4.飛べずとも、這いずってでも
午後一時――
中天の太陽がギラギラと輝いている。
集った千を優に超す野次馬の視線が注がれる中、広場に設えられた処刑台に一人の巨漢が引っ立てられる。
手枷首枷で拘束された盧俊義であった。彼は、恐れるようでも強がるようでもない、極めて悠然とした様子でされるがまま処刑台に上がった。良く言えばこんな時でも自然体、悪く言えば己の身に何が起こっているのか理解していなさそうな愚鈍さである。
表情をほとんど動かさない盧俊義は無理矢理跪かされた。監斬官が罪状を読み上げる。
「大罪人・盧俊義! この者、梁山泊に集いて民を煽動し朝廷に楯突く凶賊と通じて謀叛企みし事、明白なり! よって法により、ここに斬首に処す!」
見物人から様々な野次が飛ぶ。嘘言ってんじゃねぇ、盧員外がそんな事企むわきゃねぇだろ、何て事を、腐れ役人どもが――野次はだんだんと官を批判する声に変わり、台上の監斬官に向かって石が投げられ始める。警備の兵が動いた。石を投げる者を追い立て、追い払い、その喧騒も収まらぬ中、監斬官がさっさと済ませようと叫ぶ。
「首斬人、これへ!」
首斬り役人が盧俊義の傍に歩み寄る。スラリと抜かれる肉厚の刀。監斬官が合図し、首斬り役人は刀を大上段に振りかざして――
「――そこまでだぁっ!」
刑場に高らかに響いたのは――少年の声。
「そのおっとりメタボは俺らの仲間! 返してもらうぜ、大名府のクソ役人ども!」
監斬官が、首斬り役人が、警備兵が、そして野次馬らが声の主を探す。その内の一人が「あそこだ!」と叫び――広場に面した酒楼の屋根の上を指す。
そこには、六つの人影。
一人は、背負った大剣の柄に手をかけた橙頭の少年。
一人は、蛇矛を携えて結った黒髪の先を風になびかせる青年。
一人は、一対の刀を左右の手にそれぞれ握ったツインテールの娘。
一人は、ペティナイフを指先で弄びながら人を食った笑みを見せる男。
一人は、巨大な金剛杵を肩に担いだ大男。
一人は、二つの金剛杵を手にはめた壮漢。
「な――何者だっ!?」
目を剥き問いを発する監斬官に、橙頭の少年が大剣を抜き払うと同時に背中から何かを取り出し、広げた。
それは、旗。
大旗がバサリッと北京大名府の空に威風堂々とはためく中、掲げた少年は、獰猛で好戦的な笑みと共に高らかにその答えを言い放った。
旗にも大きく記された、彼らの志を。
「――――替天行道だ!」
流星・戴宗。
豹子頭・林冲。
一丈青・扈三娘。
旱地忽律・朱貴。
着天金剛・杜遷。
雲裏金剛・宋万。
天下にその名を轟かす義賊の主力と言える六人が、今、雄叫びと共に楼から跳んで警備兵に躍りかかる!
楼から地に下り立ち、兵と戦闘を始めた戴宗たち替天行道。戴宗の起こす炎が、林冲の起こす風が、杜遷・宋万の起こす雷が兵を薙ぎ払い、打ち漏らした分を扈三娘と朱貴が確実に片付けていく。
見事な連携である。
見事な戦いである。
誰も彼らが陽動などとは気付かない。
――その中、燕青は走り出した。
賊の突然の登場により、刑場は一瞬にして大混乱へと陥っていた。
逃げる人、戸惑って立ち尽くす人、見物を続ける人、賊を討たんとする兵、我先にと逃げ出す兵。押された者の悲鳴、鳴き声、怒号、親とはぐれた子供の泣き声、子供を呼ぶ親の声。
その中を燕青は処刑台へと向かってまっすぐに、人を懸命に掻き分けて進む。主の元に向かって走る。処刑台の傍にたどり着く。
このまま処刑台の警備についたままにするか、それとも賊を討ちに行くか、迷っている様子の兵士らが、人混みから自分たちに向かって飛び出してきた燕青を目の当たりにして驚愕と警戒に目を見開いた。戟を構え、
「なっ……貴様、何の用――」
拳打・啄木鳥。
続けて跳躍してからの、蹴脚・孔雀。
正面の兵を打ち倒し、更に左右から迫ってきた兵二人を、その場に跳び上がって両脚を左右に勢いよく開いて放った蹴りで同時に沈める。異変に気付いた他の兵を適当に打ち倒したりいなしたり投げ飛ばしたりしながら、燕青はついに処刑台に手をかけた。飛び乗る。
「旦那様!」
「燕青君」
三日ぶりの主は、いっそ腹立たしいほどにいつも通りだった。
まったくもう、と悪態の一つも吐いてやりたくなるが、ここはグッとこらえる。強烈な殺気を感じたからだ。盧俊義の、傍から。
首斬り役人だ。
燕青よりも頭二つ分は背が高く、肩幅は二倍近くある。服の上からでも分かる筋骨隆々とした体つき。ほっそりとしなやかではあるが決して弱々しくはない体つきの燕青が、華奢で脆弱に見えるほどだ。
監斬官が絞め殺される鶏のような悲鳴を上げて処刑台から逃げ出す中、燕青は、首斬り役人と対峙する。
時間はかけられない。燕青は迷わず、そして勢いよく台の床板を蹴った。
首斬り悪人に、肉薄。懐に入るのを狙う。
しかしそうするよりも首斬り役人が刀を振り上げる方が速い!
「――ふんっ!」
大上段からの強烈な唐竹割り。刀で物を斬ると言うよりも斧で薪を割る要領で、体重と速度を乗せた刃が、相手の間合いに入った燕青の頭を真っ二つに――
「――――っ!?」
しなかった。
刀が頭を襲う、まさにその寸前。
燕青は踏み出し床につけた方の足の全ての筋肉を動員して、走る勢いを殺し、制動をかけ――体の重心を、後ろに下げた。
刀の間合いから、外れる上半身。
切っ先が燕青の前髪をかすめていく。鼻先さえもかすっていくほどに近い刃に、けれど燕青は目を閉じるどころか瞬き一つせず見る。見つめる。見極める。
そして、刃がその勢いのまま床すれすれまで下りた瞬間、
ダンッ!
燕青は、
刀の峰を、踏んだ。
思いきり。
目一杯に。
唐竹割りの勢いに上乗せされる踏みつけの勢い。さすがの首斬り役人も刀を持っていられなかった。反射的に柄から手を離してしまう。
空手になり、うろたえる首斬り役人。
その隙を、燕青は悠々と衝いた。
「!」
床板を蹴り、今度こそ懐に入る。
拳法の心得が多少あるのか、首斬り役人は迎え撃とうと構え――ようとした。燕青から見れば、その動きはどうしようもなく鈍重だ。
彼は、左右の手を閃かせた。
掌底。
左右全く同時に、同じ強さで、首斬り役人の左右の肋骨の辺りを挟み撃ちにするように打つ。
確かな手応え。首斬り役人はカハッ……と肺の中の空気を吐く。たたらを僅かに踏み、踏みとどまって、薄く笑ってくる。この程度か、そう侮る顔だ。
しかし燕青の動きは止まらない。
やや後退した首斬り役人の懐にもう一歩踏み込んで。
腰の捻りを効かせた右の掌底を、胸の真ん中に叩き込む!
ドンッ!
首斬り役人の分厚い胸板を、衝撃が貫く。よろめいて一歩後退する首斬り役人。打たれた痛みに顔をしかめながら、何だ大した事はない、と打たれたところをさすろうとして――
血を吐いた。
「な……?」
信じられない。そう目を瞠り、手にかかった真っ赤な血を唖然と、愕然と見つめ……――
彼は、そのまま後ろに倒れる。
一度だけ痙攣し、そして事切れた。
――掌打・鴛(おしどり)。
左右にまず一発ずつ、そして真ん中に一発。
一撃一撃の威力は大した事ないが、三発の衝撃の交点には恐ろしいほどのダメージが蓄積される。それは内臓が容易に破裂するほどの威力で――燕青は今、そうして首斬り役人の心臓を破壊したのだ。
燕青が用いる技の中で、文字通りの必殺技である。だからこそ普段は使わず、そのため成功率に少し不安の残る技だ。
巧く放てた事に一つ安堵の息を吐き、それから我に返った。そうだ、ホッとしている場合ではない。まだやる事が。
「――旦那様!」
「燕青君、大丈夫?」
駆け寄って助け起こそうとしたら、
いつもの調子、いや、いつも以上に呑気な声でそう言うものだから、
「っ――そんな事気にしてる場合じゃないでしょ旦那様!」
ゲシッ。苛立ち紛れに一発蹴飛ばしていた。
「大っ体、全部旦那様のせいでしょ! 何で僕の言う事聞かなかったの! 何で捕まったの! おかげで僕は物乞いの真似をしなきゃいけないわ放火魔になりかけるわあいつらに借りを作るわ、散々だったんだからね!」
「うん、ごめんね、燕青君」
と、盧俊義は跪いたまま処刑台の周りを見回す。
戴宗が、林冲が、扈三娘が、朱貴が、杜遷が、宋万が、あちこちで大暴れしていた。大名府の兵や役人らはと言えば、こちらの異変に気付いた者もいるが、六人を抑えるのに必死でそれどころではなさそうだ。
「……戴宗君たち、どうして?」
「僕らを助けに来た、そうですよ」
呉用の命令だ、と戴宗は言っていた。
梁山泊の智多星はこの展開を読みきっていた。いやもっと言えば、この展開を招こうとしていた。接待攻勢の間に「盧俊義と燕青は梁山泊の仲間になった」と噂を流し、大名府に戻れないようにするつもりだったのだという。
しかしそれよりも先に李固が大名府に訴え出た。
状況は梁山泊の手を離れて急転直下した。元々一度は盧俊義たちを大名府に帰し、居場所がなくなった事を思い知らせるつもりでいたが、予想外に危険な状況になった。呉用たちは燕青に「このまま梁山泊の同志にならないか」と直裁に言う他なくなった。
しかし燕青はそれを受け入れず、盧俊義を引っ張って大名府に戻った。
だから盧俊義・燕青救出作戦を即座に立て、そのための人員を動かした。
燕青らが梁山泊を出てすぐに。
『ってわけだから、助けてやるよ』
『それで素直に助けられると思ってるの? というか全部君たちのせいでしょう。「助けさせてください」じゃあないの?』
『じゃあおたく、一人であのおっとりメタボを助けられるわけ?』
『…………』
『おたくが俺たちを信用してないのは百も承知だ。けど今はそんな事言ってる場合じゃねーんじゃねーの?』
「……そっか。良かったね、燕青君」
「何で他人事みたいに言ってるんですか」
と反射的に突っ込んで――燕青は、不意に気付く。
盧俊義が、立ち上がらない。
「……旦那様?」
よく見れば、――判りにくいが――顔色も悪い。
三日の拘束。詮議なしの処刑。だが、そうだ、拷問を受けていないはずがない。
「旦那様、大丈夫ですか? 歩けますか?」
「――燕青君」
「はい」
盧俊義は、こちらを見た。
いつもの通りの、穏やかな顔。
「どうして、私を助けに来たの?」
「……は?」
「別に、良かったんだよ?」
助けに来なくても。
逃げてしまっても。
「……何を、言っているんですか」
燕青は呻いた。
その声が少しだけ震えていたのに、言葉を発し終えてから気付いた。
「僕は、旦那様の従者です」
――そして、商品だ。
「助けに来るのは、当たり前でしょう」
――商品に、己の行く末を決める権利はないから。
――所有者がいてこその商品だから。
『お前は、質流れした品なのだ』
―――――――――――――――――――ああ、背中が。息が。
盧俊義は、そう答えた燕青の顔をしばしジッと見つめ、
「――……ごめんね、燕青君」
そう、ポツリと言った。
いつもの「ごめんね」とはまるで違う、物悲しそうで申し訳そうなその声に、燕青は思わず目を瞠る。
何故、謝られなければならないのか。
何故、そんな、悲しそうな顔をされなければならないのか。
わななく唇を何とか開き、旦那様、そう呼びかけようとした時だった。
「――おたく、いつまでチンタラやってるわけ!?」
怒声が燕青の動きを止めた。戴宗だ。百人近い兵を相手に大立ち回りを演じながら、処刑台上で固まってしまった燕青を怒鳴りつける。
その声で我に返った。そうだ。ぐずぐずしてなどいられない。それに第一、盧俊義には謝ってもらいたい事がいくつもあるのだ。その一つをこなしてもらったのだと思えばいい。
「そういうわけで旦那様、行きます」
だからもう有無を言わせなかった。燕青は盧俊義の前に背を向けてしゃがみ込むと、手枷のはまって輪のようになっているその両腕に首を通した。
そしてその巨体を背負い、立ち上がる。
「――――――――重ぉっ!」
前傾姿勢が戻せない!
膝がまっすぐになるどころかガクガク震えている!
燕青の小さな体が、盧俊義の重みに潰れてしまいそうだ!
「旦、那、様!」
「うん」
「明日、から、ダイ、エ、ットぉ!」
「えー……」
「『えー』、じゃ、ない!」
「ごめん、燕青君」
答える余裕はもうなかった。
巨漢の盧俊儀はその体重も相当で、言うまでもなく燕青の華奢な体で支えきれるものではない。立ち上がっただけでもう限界で、重さに耐えかねた体は早速軋んで悲鳴を上げまくっている。全身に力を込めて緊張させているから呼吸もままならず、顔が異様に紅潮しているのが鏡を見ずとも分かった。
渾身の力を込めて、一歩。
歩く、と言うより、足裏を叩きつけるそれは、ダンッ! と床板を強く叩いて震わせる。それだけで恐ろしいほどのに体力を持っていかれた。盧俊義の巨体を乗せた背筋が、背骨が、二人分――いや、成人男子の標準体重に直すと、おそらく四、五人分――の体重を支える両脚が、限界を訴えてミシミシメリメリと異様な音を立てる。
そんな限界など、無視だ。
負けている暇はない。
更に一歩、また一歩と、遅々としながらも確実に歩を進めていく燕青。処刑台を下りるだけで汗だくになった。あり得ないくらいに息が上がった。
幸いだったのは、燕青に打ちかかってくる兵士が皆無だった事。そういった手合いは扈三娘や朱貴が片っ端から倒していってくれていた。でも彼にこれといった感謝の念はない。援護? 当然でしょ。誰のせいでこうなったと思ってるんですか? 少しでも僕らに対し申し訳ないと思うなら、ほら、向かってくる兵士を――扈三娘の双刀と朱貴のナイフが、今、倒した。
「ちょっとあんた、早く行ってよ!」
「やー、正直邪魔なのよね」
邪魔? 邪魔って、僕らが? ちょっと待ってくださいよ、皆さん誰を助けに来たの。旦那様でしょ? うちの旦那様を助けに来たんでしょ? そりゃあうちの旦那様はメタボでノロくて鈍くてぶっちゃけこんな場所で使い物になる人じゃあないけど、助けに来た相手にそれはないでしょ。って言うかそもそもこうなったのは誰のせいだと思ってるわけ。むしろ貴方方は、旦那様に迷惑をかけた分しっかり償わないといけない立場でしょうが。
――というような事をまくし立てる余裕などもちろんなく、燕青はフラフラと、ヨタヨタと、ノロノロと、しかし着実に刑場から離れていく。指定された方へと向かっていく。
城門の方からも喚声が聞こえてくる。兵士たちを倒し、閉ざされた門を開こうとする軍勢の喚声。替天行道の連中が上げる声だ。
燕青が向かうのは、そちらではない。
城門を攻めているのは、そこに大名府の軍の主力を引きつけておくための陽動。脱出ルートの本命は、
「――燕青さん! こっちこっち!」
刑場となった広場から路地に入っていくつか折れた先にある、運河だ。
そこには既に、城内へ魚を売りに来た漁師を装った阮三兄弟の末弟、あの小五の弟の小七が待っていた。擬装用の魚籠を運河に投げ捨て、手をブンブンと振って早く早くと促す。
歯を食い縛って歩く。背にかかる重みも足に来る疲労も全部無視。一歩、また一歩、燕青さん早く――そんな急かさないでほしいね――、頑張って燕青君――ああもう旦那様は黙っててください――、そして、ついに、
運河の縁に、
舟の中に、
盧俊義の体を下ろして、座らせて、
「――――――――っ!」
その途端に燕青はもう立ち上がれなくなった。全身を、一瞬前まで忘れていた疲労がどこからか引っ張ってきた援軍と共に襲いかかってくる。吹き出る汗。腕も持ち上げられない疲労感。舟の床板に汗の雫を滴り落ちさせ、荒く空気を喘ぐ。顔を上げるのも億劫で、このまま寝転んで眠ってしまいたくなる。
が、
「じゃあ行きます! しっかり掴まって!」
(――え?)
と、顔を上げる暇があればこそ。
――グンッ。
「ぅわっ!?」
フラフラの四つん這い状態だったところに急に後ろへ引っ張る力が加わる。燕青は無様な声と共に転がった。すると背中にボヨンと当たる感触。盧俊義の腹だ。
「大丈夫、燕青君?」
「は、い……」
主に抱き留められたまま、ようようと頷き――
顔に当たる凄まじい突風に絶句する。
いや、凄まじいのは風ではない。
スピードだ。
小七が恐ろしい勢いで舟を漕ぎ、猛スピードで運河を進んでいるのだ。
舳先が、船体が、運河の水を盛大に切る。高速で左右に分かれさせられた水は白波となって高々と宙に舞い上がり、銀に輝く飛沫となって沿道ににわかに降り注ぐ。
目も開けていられないほどの速度。吹きつける風から手で目をかばいながら何とか細目を開ければ、大名府城内の景色が前から後ろへ文字通り飛ぶように流れて過ぎ去った。
これが手漕ぎの舟で出る速度か。思わず盧俊義の体越しに船尾に目をやれば、小七は真剣な面持ちで櫓を操っている。
――いや、いくら真剣に漕いだからって、この速度は普通ないでしょ。
呆然とした心持ちで抱く感想を口にする余裕はなく――舟はあっという間に水門に至り、大名府城外へと出る。
大名府には何本もの運河が流れ込んでいる。今、燕青らを乗せた舟が走っているのはその一つだ。それはは全て同じ川に合流し、東に流れていずれ黄河に、更にいずれ海へと至る。
薄目で行く先を見ていた燕青は、ふと、視界にいくつもの舟が入り込んできた事に気付いた。見回せば、同じく大名府から流れ出す他の運河を同じような速度で疾駆する舟。小七の漕ぐこの舟と同じ方向へ向かうそれらには、林冲が、扈三娘が、朱貴が、杜遷が、宋万が、そして戴宗が、分乗していた。
梁山泊水軍が、ありったけの舟を出して大名府に展開していた同志たちの回収を行なったのだ。
燕青は突風の中だというのを忘れて瞠目した。それらの舟には、他にも花和尚や行者、青面獣、九紋龍、赤髪鬼、他にもたくさんの名ただる好漢の姿がある。
盧俊義と自分の救出。それだけのために、梁山泊はこれほどの人員を投入したというのか。それを察した時燕青が覚えたのは、感動でも感謝でもなく、
――何故?
という疑問、いや、疑念だった。
何故、ここまでする?
何故、これほどまでに自分たちを助け、欲している?
確かに盧俊義と燕青は替天行道のために危うく命を落とすところだった。これくらいしてもらって当然、という意識はある。
だが見方を変えれば、たった二人の救出にこれほどの労力を費やすのはどう考えてもおかしい。過剰だ。コストパフォーマンスが悪すぎる。
何故、ここまでするのか。
それを知るには――喋ってもらう以外、あるまい。普通に説明を要求するか、それとも実力行使で口を割らせるか、どちらになるかはさておいて……どちらにしろ、梁山泊には行かなければならない。
運河が川に合流する。広くなった川幅に水軍の舟が勢揃いし、東へ向かって一目散に漕ぎ進む。
だがどの舟も、この速度で進んでいられるのは時間の問題だろう。漕ぎ手に限界が来る。川の流れは苛立つほどにゆったりとしていて、どの舟にも帆がない。どう帰るつもりだ? 川の両岸から馬で引いて進む、という手はあるにはあるが、どこをどう見渡しても梁山泊軍は馬を連れてきていない。
このままでは大名府の軍の追撃を受ける。それで動じるような連中ではないだろうけれど、その撤退には明らかに殿(しんがり)がいない。これでは敵に後背を襲ってくれと言っているようなものではないか?
危惧を抱いた燕青の目に、一つの人影が飛び込んだ。
中肉中背。
黒いツンツン頭。
それを押さえているバンダナ。
田舎の漁師然とした服装。
そして遠目にも分かる――底抜けに明るい笑顔。
(阮、小五……!?)
進む船団の遥か前方、何故か釣り竿を片手に、梁山泊の短命二郎が堂々と立っていた。
彼我の距離、およそ二百メートル――を、切る。
それを見計らったかのように小五は釣竿をブンッと一回振った。竿に巻きついていた糸が、回転しながら解放される。
その先端が、午後の日差しを受けてキラリと鮮烈に輝く。
……いや。
陽光の反射にしては……糸の先端、釣り針は、随分と長く、淡く、光っていないか?
そして、楽しそうな小五の声が響き渡る。
「よぉ――――っし! 行くぜ、皆ぁ――――!」
釣り竿を、再び振る小五。
手首の捻りを効かせて、釣り針を川面に投じる。
え、まさか、こんな時に釣り? 唖然とする燕青。
そして――ある意味で、それが正解だったのを一瞬後に知る。
釣り針が水中に潜り、それを確認して小五は釣り竿を大きく引いた。一本釣りの要領で。
「行っ……けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
川が、
水流が、
一本釣りされた。
「――えええええええええええっ!?」
たまらず燕青は絶叫した。
一体何だこれは!?
何が起こっている!?
道術!? 手品!? それとも燕青の与り知らぬ何か!? どれにしろ――舟は、上昇する川の流れ諸共に青い空に向かって昇り流れる!
叫ぶ彼の視界の片隅で動きが生じる。放物線に沿って上昇し始めた船団の中から川岸へと高速で移動する影。波乗り板を操る阮小二が、川岸の小五をひったくるように捕まえて波乗り板に乗せると、いくつもの船を追い越して末弟の操るこの舟に横づけした。
そして小五をポイと舟の中、燕青の隣に放り出した。目を丸くして呆然としたまま彼が何で、と声を上げるより早く、船尾の小七が盧俊義越しに労いの言葉をかける。
「お疲れ様、ちい兄!」
「おう、小七もな。兄ィもサンキュ!」
「You’re welcome」
苦笑気味の兄に快活な笑みを向け、小五は、そのまま燕青に向き直った。
「よぉ燕青、頑張ったな!」
「……は」
「でももう大丈夫だぜ。あとは俺が梁山泊まで連れてってやるから。ゆっくり休んでろよ」
「…………」
「お疲れ、燕青」
と――
小五は、握り拳を目の高さで差し出してきた。
何を、と思って、不意に思い出される情景がある。
それは、梁山泊に初めて行ったあの日の事だ。燕青を舟に乗せた小五と、空を飛んでその舟に着地した戴宗。作製の成功を喜んで、二人は拳をポンと打ち合わせていた。
そう、確か、こんな感じに。
半ば無意識に差し出した拳に、小五は己の拳をポンと合わせた。そしてワハハと快活に笑う。
何だ、これ。
戸惑いを覚える中、燕青は、今更のように己が運命の流転を実感した。
川の流れは放物線を描き、頂点に達して下降に入る。あっという間に上がる船の速度。
この分なら、梁山泊には早く着けそうだ。
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