―2―
「……グランベロスの在外武官?」
「そうだ。それも二人。サン・レールからカーナに入国した」
それは、驚愕の事実だった。
そこは、カーナの下町にあるとある酒場のカウンター席。
その片隅に座るビュウは、隣にいる赤ら顔の中年男の言葉に、さすがに表情を険しくさせた。
周囲は喧騒に包まれている。時刻は夜の八時過ぎ。仕事を終えた男たちが、そこかしこで何度目かになる乾杯をしている。
騒音と言っても差し支えないその声の中、ビュウは、安い酒の入ったグラスを傾けた。
「……それは確かか?」
「この俺が、ガセネタを掴ませた事があったか?」
考え込みながら問い返したビュウに、ヒヒッ、と男は笑う。
「信用しろよ、『魔人』。俺ぁ、殊グランベロスに関する情報でお前さんを騙すつもりぁねぇよ」
「別に信用してないわけじゃないが……」
と言い訳する。酔った風の――実際は、ただ顔にすぐに出るだけで、頭も言葉もしっかりしている――情報屋はまたもや笑った。
「こいつぁ、信頼できる筋からのネタだぜ?」
「どこからだ?」
「当ててみな」
チッ、と舌打ちして、ビュウは推測をめぐらせる。
この男が持ってくる情報が間違いだった事は、今まで一度もない。
信頼度においてはトップレベルの情報屋だ。ガセネタかどうかを邪推するのも馬鹿らしい。だから、それは慮外する。
となれば、その情報の出所は限られる。この時期、身分を偽って入国してきたであろうその二人組を、グランベロスの在外武官と限定できたのだ。であるとすれば――
「……グランベロス内部からの情報か」
「マハールに総督府が出来る、って話は知ってるか? そっちの方からだ」
「って事は、マハール駐留部隊から来たのか、そいつらは」
マハール王国がグランベロス帝国によって滅ぼされたのは、もう四、五ヶ月ほど前の事になる。
「本国から手配するよりも手っ取り早い、ってこったな。カーナ・マハール間は、カーナ・グランベロス間よりも短い」
コトン、と情報屋はグラスを置く。その中に酒はない。
「どうも、マハール船籍の商船の乗組員を装ってきたらしいが……どうすんだ、『魔人』? 連中、この国を最後に取っとくつもりらしいが、下準備はキャンベル以上に念入りにやってるみてぇだぜ?」
「そんなの」
と、吐息と共にビュウもグラスの酒を飲み干す。続く言葉は投げやり気味だ。
「お偉いさんたちが決めるだろうさ」
「おいおい、随分いい加減だなぁ。え? 天下の戦竜隊長さんがよ」
「でかい声で言うな。それに俺はまだ小童だから、幕僚会議に出ても意見が尊重された試しがないんだよ」
「だからやめときゃ良かったんだよ、軍属なんてよぉ」
情報屋は皮肉げに笑う。
「どっちにしろ、その連中がカーナの軍事情報目当てなのは間違いねぇ。どうすんだよ、『魔人』」
「そうだなぁ……」
残った肴を適当に口に放り込んで、ビュウは考える。
グランベロスの在外武官。
そう言ってしまうと大使館付きの兵士や士官に思われがちだ。そして実際そうである事が多い。
ところがその実態は、紛れもなく、立派なスパイである。
グランベロス帝国が樹立されて以来、カーナとかの国の国交は正式に結ばれていない。だから、件の在外武官が活動の隠れ蓑に出来る大使館は、今はない。しかもカーナが帝国を半ば仮想敵国と見なしている現在、商船の乗組員と偽らなければ入国も叶わなかったろう――
「――王都の情報網を、総動員してくれ」
「へぇ?」
唐突なビュウの頼みに、情報屋は目をパチクリとさせる。
「特に城門周辺。その辺を徹底的にマークさせろ。マハール商人の身分証を持っている、如何にも商人に見えない二人組が王都に入ったら尾行、居場所を押さえて、動きを見せたら俺に知らせてくれ」
「報酬は?」
「いつもの倍出す。必要経費もこっち持ち。ただしスピード最優先。知らせるのが一時間以上遅れたら、十分遅れるごとに報酬を減らす」
「そりゃきっついなぁ。どこに知らせるかにもよるぜ?」
「メモにでも書いて、王宮裏の通用口の衛兵に渡せばいいさ。戦竜隊長の依頼で、火急の用事だ、とか何とか言ってな。金を握らせてやれば、簡単に引き受けるだろ」
「お城の兵隊さんからそんな話は聞きたくなかったねぇ」
へへっ、と笑って、情報屋は席を立った。
「じゃあ、任せてくんな。報酬、頼んだぜ?」
「おぉ」
頷いて、ついでに懐から札束を取り出し、去っていく情報屋に握らせる。満足げなしたり顔でそれを受け取った彼は、金額を確認する事もなく上着の隠しにしまい込む。
ビュウはもちろん、情報屋がちゃんと店を出たところを確認しようとはしない。残り僅かな酒の肴をちまちまと食べながら、思った。
戦争は、もう始まっているのだ。
§
その三日後の昼過ぎ。
「ソルベリー、あと必要なのは?」
「えーと……『防衛大綱』最新版と『諜報大綱』の対ベロス編、昨年度の『軍備目録』、そしてここ二十年間の『間諜捜査報告』で……――これで全部です」
四タイトル、合計二十八冊。
無数の棚に囲まれて置かれているささやかな机の上に乗せられた本の山を、トゥルースは半ば感心、半ば呆れた思いで見つめていた。
「隊長は……これを全部読むつもりなんでしょうか?」
「そうなんだろうな。もっとも、彼は速読くらい出来るらしいから、『三日で余裕』とか言っていたが」
「三日……」
副隊長ナルスの言葉に、唖然とするトゥルース。
トゥルースも、読書をする方だ。兄弟のように共に育ったラッシュやビッケバッケとは違い、一冊の本を読み終わるのに五日も十日も掛けはしない。どんなに分厚い本でも、読み始めれば掛かって二日だ。
しかしあの人はその上を行く。
あぁ、さすが我らのビュウ隊長! こんな量を三日で読むと、頭が痛くなりませんか!?
気が付けば、トゥルースの口から溜め息が漏れ出ていった。はぁぁ、と盛大に。
そしてそれが唱和している事に気付き、彼は隣に立つナルスを見やった。
自分と同じように、うんざりした様子で肩を落としている彼。ビュウよりも十歳年長であるこの人は、何と彼の義兄だとか。あのビュウと家族付き合いが出来るなんて、と正直トゥルースはその一点だけでナルスを尊敬していた。
と、彼はそんなこちらの視線に気付いたようだった。慌てて背筋を伸ばすと、
「では、拝借するとしようか。ソルベリー、半分持てるな?」
「もちろんです、副隊長」
「じゃあそっちの十四冊を持て。七冊ずつ、二つに分けて両手で挟み込むようにな。それと持ち上げる時に腰に気を付けろ。痛めたら厄介だぞ」
「……何でそんなテキパキしてらっしゃるんですか」
「妻の実家の向かいに高名な魔道士殿が住んでいて、軍学書を拝読しに行ったら何故か書棚の整理を頼まれたのだ。しかも隊長と一緒に」
「はぁ……」
「隊長は嬉々としてやっていたが、私は危うく腰を痛めかけた。おかげで妻に笑われてしまった。――ソルベリー、こういう時にはどうするべきだと思う?」
「いえ、細君とのご関係に私ごとき若輩者が口を挟むべきではないと思いますので」
などとわけの解らない言い合いをしている間に、二人は大量の本を抱え上げ、棚と棚の隙間を縫うようにして入り口に向かう。
ここは軍事資料室。王宮の片隅にある軍事機密の宝庫である。
二人はビュウに頼まれて、ここからいくつかの資料を借りようとしていた。
ちなみに出入りは士官以上限定。それも、隊長クラスの人間の承認がなければ不可能。
いくら使い走りとは言え、ここに入れた事を感謝すべきか、とトゥルースは思った。
入隊してすぐに聞いたこの資料室の話。大量にあるという軍事資料に、彼は胸を躍らせたものだった。
実際入ってみて、この場所は、トゥルースの好奇心と向学心を満たすのに十分すぎるものだと分かった。いつか、ここに自由に出入りしてみたい。
そんな空想は、ナルスが不意に足を止めたせいで破られた。彼の背中にぶつかりそうになり、トゥルースは慌てて立ち止まり、バランスを保とうと背中を軽く反らす。
「副隊長? 一体どうしたんです?」
彼の問い掛けに、しかしナルスは答えない。その様子が緊張を孕んでいるのに、遅まきながら気付くトゥルース。
一体何が。トゥルースは、自分より背の高いナルスの肩越しに前方を見て――
眉をひそめた。
略式平服姿の男が、二人の行く手を阻むように立っていたからだ。
通路は狭い。ましてこちらは大量の荷物を抱えている。すれ違いなど出来ない事は火を見るより明らかだ。
だというのに、その藁色の髪の男は動こうとしない。すぐ横に動けばこちらを避けられるのに、それをしようとしない。
意図的に、こちらの行く手を遮っている――
「――失礼ですが」
睨み合いの果て、ようやくナルスが声を掛けた。硬い声だった。
「そこを退いていただけますか、フォス佐長」
「上官に道を譲らせようとは、中々良い心掛けではないかな、エシュロン佐士? お父上がお知りになられたら、どんな顔をされるか……」
低く、それでいて抑揚に欠いている声は、明らかに嘲弄の調子を伴っていた。トゥルースは顔をしかめて、薄く嘲笑うそのフォスとかいう男の顔を睨みつける。
しかし彼はその視線に気付いているのかいないのか、ジロジロとこちらが持っている本のタイトルを見て、
「ほぉ。ベロス関連の軍事資料ばかりか。アソル佐長の用か? まだ少年かと思っていたが、いや、勉強熱心で何よりだ」
「我が隊長をお褒めいただき、ありがとうございます」
皮肉に皮肉を返すナルス。それには気付いたらしく、フォスはフッ、と鼻で笑い、
「かのグランベロスを仮想敵国としての研究、見事としか言いようがないな。敵であれば母の祖国であっても討たんとは、カーナ軍人の鑑だ」
「――……それは貴殿も同じでは? フォス佐長」
その瞬間。
周囲の空気が一度か二度下がったのを、トゥルースは感じた。
背筋がゾッと粟立つ。身震いした途端に持っていた本が崩れそうになり、慌ててバランスを取り直す。
悪寒の源は、フォス。
彼は、嘲笑を引っ込めていた。
その眼差しに更に険を含めて、それこそ眼光だけで相手を貫こうとばかりにナルスを睨みつけている。
事態が飲み込めないトゥルースは、オロオロと二人を交互に見やるばかり。
そうして、どれくらい経ったか。
「……ここは、私が謝罪した方が良いのだろうな。いや、失礼した」
「いえ、こちらこそ。分別を失くしました。上官に対する無礼な発言、どうかお許しを」
「それを引き出したのは私の方だ。今のは聞かなかった事にしよう――互いに」
そう言って。
フォスはやっと、道を譲った。ヒョイと、すぐ横の本棚と本棚の隙間に入り込む。
ナルスは一礼すると、その横を通り過ぎた。トゥルースも慌ててついていく。そしてフォスの傍を通る直前、彼の表情を横目で伺った。
冷ややかな仏頂面。先程まで浮かんでいた嘲りも皮肉も笑みも、どこにもない。
感情の読めない表情から視線を外し、彼は再びナルスの背中を見やる。ナルスは無言で通路を行き、司書官が常駐している入り口側のカウンターに寄った。そこにドンと持っていた本を置くと、
「失礼。戦竜隊隊長ビュウ=アソル佐長の要請で、これだけお借りしたい」
「おや、また戦竜隊――いや失敬、何でもありません。少々お待ちを」
老齢の司書はずり落ちる眼鏡を指で持ち上げ、カウンターの奥にある棚から帳簿を取り出すと、そこにペンでタイトルを素早く記していく。
それを待っている間、トゥルースは小声で、聞きたかった事を尋ねた。横目で上官の様子を窺うと、これといって期限が悪そうには見えない。恐る恐る、言葉を選ぶ。
「あの、副隊長……今の方は?」
「ニコラス=フォス佐長。この間、諜報局長に就任した男だ」
サラリと答えて、ナルスは不意にこちらを見た。
「私の言った言葉について、気になっているのか?」
――敵であれば母の祖国であっても討つ。
――それは貴殿も同じ。
「……はい」
少し逡巡してから、結局頷くトゥルース。そんな彼に、副隊長は口元に仕方なさそうな笑みを浮かべた。
「まぁ、有名な話だから話したところで特に問題はないと思うが……それでも、余り他言はするな」
「はい」
念押しに、一つ大きく頷くと、ならばとナルスは小声で言った。
「大体、予想は付いていると思うが」
そう、前置きして。
「彼の母は、ベロス人だ」
トゥルースは、目を見開いた。
「では」
「そう。隊長と同じく――カーナ人の父とベロス人の母を持つ、ハーフなんだ」
絶句するトゥルース。ナルスも一旦口を閉じ、カウンターの周りにはカリカリという司書官がペンを走らせる音だけが響く。
「……彼の父であるフォス伯と私の父は、旧知の仲でな。少し付き合いはある。彼はフォス伯の次男で……伯爵位の継承権は兄にあるから特に大きなスキャンダルでもないのだが、それでも、やはり軍で出世するのに少し不利なところがあってな」
「…………」
「――……子供の頃に会った時には、あそこまで皮肉を言う人ではなかったのだけれどなぁ……」
そうして、先程までいた資料室の奥を見やるナルスの目は、淋しさに満ちていた。
§
その時の自分はまだ幼くて、父に引き取られて始まる新たな生活に、確かに胸を躍らせていた。
父の国カーナは、どんな場所なのか。
この穏やかでユーモアのある人を生み出す場所は、どんなに美しいのか。
それは、確かに期待だった。
希望だった。
父には正妻がいた。
正妻の間に、二人の子を設けていた。自分にとっての、兄と弟。
母は、任地での寂しい夜を慰めるだけの女で、自分は……妾腹で、庶子だった。
新たな生活は、穏やかなものだった。
父の正妻、義理の母は実の母に殴られてばかりいた自分に優しくしてくれた。子供を殴るなんて、と美しい顔を歪めて悲しげに、いささか憤慨して呟いた。
兄は自分が新しい家に早く慣れるよう計らってくれた。弟はすぐに懐いてくれた。
父は何かと自分を構い、色々な物を買い与えてくれた。
何もかもが穏やかだった。ほんの少し前からは考えられないほどに平穏だった。それは、確かに望んでいたもので――
そしてそれらは、確かに自分に失望を与えていったのだ。
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