―4―



 痛い。
 痛い。
 痛い。
 痛い。
 痛い!
 体の中を鋭い棘だらけの虫が這いずり回っている。高速で動き回るそいつらは身じろぎする度にビュウの体を内側から傷つけ、苛み、切り刻み、ズタズタに引きちぎっていく。傷はついたその場で腐っていき、蛆(うじ)がたかり、ブチブチと細かく喰われる。腐敗は血管を伝わって全身に広がり、同時に、蛆どもも血管に潜り込んで腐汁を追いかける。分かるのだ、細い血管の中に小さな蛆が数え切れないほどに湧き、腐った血を、肉を貪り食っているのが! 棘虫を追いかけ、腐臭を追いかけ、蛆どもは全身を駆け巡る。ビュウの体はどこまでも喰われていく。ブチブチ、ブチブチ。臓腑を喰らい、筋肉を噛みちぎり、血管をかじり、神経一つ一つをこそげとって貪る、このおぞましい感覚! ついに蛆は皮膚を喰い破りビュウの体の表面をブチブチ、ブチブチ、喰らい出す。少しずつ、少しずつ、しかし体が確かに削り取られていく感覚は神経を苛み、脳を狂気の淵へと追いやっていく。狂気へ――

『――負けないで』

 ――狂気に落ちる寸前、聞こえてきたのは女性の声だった。聞いた事のある声。忘れる事の出来ない声。例えどんな状況にあっても、忘れる事など許されない声。
 ヨヨの声。
 出撃前の作戦会議でヨヨの語った言葉が、耳に、脳裏に蘇る。

『絶対に負けては駄目。どれだけの苦痛に苛まれても、絶対にそれに屈しないで。
 そして、どうか忘れないで。苦痛だけが全てでない事を』

(――何だよ……)
 正気と狂気の狭間、激痛の奔流のただ中で、ビュウは、思う。
(何なんだよ……苦痛だけが、全てでない、って……。意味が、解らねぇ……)
 だがその言葉にすがる。その声にすがる。激痛の奔流の中で、溺れまいと必死に精神を過去に集中させる。懸命に思い出にすがりつく。
 苦痛とはかけ離れた、暖かく、優しい思い出に。
 ――母とつないだ手の温もり。つなぐ事の嬉しさ。
 ――ヨヨと一緒にサラマンダーで空を飛んだ時の、あの風の爽やかさ。陽の光の暖かさ。
 ――フレデリカの淡い微笑み。それを見たくて彼女の元に向かう時の弾むような感情。見れた時に胸に宿る、何と名付けて良いのか分からない温もり。
 ……思い返せば、誉められた事ばかりではないこれまで。酸鼻を極める場面に何度も遭遇した。それを自ら作り出した事もあった。たくさんの人を失い、たくさんの人を殺してきた。この手はとっくに血まみれで、体はとっくに傷だらけで、心さえ悲鳴を上げていた。
 それでも、そればかりではない。
 そればかりではないのだと、胸を張って言える。

 苦痛だけが、全てではない。

 刹那――
 激痛の奔流が、不意に、緩んだ。
 まるで、戸惑いのような……――

「クリーンアップ!」
 凛とした声が、轟いた。
 その瞬間、ビュウは、自分を包んでいた激痛が一気に消えたのを感じた。悪い夢から覚めた時の、夢と現実の区別がついていない心地で、全身を、眺める。
 あの激痛は、全て錯覚だった。皮膚を喰い破る蛆などどこにも見当たらないし、先の火傷以外、新しい外傷はなかった。
 ホッとするのと同時に、ゾッとする。不意に理解したのだ。自分が今、正気と狂気の境目ではなく、生と死の境目にいたのだという事を。突然死に襲われた被害者たちの、その死の原因が、生きている上では決して味わう事のない激痛の奔流によるショック死だという事を。
 ヨヨの言葉に、救われた。
 思い出に、救われた。
 そして、彼女に――
「ビュウさん、ご無事ですか!?」
 悲鳴のような大声の方に目をやれば、割りと近い所に彼女がいた。
 フレデリカ。
 杖を構えたまま、呆けた表情でピクリとも動かないこちらに不安の眼差しを向けている。
 大丈夫だ。彼女にそう答えようとして、
「――ビュウ、大丈夫か!?」
 顔をフレデリカから右斜め前方に向ける。燐光の中、そこで繰り広げられているのは決死の戦いだった。
 金色の光球をまとうキングオブペイン。
 その周囲に展開し、武器と技で攻撃を仕掛けるナイトとヘビーアーマー。
 その援護をするサラマンダーとサンダーホーク。
 一旦体勢を立て直すつもりなのか、少し離れてパルパレオスがいた。あちこちから血を流し、荒い息を吐きながら、こちらに視線をよこしている。
 薄闇に目をこらす。
 皆、満身創痍だ。
 ここでいつまでも休んでいる場合ではない。
「ああ――」
 応え、激痛の中でも離す事のなかった剣を改めて握り直して――
 ビュウは顔色を変えた。
 キングオブペインの赤い双眸が、パルパレオスを、そしてこちらを見ている。
 甲殻に覆われた顔の下部、口がガパッと開き、赤い光が――
「パルパレオス! 『ヒット』を!」
 叫ぶ。それだけでパルパレオスは理解した。ビュウは彼に駆け寄り双剣を上段に構え、パルパレオスは身をひねって中断と下段に構える。
 サラマンダーとサンダーホーク。二頭の戦竜から流れ込む魔力を剣に注ぎ込む。イメージは――炎の刃!
「「フレイムヒット!」」

 ッゴォン!

 放たれた二つの炎刃が狙い過たずキングオブペインの横っ面に命中、そっぽを向かされた異形は緋色の閃光を明後日の方向に誤射する!
 炸裂の轟音と閃光を背後に、ビュウは、振り返って叫んだ。
「フレデリカ、もう少し下がれ! そっちまで守っている余裕はない!」
「は――はいっ!」
 彼女が、他のプリーストたちがちゃんと安全な位置まで下がっているか、確かめる暇などあるはずもない。ビュウはパルパレオスとほぼ同時に走り出す。そして、お互い示し合わせたわけでもないのに、同時に双剣を構え、
「フレイムヒット!」
「サンダーヒット!」
 ほとばしる炎と電撃が、刃となってキングオブペインを襲う!
 二つの刃は、それぞれ胸の辺りと右腕に直撃する。キングオブペインはそれにこたえた様子を見せない。何かがぶつかった、程度の、どうとも思ってもいないような反応だった。だが、それで姿勢が僅かに揺れる。
 そこを狙って、
「「「セイントブース!」」」
 ヘビーアーマーたちが振り上げる、聖なる光をまとった斧と、
「「「セイントパルス!」」」
 ナイトたちが一閃する剣から放たれた光刃が、キングオブペインを両脇から襲う!
 ビュウは咄嗟に目を固くつぶった。鋭い炸裂音。閉じた目蓋の上からでも感じられるまばゆい光は、二つの技によるものだ。これを直視していれば、目がくらんでしばらく視力を失うのは確実だっただろう。自分たちの技を間近で見たナイトたちとヘビーアーマーたちは、おそらく――
 その時、視界が閉ざされたせいで鋭敏になった聴力が、先程までなら聞き逃していただろう様々な音を捉える。
 ――ズズゥン……どこかから聞こえてくる、微かな地鳴りのような音。
 ――バサバサッ……後ろの方から聞こえてくる、これはおそらく、プリースト隊につけたモルテンの翼の音だ。
 ――キュウゥ……ガルルゥ……この二つは、サラマンダーとサンダーホークの警戒の唸り。戦竜たちも突然の光に目が眩んだだろうが、それ以外の感覚が人間以上に優れている彼らの心配を、自分が今する必要はない。
 ――ガチャッ……ギィッ……鎧がこすれる音と、そして「何も見えんでアリマス……!」……タイチョーの、呻き声。
 なら暗所でセイントブースなんか使うな、と思わず内心で突っ込みを入れた時、その音を耳に捉えた。
 ――ジジッ……ジジジッ……
 ろうそくの芯が燃えていく音に近いが、あれよりももっと高く固く乾いた音。音程も音量もだんだん上がっていく気がする。耳慣れない音の、その変化に嫌な予感がよぎり、ビュウはまだ光が完全に収まっていない中、目を見開いた。
 闇に慣れた目には、僅かな明かりでも刺激が強すぎる。眩しくて目が痛くて涙が出そうで、それでもビュウは見た。愕然と、慄然と。
「――タイチョー!」
 抱いた恐怖と焦燥のまま、叫ぶ。
「来るぞ! ディフェンスしろ!」
 光がようやく消えようとしているその中で、ビュウの声にタイチョーたちはハッと身構えてディフェンスの姿勢を取り――
 その彼らに向かって――キングオブペインが、口の中に灯らせた赤光を放つ!

 ドォォォォォォッ!

 直撃。
「タイチョー!」
 衝撃波と、熱波と、巻き起こる砂煙。飛来する岩盤の破片を剣で弾き、時折顔や腕や腿を浅く傷つけられながら、ビュウは声を張り上げた。悲鳴のように。
「グンソー! バルクレイ!」
 静寂。
 炸裂音の残響と瓦礫が飛び散る音以外、何も聞こえてこない。
 答えは……返って、こない。
 心臓を冷たい手でギュッと握り締められたような、こごった恐怖に言葉を失う。最悪の予想が頭によぎり、砂煙の幕の向こうにその光景がない事を願い、同時にあっても動揺しないよう覚悟する。
 果たして、砂煙が、収まる。
 そこには――
 小山のように固まった、三つの全身鎧があった。
 直上からの衝撃にこらえるべく、防御の姿勢を取ったままの。
 その内の一つが、ピクリ、と動き、
 ――ガシャリッ。
 その場に倒れたのは、青い鎧。あれは、
「し……死ぬかと、思った……」
「バルクレイ……!」
 生きている。
 生きていてくれた!
 膝から崩れていきそうなほどの脱力感は安堵。座り込んでしまいそうになるのを必死でこらえ、ビュウはホッと息を吐き。
 次の瞬間、呼吸が止まるかと思った。
 目を疑った。

 キングオブペインの口に、再び緋色の光が宿っている。

「連射……!?」
 今までそんな事しなかったのに――パルパレオスの声には、そんな驚愕が宿っていた。
 その声が倒れたヘビーアーマーたちの耳に届く。折り重なった彼らは同時に上を見上げる。動きが止まる。硬直する。兜の下の表情がどんな事になっているのか、ビュウは想像したくなかった。
 想像している場合ではなかった。
 剣を構える。右に身をひねり、左の剣を上段に、右の剣を下段に据える。『ヒット』の構え。だが、戦竜からの魔力を練り、注ぎ込むのに時間がかかりすぎる!
 ラッシュたちが斬りかかる。だが、キングオブペインはピクリとも動じない。直下のヘビーアーマーたちに閃光を叩きつけるのが先だと言わんばかりの様子。
 戦竜たちは――出遅れた。攻撃準備に入り、炎を、雷を、吐き出そうとしている。だが、間に合わない!
 間に合わない……――

 ――そして、暴力的な光が、炸裂した。



§




 ――時間を、少し巻き戻す。
 第三部隊のルキアたちは、広い空間に躍り出た。
 遥か右手、空間の中央方向から戦闘の喧騒が聞こえてくる。時折光が瞬き、ホールのごときこの空洞を一瞬明るく照らし出す。
 あちらか。その光で方向に当たりをつけ、ルキアたちは走り出す。極力音を立てないように、決して悟られないように。
 そのために、彼らは――第一部隊は、頑張ってくれているのだから。
 彼女たちは壁際を回り込むように走る。時計回り。中央での戦闘の余波は、音と閃光以外一つも来ない。
(皆……)
 心の中で、ルキアは、今まさに命を賭けているだろう仲間たちに語りかけた。
(あと、もう少しだから。もう少しだから、頑張って!)
 そうして走っている内に、徐々に右へと折れていく。方向転換。空洞の最奥に当たる壁際に辿り着いたのを、彼女は悟った。
 ならば――
「――ムニムニ!」
 ワン! 犬のような鳴き声を漏らして、一つ目ドラゴンのムニムニがルキアのすぐ側に並ぶ。
 ルキアは、ムニムニを見やる。
 正確には、その背中に乗った「彼ら」を見やる。
 意外にもジッとしている「彼ら」に、ルキアは笑いかけた。
「さあ、貴方たち――出番よ」

 第三部隊。
 その与えられた役割は、隠密行動と、足止め。
 任務を果たすべく、

「マニョー!(やっと仕事だぜ!)」
「モニョー!(待ちくたびれたぜ!)」
「ムニョー!(いっちょ盛大にやるぜ!)」
「さあ、苦痛の王に我らプチデビのダンスを披露してやるのだ!」

 チビ死神たちは、ラインダンスを始め――



§




 そのダンスが呼び起こした巨大な球電と、そこから伸びた一条の紫電が、キングオブペインに背後から襲いかかった!
 ゴアアアアアアアアアッ! 地鳴りにも似た絶叫を轟かせて、キングオブペインは身悶えする。その瞬間、異形の竜は口を閉じた。閉じてしまった。
 放たれるはずだった赤光が、口の中で、暴発する。
 閉じた口の隙間からもれる煙。体を傾がせるキングオブペインを襲う、球電、炎柱、猛吹雪、閃光、衝撃波。怒涛の連続攻撃が化け物の動きを封じる。その隙に、ビュウとパルパレオスはナイトたちと合流、動けないほどに傷を負ったヘビーアーマーたちを助け起こし、キングオブペインから離す。
 プリーストたちは、指示を出すまでもなく駆け寄ってきた。彼女たちは酷い火傷に絶句したが、ジョイだけが、
「……幸運でしたわね。手加減されています」
「そう……なんで、アリマス……か……?」
「喋るんじゃないよ、タイチョー」
 と、衝撃から立ち直ったゾラの気遣いに満ちた叱責。焼け焦げたヒゲの下の口が苦笑を形作る。
 彼らの傍にしゃがんだビュウは、どういう事だ、と目線でジョイに問いかけた。
 彼女は、それに応える。
「おそらく、連射するためでしょう。一発目は手加減、二発目が本番。だから、しのげたのですわ」
 手加減されていたから、防ぎきれたのか。そして、奴は本番の方を口の中で暴発させた……。
 第三部隊が、神竜召喚以外でキングオブペインに対抗できそうな手段を唯一持つプチデビたちがあと少しだけでも遅れていたら、どうなっていたか。それを想像し、軽いめまいを覚えるビュウ。
 助かった。
 本当に、助かった。
 プリーストたちによる治療が始まったヘビーアーマーたちから、ビュウは、視線を背後のキングオブペインに戻した。
 閃光、閃光、また閃光。
 プチデビルたちはここぞとばかりに踊り狂っている。世界に干渉し、揺り動かす彼らの踊りが、人の身では到底生み出せない巨大な球電をまた作り出す。それがキングオブペインに接触、形を崩して炸裂。逃れるように身じろぎするキングオブペイン。しかし、逃げた先にも発生する球電。炸裂。それは実質的な球電の檻。キングオブペインを逃がさず、苛み続ける。
 これは、
「行けるか……!?」
 囁いた言葉には、知らず内に興奮が混じり込んでいた。それは言葉だけに留まらず、体にも漏れ出す。手をギュッと握り締め、身を乗り出し、食い入るようにキングオブペインとプチデビルの、戦闘とも呼べない圧倒的な戦闘を見つめる。
 そんなビュウの側に、ふと、気配が生まれた。
「――ビュウさん」
 声は男のものだった。若い、という事以外は印象に残りにくい声。もちろんビュウの知る声だ。彼は、横手に目だけを向ける。そこに見たのは砂色の、
「ゼロシンか」
「第二部隊から伝令です」
 第二部隊。
 伝令。
 視線を広間の入り口にソッと走らせる。入り口近くの石筍の陰に、金色の頭があった。ミストだ。
 第二部隊につけていた彼女の役割は、部隊間の連絡役。そして、その役割を果たす時とは、
「第二部隊の準備が完了、こちらの状況次第でいつでも実行に移せる、との事」
「……ミストに伝えろ。こちらの脱出状況を見て、第二部隊の裁量で実行に移せ、と」
「了解」
 短く残して、ゼロシンの気配が消える。それを確認して、ビュウは虚空に呼びかけた。
「サジン」
「ここに」
 再び、すぐ側に生まれる気配。黒衣のアサシンは、意外に傍に控えてくれていた。
「皆に伝えろ――ヘビーアーマー隊、プリースト隊、ライトアーマー隊、ナイト隊の順に、戦闘区域より離脱を開始しろ」
「……ヘビーアーマー、プリースト、ライトアーマー、ナイト、の順で?」
「ああ」
 それは、当初の作戦とは違った。
 本来ならヘビーアーマー隊が殿(しんがり)を務めるはずだった。だが、あの状態の彼らにそんな危険な役割を負わせるわけにはいかない。
 ならば、自分たちがやるまでだ。
 承知、という囁きを最後にサジンの気配も消えた。再び目をキングオブペインに戻す。
 プチデビルの猛攻に、為す術のないキングオブペイン。されるがままに佇んでいる。
 ――佇んでいる?
「……おかしいぞ、ビュウ」
 パルパレオスの呟きには、困惑があった。
 それと同量の、恐れも。
「何故、奴は、あれだけの攻撃を喰らって――」

 平然と、している?

 瞬間、ビュウの脳裏に警戒音が鳴り響く。
「皆、逃げ――」
 遅かった。

 刹那、キングオブペインのまとう光球が無数に分裂、緋色に変じて暴力的なまでの輝きを放つと、暴れ狂った。

 ズガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!

 目にも止まらぬ速さで移動する光弾。誰も反応できない。天変地異に怯える無力な人のように、光弾が天井を、壁を、床を、無差別に穿ち、破壊するのをただ見守る。
 降り注ぐ瓦礫。視界を覆う砂煙。その中から、「きゃああ――――っ!」「うわぁっ!」悲鳴が聞こえてくる。だが、地面に身を伏せ、固く目を閉じて手で頭をかばう今のビュウに、それが誰のものか判じる余裕はなかった。
 しかし、さすがに次に聞こえてきた悲鳴は聞き逃せなかった。
「マニョー!(やべぇぜ!)」
「モニョー!(痛ぇぜ!)」
「ムニョー!(危ねぇぜ!)」
「というわけで、我らプチデビは一足先に避難させてもらうのだ!」
「ってちょっと待て――――――――っ!」
 体に降り積もった瓦礫をはねのけ、ビュウは立ち上がった。
 が、切羽詰まった怒鳴り声はチビ死神どもには届かず、彼の目が捕らえたのは、ちょこまか動いて一目散に逃げてゆくプチデビの後ろ姿だけだった。
 焦燥感が、ビュウを襲う。
 まずい。
 致命的なまでに、やばい。
 こちらの指示なんかほとんど聞かず、その意味で戦術的にまるで使い物にならないプチデビルを起用した理由は、その火力にしかない。彼らにはこのまま踊り続けてもらって、第一部隊と第三部隊が脱出するまでキングオブペインを引き留めてもらうつもりだった。
 が、あっさり逃げ出した。
 真っ先に離脱された。
 ビュウはキングオブペインを振り仰いだ。
 その瞬間、彼は、生涯で初めてザァッと全身の血の気が引く音を聞いた。
 あれだけプチデビの踊りを喰らっておきながら、キングオブペインの甲殻には傷一つついていなかった。消耗している様子さえなかった。
 健在だった。
 だが、彼を戦慄させたのはそこではない。彼は見たのだ。そして、感じてしまったのだ。

 キングオブペインの体から揺らめく、緋色の炎を。
 それが放つ、熱くて冷たい怒りを。
 こちらを灼き尽くさんばかりの殺意を。

 揺らめく炎から直接光弾が放たれる。ドドドドドドドドドッ! 数十の光弾は、着弾と同時に炸裂、熱を伴った衝撃波がビュウたちを襲う!
 地面に伏せ、皮膚が一瞬であぶられる熱に耐え、
(これが……)
 剣を握り直し、光弾の嵐に耐え、ビュウは絶望的に思う。
(これが、苦痛の王の力か……!?)
 第三波。また狙いは外される。直撃しないで瓦礫の雨と熱衝撃波だけで襲いくる攻撃は、こちらをなぶり殺すものだろう。
 ただで殺すつもりはない。
 苦しんで苦しんで、絶望の内に死ね――
(冗談じゃねぇ!)
「フレイムヒット!」
 生への執着がまたも頭をもたげた。練り上げられながらも放たれなかった魔力が、今、炎刃と化して、第四波を口から放とうとしていたキングオブペインの顔面に直撃する!
 今度は、敵も口の中で暴発させるなんていう間抜けはしなかった。寸前で閃光を散らし、軽く身をくねらせて直撃を避ける。
 だがそれで十分だった。ビュウは振り返りもしないまま、背後の仲間たちに叫んだ。
「撤退しろ!」
「――!」
 その声に叩かれ、呆然とされるがままになっていた仲間たちは我に返り、身構える。
「順番なんて気にするな! 逃げられる者から逃げろ! ――ラッシュ!」
 と、これは弟分の方に向いて叫ぶ。ラッシュだけでなく、トゥルースやビッケバッケまでこちらを見、シャンと背筋を伸ばした。
「マテライトに伝えろ! 俺の事は気にするな、と!」
「――じ、じゃあ、アニキは!? アニキはどうするんだよ!?」
「俺か? 俺は――」
 ニヤリと笑う。本当は弟分たちに心配させまいとしたのだが、彼らは逆にギョッとしてしまった。傷だらけで血だらけの顔での笑みは、さぞ凄絶に映った事だろう。しかし、もう取り繕う余裕もない。

「プチデビどもの、代行だ」

 馬鹿な事言ってんじゃねぇ! 隊長、死ぬつもりですか!? 無茶だよアニキ! 弟分たちの叫びは最早聞かず、ビュウはキングオブペインと真っ向から睨みあう。
 と、その彼の隣に誰かが並ぶ。
「俺も付き合おう」
「パルパレオス……?」
 やはり血だらけ傷だらけの顔で、同じクロスナイトの元敵将はフッと笑った。
「お前一人見捨てて戻って、俺は何てヨヨに言い訳をすればいい?」
「……こっちこそ、あんたを付き合わせる事、何てヨヨに言い訳すればいいんだ?」
「お互い、生き残れば済む話だ」
「だな」
 話はそれで終わった。
 思えば、奇妙な縁だ。敵対し、祖国を滅ぼされ、その後三度も戦場でまみえ、しかし滅ぼされた祖国を協力して解放し、今は手を携えて共に戦ってさえいる。
 同じクロスナイトで。
 同じ女を――恋愛と敬愛の違いこそあれ――愛し。
 ジョブだとか容姿だとか、共通する点は多いのに性格はまるで違って、だから大概腹立たしい事も多いのだけれど、悔しい事に、ビュウは、戦場で並び立つのにこの男以上に頼りになる者を知らない。
 背中に感じる気配が、仲間たちの離脱が順調に進んでいっている事を教えてくれる。弟分たちがごねないでくれた事がありがたかった。と――まだ残っている気配を感じ、ビュウはちらと振り返る。
 影は、二つあった。
 一つは、サラマンダーだ。バサリッ、とビュウたちの傍に降り立つ。その目に、己も運命を共にするという決意を見て取り、ビュウは苦笑した。悪いな、ありがとう。口の中で、小さく呟く。
 そして、もう一つは、
「フレデリカ……」
 広間の入り口で、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。その口が素早く動き、何か言葉を紡いでいる。何を忙しく呟いているのか、までは判らない。だが、その正体はすぐに知れた。
「ホワイトドラッグ!」
 彼女の掲げた杖から放たれた淡く青い癒しの光が、ビュウとパルパレオスを優しく包む。
 ずっと体を覆っていたしつこい痛みが、スゥッと引いていった。
「ビュウさん、パルパレオス将軍……――どうか、ご無事で!」
 フレデリカの叫びは、どこか濡れた響きを伴っていた。
 それに、返すべき言葉が、見つからなかった。
 いや、返す必要なんてないのかもしれない。ビュウは彼女をまっすぐに見、頷いた。それだけだった。だがフレデリカはそれを受け取ってくれた。目元に滲んだ涙をサッと拭うと、強い表情で身を翻した。
 走り出す、その背中を見送る。
 どうか、彼女が間に合うように。
 前を、向く。
 キングオブペインは、何もしないでただ待っていた。さっきまであれほど怒りに任せて攻撃してきたというのに、ビュウが仲間を逃がすのを、ただ黙って見ているだけだった。
「……何でだと思う?」
「俺たちをなぶり殺してからでも十分間に合う、と思っているんじゃないのか?」
 ビュウが問えば、パルパレオスは冗談めいた口調で物騒な事を言う。だがあり得そうな可能性で、ビュウは苦笑いするしかない。
「ゾッとしねぇな」
「まったくだ」
「あんた、俺の盾にならねぇ? 大丈夫、ヨヨには上手く言っといてやる」
「お前こそ、俺とヨヨのために犠牲になってくれ。安心しろ、フレデリカにはお前が勇敢だったという事をしっかり伝えておくから」
 軽口を叩き合うのはそこまでだった。

 ニィ、と。
 キングオブペインが、初めて、笑みを見せたのだ。
 自分より小さい生き物の抵抗を、侮り、嘲る笑みだった。

 傷の痛みはない。
 体はしっかり動く。
 双剣がある。
 戦竜がいてくれる。
 そして、頼りになる戦友がいる。

 ビュウとパルパレオスは、異形の竜に躍りかかった。



§




「第一部隊より伝令!」
 洞窟の中から駆け戻ったミストが、開口一番に叫ぶ。
「第一部隊及び第三部隊の脱出状況を勘案の上、こちらの裁量で実行に移られたし――以上です!」
「ご苦労じゃった、ミスト。――ウィザード隊!」
 小ラグーンの中央にそびえる、丘と言った方が良いような小山の上、マテライトは待機中のウィザード隊に呼びかける。彼女たちは待ち構えていたかのように姿勢を正した。
「わしの合図と共に、始めよ!」
「「「「はい!」」」」
 彼女たちの応答に満足げに頷いたマテライトは、ふと、妙なものを視界の端に捉えた。そちらに目をやる。
 洞窟の入り口から、何かが飛び出してきた。
 出てきたのは、プチデビだった。
 猛ダッシュで転がり出て、更に走って、すぐに島の端についてしまって、パニックに陥った様子でニョーニョーと騒ぐ。
「何をやっておるんじゃ、あやつらは?」
「……いえ、それよりも団長――」
 首を傾げたマテライトの傍らで、ミストが青ざめる。
「作戦じゃ、プチデビの脱出は最後だったはずじゃ……?」
 その言葉に、マテライトがハッとミストを見、プチデビルを見た。
 その瞬間、島全体が不穏の揺れた。
 その揺れは、今までのもの――マテライトたち第二部隊が関わったもの、関わっていないもの――に比べ、長く続いた。ウィザードたちが小さく悲鳴じみた声を上げ、プチデビたちは更に激しく喚きたてる。表情を強張らせるマテライトに、ミストが決然とした声で、
「団長、私がもう一度洞窟内の様子を――」
「駄目じゃ」
「団長!」
「あやつらがヘマをしようと、わしらはわしらの役目を果たさねばならん」
 だが、マテライトは不安だった。不測の事態が起きている事は明らかだった。第一・第三部隊が脱出するまでキングオブペインの足止めをするはずだったプチデビルたちが真っ先に脱出しているなど、番狂わせもいいところだ。
(だからわしは言うたのだ。あんな奴らを戦術の要に据えるな、と)
 同時に、ビュウがそうしなければいけなかったのもよく解っていた。
 第二部隊が工作を完了させるまで、キングオブペインの気を引かなければいけない。そのための第一部隊と、第三部隊。
 その彼らが撤退するまでの間、キングオブペインの足止めをしなければいけない。だが、強大な力を持つキングオブペインを足止めできる者は限られる。戦竜全頭、神竜召喚できるヨヨとセンダック、そしてプチデビル四匹。
 戦竜たちは、最後の脱出の足となる。足止めには使えない。
 ヨヨとセンダックには別の役割がある。
 となれば、動かせるのはプチデビだけ。
(いくら菓子で釣ろうと、あやつらが当てになるわけがないだろうに――)
 そんな風に苦々しげに胸中で吐き捨てた直後だった。

 洞窟の入り口から、戦竜たちが飛び出してきた!

 サンダーホーク、モルテン、ムニムニの順である。その背中にはそれぞれの部隊の者たちが必死にしがみついている。そして、明らかに四人以上乗っているところがある。マテライトは、サンダーホークに乗る重傷の態のヘビーアーマー隊に一瞬目を奪われ、それから、重そうな動作でヨロヨロとこちらに向かってくるムニムニに視線を移した。
「マテライト!」
 本来ムニムニがついていたライトアーマー隊の中に、何故か混じっているのはラッシュだった。ラッシュはナイト隊、つけられた戦竜はサラマンダーだ。あの、青空によく目立つ真紅のドラゴンがいない事に気付き、黒々とした嫌な予感が湧き起こる。
 そして、若造ナイトの続く言葉が、それを裏付けた。
「ビュウからだ――俺の事は気にするな、って!」
 怒りだとか苛立ちだとか、様々な感情で顔をクシャクシャにした彼の告げた言葉は、一番受け取りたくない類のものだった。
 マテライトは、瞑目する。
 けれどすぐに目を開け、ラッシュを見つめ返す。
「――解った」
「団長……!?」
 信じられない、とばかりに叫ぶミストの声を無視し、彼はウィザード隊を振り返った。
「ウィザード隊、始めよ!」
「――待ってください、団長! ビュウが……それにパルパレオス将軍も、サラマンダーも――」
「黙っておれ、ミスト!」
 皆まで言わせず、マテライトは怒鳴りつける。
 投げつけられた怒声に身を竦ませた部下へと、マテライトは懸命に自制した言葉をかけた。
「……この作戦を完遂させるために、あやつらは命を賭けると決断したのじゃ。同じ軍人ならば、その決断を尊重せい!」
 ミストは、悔しげに唇を噛み締める。しかし、やがてその力をといて、
「……はい」
 初めの内は戸惑っていたウィザード隊も、やがて自らの役目に没頭しだした。紡がれる言葉は風に流れ空に消え、しかし確実に一つの形を成していく。
 それは、魔法。
 形が、成る。

「「「「アースクエイク!」」」」

 大地に魔法が放たれる。魔法は、名前そのままの地震を生む。その揺れはいつしか立っているのもやっとなほどの激しい様相を呈し、ピシリッ、ピシッ、ピシ……――ランサーたちの『アースダスト』が刻んだ無数の亀裂を、どんどんと広げていく。
 そして。
 ラグーンが、砕けた。



§




 何もかもを灼いた。
 何もかもを砕いた。
 何もかもを冒し、穿ち、壊しても、いらない心に巣食う怒りは、憎悪は、消えてくれなかった。
 むしろいや増した。
 苦痛だった。
 憎悪に身を焦がす事も、その果てしなさに絶望する事も、苦痛を感じる事さえ、苦しく、痛かった。
 そのはけ口を求めた。だから更に灼いた。更に砕いた。更に冒し、穿ち、壊した。そうする度に更に苦痛が増す、その悪循環に気付いて、苦痛を感じ、灼き、砕き、冒し、穿ち、壊し――
 どこまでも続く、悪夢の連鎖。
 それを断ち切ってくれる存在を求めた。
 そんなものなどどこにもいないと分かっていたのに、求めた。

 それは来た。
 忌まわしい、異世界からの来訪者の姿で。


 苦痛に満ちた喜劇の最終幕が、上がる。

 

 

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