
これで受領終了。とりあえず、提出してもらった報告書は執務卓の脇に置いて――
ビュウははたと気付いた。ウィルが、退出しようとしない。特に用事がなければさっさと執務室を出ていくのが礼儀であり常識であるのに。
改めて、ウィルの顔を見上げるビュウ。その視線は思いの外鋭かったらしく、顔に微かな怯えの色を浮かべた彼は後退りするような身じろぎをしてみせた。
「どうした、リッター? まだ何か用事が?」
「あ、いえ、その……」
と、軽くうつむくウィル。怯えている、というよりも、何か迷っているような――
「――隊長、あの」
「何だ?」
やはり話があったのか。ビュウは、先を促す。
「お聞きしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「内容によるが、言ってみろ」
返した言葉は自分でも偉そうだった。そういえば、ビュウとウィルは大して年齢が違うわけでもない。ビュウとナルスの年齢差に比べれば、だが。
(普通、俺みたいな歳の奴が隊長をやっているのがおかしいんだよなぁ……。こいつやビッケバッケみたいにペーペーの兵卒か、ギリギリラッシュみたいな下士官やってる方が正しいんじゃないかな)
などと思ってしまうのは、さておいて。
果たしてウィルは、用件を口にした。
「三年前の、キャンベルでのチャガル族の蜂起を鎮圧された時の事について、お教えいただけないでしょうか?」
三年前――
当時のキャンベル王ドニブル・カンが突然崩御した。
一時は暗殺説が流れたが、しかしすぐに否定された。その後、国を挙げての葬儀が執り行われ、遺体は騎馬民族『草原の民』の慣習通り、草原のどことも知れない場所に埋葬された。
ドニブル・カンの死後、王位は彼の嫡男であるトゥルイが継承するはずだった。しかし、キャンベル王宮の文官たちはその取り決めを反故にすべく、異議を申し立てた。九歳の子供に国政は任せられない、と。
そうして、トゥルイが適齢になり、妻を娶るまで、代王が立つ事となった。ドニブル・カンの第五妃、ルザ・カトン――カーナ王の実の妹である。
この決定を不服としたキャンベルの諸氏族は猛反発をしたが、その時に『草原の民』第十一位チャガル族の、その中でも特に血気盛んな一党が王都に攻め入らんと蜂起した。
それを防いだのが、当時、ドニブル・カンの葬儀のためにキャンベル入りしていたカーナ王の護衛を担っていた戦竜隊の、士官になりたてのビュウである。
『魔人』と称された傭兵時代の知略で以って、ほぼ無血で反乱(一歩手前)を鎮圧したのだった。
その時の事を、苦々しく思い出す。
「――……何故聞きたい?」
「え――」
問い返すと、ウィルは狼狽の表情を見せた。
ビュウは、もう一度、ゆっくりと、しかし語調に険悪なものを含めて言う。
「だから、何故そんな事を聞きたがる?」
「そ、それは……――一戦竜隊員として、隊長の知略とご活躍を誇るべく――」
「活躍?」
その単語に――
事情を知るナルスは顔をしかめ。
ビュウは、鼻で笑った。
「あれが、活躍だって?」
笑う。皮肉げに――自嘲気味に。
『アソル殿、笑ってくだされ……――私は、自ら率いる者たちを抑える事が出来なかった。だから蜂起せざるを得なかった。私がこの首を差し出す事で、我がチャガル族と、何より我らが「蒼き狼」トゥルイ・カンの名誉が守られるならば――』
脳裏に蘇る、反乱の首謀者――にならざるを得なかった――ハイドゥの声。
「良いか、よく覚えておけ。俺の前であの時の話を二度とするな」
怒りを押し殺した声は、いつもよりずっと低く、ずっと静かだった。しかし抑圧したはずの憤怒は言葉の端々に表われ、ウィルを怯えさせる。
彼は、こちらの剣幕に明らかに驚愕し、恐怖した。それが顔に出ている。
冷ややかな眼差しでそれを見つめるビュウ。その視線に堪えきれなかったか、
「た、大変失礼しました! で、では、僕はこれで……」
と、そそくさと執務室を出ていく。
扉が閉まり、ウィルの足音が遠ざかって。
ビュウは溜め息と共に肩を落とした。
「――……なぁ、義兄さん」
「どうした、ビュウ?」
「俺は……もしかしたら、今、すごく大人気なかったか?」
「ああ」
今更ながらに自己嫌悪が湧き起こってくる。歳下の、しかも一兵卒相手に何をやっているのだろうか、自分は。
「安心しろ、ビュウ。私でも、ああ言う」
「安心できるかよ、それで」
げんなりと呻いたビュウに、ナルスはハハッ、と笑い――
ガチャリ。
「なぁ、今、ウィルの奴がビビった顔して練兵場の方に走ってたんだけど、何かあったのか?」
「ってお前はノックくらいしろラッシュ」
ノックもなく急に入ってきたラッシュに突っ込むビュウ。
もう自己嫌悪は押し殺している。彼は、違う意味でげんなりした表情を見せて、
「で、キァノン視察の報告書でも持ってきてくれたのか?」
「何で分かったんだよ」
「リッターの来た理由がそれだから。――ほら、さっさと寄越せ。俺も暇じゃないんだ」
と、手を差し出すと、ラッシュはブスッとした不満顔をしてみせた。そういう風に出迎えられるとは思っていなかったらしい。何せ、事務仕事はラッシュの嫌いなもので、報告書は大抵提出期限を大幅に過ぎてから出されるから。
「ほらよ」
だが、今日は提出期限を守ったのだ。多少ぞんざいな口調をしても許してやるとしよう。受け取ったビュウは、ウィルが提出していったものと同じタイトルの記された表紙を目で撫で――
「おいラッシュ」
「何だよビュウ」
「お前、これ」
ビュウは、ラッシュから出された報告書を掲げ、ペラペラと前後に振ってみせた。
「リッターに書かせたな」
ギクリ。
そんな擬音が似合うほどに、はっきりとラッシュは身じろぎし、直後硬直した。よくよく見れば、額から頬に汗が幾筋か。ちなみに今日はそれほど暑くない。というか夏ではない。
「そうなんだな」
「…………」
「そうなんだな」
「…………」
「公文書偽造教唆だ。エシュロン佐士、軍法会議所に軍事裁判の申し立てを」
「了解しました、アソル隊長」
「ってちょっと待てビュウ! 何で報告書代筆してもらっただけで軍事裁判になるんだよ! ってか何で分かった何で!?」
「当たり前だ。お前の字はミミズが痙攣起こしたのかと思うほどに汚くて読みにくて正直専門の解読チームを作りたいくらいだからだ」
ちなみにその報告書の表紙にある字は、ウィル自身が自分の物として提出していったものほど綺麗というわけではないが、それでも、見てすぐに判読できる字である。
多分、報告書を代筆させる先輩のための、ウィルなりの思いやりなのだろう。無意味だが。
肩を竦めて、ビュウはラッシュとウィルが提出した報告書をそれぞれ自分の前に持ってきて、一ページ目を開ける。
字の綺麗さの差はあれ、筆跡はほぼ同じ。
確定だ。
「さて、自供も証拠物件もある事だし――」
エシュロン佐士、営巣に連行しろ。
そう言おうとして、ビュウは言葉を止めた。
「隊長? どうしました、報告書を凝視して」
「――ラッシュ」
「……何だよ、まだ何かあんのかよ」
ビュウは、顔も上げないまま、問う。
「お前ら、ちゃんとキァノンに視察に行ってきたよな?」
「はぁ? 当然だろ。だから報告書を書いて持ってきたんだろ」
書いたのはリッターだろう、という突っ込みはしないで、ビュウは凝視を続ける。
二つの報告書を。
いや、正確には――ウィルが提出してきた方の、報告書を。
ビュウが知る限り――
ウィル=リッターという少年兵は、真面目で勤勉で好奇心旺盛である。
例えば先日サラマンダーの鱗を気にしていたり、たった今、チャガル族の反乱の事について聞いてきたり――その性格の証左には十分だ。
「……一つ、聞くぞ」
「? どうしたんだよ」
ビュウの様子が激変した事に気付いたらしく、ラッシュの問う声も変化している。棘が消え、代わりに本当に不思議そうな声音に変わった。
「キァノンでリッターは、どんな様子だった?」
「はぁ? そんなの聞かなくても判るだろ。ウィルだろ? あいつ、いつもみたいに守備隊の連中に質問しまくったり、そりゃ熱心に要塞の中見回ったりして、俺たちより真面目にやってたぜ」
「そうか……」
では。
では。
ビュウは、表紙を閉じた二つの報告書を両手に取り、険悪とすら言える目つきで見比べ、思う。
二つの報告書は、字と使っている単語に多少差がある程度で、それ以外は同じだ。
タイトルも。
項目も。
問題点として挙げている箇所も。
分量でさえ。
熱心に守備隊に質問し、要塞を見た者のする事か?
先輩を庇おうと筆跡を変える努力を見せた者のする事か?
それだけ熱心にやっていたにも関わらず、総ページ数僅か十五枚という余りにもぞんざいな報告書を執務卓に叩きつけ、ビュウは立ち上がった。
「隊長?」
「少し出てくる」
「どちらへ?」
ナルスの問いに、執務室の扉を半ばまで開けたビュウは、肩越しに彼を振り返る。
どこへ。
それには答えず、代わりに言うのは、
「……すぐに戻る」
そうしてビュウは執務室を出ると、まっすぐに目的地へと向かった。
そしてビュウは宣言した通り、十分程度で詰め所に戻った。
先程まで執務室にいたナルスは、今は詰め所入り口のすぐ側にいて、入ってきたこちらに驚いた目を向けた。
「隊長、お早いお戻りで」
「あぁ。目当ての奴がいなくてな」
「はぁ……――あ、ところで」
彼は、手に持っていた二つ折りの紙をこちらに差し出してきた。
「これを。通用門の衛兵が、隊長宛に受け取った――と」
ビュウはそのメモを受け取った。そして無言で開き、走り書きされた内容を目で一撫でする。
「――副隊長」
クシャリ、とそのメモを握り潰し、ビュウは告げた。
「ラッシュ、トゥルース、ビッケバッケの三人を集めろ」
「バートランドたちと、ソルベリーを、ですか? 何故――」
「決まっている」
ビュウは、苛烈な眼差しをナルスに向けた。
「出撃だ」
§
空に手を伸ばす。
しかしカーナの空は余りに遠くて、伸ばしても届かない。
あの日見上げた空を思い出す。手を伸ばせば、すぐにでも触れられそうだったベロスの空。
あぁ――
自分は、こんなにもあの空に焦がれている。
そうして思い知る。
自分は結局、ベロス人だったのだ。
カーナ人には、なれなかったのだ。
それは別に、悲しい事ではなかった。
むしろ誇らしかった。
空を見上げる。
どこか霞みがかった青空。しかし見つめるのは、あの日のように、何もかもを吸い込んでしまうかのような空恐ろしいほどに青く澄んだベロスの空。
こんなにも、あの空に焦がれている。
あの空は故郷の空。母と暮らした故郷の空。
例え殴っても母は母だったように、例え離れても、故郷は故郷だった。
ここは、故郷ではない。自分の居場所ではない。
だから帰ろう。故郷に住む同胞たちに、いくつか土産を持って。
そう。
帰るのだ。
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