7.渡りへ
仲間をかばって死んだのだと、戴宗は言った。
短命二郎らしい死に方だった――と。
(何だよ、それ)
燕青は、自分の足元が崩れていってしまうような頼りなさ、危うさを覚える。
確かだったはずのものの不確かさに、どうしていいのか分からなくなるほどの戸惑いと恐怖を覚える。
(自分が「短命」なんて、笑い話にもならないじゃないか)
だが、その場に座り込んだりよろめいたりしなかった。
涙さえ出なかった。
ただ、心は折れた。
そして燕青は放浪の途にあった。
遼、田虎、王慶、方臘、そして――自分たち、替天行道。反乱と混乱の波に揉まれたこの国は、今や都以外どこもかしこも荒れ果てていた。燕青が北へと向かって歩くこの街道も、いつから整備されていないのか、でこぼことして歩きにくい。
『旦那様、任地に本当に行くつもりですか?』
『うん。一応任命されちゃったしねぇ』
『僕は、やめた方がいいと思いますけど』
『……来ないの?』
『……参りますよ。僕は、旦那様の従者ですから』
街道の脇には、いくつも村があった。
荒れ果て、人のいなくなった農村。長きに渡る内乱状態と、それを鎮圧するために課され続けてきた重税が、立ち上がる力もない善良な人々を押し潰し続けてきた。
田畑を捨てて逃げる選択の出来た人はまだ良い方だ、と。
燕青は、立ち寄った無人の村の道端に転がっていた小さな小さな骸骨を埋める穴を、黙々と掘った。
『旦那様』
『何、燕青君?』
『官職を、返上しませんか?』
『どうして?』
『説明しなきゃ分かりませんか? 用済みになった猟犬は、煮られて食われるものでしょう』
『……犬のお肉って、美味しいのかなぁ』
『そういう話をしてるんじゃないっ!』
陽が落ちてきたので、今日はここで休む事にした。
幸い誰に断る事なく雨露をしのげそうな家はいくつもある。それらを一つ一つ回り、屋根にも壁にも穴が空いておらず、かまどが使えそうな家を探した。
ちょうど良さそうな家があった。
以前は子供のいる一家が住んでいたのだろう。床に、打ち捨てられた子供の玩具があった。
燕青はそれを拾い上げた。
(――これが)
手の中にすっぽりと納まる木製の玩具。親が子供の喜ぶ顔を思って購って、子供は大切に遊んでいたのだろう――それを思ったら、恐ろしいほどの徒労感に襲われた。
「……僕たちの、為した事か」
乾いた唇からこぼれた声は、人生に疲れた老人のように干からびている。
『――朝廷からの、呼び出し……?』
『うん。何か、私たちの働きを労ってご馳走してくれるみたいだよ』
『――! まさか旦那様……行くつもりじゃ、ないでしょうね?』
『駄目?』
『駄目に決まってるでしょ――――! 分からないんですか!? 朝廷のアホ奸臣どもがとうとう僕らの処分を始めたんですよ!』
『……駄目だよ燕青君、人の好意を疑っちゃ』
『散々っぱら騙されてきたあんたがそれを言いますか!』
『行ってみないと分からないでしょ?』
『分かるでしょ! っていうか分からない方がおかしいでしょ!』
『でも燕青君……』
『――――っ! じゃあもう好きにしたらいいでしょう! 僕は知ったこっちゃありません! お暇をいただきます!』
火を熾すべく、焚き木拾いに出る。
無人の村の裏手にある山もまた、荒廃していた。樹皮の剥かれた木がそこかしこにあり、地面にも掘り返された跡がたくさんある。鳥獣の気配も余りしない。
そしてやたらと雑木が多い。それも無秩序に生えている。
里山は手を入れないと人が思う以上に簡単に荒れる。この山はどれほど手入れされていないのか。燕青は気が遠くなる思いを味わう。
暮れかけて赤く染まった空を見上げる。
赤い。
禍々しいほどに、赤い。
血の色みたいだ。
――流した血の色。
――己の手を染めた赤色。
――方臘に踊らされて死地に送り込まれた罪なき人々。
――惑いながら、苦しみながら、彼らを殺さざるを得なかった同志たち。
――誰もが魂を削られるより苦しい思いを味わい、守らなければいけない人々を殺した。
――そうやって、どれだけの同志が、
かぶりを振って焚き木拾いに戻った。
一抱えあれば、今晩をやり過ごすのに困らないだろう。夜が冷え始める季節だが、その程度の寒さで音を上げるようなやわな鍛え方はしていない。
淡々と燕青は山を下りた。そして今日のねぐらへと戻り、
「――よぉ」
その中で待っていた人物の声に、抱えていた焚き木をガララッと全部落としていた。
「やっと見つけたぜ、燕青」
「戴宗……!」
悪友は、いつも通りの皮肉な笑みと声で燕青を迎えた。
優に四ヶ月ぶりだった。
江南から凱旋し、恩賞と官職を賜って以来である。朝廷の疑いの目を誤魔化すため、生き残りたちは皆一応喜んだふりをしてありがたく官職を授かったが、戴宗だけはクソ喰らえとばかりに即行で返上し、家族を伴って行方をくらました。
朝廷の監視の目が厳しくて、探すどころかあちこちに散った――散らされた――同志たちと連絡を取る事さえ困難だった。盧俊義の元を出奔してようやく、もう既に多くの同志が官職を捨てて行方不明になっていると風の噂に聞いた。
「――今まで、どうしてたんだい?」
囲炉裏で熾した火に焚き木を継ぎ足しながら問う燕青に、火を挟んだ向こうで胡坐をかく戴宗は、淡々としたいつもの口調で答えた。
「北に行ってた」
「北……?」
「もやし眼鏡の頼みでな」
呉用が何故北を気にするのか。その答えはすぐに出た。
「――女真族か」
燕青と盧俊儀が替天に入って五、六年ほどした頃か。遼より北の地で、女真という遊牧騎馬民族が国を建てた。
金という。
その国が、今、遼を圧迫している。
百二十年にも渡ってこの国から金品を搾り取ってきた遼の命運は、もうすぐ尽きる。
「奴ら、場合によっちゃ南下してくるぜ」
遼を踏み潰し、南へ。
この国へ。
神妙な顔で考えに沈む燕青に、戴宗は何気ない口調で続けた。
「頭領からの伝言だ。――旗を掲げろ、だとよ」
「旗を……」
掲げる。
その意味はすぐに解った。宋江は、替天行道の再結集を生き残った同志たちに訴えている。
だが――
「……伝言って、どういう事?」
曲がりなりにも、宋江は頭領だ。
招安を受けようが官職を得ようが替天が解体させられようが、宋江は替天の頭領で、自分たちは替天の同志だ。
一言命じれば、それで済むだろう。
なのに、「伝言」。その意味は。
戴宗が肩を竦めてみせた。
「希望参加、だとよ」
「……え?」
「官職を捨てて構わない奴、今の地位を全部捨てて金と戦ってもいい奴だけ、梁山泊に戻れ」
燕青は目を見開く。確信にも似た疑問が口を突いて出る。
「……宋江さんは……替天として戦いたくない同志がいる、と思ってるの?」
「おたくらしくねーな。そんなの、いちいち言うまでもねーだろ」
同志たちは皆、大なり小なりこの国を憂えていた。
官にあった者は官を捨て、替天行道の旗の下に集った。
しかしあの時と状況は変わりつつある。今この国を脅かしているのは、腐った体制に巣食う奸臣ではなく、外から虎視眈々とこの国を狙っているだろう侵略者だ。
国を憂え、外からの侵攻に対するなら、官であっても出来る。
いや、官であった方が都合が良い。国の後ろ盾を得れば軍資金や糧食の確保を心配しなくてもいいし、大義名分も得られる。
つまり――今、梁山泊にわざわざ再結集する意義は、薄い。
「戴宗、君は――」
どうするんだ、と続けかけて、口をつぐむ燕青。
今日は愚問ばかり発している気がする。戴宗がどうするかなんて、それこそ考えるまでもない。
戴宗は梁山泊に向かう。
相手が異民族だからといって官の下で働くのを選ぶ男ではないし、相手が役人でないからといって戦うのを選ばない男ではもっとない。
もう十年以上になる付き合いなのだ。よく解っている。
だから別の問いを投げた。
「これから、どうするんだ?」
宋江の言葉を伝えるためだけに、居所の分からない燕青を探したというのか?
それはきっと違うと、燕青の勘が告げている。
そしてその勘は的中する。
戴宗はやはり何気ない表情のまま、
「開封府へ行く」
「開封へ……?」
何故、と続けて問わなかった。
予感があった。
それもまた的中した。
「おたくんとこのおっとりメタボを救出しろ、って頭領と呉用からの命令だ」
――やっぱり。
「今、翠蓮が開封府でスタンバイしてる。あいつの力で動物園の動物をちょっと暴れさせりゃ、おっとりメタボを助けるなんざ簡単だ。
――で」
言葉を切る戴宗。鋭い視線をこちらに投げてくる。
「燕青、おたくはどうする」
「どうする、って……」
燕青は口ごもった。しばらく言葉に迷って、ようようと絞り出す。
「僕は……何度も、言ったんだ。官職を捨てよう、開封には行くな、って」
「へぇ」
「でも、旦那様は聞かなかった」
「ふぅん」
「だから、僕にはもう関係ない」
「つまり……」
戴宗の口調が変化する。
笑いを含んだ揶揄の口調。
口元に浮かぶかすかな笑みは、皮肉げで挑発的で、
「おたく、見捨てるんだ」
旦那様を、見捨てるんだ。
燕青は頭に血が上るのを感じた。
腰を浮かし、炎越しに戴宗に掴みかかろうとして――気付く。
戴宗の、言う通りだ。
自分は主を見捨てたのだ。
付き合いきれない、巻き込まれるのはごめんだ、と、暇を貰って逃げ出したのだ。
浮かした腰を再び下ろし、悄然とうつむく燕青に、
「――燕青」
戴宗の鋭い語気が投げつけられる。
「今のおたくを見たら、小五の野郎は何て言うだろうな」
その名にひどくうろたえた。
勢いよく顔を上げると、火の向こう、悪友は険しく問う目で燕青を見つめてきている。
「ここでおっとりメタボを見捨てて、長生きして、どっかで野垂れ死んで……それであの世に行って、おたく、胸張って小五と会えんのか?」
どうしてだろう――
小五はもう、いないのに。
この世のどこにも、いないのに。
『何で盧のおっちゃんを見捨てたんだよ、燕青!』
小五の、そんな声が、
『おっちゃんは、燕青の父ちゃんみたいな人だったじゃんか!』
聞こえる気が、するのだ。
『駄目だ燕青、見捨てちゃ駄目だ! ここで見捨てたら、燕青、お前は二度とおっちゃんに会えなくなる!』
聞こえるはずもないのに。
こんな風に言ってくれるかどうかも分からないのに。
それでも小五なら、
『俺も戴宗も、父ちゃんを助けらんなかった。力がなかったから助けられなかった。
でも燕青、お前には力があるじゃんか! だったら……だったら、助けろよ!』
先に逝ってしまった親友なら、
『俺たちが出来なかった分まで、父ちゃんを助けろ、燕青!』
燕青にそう叫ぶ気が、するのだ。
(――何だよ、小五)
燕青は思わずうつむく。
(あの時は、僕を泣かせなかったくせして)
苦笑いが浮かぶ。
(今になって、泣かすわけ?)
前髪を払うふりをして、目尻に浮かんだ涙をサッと拭いた。
それだけだった。
十分だった。
燕青は顔を上げる。
笑う。
その不敵な笑みに変化を感じ取ったのだろう。戴宗もまたニヤリと笑った。
「戴宗、君はいつ行く?」
「これから、神行飛龍で飛ぶぜ」
背中の伏魔之剣を誇示するように軽く揺する。
「連れてってやろうか?」
思わず吹き出す燕青。
「君に抱きついて? それは気色悪いな。――でも」
笑顔を心持ち鋭く、精悍にして、彼は続けた。
「時間がないんだ。連れてって、戴宗」
「そうこなくっちゃ」
戴宗が握り拳を突き出してくる。
燕青も拳を突き出す。
ゴツン、と強めに打ち合わせる。
二人の青年は、不敵に笑って――
赤い流星が、黄昏の空を翔ける。
東京開封府、宮城。
突然起こった動物園の動物脱走事件に、宮中警護の兵が、役人が、侍従が宦官が、捕獲に駆け回る。
だがそう簡単に捕まったりはしない。何故ならこの騒動の元凶は翠蓮だからだ――地獣星の力を十全に使いこなせる彼女は、どんな動物も意のままに操れる。猛獣のいる所でこれほど頼りになる能力はない。
「おっとりメタボがどこにいるか、分かるな燕青?」
「誰に言ってんの戴宗?」
黄昏の薄闇の中、戴宗と燕青は喧騒に紛れて宮中に忍び込み、駆ける。
「翠蓮は動物どもを西華門(宮城西門)に誘導してる。俺はあいつを回収して拱宸門(宮城北門)までの退却路を確保しておくから、おたくはさっさとおっとりメタボを連れてくるんだな」
「前から言おうと思ってたんだけどさ、戴宗」
走りながら言う。
「旦那様の事を『おっとりメタボ』って言うの、やめてくれるかな」
「だってメタボだろ」
「確かにメタボだけど」
「なら問題ねーじゃん」
「そうだね――と容認すると思ったら大間違いだよ」
「……ちっ」
「白々しい」
切って捨てる。
何度か入った覚えのある宮中の道を記憶を頼りに走り、ある角に来たところで二人は別れた。燕青は角を右折、戴宗は直進。
気を付けろ、も、無事で、もない。今更そんなものは必要ない。
燕青は駆ける。
人の気配を避け、隠れ、身を潜めながら、目当ての建物を目指す。
――見えてきた。
まだ人の気配のあるその壮麗な建物の裏手に回る。かつて頭の中に叩き込んだ宮中の然建物の間取り図を思い出し、招かれた地方の役人がいそうな部屋に当たりをつける。
裏手から、庭園へ。
そして、いくつかある灯りの入った部屋の一つ一つに耳をそばだてていき、
「――では、晩餐までこちらをお召し上がりください」
「うん、ありがとう」
見つけた。
間違えようもないほどに発見した。
窓の外から室内を窺う燕青。かれこれ一月以上見ていなかった事が信じられないくらいに視界に馴染んだ巨体の影が、部屋の中央に佇んで、侍従の退出を見守っている。
どうやら、呼び出しのメインイベントである晩餐の前の腹もたせに、点心が運ばれてきたようだった。大きな足つきの皿に山盛りで持ってきている辺り、宮中の連中も解っている。
巨体の影こと主・盧俊義は、侍従の気配が完全に去ったのを見計らって点心に向き直った。
その表情は――相変わらず余り動いていないが――ウキウキしている。それは動作にも現われ、盧俊義はどれにしようかと点心の山の前でしばし楽しそうに迷う。そして、その一つをそっと手に取り、
「夕食前のつまみ食いは駄目って言ってるでしょ旦那様――――っ!」
これ以上は看過できないので窓から乱入、いつものように叱りつけた。
すると盧俊儀の方もまた、いつものようにパッとあり得ないほどの速さで手に取った点心を山の中に戻す。
「……食べてないよ?」
部屋に乱入した燕青の姿に、特に動じる事もなくとぼける盧俊義。昔からこの主人の動じたところは見た事がないな、と燕青は今更のように感心した。
が、それはそれ。
「いいえ、今食べようとしてたでしょ!?」
「食べようとしていただけだよ」
「駄・目! その点心を平らげて夕飯まで全部食べたら、また体重が増えるでしょ! 安道全医師から警告されたの忘れた!?」
「……一つだけでも、駄目!?」
「いつもならいいって言うけど今日は絶対に駄目! 何が入ってるか分かりゃしないんだから!」
「――……というか、燕青君」
「はい旦那様」
改めて、燕青は盧俊儀に向き直り、見上げる。
盧俊義は燕青をまじまじと見つめる。
「何で、ここにいるの?」
「助けに来たからに決まってるでしょう」
「暇を、あげたよね?」
「やっぱり返上する事にしました」
「――燕青君」
「はい」
盧俊義が、ジッと燕青の顔を覗き込む。
燕青もまた見つめ返した。
既視感。
いつかも、こんな事があった。
「どうして、私を助けに来たの?」
「……は?」
「別に良かったんだよ?」
助けに来なくても。
逃げてしまっても。
「……何を、言ってるんですか」
燕青はそう吐き捨てた。
その声に淡く怒りが滲んでいたのを自覚しながら、言葉を更に紡いだ。
「僕は、旦那様の従者です」
そして――養い子だ。
「助けに来るのは、当たり前でしょう」
暇を貰い、一度は巣立った。
どこまでもどこまでも飛んでいってしまおうと思った。
けれど、出来るわけがないのだ。燕青は鳥ではなくどこにでもいるちっぽけな一人の人間で、どれほどもどかしく思っても、苛立ちを募らせても、どうしても育ててくれた人に対する恩義と心配を捨てられない。捨てられるはずがない。
そして悪友と親友までが、背中を押すのだ。
行け、と。
後悔するな、と。
ここまで来るのに、それ以上の理由は必要ない。
盧俊義は、そう答えた燕青の顔を感情の読めない目でジッと見つめ、
「――……ありがとう、燕青君」
そう、破顔した。
その瞬間は、燕青は間に合った事を唐突に実感した。
何故だか無性に泣きたくなった。
けれど悠長に感慨に浸っている場合ではなかった。いつ侍従が戻ってくるか分かったものではない。
「ほら旦那様行きますよ! 窓から出て、早く!」
「――ごめん燕青君、はまっちゃった」
「何やってんですか旦那様! だからダイエットをしろとあれほど……――ああもうこっちから蹴り出しますよ!」
「痛いよ燕青君」
「ガ・マ・ン!」
窓から出られない盧俊義の体を何度も何度も蹴ってやっと押し出す。ゴロンと庭に転がり落ちる主の体。その傍に降り立って、盧俊義が起き上がるのを助ける。
が、何故か立ち上がろうとしない。
嫌な予感がした。
「……旦那様?」
「ごめん、燕青君」
と、情けない顔をし、
「足、くじいちゃった」
「何してんのあんたは――――――――っ!」
「だって、燕青君が蹴るから」
「言い訳はいいです!」
自分でもそれはどうかと思うほど理不尽にぶった切った。
「っ――もうしょうがない! 旦那様、行きますよ!」
四つん這いの主人の体の下に潜り込んで、背負い、立ち上がった。いつかのように。
「――って、重――――!?」
そしていつかのように絶叫。ってか、あの時より数倍重くなってるよ!?
「だ、だん、旦那、様っ!」
「うん」
「今度、こそ、ダイエ、ット!」
「うん、頑張るよ、燕青君」
一歩一歩と歩いていく。いつかのように歩いていく。いつかのように体中を軋ませ、荒い息も絶え絶えにしながら、しかしいつかのように迷ったりせずに歩いていく。
そんな二人の周囲に気配が生まれる。殺気が一つ、二つ三つ……成程、こんな状況でも監視の手を緩めないとは。さすが権力にたかる奸臣、抜かりがない。
一人の時なら百でも二百でもさばけるが、この状態でそれはちょっとキツい。
忍び込んだ時と同様、このままこっそり脱出したかったのだが、
(そうも行かない、か……仕方ない)
「旦、那、様!」
「何、燕青君?」
「星の、力、用意っ!」
「うん、分かった。――ところで燕青君」
「何、ですっ!?」
「私たちはどこへ逃げるの?」
盧俊義の天罡星が力を発揮する中、燕青もまた天巧星を目覚めさせる。
己の体こそが武器である燕青の星の力は、身体能力の強化に特化されている。筋力が飛躍的に上がるわけではないが、使わない時よりもマシだ。
だから、
「――決まってるでしょう」
天巧星が発動した途端、燕青の口調は落ち着いて滑らかなものに戻る。
呼吸も乱れていない。盧俊義の巨体を背負っているのに、背筋も膝もピンと伸びている。
「梁山泊以外にどこがあるって言うんですか」
「……そうだね」
「じゃ、戴宗たちと合流します。守りは頼みましたよ、旦那様!」
言い捨て燕青は疾駆する。
悪友夫妻と合流すべく疾駆する。
そして帰るのだ、懐かしい梁山泊へ。
流転の運命に自ら飛び込んで。
親友の面影を胸に、解き放たれた飛燕は蒼青の世界を渡り征く。
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