6.飛燕


 燕青はぽかんと小五を見た。
 初めて見るもののように、小五を見つめた。
 実際初めて見る気がした。小五が、怒鳴るでもなく、激するでもなく、怒りをこらえて震えるところなど。
 それは、どうも彼とは長い付き合いの戴宗も同じらしい。両の拳をギュッと握り締めて全身を微かに震わせ、目を見開いたまま唇をわななかせている彼を、呆然と見つめている。
「燕青が商品って……何だよ、それ」
 何故、小五が怒っているのだろう。当の本人が、疎ましく思えど怒りなどこれっぽっちも覚えていないというのに。
「……言ったでしょ。僕は、流れた質草だと――」
「そんなのおかしいだろ!」
 小五の怒声が燕青を打つ。ビリビリと空気を震わせる。
 燕青と戴宗が息を飲み、告ぐ言葉を見つけられない中、小五は吼えるように訴えた。

「燕青は、物じゃねぇ!」

 血を吐くような、魂を振り絞るような叫び。
 燕青は呆然と、愕然と、その声を浴びる。

「燕青は人間だ! ちゃんと心を持った人間だ! もし盧のおっちゃんが燕青を物みたいに扱って、それで燕青がそんな風に考えるようになった、ってんなら……――俺は、おっちゃんを許さねぇ!」

 そうして――
 クルリと踵を返し、梁山の方へと歩き出す小五の裸の背を、燕青はただ呆然と見つめる。
(何で)
 自分の中の何かが動く。
(何で、彼は――)
「――おい燕青」
 呼ばれた。
 目を転じれば、戴宗はいつも通りのやる気がなくてどこか皮肉さを漂わせた表情で、遠ざかる小五の背を顎で示す。
「行かせていいわけ?」
「…………」
「あいつ、あの分じゃおっとりメタボをぶん殴りかねねぇぜ」
 さもありなん。遠ざかる小五の背からは、彼らしいのからしくないのか判断つかない血気盛んな殺気を感じる。
 だが、
「――どうして」
「あん?」
「どうして、小五君は、あんなに……」
 怒っているのか。
 他人の事なのに。
 すると戴宗は、大仰に溜め息を吐いた。アホらし、そう吐き捨てるように。
「あいつ、言わなかった?」
「何を――」
「おたくがどう思ってようと、あいつにとっておたくは、友達なんだよ」
 まさか、という思いで再び小五の背中を見やる燕青。
 友達、だから?
 信じられない。まさか、
「……そんな、理由で……?」
「小五にとっちゃ、それで十分なんだ」
 はっ、と笑う戴宗。殴られた頬をさすりながら、

「友達のために命を懸ける。それがあいつ――短命二郎・阮小五なんだよ」

 そう言った戴宗の声は。
 そしてその表情は。


 彼らしくないと言えるほどに穏やかで、しみじみとしていて、どことない憧憬が滲み出ていた。
 自分もそうやって命を懸けられた覚えがあると、そう言いたげな口調だった。


「で、もう一度聞くけど――いいわけ?」
「…………」
「自分で決着(カタ)つけなくて、いいわけ?」
「…………」
「おたくがどう生きてきて、何を考えてて、これからどうしたいかなんて知ったこっちゃねぇが、自分で決着つけた方がいいんじゃねーの? ――おたくのためにも、おっとりメタボのためにも」
「……随分と実感がこもってるね、戴宗君」
「気のせいじゃねぇ?」
 ふいとそっぽを向いてしまった戴宗は、その話題を避けたようにも照れたようにも見える。それが妙に微笑ましくて、思わず吹きだす燕青。すかさず睨んでくる彼にすみませんと心にもなく言って、
「でも――そうだね」
 苦笑混じりに吐息する。
「ちょうどいい機会なのかもしれない」

 考えてみれば、盧家はもうない。
 幼い頃から燕青を縛っていたもの。それが、根底から崩れてしまった。


 それでも自分は商品なのか。

 それとも――何か違うものになれるのか。

 はっきりさせるのは、ちょうどいい。


「小五君!」
 今まさに果樹園を抜けようとした小五の背に、燕青は張り上げた声を投げつける。
「ちょっと待って、小五君! ――僕が自分で、旦那様と話すよ!」
 小五が立ち止まる。振り返る。そうかー? と投げ返してくる声は、さっきまでの怒りがどこへやら、どことなく呑気だ。
「ええ! だから行ってくれなくて大丈夫!」
 分かったー! 叫び返して駆け戻ってくる小五。燕青は戴宗をもう一度見やり、
「じゃあ、行ってくる」
「さっさと行けば?」
「ええ。――あ、そうだ」
 ふと思い出して、燕青は木の枝に干したままの自分の上着を手に取った。生乾きのそれに腕を通しつつ、その隣に干しておいたやはり生乾きの紙の塊を戴宗に投げやり、
「それ、処分しといてもらえる?」
「はあ? そんなの自分で――」
「じゃ、お願いするね」
 絵図の成れの果てを反射的に受け取ってしまい、顔をしかめる戴宗に一方的に言い放って歩き出す。おいコラ。怒声が背中に投げかけるが気にしない。上衣の前を留めながら、戻ってきた小五と行き合った。
 少し息を弾ませた彼は、こちらをジッと見つめた。
「――……大丈夫か?」
「うん」
 燕青は頷いた。
 ためらいなく、笑顔で頷いた。
「そっか」
 小五も笑う。
 明るい安堵の笑みだった。
「じゃあ、頑張れよ!」
 うん、と燕青はもう一つ頷いて、
「行ってきます」

 そして、再び歩き出した。

 

 それから一晩経って――

 その次の日の早朝、燕青は舟上にいた。
 一人である。だから櫓を操るのも燕青自身である。幼い頃から要領の良かった燕青は、大体の事が出来る。舟を操るのもお手の物だ。
 気を付けなければいけないのは、曲がる方向と櫓の数だ。金沙灘を出て、まずはまっすぐに五、左に五、右に一、左に十、また左で五、もう一度左で四、右に七、右に八、左に九――
 そうして舟は、昨日転覆した辺りに着く。
 錨を下ろして舟を停めると、燕青は上着を脱いだ。それから実に適当に体の筋を伸ばして、ほぐして――
 ドボンと、水に飛び込んだ。


 ……黄色い日差しが優しく差し込む病室で、燕青は盧俊義に問うた。
『旦那様、僕は……今でもやっぱり、旦那様の、商品ですか?』
 盧俊義は答えた。
『燕青君』
 何故か、不思議そうに。

『私は一度も、君を商品と思った事はないよ?』


 飛び込んだ水の中は青く、そして黄色く濁っていて、朝の白々とした光が差し込んでも尚視界が悪い。
 夏も間近だというのに水は身を切るように冷たかった。指先や爪先があっという間にかじかんでしまう。
 その冷たさが、心地良かった。


『どうして、自分が商品だなんて思ったの?』
『だって、僕は質流れした品だと……李固さんが……』
『李固君かぁ……』
 と、盧俊義は困った顔で溜め息を吐いた。この主にしては珍しい、本当に困った様子だった。
『――燕青君は、質入れされたんじゃないよ』
『え……――』
『引き取ったんだよ。私が、君の両親から』


 燕青は潜る。
 水の中へと、水底へと、潜行する。
 水を掻き、水を蹴り、深く、深く。


『確かに君の両親にはお金を渡したし、証文も書いてもらったから、形は質入れとか身売りだったけど』
『なら』
『その証文、焼いちゃったしねぇ』
 開いた口が塞がらなかった。
 そしてようやく絞り出した言葉は、
『……馬鹿なんですか?』
『だって、燕青君を質入れされたり買ったりしたわけじゃないし』


 水底が近付く。
 燕青は目をこらす。
 ――転覆した舟と魚籠は、あの後、水軍が回収したらしい。だが、回収したのはそれだけだという。
 ならあるはずだ。
 この辺りに、あるはずだ。

 小五の釣り竿。

 どこに――


『それなら』
 燕青は再び問うた。
 怒りたいのか泣きたいのか喜びたいのかホッとしたいのか、よく判らない感情を持て余しながら、拗ねたような口調で問うた。
『それならどうして、僕に色んな芸事とか武芸とか方言とか、覚えさせてくれたんですか?』
 背中に背負った牡丹を意識する。

『どうして――刺青を、入れさせたんですか?』

 自分の商品としての価値を高めるためと思っていた。
 それ以外の答えが見つからない。
 果たして盧俊義は、

『それはね、燕青君』

 答えを、提示した。


 ――あった!
 沈殿した泥の上に横たわる細長い物を見つけ、燕青は泳ぎ近付いた。
 泥が舞い上がらないよう慎重に手に取り、持ち上げ、竿を、糸を確かめる。
(――間違いない)
 折れたりしていない。
 切れたりしていない。
 釣り針は、ちゃんとついている。
(これだ)
 燕青は、水底を蹴って浮上する。


『君に、似合うと思ったんだよ』


 水を掻く。水を蹴る。
 キラキラと光り輝く水面が近付く。
 手に掴めそうなほどに。


『色んなものを教えて、身につけさせれば、君にいつか行きたい所が出来て私の元から巣立つ時、きっと困らないだろうって思ったんだ』


 そして、燕青は、


『君を引き取ったからには、どこに出しても恥ずかしくない子に育てようと思ったんだ』


 手を伸ばして、水面へ、


『君は、私の自慢だよ』


 光の、中へ。


 ザバァッ――

 水を大きく掻き割って顔を出した燕青は、二度、三度と深呼吸をして息を整えた。空いている方の手で顔に貼りついた前髪を掻き上げ、顔から滴り落ちる水を拭う。立ち泳ぎのままで停めている舟に戻ろうとして、

「――おーい、燕青ー!」

 ギィギィと櫓が動く音と、すっかり聞き慣れた快活な声。
 小五が舟に戴宗を乗せてこちらにやってくるところだった。小五はいつものように笑っていて、戴宗はいつものようにやる気のない仏頂面だ。
 昨日までは鬱陶しく感じたそれが、今朝はやけに親しみを覚える。
 それは何だかくすぐったい感覚だった。自然と笑みが浮かんだ。
 照れ臭いけれど嬉しいその感覚をこらえようとしたら、笑顔は苦笑い気味になった。だがやはり嬉しさはこらえきれない。空いた方の手を上げて応える燕青の声は、隠しようもないほど弾んでいた。


「小五、戴宗!」


 その瞬間。
 小五も戴宗も、一瞬、驚愕にぽかんと目を見開いた。
 しかし二人の表情はすぐに変じる。
 小五は、嬉しくて嬉しくてたまらないと言わんばかりの満面の笑顔に。
 戴宗は、苦々しくて、少しだけ、ほんの少しだけ照れを滲ませた仏頂面に。
 二人の乗った舟は滑るように燕青の傍へ来て、ピタリと危なげなく停まる。さすがは元漁師、見事な櫓さばきだ。
「こんな朝っぱらから何やってんだよ燕青。泳ぐんなら俺にも声かけろよな」
「朝っぱらから水泳たぁ、酔狂だなおたくら」
「遊びで泳いでたわけじゃないよ」
 微笑と共に告げて、燕青は、水の中に入れっぱなしだった手を引き上げた。
 差し出した釣り竿を、小五は呆然と受け取る。
「……どうして」
「大切な物なんじゃないの?」
 二人の乗る舟の縁に手をかけ、水から上がった。小五は、思ってもみなかった喜びに徐々に笑みを取り戻す。
「……うん。ありがとな、燕青」
 そんな彼へ無言のまま微笑み、
「――やるじゃん、燕青」
「伊達に浪子なんて呼ばれてないよ?」
 戴宗には、そう軽口を返した。

 

 二人は、燕青の姿が見えないからとわざわざ探しに来てくれたらしかった。
 そしてその本音はと言えば、
「――それでおたく、昨日はあれからどうしたの」
「って戴宗、はっきり聞きすぎ!」
「おたくだって気になる、っつってたじゃねーの、小五」
「そうだけど……!」
 聞き方ってモンがあんだろ、とブツブツボヤきながら、小五は手際よく燕青が乗ってきた舟の舳先とこの舟の船尾とを綱で結ぶ。牽引していくためだ。繋いでしまったら水路が通りにくくなるのではと思うのだが、そこはそれ、コツがあるのだそうだ。
「……というか君たち、まさかそれを聞くためにここまで漕いできたの?」
「あ? 悪い?」
 と、悪びれもせずに、戴宗。
「本当は昨日の夜にでも聞こうかと思ってたんだけど、燕青、いなかったし」
 と、こちらの舟に戻りながら、小五。
「……旦那様の所にいたしね」
 軽い吐息と共に肩を竦める燕青。小五が持ってきてくれた上着を受け取り、
「――二人には、感謝してるよ」
 何を、と先を促す視線を感じつつ、それを羽織る。
「君たちのおかげで、ちゃんと向き合えた」


 夢で聞いてから、事あるごとに耳に蘇る声を思い出す。
 お前は、質流れした品なのだ。そう呪いのように告げる声。
 李固のものでも、もちろん盧俊義のものでもないその声。

 ――あれは、燕青自身の声だった。

 燕青を縛っていたのは、他でもない、燕青自身だった。
 思い込みと気負いと視野狭窄で、己を縛りつけていたのだった。
 己の境遇を顧みれば、それも仕方のない事なのかもしれない。けれど気付いてしまえばこれほど滑稽な話もない。
 笑うしかないというのはこういう事を言うのだと、それこそ滑稽なまでに実感した。


「――……そっか」
 詳しい経緯も聞かないまま、小五は得心したように頷く。そしてニカリと笑う。
「良かったな、燕青!」
 きょとんとし、一拍遅れて苦笑する燕青。
「聞かないの? 詳しい事」
「聞かなくたって分かるぜ、燕青にいい事があった、って! なぁ戴宗!」
「ま、俺は別にどっちでもいいんだけど」
 ひねくれた口調で戴宗は言う。その口調にとてもよく似合う不敵で皮肉げな眼差しを寄越してくる。
 だがそこにはもう、昨日のような敵意はない。
「これからどうするか、決まったみたいだな」
 燕青は笑う。

 ニコリと――ではなく、ニヤリと。

「僕は、ここにいるよ」

 燕青の不敵な笑みに、戴宗もまた不敵な笑みを口元に浮かべる。

「旦那様がここを気に入っちゃったんだ。従者の僕がいてあげなくちゃ」

 盧俊儀には言ってやりたい事がたくさんあった。
「君は私の自慢」って今更何だよそれ、とか、証文握ってる主人に「刺青入れる?」なんて言われたら嫌でも断れるわけないでしょ、とか。文句だけなら百でも二百でも浮かんでくる。


 しかしそれでも、燕青を育ててくれたのは盧俊義だった。


 いつか盧俊義の傍から離れる時が来るかもしれない。
 ならその時まで、育ててくれた恩義を返し続けよう。
 そのために、ここに、いよう。
 梁山泊に。

 替天行道に。

 ――それに、

「それに」
 燕青は小五と戴宗をそれぞれ見る。
「僕はまだ、小五の釣った魚を食べさせてもらってないしね」

 単純に。
 純粋に。
 この二人ともう少し一緒にいたいと、思ってしまったのだ。
 ここに留まる理由は、それだけで十分だ。

「――よっし、じゃあ今からでっかい魚を釣ってやんよ!」
 ワハハッと小五は笑って、さっき燕青が拾い上げてきた釣り竿を手にする。
「……おたくも馬鹿だな」
 珍しく戴宗が苦笑する。
 二人と一緒に燕青も、声を上げて笑う。


 生まれて初めて、友達と、腹の底から笑った。

 

 運命は流転する。
 ガタガタと、ゴトゴトと、どうしようもないほどに転がり、流れる。


 晴れて替天行道の一員となった燕青は、戴宗と組まされるようになった。
 何でも、戴宗はすぐに無茶をする気質なのだという。その暴走を止めるために翠蓮、小五がお目付け役としてつけられていたが、翠蓮は未だ星の力が安定しないのでお目付け役を離れ、小五は、安定性については申し分ないが、能力的に戴宗と共に前線に出たり敵地に潜入したりするのに適さない。
 その点、燕青はうってつけと言えた。
 このため、三人で行動する事が多くなった。燕青と戴宗が潜入し、小五が脱出経路と手段を確保する。そういう役割分担である。が、結局三人揃って暴れる事も少なくなかった。というかそっちの方が多かった。
 戦いばかりの日々。

 しかし楽しかった。

 不謹慎だが、とても楽しい日々だった。

 星の力をようやく使いこなせるようになった翠蓮が改めて加わってから、尚の事楽しくなった。戴宗と翠蓮がお互いを想い合っていながら、何やかやでその気持ちを押し殺そうとしていたからだ。
 他人の色恋沙汰ほど横から口を突っ込んで楽しいものはない。燕青は小五と共に不器用な二人を応援した。仲が進展するようちょっとした悪戯を仕掛けたりもした。戴宗が素直になれるようにと随分発破をかけたし、挑発するため翠蓮に気があるような素振りもしてみせた。
 告白・求婚という一大イベントを発生させ、成功させるのに、どれだけの労力を費やした事か。二人の結婚式に至っては、さすがの燕青も小五と共に少し泣いてしまった。

 楽しかった。

 楽しく、愛おしい日々だった。


 しかし運命は流転する。
 多くの人間の運命を否応なく巻き込んで、転がり落ちて流れ去る。


 梁山泊は幾度も戦場となった。
 朝廷からの討伐軍が何度来たか分からない。しかし替天行道はその全てを退けた。退ける事で、新たな討伐軍を招いた。
 それは、軍師・呉用の戦略。そうやって敵を退け続ける事で、替天行道が倒すべき敵・高俅を都から引きずり出す。
 果たしてそれは成功する。枢密使・童貫率いる軍勢も破られた朝廷には、最早高俅が温存する軍しか残されていない。
 そしてそれは宿星軍ではない。一〇八の星は長きに渡る戦いの中で何度も空を流れ、巡り巡って梁山泊に集結し、高俅の私物となっていた梁山泊最大の敵は、既に瓦解していた。
 高俅が率いてきたのは出涸らしのような自称・精鋭たち。ろくな調練も課されていないそいつらなど、天の理・地の理・人の利を味方につけた替天行道の敵ではなかった。
 この国を覆う闇の元凶たる高俅は、一〇八の宿星全員が力を合わせ、梁山泊上で討ち果たした。
 それで全てが終わった。

 そのはずだった。


 ――甘かった。


 替天行道が力を蓄えている間に、高俅は悪意の種を各地に蒔いていたのだ。
 遼国。河北の田虎。淮西の王慶。そして江南の方臘。
 それらが芽吹く。
 高俅が生きていた時以上の闇が、この国を覆う。
 替天行道の理念と理想に懸けて、払わなければいけなかった。

 そのために頭領・宋江は、一つの苦渋の決断を下す。


 招安。


 志を貫き通すため、替天行道は官に下った。
 辛く厳しい戦いの日々。
 それでも替天行道は力を合わせて遼の侵犯を退け、田虎を討ち、王慶を下した。
 そして、江南の方臘。
 高俅が蒔いた中で最も大きな悪意の種は、高俅以上の混沌となって花咲いていた。その悪意が江南の民を支配し、操る。本来守らなければならない無辜の民の襲来に、替天行道の誰もが苦悩し、疲弊し、心を折られた。
 それでも戦わなければならなかった。
 替天行道の志に懸けて、方臘を討たなければいけなかった。

 とうとう同志たちの中からも戦死者が出始めた頃、燕青は、呉用から一つの任務を命じられた。

 

「――方臘の宮殿に、潜入?」
「そ。柴進さんと一緒に」
 小五の唖然とした声に、燕青はまるでちょっとしたお遣いを頼まれたかのような気軽な口調で応じる。
 かがり火が皓々と照らす夜の替天行道の陣営は、どことない忙しさに包まれていた。負傷者の手当て、星の力を宿す大切な武器の修繕、食事、夜襲を警戒しての見張り。偵察任務に出ていた同志が今、さっきまで燕青のいた呉用の幕舎にひっそりと入っていった。
 燕青が小五と戴宗を見つけ、歩み寄って声をかけたのはそんな頃合いだ。小五は矢が刺さって破けた舟の帆の修繕をしていて、戴宗はそんな彼に――何と戴宗らしくない事に――食事を運んでやったらしかった。
 大して美味くもない具なしの饅頭を咀嚼して、
「え、何で?」
 と、首を傾げる小五。その隣で戴宗は、大して考えもせずに淡々と呟いた。
「――内応か」
「正解、戴宗」
 潜入・探索任務を仰せつかる事の多かった戴宗は、すっかり呉用の考えを見抜けるようになっていた。燕青は笑って頷く。
「いつから行くんだ?」
「夜明け前にはここを発つ」
 そうか、と小五は応じて呟く。そして一拍置いて――笑顔を見せた。
 ――出会ってからもう十年以上が経つ。三人とも三十路間近になった。戴宗は仇敵・高俅を討ち果たした事で以前のような無茶を決してしなくなったし、小五は小五で思慮深く慎重になった。燕青は逆に友のため仲間のために多少の無茶をするようになった。
 三人とも変わった。
 だがそれでも、芯の部分は決して変わっていない。
 例えば、そう、小五のこの笑顔。

 見るだけでこちらまで元気になるような、昔通りの、輝く太陽にも見紛う快活な笑み。

「頑張れよ、燕青!」
「もちろん」
「――死ぬんじゃねぇぞ」
 ボソリと戴宗が言う。彼らしくないやけに真剣な声だった。
 思わず燕青は笑ってしまった。
「てめ、燕青――」
「嫌だな戴宗、僕を誰だと思ってるんだい?」
 分かりやすくいきり立つ悪友へ、燕青は自信満々に胸を張った。
「僕は、浪子・燕青」
 握った拳で自分の胸を叩き、
「歌舞音曲に武芸、各地の方言から商人同士の符丁、潜入、諜報、調略、暗殺まで、何でもござれのエキスパートだよ?」


「このくらいの任務、余裕でこなして生還してみせるさ」


「――ワハハッ、そうだよな燕青!」
 と小五が頷いて、
「ったく……足元すくわれんじゃねーぞ?」
 と戴宗がぼやいて、

 誰からともなく、


 三人は、握り拳をポンと一つ打ち合わせた。

 得意気に。
 快活に。
 不敵に、笑い合って――――――――


 燕青は、敵地へと赴く。

 

 任務は成功した。
 燕青らは与えられた役目のままに方臘の陣営へと入り込み、徹底的に混乱させた。内応の最後の段では宮殿内で指揮官クラスの暗殺に成功し、方臘軍の指揮系統を破壊した。
 方臘が討ち取られ、味方が戦の終結に歓声を上げる中、伏魔之剣を携えた戴宗を見つけた。傍らには翠蓮もいる。

「戴宗!」

 呼べば、彼は弾かれたように顔を上げる。駆け寄る燕青を認めたその表情が――何故か、重く暗くかげった。
 しかし任務成功の興奮で、燕青はそれに気付かない。
「どうだい戴宗、ちゃんと生きて帰ってきたでしょ」
「……ああ」
「ま、この僕にかかれば、敵本営への潜入なんて朝飯前だけどね」
「……ああ」
「君も無事で何より。翠蓮さんもね」
「……ああ」
「そういえば」

 宋江が、呉用が、残党の追撃と捕縛の指示を飛ばしている。関勝が馬に乗ってどこかへ駆け出していく。武松が担架で運ばれていく。林冲もだ。


「小五は?」


 戴宗の体が震えた。
 翠蓮がそれに気付き、心配そうに夫の顔を覗き込む。しかし彼女の方が泣き出しそうな顔だった。何故。
 戴宗を見、迷うように視線をさまよわせる翠蓮。そして悲壮感漂う決心を面に浮かべ、
「燕青さん、あの――」
「翠蓮」
 言いかけた言葉を戴宗が止めた。
「俺が、言う」
 その低い声に翠蓮の目に涙が滲む。歯を食い縛り、こらえ、しかし彼女は顔を覆ってしまった。

 何だ、これは。
 嫌な予感がする。
 嫌な予感しか、しない。

「燕青」

 嫌だ。
 聞きたくない。
 本能的にそう思ったけれど、燕青の体は動かない。耳を塞ぐ事も逃げる事も出来ない。
 呆然と見つめる中、戴宗の唇が小さく動く。
 紡がれた言葉を、聞く。
 燕青は目を見開く。
 愕然と、襲ってきた衝撃に耐えきれず、その場に崩れ落ちそうになる。


 ――嘘だろう?


 だって、

 そんな、まさか、

 

 小五が、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――死んだ、なんて。

 

 

 

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