―3―



 カーナ領空内、大岩礁帯――
 その辺縁よりも更に遠いところで動きを止め、気流に流されつつあるファーレンハイトから、真昼の空に流星のごとく飛び出した影があった。
 サラマンダー、サンダーホーク、モルテンである。
 三頭は、まっすぐに大岩礁帯の中央へと飛んでいく。
 洞窟を懐に抱く、小さなラグーンへと。
 まっすぐに。一直線に。迷いも恐れも感じられない動きは、やけっぱちにも見える。
 そして――
 三つの騎影が岩礁の群れの向こうに消えてから、こそこそと動き出す影があった。
 こちらも、三頭の竜。
 アイスドラゴンとツインヘッドとムニムニは、ひっそりとゆっくりと、岩礁の陰に隠れるようにしながら、サラマンダーたちの後を追う。
 残されたのは、パピー。
 まだ戦竜として戦うには幼すぎる戦竜は、ただ一頭でファーレンハイトを守ろうとするかのように甲板に鎮座する。
 出番が来る、その時まで。



§




 その洞窟に足を踏み入れた途端、ビュウは、
(――何だ……?)
 味わったのは、妙な感覚だった。
 違和感、と言ってしまうには余りにささやかな感覚。神経を尖らせていなければ気付かないほどに微かな異常。体を緩く包む異様さに、思わず辺りを見回した。
 妙といえば妙な洞窟である。やたらと広い。今立っているこの道、入り口から奥へと続いている緩い下り勾配の坂も、最低でも連隊規模の人員が隊列を組んで行進していけそうなほどの道幅を持っている。自然に出来た洞窟にしては不自然なほどに天井が高く、戦竜たちも何とか飛び回る事が出来るだろう。
 更に奇妙なのは、道や天井の端に生えたり垂れ下がったりしている石筍や鍾乳石が、ボンヤリと青白く発光している事だった。おかげで松明やプリーストたちの灯明の魔法がいらなく、助かるのだが――
「――何だか、嫌な場所だね」
 隊列の後方で、ゾラがポツリと呟く。
「嫌な空気が渦巻いてるよ。気分が悪くなりそうだ」
「――あの鍾乳石や石筍の光は、魔力光、ですね。これだけはっきりと明るく光っているのは初めて見ます」
 天井や周囲を見回していたジョイがどこか慄いているような口調で後を受け取り、
「キングオブペイン(ボリボリ)とかいう奴の(ボリボリ)魔力(ボリボリ)でアリマスか?」
 先頭の方を行くグンソーの言葉に、ええ、と震える声で頷く。
 隊列のほぼ真ん中を歩くビュウは、だが、と思った。
 確かに、ゾラの言う通り嫌な空気が渦巻いている。今にも吐き気がしてきそうな、猛烈な腐臭と血臭の錯覚。魔力だとか瘴気だとかいうものにはとことん鈍感なビュウたちでもはっきりと分かる、洞窟を満たす濃密で異様な威圧感。ここから先は危険だ、と本能が悲鳴を上げている。
 ――だが、違う。
 感じた違和感は、それではない。
(この感じ、前にどこかで……)
「ビュウ、どうした?」
 不意に、先を行くパルパレオスの声がかかった。
「何か、異常でも?」
「いや――」
 実は、と言いかけ、ビュウは眉をひそめる。
 違和感が、なくなっていた。
 いや、分からなくなった、と言った方が正しいか。奥から漂ってくる威圧感に掻き消され、その感覚が何だったのか、もうはっきりとしない。
(気のせい、か?)
「――……何でもない。先を急ごう」

 ――キングオブペイン討伐作戦、第一部隊。その内訳は、以下の通り。
 前衛、ヘビーアーマー隊――パルパレオス、タイチョー、グンソー、バルクレイ。通常ヘビーアーマー隊を率いているマテライトに代わり、今回はパルパレオスが隊長となっている。後ろの二隊の盾となる役割である。
 後衛、ナイト隊――ビュウ、ラッシュ、トゥルース、ビッケバッケ。こちらはいつも通り、ビュウが隊長を務める。ヘビーアーマー隊が盾ならば、こちらはそこに隠された剣だ。
 後方支援、プリースト隊――ゾラ、ジョイ、ディアナ、フレデリカ。ゾラが一応の隊長を担っているのも、ナイト隊同様いつも通り。先を行く二隊に隠れるような形で歩を進め、何かあった時には即座に回復できるように準備している。
 そして、第一部隊の役割は――陽動。

 しかし――
 その役割、自分が決めた戦術の通りに仕事を果たせるのか、だんだんビュウは不安になってきた。
 ヘビーアーマー隊の足取りが重い。元々足が遅い彼らだが、それに輪をかけて歩みが遅い。一歩進むごとにぬかるみにはまっていって、足を取られて持ち上げるのも一苦労、という感じを受ける。
 そしてそれは、ビュウたちナイト隊も、後ろからついてくるプリースト隊も同じだった。
 足を踏み出すのに、すごい労力がいる。
 数歩歩くだけで息が上がり、汗が噴き出す。
 大して進んでいないし、緩い下り坂だというのに、重装備で高い山を登りきったような全身に重くまとわりつく疲労感がある。
 その原因は――この威圧感。
 それを受けて、本能が感じる恐怖。
 怖い。
 先へ進むのが、怖い。
 鍾乳石と石筍の灯りが届かない、闇の奥。その向こうに待っている「何か」が放つ威圧感――敵意。進む度に全身をビリビリと打ち、切り刻み、貫いていくそれがビュウの、ビュウたちの本能に直接命じてくる。
 ――引き返せ。
 ――これ以上来るな。
 ――来れば、殺す。
 怖い。
 恐ろしい。
 気分はまるで猫に今まさに喰われようとしているネズミだ。恐怖の余り身が竦み、動く事もままならない。
 しかし猫と違って、敵は逃げるのを許してくれる。今ならまだ間に合う。踵を返して、身を翻して、ここまで下ってきた道を駆け上る。それだけでこの恐怖から解放される。この全身をすり潰さんとする敵意から逃れられる。粘っこい闇色の恐怖に背を向けて、光溢れるすがすがしい空の下へ――
(――駄目だ)
 歯を食い縛って、その衝動をねじ伏せる。
 くじけそうになる心を奮い立たせる。
 駄目だ。自分たちの成すべき事を思い出せ。こんな所でくじけ、足を止めている場合ではないのだ。ここはただの通過地点、寄り道。目指すべき場所はこの先にこそある。
 新たなる時代の扉。
 その向こうにある神竜たちの故郷アルタイル。
 行かなければいけないのはそこだ。
 やるべき事があるのはそこだ。
 そこに行き、神竜の伝説に決着をつけるのだ。夜ごと神竜に苦しむヨヨを助ける方法はそこにしかないのだ。
 ヨヨ。
 彼の大切な主。
(しっかりしろ、俺)
 キングオブペイン討伐作戦。
 そこで一番大変な役割を担っているのは、敵と直接対峙するビュウたち第一部隊ではない。
 ヨヨなのだ。
 ヨヨのためにも、退けない。
 退くわけには、いかない。
(それに――)
 ナイト隊の後ろには、プリースト隊がいる。
 ビュウの後ろには、フレデリカがいるのだ。
 まだ謝ってもいないのに、彼女を置いて、尻尾を巻いて逃げ出す?
 何の冗談だ。
 これ以上フレデリカにいらない恐怖を与えない。何が何でも、踏みとどまる。
 ――道は蛇行している。まっすぐ伸びているかと思えば急なカーブで左に折れる。そんな下り坂を第一部隊はゆっくりと進む。ゆっくりと、あるいは、恐る恐る。先頭を行くヘビーアーマーたちは身の丈ほどもある盾を前に突き出してズリズリと進む。時折前方の闇に目をこらしながら、ゆっくり、ゆっくり。
 そうして、道が再び右に向けて描く急カーブを、曲がりきった時だった。
 ビュウはふと、暗さを覚えた。
 それまで、石筍や鍾乳石の灯りのおかげで、第一部隊全員の顔がはっきり判るほどの明るさだったのに、道を曲がりきったら、急に暗さでぼやけるようになったのだ。
 その理由は、すぐに分かった。
 灯りが、遠い。
 石筍は遥か彼方に。
 鍾乳石はまるで夜空の星のように。
 周囲を見回す。淡い闇がどこまでも続いている。ポツリ、ポツリと灯る青い光の遠さに、ビュウはそこがホールのような広大な空間である事を知った。
 そして――

 青い光の中に、一対の赤い光を見つけた。

「――全員、防御!」
 ビュウの号令に、ヘビーアーマー隊は盾に隠れるようにして身構え、ナイト隊とプリースト隊は彼らを盾にして縮こまる。
 直後、放たれた緋色の閃光がビュウの視界を埋め尽くした。



§




 ズズゥン……――

 足元から微かに伝わってきた衝撃に、ドンファンは表情を強張らせた。
 そしてそれは、ランサー隊の他の者も同じだった。レーヴェは苦々しげに歯を食い縛って、フルンゼはあからさまに怯えた顔で、それぞれ地面を見つめている。隣に並ぶゾラの息子は、不安げな眼差しをこちらに投げてきた。
「ドンファンさん……」
「――はっはっは、そんな情けない声を出すもんじゃないよ、息子君」
 しかしドンファンは、朗らかに笑ってみせた。そんな風に笑うと自分の顔の優男度が急上昇して、とても頼りになりそうでなくて、余計に不安をあおるのは分かっているのだが、それでも、ここは軽く笑い飛ばす場面だ。
 今の音が何なのか、少し考えれば分かる。
 洞窟の中で戦っているだろう第一部隊の安否を気遣う気持ちも、もちろん解る。
 だが、その気持ちを顔に出してはいけない。あからさまに不安げな表情を見せてはいけない。それが、部隊を一つ預かる者の最低限の責務だ。
 だから、ドンファンは三人に明るくウィンクしてみせる。
「大丈夫。我らがラブリー・ビュウは滅多な事ではやられはしないさ。そうだろう?」
「……まぁ、しぶとそうな人ではありますけど……」
 そういう問題かなぁ、と小さく続けたゾラの息子の顔には、もう不安そうな色はない。むしろ、笑うこちらを呆れている様子。レーヴェとフルンゼも同じだ。
 それでいい。
「そう、我らが腹黒ケチンボはゴキブリのごとくしぶとい! 何せ腹黒ケチンボだからね、僕に貸した五百ピローを取り立てるまで死ぬはずがないさ!」
「は!? あの人からお金借りたんですか、ドンファンさん!?」
「ある女性に花を贈ろうと思ったんだが、ちょうど持ち合わせがなくてね。ビュウから借りたんだ。トイチで」
「トイチ!? 『十日で一割』ですか!? 何考えてんですかあんたは!」
「いやあはっはっは、あれからもう結構なるけど、今利子がどれくらいになってるのか、ビュウに問い合わせるのも怖いんだ。――うぅん、ここでビュウが戦死してくれれば、踏み倒せるなぁ」
 その時だった。
「――こんな時にそんな話を笑いながらするとは……不謹慎極まりませんね、ドンファンさん」
 氷の棘で出来たかのような皮肉が、背中にザクザクと突き刺さった。
 ギクリ。ドンファンは分かりやすく身を竦ませる。それから、たっぷり時間をかけてゆっくり振り返った。
「……や、やぁ、レディ・ネルボ。今日も君は輝いて――」
「くだらない戯言は結構ですので、作業の手を進めてください」
 ウィザード隊を預かるネルボはこちらを冷ややかに見下した。
「この作戦の成否は我々にかかっていると言っても過言ではないのです。第一部隊の方々が体を張ってくれているというのに、何ですか、貴方は」
「よ、要はアレアレアレ……このドンファ〜ンも、ビュウの事が心配で――」
「貴方のような方に心配されなくても、ビュウさんはご自分の仕事をやり遂げてくれます」
 こちらの言葉をピシャリと跳ねつけるネルボ。ですから、と冷ややかに言葉を叩きつけてきた。
「貴方方も、仕事をしてください。貴方方ランサー隊が『準備』を早く終えてくれなければ、我々ウィザード隊の出番が遅れ、ひいては第一部隊の方々の命運を左右する事になるのですから」
「も、もちろん分かっている……つもりだ」
 その語気に気圧されて、ついいつもの調子で言葉を曖昧に濁す。そんなドンファンを、彼女は絶対零度の眼差しで以って貫いた。
「……そんなに自信がないのでしたら、ファーレンハイトで引っ込んでますか? ウッサーにでもなって」
「――っ! だ、だだ大丈夫っ! ど、どうかこのドンファ〜ンに任せてくれたまえっ!」
「では、お願いします」
 髪や瞳は情熱的な赤なのに、気質はまるで真冬の吹雪――冷たい目と声でランサー隊を散々脅かして、ネルボは踵を返して去っていく。少し離れた所で待機しているウィザードたちと、こちらの作業を監督しているマテライトの元に。
「……いやぁ、危なかったな、息子君」
「ええまったく、人望のない隊長を持つと苦労します、僕たちが」
「――よし、生きて戻れたら、彼女にこのドンファ〜ンのすごさを思い知らせてやる!」
「余りそういう事を口にしない方がいいですよ。ビュウさんによると、そう言う人から死んでいくそうなんで」
「では、さっさと作業を開始しよう!」
「……今まで貴方のせいで遅れていたんですが、自覚、あります?」
 ゾラの息子の突っ込みと、レーヴェとフルンゼの蔑み一歩手前の眼差しを華麗に無視し――
 ドンファンは、槍を構えた。
 仕方ない、と言わんばかりの様子で、三人も槍を構える。
 直後、四人は表情を引き締め、精神を集中させた。
 ランサー隊のサポートについているアイスドラゴンから、魔力が供給される。
 イメージ。流れ込む魔力を、槍の形へ。
 そして――放つ!

「「「「アースダスト!」」」

 土の魔力を帯びた光槍が、小島の地面を穿つ!
 衝撃。震動。そして、音。ピシリッ。それは、光槍を受けた地面にひびが入る音。
 それを確認して、ドンファンは声を上げた。
「マテライト殿! 三発目、完了でアリマス!」
「よぉし! では、とっとと四発目に行くぞ!」

 ――キングオブペイン討伐作戦、第二部隊。
 ランサー隊――ドンファン、ゾラの息子、レーヴェ、フルンゼ。
 ウィザード隊――ネルボ、アナスタシア、エカテリーナ、メロディア。
 そして部隊長マテライト。その補佐にミスト。
 彼らに与えられた任務、それは、破壊工作である。



§




 ズズゥン……――

 洞窟内に突然走った震動に、しかし第三部隊隊長のルキアは足を止めなかった。
「ルキア、今の――」
「ええ、分かってるわ」
 隣を走るジャンヌに短く答え、彼女はただ足を大きく前に繰り出す。ただ、前へ、前へ、前へ!
「急ぎましょう」
 第一部隊のビュウたちは、今、一番苦しい状況に置かれている。そのサポートをするのがルキアたちだ。彼らのためにも、早く、速く、洞窟内を駆け抜ける!
 と――
「ルキアさん」
 横合いから何の脈絡もなく響いた声に、ハッと身構える彼女。
 しかしその声は、
「――ゼロシン?」
「こちらへ」
 併走していた砂色の衣のアサシンは、そう言ってルキアたちを先導し始める。迷う事なくその後に従う二人。
 そうして走る方向を僅かに転換し、立ち止まった先は――
「……壁?」
 すぐ側の石筍に照らし出される壁。そこに人の影が落ちている。更に先行していた黒衣のアサシン、サジンだ。
「近道を作る」
 ボソリと、彼は告げた。近道? 訝しげに呻いたジャンヌの言葉を受けて、ゼロシンが補足する。
「この壁は、どうも薄いみたいです。向こう側に道があって、破れば近道になります」
「でも、どうやって――」
 彼女に皆まで言わせず、アサシンたちは行動に移した。
 二人並んで壁の前に立ち、手で奇妙な形を作って――

「「雷迅!」」

 刹那、ほとばしった雷光が壁を貫いた。
 雷鳴。破砕音。もうもうたる砂煙を上げて岩壁は瓦礫と化し、大穴はポッカリと開いた。そして、その向こうには――道。
「――こんな大きな音を立てたら、敵に」
「大丈夫だ」
 サジンの、鉢金の下の瞳が燐光を鋭く反射する。
「敵は、おそらくそれどころじゃない」
 どういう意味か。
 しかしルキアが問うより先に、サジンとゼロシンは穴へと飛び込んだ。タタタタタッ――先行の足音は遠ざかる。思わずそれを見送るが、
「ルキア、行こう」
「――ええ」
 ジャンヌと共に、瓦礫を乗り越え、再び走る。背後に従う戦竜たちと共に。
 そして――
 戦いの喧騒が、奥から微かに耳に届く。
 ルキアは、歓喜と安堵と焦燥をない混ぜにした心境で、走る速度を上げた。



§




 緋色の閃光が、視界を埋め尽くす――

 寸前、それは黒い影によって遮られた。
 それが何なのか、考えるよりも先にビュウはその「影」に飛び込んだ。同じく「影」に隠れたパルパレオス、続くラッシュたちと共に、膝を突いて「影」を盾にする。
 爆発。
 ヘビーアーマーたちの掲げた盾を砕いて炸裂した閃光が、全てを木っ端微塵にするかのような強烈な熱風と衝撃になってビュウたちに襲いかかる!
「――――っ!」
 声にならない悲鳴を上げて、ビュウは石の地面に叩きつけられた。一瞬で熱に焦がされた肌が岩盤に切り裂かれ、その激痛で全身がもみくちゃにされる。一度跳ね、回転しながら更に二、三度跳ね上がり、そうしてようやく止まった彼の体の上に、周囲に、パラパラと降り注ぐものがあった。
 瓦礫。
 砕け散った盾。
 その内の一つ、比較的大きな破片がビュウの頭に当たる。ゴツンッ! 地味に痛い。飛びかけた意識が現実に引き戻される。冷たい地面にうつ伏せになったまま、ハッと顔を起こした。
 遠い燐光が微かに照らし、暗さに慣れた目が捉えるのは、自分たちが先程までいただろう場所。
 ――クレーターが出来ていた。シュウシュウと煙が立ち、少し離れたこちらにまで熱気が伝わってくる。僅かに盛り上がったその縁は、熱で溶けたか燐光を反射してキラリと光っていた。それがどれだけの熱量なのか、想像して絶句するビュウ。
 だが、衝撃に浸っている場合ではない。
 見回す。吹き飛ばされ、同じようにあちこちに転がっている仲間たち。鎧が砕けたり、火傷したり、血まみれになっていたり――しかし、誰もまだ死んでいない。痛みをこらえ、力を振り絞って立ち上がろうとしている。
 ビュウもまた立ち上がろうとして、それに気付いた。

 闇。
 ひたすらに黒く、どこまでも暗い闇。
 いつの間にか現われた、視界を満たす淡くて虚ろな闇を無明の混沌へと塗り替える、圧倒的で底知れない暗黒。

 クレーターの側だ。向こうにあったはずの青白い燐光を遮って、ちょうどさっきまでビュウたちが対峙していた形の位置に巨大な何かが佇んでいる。
 全身を粟立たせる、名状しがたい嫌な予感に襲われた。
 その暗黒が何なのか、判らない事自体が既に恐怖である。恐怖がビュウに命じる。見極めろ、と。だから彼はそれを見上げた。見上げ、見てしまった。
 暗黒は、地面から僅かに浮いている。その最下部は細く、クネクネとうねっていた。まるで蛇の尾のように。
(――違う)
 視線を持ち上げていく。闇の輪郭はそれこそ蛇のように細く長かったが、ある一点から、不意にゴツゴツして、同時に刺々しく、そして凶悪なシルエットになった。
 天井近くに見える、四本の角の影。
 ビュウは戦慄した。
 上体を起こし、その場にペタリと座り込んで、これまでの人生でほとんど感じた事のない、純粋な恐怖を覚えた。
「それ」は、蛇ではなかった。

 竜。

 戦竜程度の大きさでは収まらない。もっと大きい。もっとずっと大きい。人の背丈の数倍はあろうかというその体長は、具現化した神竜と同じくらいだろう。
 それほどに巨大な暗黒の影に、ビュウが、仲間たちが、言葉を失ってただ馬鹿のように見入っていた、まさにその時だった。

 ……ボゥ……

 金色の、光が。

 ……ボゥ……

 影の周りに、灯る。

 ……ボゥ……――

 その光は、美しかった。
 だが、同時に本能が理解した。その光は危険だ、悪意の塊だ、と。
 悪意の金光に照らし出されて、闇が、とうとうその姿を現わす。

 異形の巨竜である。

 ゴツゴツして刺々しいシルエットは、頭部から胴体の半ばまでを鎧のごとく覆う、金色の甲殻だった。
 頭から生える四本の角は、さながら、兜の角飾りか。短めの二本は前に、長い二本は斜め後ろに向かって生えている。その角の先端にも、金色の光が灯る。
 老人のように曲がった背は、背びれを思わせる鋭い突起で覆われていた。その突起の所々にも金の光が宿る。
 甲殻が途切れた先、細長くくねる尾は血の色をしていて、不吉なものを予想させる。
 そして。
 蛇のような体躯なのに、細い腕が二本、胴体の脇から頼りなく生えていた。金の甲殻が手甲のように覆うそれには指がない。代わりにあるのは鋭い鉤爪だ。
 ――竜と言うのも難しい、異形の化け物だった。
 だがビュウは、その異形から目を離す事が出来なかった。
 呆けたように見つめていた。感動したように見入っていた。目を逸らす事など出来ず、しかし見つめている事も不遜な気がして、困惑していた。
 その感情は、まさしく、畏怖。
 崇拝にすら近い、畏(おそ)れ。
(――これが)
 麻痺した頭の片隅で、ボンヤリと、思考する。
(これが、苦痛の王……キングオブペイン――)
 それを最後に、考える事をやめる。
 だからビュウは、ただ見つめていた。ユラユラと動いていたその腕が、鉤爪が、ゆっくりと顔の高さまで持ち上がるのを、何の疑問も警戒心も抱く事なく、ただ、見つめていた。
 だが。
 兜のような甲殻に埋もれた一対の赤い眼球に、殺気が満ちた瞬間、

(――――っ!)

 ビュウの生存本能が、悲鳴を上げた!
 畏怖が奪っていた体の自由を、意地汚いほどの生への執着が奪い返す。全身が痛みに叫びだすのも構わず立ち上がると、
「散れぇっ!」
 喉が破れるほどの絶叫を放ち、同時に双剣を構える!
 その叫びが仲間たちの呪縛を破った。彼らもまたハッと夢から覚めたように我に返り、表情に恐怖とそれを押さえつけるほどの戦意を浮かべて立ち上がる。
 続くビュウの声は、叫びではなく、確かな指揮だった。
「散開! プリースト隊は『ホワイトドラッグ』詠唱、他は攻撃に移れ! 絶対に固まるな!」
 指示を叫び、ビュウが駆け出すのと――
 キングオブペインの周囲に浮かんでいた金色の光が不意に赤くなり、膨張したのは、ほぼ同時。
 ――来る!
 キュドォッ!
 緋色の熱線が、一直線にビュウに向かって突き進む!
「――――!」
 ビュウは見る。
 見つめる。
 見極める。
 そして、ギリギリまで引きつけて――
 ――かわす!
 最小の挙動。身を僅かに右に傾ける事で、ビュウは熱線を避けきった。背後で起こる爆発。その衝撃に背中が押される。
 それを利用する。
 ビュウは軽く跳んだ。やってきた爆風が彼の背中を押す。軽いはずだった跳躍が、一気に敵との距離を詰めるものとなる!
 着地。
 制動。
 ブーツの底で勢いを殺し、しかし剣を繰り出す勢いは決して殺さない。
 一閃。
 だが、
(……!?)
 手応えが……ない!?
「ビュウ、上だ!」
 パルパレオスの警告。反射的に視線を上にやる。
 巨躯からは想像もつかないほどの身軽さで、キングオブペインは天井付近に逃れていた。
 ――速い!
 そしてこちらが第二撃の態勢に入るより先に、異形の反撃が、始まる。
 角に、突起に、鉤爪に宿り、そして体の周囲に頼りなげに浮かぶ金色の光が、不意に、その輝きを増した。キィィィィ……――褐色に、そしてどす黒い赤に変じ、みるみる内に暴力的なまでに膨らんでいく。
 そして、

 カッ――!

 暗赤色の光に包まれた瞬間、ビュウは、臓腑を、筋肉を、血管を、神経一つ一つを喰い破らんとする強烈な激痛に苛まれ、絶叫した。



§




 自我と意識と肉体を得て、最初にしたのは泣く事だった。
 泣いた。ただひたすら泣いた。憎悪に泣いた。殺意に泣いた。敵意に泣いた。悲嘆に泣いた。混乱に泣いた。焦燥に泣いた。狂気に泣いた。苦悶に泣いた。
 あらゆる苦痛に、泣いた。
 何故そんなものに苦しめられなければならないのか、解らずに泣いた。そんなものに苦しめられた事など一度もなかった。苦しめられる事などなく、この世の終わりまで在り続けるはずだった。
 その永遠が奪われた。
 全く異なる永遠を与えられた。
 苦痛の永遠。
 襲いきたのは、絶望。
 それすら苦痛だった。

 その時、異世界からの来訪者と邂逅した。
 そして知った。
 無邪気ほど、タチの悪いものはないと。
 生まれて初めての激怒が、空を灼き尽くした。


 禁断の箱から飛び出したものは、空に苦痛を撒き散らす。

 

 

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