5.止まり木の価値


 運命は流転する。
 どうしようもないほどに転がって、どことも知れぬ場所へと流れていってしまう。


 ――我々は、「星」を集めています。
 ――一〇八魔星。その内の天罡星が盧俊義殿に、天巧星が燕青殿に宿っています。

 どうか力を貸してください、と。
 頭を下げた宋江に、燕青はひどい息苦しさを覚えた。


 その息苦しさが、今もまだ続いている。
 梁山泊に舞い戻って十日。元々怪我らしい怪我のなかった燕青は、寨内を自由に歩く事を許されていた。
 盧俊儀の方は、拷問で受けた傷の治療のため、まだ神医・安道全の診療所から出る事を許されていない。介護を手伝わせてもらってはいるが、素人は邪魔じゃと安道全に追い出される事がままある。
 だからそんな時は、寨内をブラつく事にしていた。
 ちょうど、今のように。
「…………」
 金沙灘の船着場からグルリと南麓に回った燕青は、果樹の植えられた辺りから梁山を見上げた。
 改めて見れば、成程、梁山泊は賊の巣窟にしておくのが惜しいほどの景勝地だった。
 木々の葉は青々と生い茂って美しく、その向こうにそびえる梁山は所々に緑をまとわせて雄大である。周囲が湖だから空気は程よく水気を含み、乾燥しきって砂っぽい大名府の辺りとは比べものにならない爽やかさと清浄さだ。
 遠く微かに剣戟の音や調練の声などが聞こえてくるが、それよりも活気溢れる喧騒の方が大きい。
 鳥や家畜の鳴く声はどこまでものどかで、湖上を渡る晩春の風は涼しくて。替天行道の拠点とは思えないほど穏やかでのんびりしている。
 そして食料豊かでいい料理人もいるとなれば、
(旦那様がここを気に入るのも無理ないね……)
 燕青は吐息と共に肩を竦めた。療養中の盧俊儀は体調の回復に比例するように本格的にこの地を気に入りだして、替天行道に入るのもやぶさかではないという態度を見せ始めている。
 このままなら、早晩、宋江や呉用に口説き落とされる事だろう。

 ――冗談ではない。

 星を持っているだか何だか知らないが、そんなわけの分からない事のために盧俊儀は罠にかけられ、拷問を受けた。李固を結局取り逃がし、身代を全て持っていかれてしまった。そして盧俊義も燕青も、望まぬまま、そんな意志も持たぬまま、賊の汚名を着せられた。
(冗談じゃない)
 燕青は梁山を、その中腹に抱かれた聚義庁を睨む。
(誰が、あんたたちの思惑に乗ってやるものか)
 そっと懐を押さえる。
 服の下、入れたままのあの絵図は、ここに舞い戻ってから更に精度を上げた。これさえあれば、どれほど用兵が下手な将軍でも必ず梁山泊を陥落させられるだろう――それほどの物になっている。
(あとは――)
 と、更に思案しようとして。
 サクサクと下生えの雑草を踏みしめ歩く乱暴な足音に、燕青は、油断なく視線を向けた。
 果たして、やってきたのは、

「おたく、こんなトコで何やってんの?」
「散歩だよ、戴宗君」

 戴宗であった。今日も今日とて背中に大剣を背負い、やる気のない仏頂面を見せている。その表情が、燕青のニコリとした笑顔を向けられた途端、不機嫌丸出しになった。
「どうかした?」
「どうかしたじゃねぇ。小五の野郎がおたくを探してんだよ」
「――ああいけない、忘れてた」
 昨日の事である。
 今みたいに手持ち無沙汰に散歩――に見せかけた寨内の調査――をしていた燕青は、釣り帰りの小五と遭遇した。
 聞けば阮家の夕食のおかずになるものを釣っていたのだという。そこそこの大きさの鯉が四匹入った桶を覗き、美味しそうですね、と言ったら、
『じゃあご馳走してやるよ!』
『え?』
『明日の昼、一緒に釣りに行こうぜ! 大物釣って、その場で食わしてやんよ!』
 それはいい、と。
 そう思って了承して、うっかり忘れていた。
「小五君は?」
「金沙灘の船着場。舟用意して待ってるぜ」
「そう。ありがとう」
 と、軽く頭を下げて燕青は歩き出した。金沙灘へ向かうべく、戴宗の横を通り過ぎようとして、

「――おたくさぁ」

 不意を突く形の戴宗の呼びかけに、足が止まる。
 やる気も覇気もないダラッとした常の口調、ではなく――冷ややかで、敵意が隠すでも紛れている口調。

「コソコソ何かやってるみたいだけど」

 半歩後ろの戴宗を、肩越しに窺う。
 彼は、燕青を突き刺すような目で窺っていた。

「あいつの人の良さにつけ込んで、何かしてみろ」


 俺が、おたくを斬る。


 それこそ刺し貫くがごとく鋭く吐き捨てられた言葉に――
 燕青は、しかし、ニコリと笑みを深めてみせた。
「――嫌だな、戴宗君」
 戴宗の眼差しの温度が更に下がる。
「僕は別に、何もしていないけど?」
「……そうかよ」
「ええ。では」
 再び一礼し、歩き出す燕青。
 が――後ろからサクサクという足音がくっついてくる。
 立ち止まる。
 振り返る。
 特に隠れるわけでも誤魔化すわけでも悪びれた様子を見せるわけでもない。戴宗はいっそ感心するほどのふてぶてしさで足を止めた。
「……まだ何か、僕に用が?」
「べっつにぃ」
「じゃあ、何で故僕のあとをついてくるの?」
「あぁん? 何おたく、自意識過剰なんじゃねぇの?」
 隠すつもりなど毛頭ないと言わんばかりのあからさまな嘲りの声と、人を小馬鹿にした表情と言い草。少しイラッと来た。
「俺もこっちに用があるだけだぜ? ってか、そういえば小五の奴に誘われてたっけなー」
 白々しい。
 戴宗の目にも表情にも態度にも、「お前の事なんか信用してねーし、同志とも認めてねーぜ」と書いてある。
 信用してほしくないし認めてほしくもない。
 監視するなら好きなだけすればいい。出し抜く方法などいくらでもある。
 そんな胸の内を決して表に出さず、笑う。
「そうだったの。じゃあ、一緒に行こうか」
 言うだけ言って、返事も待たずに歩き出す。戴宗もまた返事をする事もなく歩き出す。
 燕青は作り物のような笑みで、戴宗はふてぶてしい不機嫌面で。傍から見たら、自分たちが並んだ図はどれほど険悪な事だろう。
 金沙灘で待っていた小五は、やってきた二人の様子にギョッと身を引かせた。

 

「それにしても、今日もいい天気だよな!」
「…………」
「…………」
「こういうのを、絶好の釣り日和って言うんだろーな」
「…………」
「…………」
「……なあお前ら、何かあった?」
「べっつにぃ?」
「何もないよ?」
 戴宗はいつものやる気のない口調で。
 燕青はいつもの人当たりのいい口調で。
 それぞれ答えれば、船尾で櫓を操る小五は訝しげな、何か言いたそうな顔を見せる。そんな彼にニコリと笑って――

 燕青は、数えていた。
 櫓の数を、である。

 金沙灘から西にまっすぐ五回漕いで、左折。そこからまた五回漕ぎ、右折して一回漕いだと思ったら、再び左折。今度は十回も漕ぎ、左に曲がって五回、また左に曲がって四回、右に曲がって七回漕ぎ、右折後八回、左折して九回ほど漕いだ頃、さっきまで燕青らがいた梁山南麓の果樹園の沖に出ていた。
 この辺りから水路はそれほど複雑でなくなるのだろう。小五の漕ぐ回数が明らかに増えた。それでも右左折を繰り返すのは、梁山泊名物・水路の迷路が――程度の差こそあれ――湖全体に広がっているからだろう。
 燕青は数える。
 櫓の数と、右左折の順番。決して違える事なく一瞬で覚え込む。
 それさえ覚えておけば、水路の様子が大体分かる。
 水路を把握すれば――懐の絵図は、より完璧なものとなる。
 完璧な絵図は、ここから脱出した暁に必ず役に立つ。
 これと、賄賂と、あとは立ち回り方。それさえ完璧なら、

(賊の汚名を返上できる)

 替天行道の同志とやらになるつもりなどない。
 世直しだとか革命だとか、そんなものは勝手にやっていればいい。
 旦那様と僕を巻き込まないでくれ。
 僕たちを、僕を、仲間に引き込もうとしないでくれ。
 必要としないで。


 息苦しい。

 背中が、チリチリと痛む。


「――七ぁー」
(――――っ!)
 突然聞こえた戴宗の声に。
 燕青はハッと息を詰める。
「三ー、四ー、十五ぉー、二十九ぅー」
「おい戴宗? どうしたんだよいきなり」
「別にぃ。――四十九ー、八ぃ、二ぃ、六ぅー」
 無秩序に紡がれる――耳に流し込まれる数字の羅列。

 燕青はにわかに櫓の数を見失った。

 今、いくつだった? 「十八ぃー」十八、いや、違う「三十ぅー」そんな多くなくて「九十九ぅ」だからそんな多い数じゃ「一ぃ」いやそんな少なくも「二十三ー」ああだからもう――――

「ねぇ、戴宗君」
 と、顔をそちらにやる燕青。
 彼のすぐ傍――舳先近くの、対面――で胡坐をかいている戴宗は、気だるげな様子で、
「あん? 何か用?」
「何なのさっきから、その数字?」
「べっつにぃ? 何か言いたくなっちゃってさぁ」
「熱中症にでもなった? 行動がいつも以上におかしいよ?」
「笑えねー。俺がおかしいかどうかは俺が決める。おたくにどうこう言われたくねーな」
「というか黙ってもらえる? 今日の僕は静かに梁山泊の景色を楽しみたい気分なんだよね」
「知んねーな、そんなの。――おい小五、舟唄の一つでも歌ってやれよ」
「え? 舟唄って、戴宗、お前何そんな無茶振り――」
「せっかくだけど遠慮するよ。小五君には舟を漕ぐのに専念してもらいたいし」
「その方がおたくにとっちゃ好都合、ってか?」
「何の事?」
 あくまで柔和に問い返すと――
 シン、と沈黙が下りた。
 戴宗は今や敵意を剥き出しにしてこちらを睨みつけているし、燕青は燕青で微笑みながら身も心も臨戦態勢に入っている。ただ一人、小五だけが何故こんな事になっているか理解しきれず、困惑の態で二人を見比べている。
 そうして、しばし。

「……ってかさぁ」

 沈黙を破ったのは、戴宗だった。

「おたく、何でまだここにいるわけ?」

「……どういう意味?」
「おたくが梁山泊から出ていきたいのとか、俺らの同志になりたくないのとか、一目瞭然なんだよ。うちの頭領(ボス)も晁蓋の奴も、別におたくに無理強いしてるわけじゃねぇ。仲間になりたくない、ここか出る、っつえば引き留めやしねぇぜ」
「何を言うかと思えば」
 燕青はやれやれと肩を竦める。
「旦那様が、ここにいる」
 噛んで言い含めるように告げる。
「僕は旦那様の従者。旦那様のいる所が僕のいる所。それを君にどうこう言われたくないよ」
「だがあのおっとりメタボ、ここにいるの結構乗り気だぜ?」
 と、口の端に笑みを乗せる戴宗。
 ひどく底意地の悪い笑みだった。
「ここにいたくないのは、おたくだけだ」
「なら旦那様を説得するよ。それが駄目なら、おぶってでも、首に縄をつけてでも、ここから連れ出す」
「燕青――」
 小五の戸惑いの声を無視する。
 というか、無視せざるを得なかった。戴宗がゲッゲッゲと気味の悪い哄笑を立てたからだ。
「悪いがそいつは無理だな――あいつはもう幹部内定だ」
「って戴宗、それまだ言うなって呉用さんが」
「るせぇ小五。
 力がなくても、ここにいる気とやる気があって、星まで持ってるとなりゃ、何が何でも替天に入ってもらう。だが――おたくみたいな野郎は願い下げだ。従者だか商品だか知らねぇが、とっとと失せろ」
 小五が訝しげに眉をひそめた。が、二人ともそれに気付かない。
 燕青は笑顔に不敵な色を乗せて応戦する。
「へぇ。僕にも一応星っていうものがあるみたいだけど、それでも僕を放逐する、と」
「別におたくでなくてもいいしな」
 自然と目が細くなった。
「……どういう意味?」
「頭領も呉用もまだ言ってねぇが、星は、宿主が死んだら別の奴に移る」
 と、戴宗は笑みを深める。

 酷薄に。
 残酷に。

「だから何となれば、言う事聞かないおたくを殺して、次の宿星になった奴をスカウトすりゃいいってわけ」
「脅しのつもり?」
「おたくみたいな、実力があってもただ誰かに寄生してるだけの奴より、戦えなくても戦う気のある奴の方が百倍マシ、って話だが?」


 寄生。
 寄生、だと?


 表情を強張らせた燕青を、戴宗はへ、と笑い飛ばす。
 李固にも似た、しかし李固よりもあからさまであけすけな侮蔑の笑い。
「それとも寄生とかじゃなくて、あのおっさんのお稚児さんとか、そういう事か?」
 己の表情から笑みが消え、氷のように強張り固まっていくのを、燕青は感じる。
 主の、稚児。昔から言われ続けてきた事だ。今更痛くもかゆくもない。
 別にいいのだ。

 そう言って主人を――稚児と呼ばれた自分自身ではなく、そんな趣味があると誤解された盧俊義を――嘲ってきた手合いは、ことごとく、半死半生の目に遭わせてきたから。

「まぁおたく、女みたいな顔してるし? 別におかしかねぇけど、そうか、あのおっさんにそんな趣味が――」

 皆まで言わせてなるものか、と燕青が腰を浮かせた――その時、

 二人の間に、何かがサッと割り込んで、


「――戴宗ぉっ!」


 バキィッ!

 戴宗の横っ面を、殴った。

 立ち上がりかけた燕青は、呆然と目を丸くしてその背中を見つめる。
 殴られた戴宗も一瞬呆けた表情をし、しかしすぐに彼を睨み上げた。

「てっめ……――何しやがる小五!」
「今のはお前が悪い!」
 自分のそれを遥かに上回る声量で怒鳴り返され、戴宗は面食らって瞠目する。
 弱い者イジメからいじめられっ子を庇う正義漢さながらに、小五は仁王立ちで燕青を庇って戴宗と対峙し、そのままの勢いで怒鳴り続けた。
「戴宗、燕青が嫌いならそりゃしょうがねぇ! 喧嘩も絶対すんななんて言わねぇ!
 でも、そんな事言うのは駄目だ! そんな事言って人を傷つけるのは絶対に駄目だ!」
「っ……寝言は寝て言えよ、小五!」
 今度は戴宗が声を荒らげる。と同時に勢いよく立ち上がった。グラリッ、舟が大きく揺れる。
「俺が誰のために怒ってると思ってんの!? おたくだ、お・た・く!」
「はぁ!? 何だよそれ!」
「いいか小五、こいつはなぁ!」
 と、戴宗はビシリとこちらを指差し、
「おたくを、利用してんだよ!」

 沈黙。

「……は?」
 一拍分の間を開けて、小五が間抜けな声と共に首を傾げる。
「利用って、どういう意味だよ?」
「この野郎は、この間来た時からずっと、梁山泊の弱点とかそういう事を調べてんだよ!」

 燕青は僅かに息を飲む。
 気付かれていたのか。
 接待攻勢のあの時から、既に。
 では……首脳部も、もう知っているのか。
 それでも、燕青を欲しがっているのか。


 ――背中が、痛む。


「今だって、おたくの釣りに付き合うふりして水路を調べてやがったんだ! 金沙灘から櫓の数と曲がった方向を覚えてなぁ!
 こいつは、美味いモンを食わせてやりたいっつーおたくの好意をまんまと利用したんだよ! おたくだけじゃねぇ、翠蓮や、朱貴や、杜遷や、劉唐や蔣敬や、他の連中だって、こいつに騙されてる! 皆を騙して、こいつはクソ役人に替天を、梁山泊を売る気でいたんだよ!」


「だったらどうした!」


 間髪入れずに放たれたなりふり構わない叫びに――
 戴宗は、目を剥いた。
 燕青も、目を剥いた。
 小五は、まるで興奮して全身の毛を逆立てている猫のように肩をいからせ、続けて怒声を放つ。
「燕青が俺たちの事騙して売ろうとしてたからって、あんな酷い事を言っていい理由にはなんねぇ!」
 気圧されたように、僅かに後退りする戴宗。そのよろめきが舟を揺らす。
 しかし彼はそこで踏みとどまった。気圧され、戸惑いとも怯えともつかない色を顔に乗せながら、かぶりを振ってそれを払い落として、再び小五を睨む。
「け……けどおたく、利用されてたんだぞ!」
「んなの戴宗に言われなくたって気付いてたよ!」
 今度こそ、絶句する燕青。
 気付いていた?
 能天気に笑って、気付いていた?
 燕青のしている事を。
 魂胆を。
「だったら何で!」
「仲良くなれば――友達になれば、思い直してくれるかもしれないじゃんか!」

 ……何だ、それは。
 何だ、その理屈は。
 何だ、友達とは。
 なった覚えも、なりたいと思った覚えも、そんな存在がいた事も、ない。

 何だ、それ。

「戴宗が俺のために怒ってくれたのは嬉しいけど! でも、ああいう事は言っちゃ駄目なんだよ戴宗! ある事ない事言って人を傷つけるのは、一番いけない事だ!
 戴宗だって、分かってんだろ? 燕青と盧のおっちゃんは、そんなんじゃねぇって。盧のおっちゃんは燕青の、父ちゃんみたいな人じゃねぇか」


 盧俊義が――

 自分の、

 父、のような、人?


 何か思うところがあるのか、顔を伏せた戴宗へ、小五は更に畳みかけた。
「戴宗だって解るだろ? 俺が言わなくたって、解ってるんだろ? 父ちゃんを馬鹿にされるのは、悔しくて、悲しくて、すごい嫌だって事。だから――」
 ユラリ、と。
 立ち上がった燕青に、真っ先に気付いたのは戴宗だった。だが彼が何かを言うより早く、

「――君に、何が解るのさ」

 低く呟いた言葉に、小五は弾かれたように振り向く。

「小五君に、僕と、旦那様の、何が解るのさ」
「燕青――」
「旦那様は、僕の父なんかじゃない」

 そうだ。
 盧俊義は、父ではない。父などでは決してなかった。

「旦那様は、僕の、主人だ」

 一歩、二人に近付く。
 舟が揺れる。

「僕の、持ち主だ」

 もう一歩。
 更に揺れる。傾ぐ。

「勘違いしないでほしいな。僕と旦那様は、そういう関係なんだ。それだけの関係なんだ」

 背中が痛む。
 彫られた牡丹の刺青が痛む。
 背負った値札がチリチリと痛む。

 

『お前は、質流れした品なのだ』

 

「親子なんかじゃ、ない」

 更に、もう一歩。
 二人が縁まで退いて、戴宗が身構えて、

「親子なんかじゃ――――」


 ――ここで。
 舟の傾きが、重心の偏りが、限界を超えた。
 元々が小さい舟である。体重が軽めとはいえ、少年三人が片側に寄りすぎたのだ。舟はグラリッ、と大きく揺れて寄った側に傾ぐ。
 その瞬間、戴宗は反射的に足を引いた。バランスを取るための極めて自然な動作。しかしとっさすぎて彼は失念していた。もう引けるスペースなどない事に。足を引いて踏んだ所は、舟の縁だという事に。
 そこに、戴宗は全体重をかけてしまった。
 舟が、更に大きく、そして一気に傾いた。
 その揺れに、元々水の上は不得手な燕青が大きく体勢を崩した。戴宗と小五の二人に向かって倒れ込む形になる。
 結果として――

「うわっ――」
「危ねぇ――」

 ――――ドボォンッ!

 舟は転覆し、三人は水の中へと投げ出された。

 

 水はヌルリと冷たい。
 川の水が運ぶ黄土のせいで、梁山泊の水はどこか黄色く濁り、視界が悪い。その端々に共に落ちた二人が入っている。一人は――多分戴宗だろう――ジタバタともがいているが、もう一人はすぐにスイスイと泳ぎ始める。慣れた様子。小五だ。
 突然水の中に放り出されたという恐慌も束の間、燕青はそれらの事が分析できるほどの冷静さをすぐに取り戻していた。手足で水を掻き、浮上すれば、何の問題もなくこの間抜けな窮地を脱せられる。
 なのに――

 そうする気が、起こらなかった。

 湖に沈み、呼吸できない苦しさに、体のどこかが危機感を訴えている。それを感じながら、しかし燕青が真に実感するのは、抗いがたいほどの解放感と安堵だった。
 体勢を変え、水底から水面へと目を転じれば、キラキラと揺れ輝く日の光は徐々に遠ざかっていく。

 沈んでいく。

 なのに燕青の心はひどく安らかだ。ほんの一瞬前まで持っていたはずの苛立ちや怒りが、この湖水に溶けてしまったかのようだ。
 気が楽だった。
 呼吸できなくて苦しいのに、この梁山泊を再訪してからずっと感じていた――いや、いつの頃からかずっと感じていた息苦しさが、奇妙なほどに消え失せている。
 背中の痛みも、火傷を冷やした時のように収まっていた。

(――ああ、そうか……)

 ゴボリ。口から吐き出された空気が気泡となって水面へ浮上していくのをぼんやり眺めながら、燕青は穏やかな心持ちで悟る。

 

(僕はずっと……こうしたかったんだ……)

 

 この期に及んで見えた、自分の中の願望。
 燕青は苦笑する。自嘲の笑みを浮かべる。こんな願いを心の奥底に自分にも気付かれないように隠し持っていた自分自身が滑稽で、そして――初めて、愛しいと思った。
 ゴボリと、もう一つ口から空気が漏れる。代わって口に、肺に入り込んでくる水。のっぴきならない息苦しささえどこか心地良く、燕青は恍惚と手を伸ばす。
 水面へ。
 キラキラと美しい光へ。
 このまま水底に沈んでいけば、あの光が掴める。そんな気がして――――――――――――


 不意に割って入った影が、

 燕青の伸ばした手を、ガシリと掴んだ。

 小五。

 抵抗すら思いつかないまま引き上げられ、そして。

 

 岸に這い上がった途端、燕青は激しくむせた。
 口から吐き出される水。吐く度に空気が代わって入り込み、それがまた苦しくて、喘ぎながら何度も何度も咳き込んだ。
「大丈夫か、燕青?」
 砂地に四つん這いになったままむせ続ける燕青の背を、小五の掌が優しくさする。咳は更に激しく出たが、呼吸はだんだんと楽になっていく気がした。
「――戴宗、お前は大丈夫か?」
 少し離れた所へ投げる声音。ようやく人心地がついた燕青は、水と咳と一緒に出た唾液や鼻水を服の袖で拭いつつ、顔を上げる。
 戴宗は、燕青の斜め前で仰向けになって呼吸を整えていた。その切れ切れに、笑えねー、という呻きが混じる。
 小五のワハハッという快活な笑声が、岸辺に響き渡った。
「まあいいじゃん! 皆無事だったんだしさ!」
「おたくに、助けられる、なんて……笑えねー……」
「だったらいい加減泳げるようになれよ、戴宗。教えてやんぜ?」
「……断る」
「何だよ遠慮すんなよ」
「遠慮じゃ、ねぇ」
 吐き捨てて戴宗は上体を起こした。その目は沖の方に向けられている。つられてそちらを振り返る燕青。三人の乗った舟が引っ繰り返り、乗せていた魚籠がプカプカと浮いて、どこかへ流されようとしていた。
「――あーあ、兄ィたちに怒られちまう」
 小五は大して深刻そうでもなく笑い混じりに呟いた。と、

「おい、小五」

 戴宗の方が深刻な声を上げた。何かとんでもない事に気付いた、とばかりに焦った声。実に戴宗らしくない声だ。
「おたく、釣り竿――」
「あー……落っことしてきたまんまだ」
 ま、しょうがねぇ。そうあっけらかんと言い放つ小五に、
「笑えねーだろ! おたく、あの釣り針つけてたんじゃねぇのか!」
「……ま、しょうがねぇよ」
 燕青が視線を戻した先、小五は明るく笑っている。
(――何で)
 燕青は呆然と小五を見つめる。
(何で)
 戴宗は何か言いたげに口を開き、しかし言葉が見つからなかったか、閉ざしてイライラと髪を掻きむしる。
(何で)
「何で、なの」
 その思いが口を突いて出た。
 え、とこちらに目を戻す小五に、燕青は衝動のままに問うていた。
「何で、僕を助けたの」
 あのまま溺れ死にたかったわけではない。そんなつもりは毛頭なかったと、落ち着きを取り戻した今の燕青には分析できる。
 ただ、そう――


 消えてしまいたかった。
 ここではないどこかへ行ってしまいたかった。


 そんな願望が己の身の内に巣食っていた。
 それは破滅的ですらある願望だ。それらを手っ取り早く満たすものが死であるなら、それもまたやむなしと納得してしまう願いだ。
「……僕は、戴宗君の言う通り、梁山泊を朝廷に売ろうと思ってる。何でそんな僕を助けたの。大切な道具を、放り出してまで」
 そんな願いを持った、この梁山泊にとって危険分子である自分と。
 小五にとって大切な物らしい、あの釣り竿。釣り針。
 とても吊り合うとは思えなかった。
 何故自分を助け、大切な道具を捨てたのかが、本当に理解できなかった。
 果たして、小五は、
「だって、お前」
 何を言っているんだ。そう言いたげなきょとんとした顔で、こう続けた。

「手、伸ばしただろ?」

 助けて、って。

「……そういうつもりで伸ばしたんじゃ、ないけど」
「そうなのか? でも友達助けるのに理由なんかいらねぇし」
 と、再び笑う小五。
 快活に。
 空で輝く、太陽のように。


「友達より釣り針選んだら、それこそ父ちゃんに怒られちまう」


「――――僕は」
 彼のまっすぐな眼差しが痛くて、燕青は思わず目を伏せた。
 自分がひどくちっぽけでつまらない存在に思えた。
「君と友達になった覚えは、ないよ」
「うん知ってる」
 あっさりとした肯定の答え。
 責めるでもない恨むでもない、優しくすらある声音。
「でも、俺にとって燕青は友達なんだよ」

 だから助けた。
 それだけだ、と――

 何でもない風に言う彼に、燕青は告ぐべき言葉を持たなかった。
 そんな燕青を励ますかのごとく小五は肩をポンと一つ叩き、立ち上がる。
「あーあ、びっしょ濡れ! ――戴宗、燕青、服脱いで絞った方がいいぜ。このまんまじゃ風邪引いちまう」
「笑えねー。んなまだるっこしい事やってられっか」
「って剣抜くなよ戴宗! そっちの方が後始末面倒だから!」
「あん? 何だよ、ワガママだな」
「どっちがだよ!」
 言い合いながら、二人はさっさと服を脱いで水を絞り、手近な木の枝に干し始めている。この天気と陽気なら放っておけば乾く、という事なのだろう。遅れて燕青も果樹の方に歩み寄った。しかし二人から少し離れた所の木を選ぶ。濡れそぼって肌に貼りつく上衣を脱ごうとして、

 懐から、ずぶ濡れの紙の塊が落ちた。

 ずっと描き込んできた絵図。それはもう、グショグショになり墨も滲んで、絵図としては用を為さない。
 足元に転がったそれを見下ろして燕青が思うのは、どうしよう、というただ一点だった。
 これを、どうしよう。今日まで血道を上げて描き続けてきた絵図。主のために、と頑張ってきた。自分のためでもあった。だが、自分の本心に気付いてしまった今、傾けてきた情熱が虚しい。
 それでもその紙の塊を拾い上げてしまったのは、絵図を描いてきた日々、そこに注いできた力や執念への執着のようなもので。
 破れないように紙を広げ、墨が滲んで奇妙な水墨画のようになったそれを枝に干した。
 それからようやく上衣を脱ぐ。水を絞り、バサバサと振って広げてしわを伸ばし、絵図の隣にかけて干して、

「――すっげぇ」

 不意に小五がそう声を上げた。
 感嘆の声だった。
 振り返れば、小五が、そして戴宗までが、燕青に釘づけになっていた。
 ――ああそうか。違う。自分じゃない。

 背中だ。

「綺麗な刺青だな、燕青!」
「……ありがとう」
 苦笑する燕青。彫り師や盧俊義、他にもこの背を見た物は皆そう言うが、実際どれほど美しいものなのか、彼自身は目の当たりにした事がない。
「すっげぇなー。なぁ、戴宗!」
「……ま、史進の野郎のよりかはいいんじゃねーの?」
「史進のもすごいじゃんか。ああいうの見ると、俺も入れてみたくなる」
「やめとけ。おたくにゃ似合わねぇ」
「そうだよ」
 燕青は同意する。
 そして、暗く付け加える。

「それに……これは、そんなにいいものじゃない」

 え、とやや訝しげにこちらを窺う小五と戴宗に、燕青は薄く苦く笑った。

「これは、値札だよ」

「値札……?」
「僕という商品に旦那様がつけた、値札なんだよ」
 燕青の笑みが自嘲の色を帯びる。
 こんな話をこの二人にする事になるとは、夢にも思わなかった。
「僕は、質流れした質草なんだ。生活に困窮した実の両親が、まだ幼かった僕を金のために質草にした。そして――戻ってこなかった」

 実の両親の事なんてもう何も覚えていない。顔も、声も、名前さえ思い出せない。売られた、捨てられたという意識さえ、薄い。
 燕青は、盧家の商品として産声を上げたのだ。

「そんな僕を、いずれ誰かに高く売るためだろうね。旦那様は様々な芸事を習わせてくれたよ。僕もそれを望んだ。武芸も、歌舞音曲も、各地の方言も、商人同士の符丁も、旦那様の従者を務める事も、全て高く売られるために覚え、こなしてきた事」

 空を見上げた。
 晴れて高く抜けるような青空。黄砂舞い飛ぶこの中華の地で、こんなに空が青いのも珍しい。

 何もかも放り捨てて、どこかへ行ってしまいたくなる。

「この背中の刺青も、そのためのもの」

 ああ。
 そうなのだ。
 背負わされた価値が、値札が、いつからかずっと重かった。重くて重くて、けれどどうしようもなかった。
 商品としての生き方以外、燕青は知らない。
 盧俊義に売られるその時まで彼の所有物として傍らに控える事しか、燕青は知らないのだ。

「稚児なんてものじゃない。父子なんていいものじゃない。
 僕は……旦那様の、商品なんだ」


 吊り上がっていく己の価値が疎ましかった。
 無用のものになりたかった。
 行き場もなく、居場所もなく、誰も自分を必要としない所へ逃げ出したかった。
 出来るわけもないのに。
 背負った値札の重さから、逃げられるはずなどないのに。

 それを思って、燕青は自嘲の笑みを深めた。


 そんな燕青の様子に瞠目して、
「――何だよ、それ」
 小五が、そう呻いた。
 硬く強張って、押し殺しても押し殺しきれない怒りに震えていた。

 

 

 

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