テーブルの端に据えられたランプが、ボンヤリと部屋を照らしている。
その光は部屋全体を満たすには足りなかった。だが、テーブルを照らし出すには足りていた。テーブルと、その真ん中に据えられたチェスの盤面を挟んで対峙する二人のその手元を、照らすには。
二人の一方の手が、動く。
無骨な指が、黒のナイトを摘み上げる。それから、いささかの迷いもなくその駒で白のクィーンを倒した。カツン、という音を立てて倒れる白いクィーンの駒。そのマスに、黒のナイトが音を立てて降り立った。
そして、低い声が厳然と宣言する。
「チェックメイト」
黒の指し手が、そのまま白のクィーンを取り上げ、盤外に置く。一方の白の指し手は、白くほっそりとした指で苛立たしげにテーブルの表面を叩きながら、長考している。ト、トトン、とリズムを刻むその指の動きを、黒の指し手は平然と見つめていた。
それが、どれくらい続いたか。
「……私はね、思うの」
「ほぉ」
「チェスって、現実の縮図だ、って言うじゃない?」
「聞いた事ないな、そんな話」
にべもない黒の指し手の答えに、白の指し手は一瞬口ごもった。ムッとした様子で相手を睨みやるが、黒の指し手はどこ吹く風。
「――とにかく、そういう事らしいのよ」
「ふぅん」
「確かに、そうよね。自分がいて、自分の手駒がいて、敵がいて、敵の手駒がいて……――確かにこれは、現実の縮図よね。いえ、戦争の、かしら?」
「…………」
「でも」
白の指し手は、そのほのかに赤い唇を笑みの形に歪める。
「世界って、そんなに単純なものだったかしらね」
「…………」
「白と黒……『私』と『貴方』だけじゃ、少し物足りないと思わない?」
「…………」
「せめて、あと一色か二色は欲しいわね。そうでなくちゃ、謀略の縮図にもならないわ」
ねぇ、と同意を求めるように、白の指し手は、その翠緑の双眸を黒の指し手に向ける。
しかし黒の指し手はといえば、うんざりしたような半眼で彼女を睨み返し、
「俺としてはそんな複雑な三竦みゲームなんてやりたくないし、まして一対一の二色ゲームで俺に勝てないお前なんて、と言いたいところだが――」
「どういう意味かしら、それは?」
「とりあえず、さっさと投了宣言しろ。この盤面じゃ、どう挽回しようったってお前の負けは確定だ」
「――……まだ分からないじゃない」
「どうやっても勝てない理由をいちいち説明してやってもいいが、だからこそのチェックメイトだ、って事をいい加減覚えろ、ヨヨ」
「――……もう一局! もう一局よ、ビュウ!」
「悪いが、詰め所に戻らないといけないんで」
「何よ貴方、勝ち逃げするつもり!? そんなの絶対に駄目よ! 何が何でも、もう一局付き合ってもらうわよ! 今度こそ私が勝つんだから!」
「……お前のその往生際の悪さが、何と言うか、こう、いじらしいと言うか付き合いきれないと言うか」
「どういう意味よ!」
激昂する主君相手に適当な事を言ってみるが、結局火に油を注ぐ事となる。
相手がギャーギャー喚けば喚くほど冷静になる頭で、さてどうやってこの場を抜け出すものか、と考え始めるが――
後になって、彼は思う。
この時彼女は、これから起こる事を予見していたわけではないだろう。
だがそれでも、この時の彼女の言葉は、その直後に起こった事件を端的に表現していた。
白黒灰色レインボーワールド
―1―
西暦四九九五年、十月。
その年の秋の気配は、例年のように密やかに、しかし着実に訪れていた。カーナ王宮の裏手に面する練兵場、そこに生える木々の葉は色付き、気の早いものは既に黄色くなった葉を落とし始めている。
そして、その練兵場で繰り広げられる例年よりもずっと厳しい訓練を横目に見ながら、ビュウは、早足でそこを横切っていた。
戦竜隊は国防の要。扱いは、軍の他の部隊よりもずっと良い。王宮の裏手なんていう場所に専用の練兵場があったり、それに隣接する形で竜舎があったり、あるいはその側に兵舎があるのは、その表われとも言える。他の隊は、もっと立地条件が悪い。そもそも王宮の裏手なんていう場所にすらない。
木剣を打ち合わせている隊員たちの傍を通ると、彼らは手を止め、挨拶してくる。ビュウはもちろんそれに挨拶を返すが、どちらかといえば、そんな礼儀を守るよりも訓練に勤しんでほしいものだった。
ともあれ彼は、歩を緩めない。
向かう先は、練兵場を挟んで王宮の反対側に立つ竜舎。
「ビッケバッケ、調子はどうだ?」
「あ、アニキ!」
入ると、ドラゴン臭さに出迎えられる。厩舎のような獣臭さとはまた違う、どこか硬質な独特の生臭さ。戦竜隊に配属を希望する新兵の内三分の一ほどは、この臭いにどうしても慣れずに他の隊への異動を願う。ある種に「ふるい」の役割を果たしているこの臭いは、ビュウにとっては慣れ親しんだものだった。
そして、同様に慣れ親しんで、すっかり入り浸っているのが、竜の鱗を磨く専用のブラシを手に持ったまま笑顔でこちらを出迎えた、ビッケバッケ。ビュウの弟分の一人だ。
「どうしたの、急に? ここんところずっと忙しそうだったのに」
「あぁ、やっと一段落付いてな。久しぶりにこいつらの様子を見に来たんだが」
ビュウは、通路を中心に左右に分かれた無数の房に入っている、色とりどりの鱗を持つ戦竜たちを見やりながら、ビッケバッケに歩み寄る。
「特に調子が悪い奴とか、そういうのは? この間、アイスがぐずっていたらしいけど」
ちょうど彼が今通り過ぎた右の房に入っている青い鱗の竜、アイスドラゴン。まだ若く、世話係の隊員の言う事を中々聞かない。飛行訓練で外に出したら、竜舎に入りたがらなかったらしいのだ。結局、扱いに長けた古参の隊員たちが何人かで宥めたそうだが。
問いに、ビッケバッケは竜舎をグルリと見回して、
「とりあえず、今のところはいないよ。皆、大丈夫。調子いいよ」
笑う。ビッケバッケは大らかな上に気配り上手で色々な事をよく見ているから、ビュウや他の隊員たちが気付かない事も気付いている時がある。そんな弟分の言葉に、ビュウは信頼を置いている。
「あ、でも」
不意に語調を変えて続けた言葉に、眉をひそめるビュウ。一方のビッケバッケは、えーと、と口の中でモゴモゴ言いながら背後の方を見やって、
「――ウィル、ウィルー! ちょっと来てよ!」
応答は、竜舎の奥の方から飛んできた。
「え、何ー?」
「サラマンダーの事! ちょっと来て説明して!」
そして。
奥の房から、一人の少年が姿を現わす。
まず目に飛び込んできたのは、錆のようなくすんだ赤茶色の髪。
柵をくぐって通路に出てきたその髪の持ち主は、ビュウよりも二つか三つくらい歳下の少年だった。上げた顔はまだ幼い。灰色の丸い目が更に丸くなって、こちらに向けられている。
造作が良いというほどでもないが、それでもどこか愛嬌がある。ビュウは、その少年の名を口にした。
「リッターか」
ビッケバッケと同期で入隊した、ウィル=リッター。
彼と同じく雑用ばかり任されている、若手隊員の一人である。
こちらに名を呼ばれ、ウィルは一気に緊張の面持ちとなった。背筋をしゃんと伸ばすと、踵を揃えて敬礼してみせ、
「ア、アソル隊長! どんな御用で!?」
「隊長が自分の所の竜舎を見回るのにご大層な理由が要るとは思わなかったが、まぁ、いいか。
で、サラがどうしたって?」
サラ。ビュウの乗騎であるサラマンダーの愛称だ。そういえば、ウィルが今し方出てきた房は、サラマンダーのものだ。
その名に、ウィルの表情に反応があった。そして何かを促すように、隣のビッケバッケが目配せをしている。あぁ、と思い出した様子で、
「あの、アソル隊長、実はサラマンダーの鱗の事で少し報告したい事が」
「サラの鱗?」
はい、と頷いて、彼はビュウの方へと歩み寄ってきた。ある程度近付いてから、こちらにその手を差し出してくる。
「これなんです」
「これ?」
差し出されたウィルの右の掌には、何があるわけではない。――いや。
そこにキラリと光る微かな欠片を見出して、ビュウは目を軽く細めた。手を伸ばし、それを摘み上げる。
雲母という鉱物がある。
表面をこすると板状の薄片が簡単に剥がれるのがその特徴だが、今摘み上げた欠片は、その雲母の剥片を彷彿とさせる。
向こうが透けて見えるような、淡い赤の薄片。それは脆く、ほんの少し力を入れただけで音もなく崩れた。パラパラと、ビュウの指の隙間からこぼれて落ちていく。
「サラマンダーの鱗にブラシを掛けると、こういった剥片が取れるんです。それも、ここ二、三日ずっと。僕はこんな事初めてで……――あの、隊長」
まるで何かを恐れるように、オズオズとビュウを見上げるウィル。
「これは……サラマンダーは、何かの病気なのでしょうか?」
「そんなのじゃない」
間髪を入れずにあっさりと否定すると、え、と呆けた様子でビッケバッケとウィルは呻いた。
「鱗の生え変わりだ。中型竜は、大体三、四年周期で鱗が生え変わる。古い鱗の下に新しい鱗が生え出して、それに押し上げられるようにして、古い鱗は脆くなって落ちるんだ」
「そうだったんですか!」
と声を上げるウィル。感心し、安堵したような声音だ。
「だが」
その感情の昂ぶりを抑えるように続けると、案の定、二人は再び漠然とした不安を表情に上らせる。
「古い鱗が落ちないで残ると、生え変わりにムラが出来て硬度が均一にならない事がある。普通の竜ならそれでもいいが、戦竜はそうはいかない。だから、いつもより少し念入りにブラッシングをしてやってくれ」
「成程……了解しました、隊長!」
顔をパッと輝かせ、大声と共に敬礼するウィル。ビッケバッケはそれを見て、慌てて、ぎこちなく敬礼を真似る。その二人の姿に、ビュウは思わず笑みを浮かべ――
視線を感じて、すぐにその笑みを引っ込めた。
背中に感じた刺すような視線。ビュウは、背後を振り返る。
戦竜隊の隊員ならともかく、他の隊の者たちは余り竜舎に近付きたがらない。まして、王宮の中ばかりにいるような軍人なら尚更、だ。
その男は、明らかに後者だった。濃い灰色の戦闘服ではなく略式平服を着ている点で、すぐにそれを判じた。
三十代半ばほどの男だ。背筋はまっすぐで襟元は正しく、無精ヒゲもない上に、藁色の髪を短く刈り込んで、油できちんと整えている。見るからに、司令部周りのエリートといった態だった。
陽の下に立つ彼の表情は陰になっていてよく判らないが、それでも相手が、こちらを鋭さを持って見据えている事だけは確かだった。突き刺し貫くような視線からは、敵意すら感じる。
ビュウは、彼の名を知っていた。
「我ら戦竜隊に、何か御用か?」
だから、その名をはっきりと呼ぶ。
「ニコラス=フォス佐長?」
問い掛けに、フォスと呼ばれた男は僅かに口角を吊り上げたようだった。
皮肉めいた、到底好意的ではない笑み。どことなくこちらを嘲笑うような。
ビュウは、片方の眉をピクリと上げた。
「いや、失礼、アソル佐長」
低く落ち着いた声が返ってくる。
「最近の戦竜隊は熱心に訓練に勤しんでいるというから、我らも見習おうか、と思ってな。様子を拝見させていただいただけの事。もう失礼する」
言うだけ言って。
フォスは、クルリと踵を返した。ザッ、ザッ、と足音は遠ざかる。王宮の方へと向かっていく足音を、ビュウは目線だけで追い掛けた。
そうして、足音はもちろん、気配すら消え、
「アニキ……今の人は? あんまり見ないけど」
「そりゃ見ないだろうさ」
彼の去っていった方向をまだ睨み据えながら、ビッケバッケを振り返りもせずに言う。
「ニコラス=フォス佐長。諜報局のトップだ。こんな所に滅多に出てこない」
と吐き捨てて。
フォスが言い残した、あの嘘である事が明白な視察理由に、ビュウは再び顔をしかめた。
§
……一番最初の記憶。
青空。
高く、どこまでも澄んで、深い色を宿した、ベロスの青い空。
それを、ずっと見上げている自分。
そして、そんな自分の耳に、その声は轟く。
『あんたなんかっ……あんたなんか、生まれなければっ!』
母は、酔うとすぐに怒りと不満を吐き出した。その矛先はいつも自分だった。
けれどそれに対して自分は怒りも嘆きもせず、ただ、ジッと待っていたのだと思う。母の理不尽な怒りが、自分の体の上を過ぎ去るのを。ジッと、床に仰向けに倒され、何度も何度も顔を殴られながら、ただ、ジッと。
ジッと、空を見ていた。
窓の外から見える、雲一つない、真っ青な空。
『あんたさえ、あんたさえ……!』
母は弱い人間だったのだと思う。父に捨てられ、結婚しないまま子を産んだふしだらな女と世間から後ろ指を指され、精神の均衡を容易に崩す人だった。自分の不幸をただ嘆くばかりで、そこから先をどうにか良くしようという努力をしない人だった。体を売り、得た金で酒を買って、そして酔う度に父から受けた仕打ちを思い出してはその結実の自分に怒りを向ける。
つまりは、そんな人だった。
自分は母をどう思っていたのだろうか。
哀れだと思っていた。それは間違いない。愛していた。それも間違いない。
そして、憎んでもいた。理不尽に殴る母を。
だがそんな暮らしは長くは続かなかった。
酒に溺れた女の末路は哀れだ。母は病を得て、呆気なくこの世を去った。
そして、どこからか自分たちを捨てた父親がやってきた。
母の死を知って、己のかつての仕打ちを悔い、せめて息子を引き取って育てたい、と。
殴られるばかりの日々からの、脱出。
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