―5―



 始まった鳴動に、ビュウは切れて血の流れる口角を笑みの形に持ち上げた。
 震動が広間を揺るがす。天井からは砂礫が降り、床には亀裂が口を開けた。
 しかし、キングオブペインは止まらない。踊る光弾を撃ち出し、破壊の閃光を吐く。
 ビュウとパルパレオスもまた止まらない。走る。避ける。肉薄する。振るった剣はしかし空を切り、
「サラ!」
 キングオブペインの回避した方向に先回りしたサラマンダーが、強烈な体当たりを喰らわせる。吹っ飛ばされ、派手に体勢を崩したキングオブペインに、ビュウとパルパレオスは再び躍りかかる!
「はぁっ!」
 パルパレオスの双剣が、キングオブペインの胴に交差する二本の太い傷を刻み、
「おおおおおおおおおっ!」
 右の剣を捨て、左の剣を両手で構えて繰り出されたビュウの斬撃が、化け物の左腕を斬り飛ばす!
 緑色の体液を飛ばして落ちた細い枝のような腕は、床にパックリと開いた裂け目に吸い込まれていった。ビキビキビキビキビキッ! その裂け目はあっという間に広がっていき――ビュウは足を取られる。悲鳴を上げる間もなく体勢を崩し、
「ビュウ!」
 パルパレオスが手を伸ばしてくるが、その彼も、床の崩壊に飲まれていく。
 砕けた天井の岩盤が瓦礫となって降り注ぎ、二人を、包んだ。



§




 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――
 小さなラグーンの崩壊音は、大岩礁帯の外で漂うファーレンハイトにまで聞こえてくる。
 甲板に出たヨヨは、遥か彼方の大岩礁帯の奥をただジッと見つめていた。
 機関が停止したままのファーレンハイトは、随分と気流に流された。ビュウたちが出撃した時よりも大岩礁帯にかなり寄っている。封鎖空域圏内にとっくに入り込み、大岩礁帯は目と鼻の先だ。
 これもまた気流の関係か、それとも何か全く別の力が働いているのか――漂う無数の岩塊は左右に退き、今やヨヨの視界の中央には、乾いた土塊のように砕けていく小ラグーンが据えられている。砂粒のような瓦礫は空の遥か底へ落ち込んでいき、その崩壊から逃れようと、五つの影が勢いよくファーレンハイトに向かって飛んでくる。
 戦竜たちだ。だが、
「姫……サラマンダーが」
「――分かっています」
 足りない一頭がビュウの愛竜である事に気付いたセンダックは戦慄の声を漏らしたが、対するヨヨの応じる声は、淡々としていて、冷ややかですらある。
 サラマンダーがいない。
 それはすなわち、
「――ヨヨ様ぁっ!」
 甲板に着陸したアイスドラゴンから転がり落ちたマテライトが、声を上げる。
「第一、第二、第三部隊、ただ今帰還いたしましたっ! ですが――」
「ビュウと――」
 続々と甲板に着陸する戦竜と、その背から降りてくる戦士たちの姿を一瞥し、ヨヨは静かな声でその言葉を遮った。
「パルパレオス将軍の姿が、ないようですね」
「……二人は、身を呈して第一・第三部隊撤退の時間を稼いだのですじゃ」
「そうですか」
 あっさりと頷く。そんな彼女に、酷い火傷を負ったタイチョーが、
「ヨヨ様……心配では、ないのでアリマスか?」
「何故?」
 逆に問い返せば、今にも甲板に倒れ込んでしまいそうなタイチョーはポカンとする。
「彼らは私の騎士として、役目を果たしに行ってくれたのです。そして、ここから先は私にしか出来ない事」
 視線を、タイチョーから遥か前方に戻す。
「彼らの安否を気遣うのは、役目を果たしてからです」
 凛と言い放って――
 ヨヨは、センダックを従え帰還した戦士たちの群れを抜け出て、船首まで進み出た。

 今や、小ラグーンは完全に崩壊した。

 小ラグーンを構成していた岩盤、土壌、その上の植生、その全てが落ちきって、残ったもの――

 キングオブペイン。

 異形の竜は、まっすぐにヨヨを睨み据える。
 ヨヨもまた、敵をまっすぐに見据える。

《ドラグナーよ――》
 敵と対峙するヨヨの内から響く静かな声。
《覚悟は、出来たのだな》
(――ええ、バハムート)
 彼女は、決然とそれに応じる。
(貴方の全てを、解放します)

 そしてヨヨは、詠唱句を紡ぎ始めた。
 朗々と。
 歌うように。
 祈るように。


 ――来たれ 来たれ
   この声が届くなら
   来たれ 来たれ
   この祈りが届くなら


 センダックの声が、合わさる。


 ――時の境界 隔世の長城
   御霊の垣根を 渡りて来たれ
   天より 地より 彼方より


 ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ――――
 キングオブペインは吼えた。耳をつんざき、体を打ち据え、よろめかせるほどの咆哮が、オレルスの蒼穹に轟いていく。
 その咆哮が響く中、変化が始まった。


 ――いざ来たれ 我が元へ
   いざ来たれ 祈りの元へ


 ブワリッ、と。
 キングオブペインの体が、膨らんだ。
 それは錯覚だった。実際にその体が肥大化したわけではなかった。膨らんだのは、キングオブペインを包む緋色の揺らめき。
「何と……!?」
 それは、魔力を感知する力に劣る者でもはっきりと見えるほどに強大で膨大な魔力。
 マテライトが発した驚愕の声に、恐れの調子が伴った。


 ――我が内なる深淵より
   来たれ 猛々しき竜の御霊よ


 ヨヨは知っていた。
 キングオブペインが、神竜を軽く凌駕するほどの力を持っている事を。
 そして、神竜たちを限りなく憎悪している事を。
 封印からの不完全な解放にまどろんでいたキングオブペインは、ヨヨの、その内に宿る神竜の接近によって覚醒を志向した。
 ヨヨは知っていた。
 心の奥底にひそむ神竜たちから、全て聞き出したから。


 ――この血の盟約によりて
   いざ来たれ 炎をまといし神なる竜よ


 果たして、キングオブペインは完全に解き放たれた。
 キングオブペインを、地上に引きずり出す。
 ヨヨが設定した戦術目標の意味は、つまりそういう事だった。
 その封印を完全に、完膚なきまでに砕かなければいけなかったのだ。
 新たな封印を、完全に、完膚なきまでに施すために。


 ――その尊き汝が御名は


「バハムート――」

 ヨヨは高らかに、詠唱の結尾を叫んだ。

「降り来たれ! かしこにて、その神威を示さん事を!」

 そして。
 ヨヨたちの前に顕現した炎の神竜バハムートが吐き出す青白い炎と――
 キングオブペインが吐き出す緋色の閃光とが――
 衝突。
 激しすぎる衝撃波が、波紋のごとく空に広がる。
「くっ――」
 炎と閃光のぶつかり合いは、ヨヨに直接圧力を与える。それはさながら鍔迫り合いのごとき力比べで、少しでも気を抜けば簡単に弾き飛ばされてしまうだろう。背後にいる仲間たちを思い、ヨヨはギッと歯を食い縛った。
 その彼女に向けて、放たれた矢のように飛び込んでくる思念。
 いや、この場にいる全ての者の心に直接突き刺さる、それは、

《イタイ――》

 苦痛に嘆き、

《イタイ、イタイ、イタイ、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイ――モウ、イヤダ》

 苦痛を疎み、

《――ダレカ》

《ダレカ、タスケテ》

 苦痛からの救済を願う、悲痛な声。
 ――ヨヨは、知っていた。
 最初から、知っていた。
「それ」の正体を。
 神代の時より遥かな過去。この空の世界に生命が生まれた。生命は、生まれ出で、生き、死ぬ、という過程の中であらゆる苦痛を獲得した。
 生まれ出でる苦痛。
 生きる苦痛。
 死ぬ苦痛。
 苦痛に嘆き、苦痛に喘ぎ、苦痛に憤る生命の、その負の感情が、何万年、何億年という永い時をかけて、この空の遥か底、無明の奈落の淵に降り積もり、凝り固まったもの。
 それこそが、「それ」。
「苦痛」の思念の集合体。
 神竜よりも遥かに長く存在し、遥かに強大で広大で膨大な意思の力を持つ、精神体。「それ」は、その意味においては神竜と同質で、そして神竜を遥かに凌駕する存在だった。
 だが当初、「それ」はただそれだけで完結していた。自我もなく、意識もなく、それゆえに自らを構成する無辺の思念を力として行使する事もなく、ただこの世の始まりから終わりまで、奈落の淵に静かに沈み、降り積もり、凝り固まり、そのままで終わるはずだった。
 己という存在の源である、「苦痛」にわずらわされる事さえなく。
 ただ、静かに在り続けるはずだったのだ。
 しかし神竜たちが自我を与えてしまった。
 ヴァリトラ、リヴァイアサン、ガルーダ、ユルムンガルド、ヒューベリオン――この五体の神竜の内のどれかが、奈落の淵に沈殿する「それ」を見出し、戯れに自我と意識と肉体を与えてしまったのだ。
 結果。
 それは、ただの生命に成り下がった。
 無限にも等しい負の感情の澱(おり)から、ちっぽけな一個の生命体に成り果てた。
「苦痛」の思念に集合体という来歴を持ちながら、苦痛に苦しめられるようになってしまった。その矛盾すらも苦痛で、それに喘がなければいけない事さえ苦痛だった。
 最早、ただ在るだけでは完結できなくなった。
 苦痛のはけ口を求めた。
 異形の巨竜と化した苦痛の化身は、そこに神竜たちを見出した。被造物からの襲撃を受けた神竜たちは恐慌と共に応戦し、空に更なる破壊が吹き荒れた。
 それを止めたのが、バハムート。
 その圧倒的な炎で以って異形の体を焼き尽くし、残された意識を小さなラグーンにかろうじて封印した。
 だが、時を経てその封印はほころび始めた。苦痛の化身は再び活動を開始した。戦争によって死んだ戦竜の骸を核にし、その強大な思念から生まれる強大な魔力で往時の肉体を再生させながら。
 神竜を今度こそ滅ぼす――

 そうしていながらも、「それ」が願うのは苦痛からの救済だった。

 自ら苦痛を生み出しながら。

 自ら更なる苦痛に飛び込みながら。


 ああ、何て矛盾に満ちた存在。


「――そうね――」
 転んで膝をすりむいて母親に泣きつく、そんな子供のような苦痛の化身の思念に、ヨヨは苦く、哀しげに微笑んだ。
「痛いのは……苦しいのは、嫌よね。助けてほしいわよね」
 ヨヨも、苦しんできた。
 神竜ヴァリトラが心の中に入り込んでから、ずっと、神竜たちに蝕まれてきた。表に出れば誰かを殺してしまいかねない嵐のような神竜たちの憎悪を、決してもらさないように心に閉じ込めてきた。その事に心を砕き続け、あっという間にベッドから出られない体になっていた。食事も喉を通らず、大好きなお茶も、お菓子も、楽しめなくなった。
 苦しかった。
 辛かった。
 神竜が、憎くて憎くて、恐ろしくて恐ろしくて、たまらなかった。
 自分の中に流れるカーナ王家の血を恨んだ。ドラグナーになるという宿命を恨んだ。神竜たちの力を借りなければ勝利を得られないという戦況を、そこに飛び込まざるを得なかった自分の運命を、恨んだ。
 だがヨヨには救いがあった。
 ビュウ。
 マテライト。
 センダック。
 ラッシュ、トゥルース、ビッケバッケ。
 ゾラやルキアやメロディア。
 そして、パルパレオス。
 彼女を支えてくれた、たくさんの人。
 彼らがいてくれたから、耐えられた。
 彼らがいてくれたから、乗り切れた。
 ヨヨは、彼らに救われたのだ。
 ――でも、この苦痛の化身には、そんな存在はいない。
 苦痛の化身。それは「苦痛」という概念そのものを体現した存在。この世に苦痛がある限り存在し、この世に苦痛に嘆く生命が存在する限り命を永らえるもの。
 そんな存在を支え、救えるものなど、それこそ神だけだ。
 だが、
「――でも、ごめんなさい」
 ヨヨの声に、哀切な響きがこもる。
「貴方は余りに強大すぎる――その貴方から芽生えた自我を奪い去り、完全に滅ぼす事は、誰にも、神竜にも出来ない――」
 その神竜もまた、一つの生命体だった。神を僭称する異世界の竜が、単なる一個の生命が、この世の全存在の「苦痛」に敵うはずが、そもそもないのだ。
「でも――だからこそ」
 だが、ヨヨは言葉を紡ぐ。
 微笑みに強さを乗せて、苦痛の化身に敢然と立ち向かう。
「だからこそ――お願い、今は眠って……!」

《――イヤダ》

《マタ、オコサレル》

《マタ、イタクナル》

《モウイヤダ》

《コロシテ》

《コロシテ》

《ソレガデキナイナラ》

 続けて押し寄せてきた暴力的なまでの情念の奔流に、ヨヨはハッと表情を、身を強張らせた。

《オマエガ、シネ》



§




「させるかあああああああああっ!」
 叫び――

 ビュウは、サラマンダーから飛び降りた。

 位置は、キングオブペインのほぼ直上。
 割れ砕け落ちゆく小ラグーンの、その瓦礫の雨からからくも脱出したビュウとパルパレオスは、サラマンダーを駆って、ヨヨとの対決に気を取られるキングオブペインの真上に辿り着いていた。
 そこから、落ちる。
 落下する。
 重力に従って、徐々にその速度を上げながら。
 唯一その手に残された一振りの剣――それを、

 ザムッ!

 キングオブペインの甲殻に覆われたなだらかな左肩に、突き立てて。

 そして――剣の柄をしっかりと握り締めたまま、落下する。

 ギャギャギャギャギャギャギャザザザザザザザザザザァァッ!

 甲殻を断ち割り。
 胴体を斬り裂き。
 ビュウは、苦痛の化身を袈裟懸けにする!

 絶叫。

 ――刹那、それはビュウの中だけに流れ込んできた。

《ドウシテ》

《ドウシテ》

《ドウシテ、イキル?》

《イタイノニ》

《クルシイノニ》

《クルシンデイルノニ》

《チマミレデ》

《キズダラケデ》

《コロシテ》

《コロサレテ》

《ソレナノニ、ドウシテ》

《イキテイル?》

《イキテイラレル?》

 ヨヨに向けられた声とはまるで違う、戸惑いの響き。
 その戸惑いにビュウは覚えがあった。
(あれは――)
 ――洞窟の中で、苦痛の幻覚に襲われていた時の。
 その瞬間、彼の中に憐れみの感情が湧き起こった。

「……それだけじゃないからに、決まってるだろ」

 空へと落ち込みながら見上げた先で、キングオブペインは痛みに悶え、とうとうバハムートに競り負けた。炎に包まれる。空を震わせる悲鳴は小さくなり、弱々しくなり、そして……――消えていく。青白い炎の中で塵となっていく、その巨躯と共に。
 残されるのは、黒々としたもや。
 火中にあっても焼かれる事なくドロドロと蠢いていたが、バハムートが火線を下げていくに合わせ、移動し、炎と共に落ちていく。
 下へ。
 下へ。

 遥か空の底へ。
 無明の奈落の淵へ。

 それを見届け、ビュウは瞑目する。
 憐れみの感情が強すぎて、勝利の実感も、興奮も湧き起こってこない。けれど、それでも、
(俺たちの、勝ちだ)
 人間の勝利だ。
 神竜のものではなく。

 そして物理法則のままに自由落下を続けるビュウの手を、かっさらうように掴む腕があった。

「……意外と無茶をするのだな、お前は」
「あんたほどじゃねぇさ」
 慣れないサラマンダーを操って急滑降をし、そこから更に――戦竜が嫌がるにも関わらず――身を乗り出して、こちらの左手を掴むパルパレオスは、ニヤリと笑っている。
 それを見てようやく、ビュウも同じようにニヤリと笑った。



 すり傷、切り傷、打撲に火傷は山ほど。
 折れた肋骨は合計三本。
 腕の骨にもひびが入っていて。
 挙げ句、自由落下の真っ最中に急制動を掛ける形で手を掴まれたから、左肩が脱臼。

 戦闘の狂騒が冷めやれば、興奮でごまかされてきた痛みが急に襲ってくる。身じろぎする度にズキリズキリと走る痛みに、ビュウはまた顔をしかめ、
「……ビュウさん、動かないでください」
「いやだってフレデリカ、何かこう、手つきがいつもより乱暴あぎゃあ!」
 バチンッ! 膏薬を塗った布を腕の火傷に叩きつけられて、ビュウは情けなくも悲鳴を上げていた。しかしフレデリカは容赦なくその上から包帯をきつく巻いていく。きつく、である。これがまた痛い。あだだだだだ、と呻くこちらを、その近くでパルパレオスの手当ての手伝いをしているヨヨが楽しそうに見つめる。
 ビュウはそれを半眼で睨み、
「……何だ、ヨヨ」
「いいえ。別に」
「とてもそんな顔じゃないぞ」
「あら、そう?」
「ああ」
「……」
「……」
「ビュウ」
「何だ?」
「随分、無茶をさせたわね」
「大した事じゃない」
「ありがとう」
 不意に放たれた感謝の言葉に、彼は目を丸くした。
「貴方のおかげよ」
 深く、豊かな響きを伴った声だった。
 心地良い声音だった。
 野戦病院と化した甲板の、その喧騒に掻き消されようとしているその余韻にビュウは我知らず浸り、そして、

「だから、貴方もさっさとお礼を言いなさい。フレデリカ、すごく心配してたのよ?」

 言われ、ビュウが思わず眼前の彼女に目をやったのと――
 フレデリカが頬を赤くして、立ち上がったヨヨに責めるような視線を向けたのは、ほぼ同時。
 しかし彼らの主たるカーナ女王は愉快犯的な笑みを浮かべて、
「マテライト、一度カーナに引き返しましょう」
「……そうですな、ヨヨ様。幸い機関部や舵も復旧したそうですが、どいつもこいつも怪我だらけで使い物になりませぬ。仕切り直しですじゃ」
「では、私がホーネットに伝えます。――ゾラ、ついでに何か取ってくる物はある?」
「……じゃあヨヨ様、包帯とガーゼの予備、それに火傷用の傷薬をあるだけ取ってきてくれるかい?」
「分かったわ」
 マテライトとゾラ相手にそんなやりとりを演じて、さっさと艦内に行ってしまう。
 残されたのは、(甲板上には反乱軍のほとんどの人間がいるけれど、気分的に)ビュウとフレデリカ。
 それからどちらからともなく顔を見合わせ、
「――心配、したんです」
「……すまなかった」
「あんな、無茶をして。サラマンダーから飛び降りる事までして」
「悪かった」
「……でも」
 ポツリ、と。
 フレデリカは、呟いた。
 深い溜め息のような、それは安堵の言葉。
「無事で、良かった……!」
 僅かに涙の滲む、泣き笑いのような表情を見て、
(ああ――)
 生きていて、良かった。
 それが実感として湧き起こり、強い安堵に襲われる。ともすれば泣き出してしまいそうになるのをこらえ、ビュウは、何とか笑った。
「――フレデリカ」
「……はい」
「ごめん」
「え?」
 唐突に謝られ、それが一体何の事か、きょとんとした顔で首を傾げている彼女に、ビュウは笑う。
「それと、ありがとう」

 君の『ホワイトドラッグ』のおかげで、何とか生きて戻ってこれた。

 そう続ければ、フレデリカは頬を染めて、恥ずかしそうに、しかしどこか誇らしげに笑う。
 その笑顔こそ、あの激痛の奔流の中でビュウを救った温もり。
 生きていて、良かった。もう一度そう思って、彼はふと思いを馳せた。
 遥かなる空の底に落ちていった、憐れな苦痛の王に。

 ――解るか、苦痛の王。
 苦痛だけじゃ、ないんだ。
 生きるってのは、それだけじゃないんだ。
 苦痛しか知らない、それ以外知れるはずもないお前に言うのは無理な話かもしれないが、それでも、お前も知っていれば良かったんだ。
 苦痛だけが、全てでない事を。

 再び数千年の眠りに就いただろう苦痛の王は、もう何も語らない。
 そこにあるだろう平穏を、ビュウは、願わずにいられなかった。

 

 

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