3.拒む懐中


 山の挙げての歓待だった。
 晁蓋と宋江、二人の頭領の挨拶を受けた。手荒な歓迎を詫びられ、聚義庁という山の上の本寨に案内された。入ってすぐの広間にはもう宴会の用意がされていて、頭領・手下入り乱れての無礼講となった。
 盧俊義は大はしゃぎだった。相変わらず顔には出さないが、いつも以上によく食べた。流し込むように食べまくった。燕青を驚かせたのは扈三娘という娘だった。見た目はほっそりとした美少女なのに、これが盧俊義並みによく食べる。必然的にフードファイトとなった。とんでもない事になった。何で二人してそこまで入るの? さすがの燕青も唖然とした。
 人の事をハメてくれた二人にも改めて挨拶された。流星・戴宗と短命二郎・阮小五。どちらもそこそこ知られている名だ。二人の後ろには翠蓮という可愛らしい少女がいて、彼女は小さな猫――もとい、虎を伴っていた。嘘か本当か、戴宗の師匠だという。ニャーでもガオーでもなくブーと鳴くものだから、つい失笑してしまった。危うく顔を引っ掻かれるところだった。
 道士の公孫勝というのがシャボン玉を吹いた。いくつもいくつも吹いた。広間を照らす無数の蝋燭の灯に、それらはほのかな虹色に輝く。綺麗ですね、と燕青は感嘆した。すると公孫勝は、シャボン玉でデフォルメされた盧俊義を作ってくれた。結構似ていたので思わず微笑んだ。似てるねぇ、と言った盧俊義の声は、嬉しそうで、照れ臭そうだった。
 歓待は翌日も続いた。昨夜の暴飲暴食もあって朝食は粥だったが、これもまた美味しかった。朝食のあとは盧俊儀と共に梁山泊の中をあちこち案内された。案内役は杜遷と宋万という古参の同志。杜遷はちょっとアホで宋万は口数が少なかったが、二人は一日かけて燕青と盧俊義に梁山泊の各所を見せてくれた。
 その途中で覗いた練兵場で、見物が展開されていた。あの豹子頭・林冲と青面獣・楊志の決闘である。たまたま傍にいた戴宗と阮小五に聞いてみたら、日に一度はやっているのだという。武に長けた二人の戦いはともすれば舞のようであって、しかしさすがにこれには割って入れないなと燕青は苦笑した。
 その時どういうわけか花和尚・魯智深が乱入した。更に順番待ちしていた九紋龍・史進も飛び入り参加した。蛇矛やら剣やら禅杖やら棒やらが入り乱れるところに、一体何をどうトチ狂ったか、盧俊義が入っていこうとした。戴宗と小五の手も借りて必死で止めた。
 それから湖にも出た。舟を出してくれたのは小五と彼の兄の阮小二、弟の阮小七の三人だ。阮小七は、盧俊義を舟に乗せたあの船頭だった。元々はこの近くの石碣村という所で漁師をしていた彼ら阮三兄弟は舟を操る事に長け、梁山泊をグルリと一周して見せてくれた。湖上からの夕陽はぼんやりと赤に滲んで美しく、燕青も盧俊義も息を飲んで見つめた。
 その日の夕食は魚だった。阮三兄弟が燕青たちを舟に乗せる傍らで釣っていたものである。大名府では獲れたての魚を食べる機会などほとんどない。新鮮な美味しさに盧俊義共々目を丸くした。
 素材だけでなく料理人も素晴らしかった。朱貴という男である。舟の上で盧俊義に蒸籠の中身を勧めていた彼だ。三分で作られる料理は、とても三分で作っているとは思えないほど手が込んでいて、舌が肥えている盧俊義と燕青を魅了した。偽占い師こと智多星・呉用お勧めの孫二娘の肉料理も、大名府で食べた高級で贅沢な料理が霞んでしまうくらい、美味しかった。
 そうして、一ヶ月以上の時を過ごした。
 楽しかった。
 盧俊義はもちろんの事、燕青自身も存分に楽しんだ。


 ――主人を仲間に引き込もうとする、替天行道の必死な接待攻撃を。


 彼らの魂胆はおおよそ解った。
 要するに、なし崩しに盧俊義を絡め取る気なのだ。
 同じ場所で侵食を共にし、梁山泊に拠る者たちの人となりを余すところなく見せつける。向こうが賊でこちらが堅気だからと言って、所詮は人と人との付き合い、一ヶ月もそうしていればお互いに打ち解けるし、胸襟も開くし、馴染みもする。居心地が良くなる。
 そうなると、離れがたくなる。
 ここにいたいな、と思ってしまう。
 そこに「替天行道はいい人たちで、替天行道のやる事は民のためになるいい事」というのが加われば――心は自然と傾いてしまう。
 中々見事な作戦だ。

(――でも、僕がいる)

 呉用に見落としがあるとすれば、そこだ。
 燕青が長年盧家でかぶってきた猫の皮は伊達ではない。ちょっとやそっとの接待で剥がれたりなどするものか。
 歓待に笑って応えながら、その実、燕青はどこまでも冷静で、冷徹で、冷厳だった。
 その冷静さがこれ以上の長居の危うさを告げている。梁山泊に来てかれこれ一ヶ月、大名府では李固がどんな事をやらかしているか知れたものではない。
 だから燕青は、
「――旦那様、そろそろ大名府に帰りましょう」
 そう事あるごとに盧俊義に囁いてきたが、
「……もうちょっと、駄目?」
 と、主はその度に言うので、燕青はそれ以上何も言えずにいた。


 頭領二人と軍師一人から呼び出されたのは、そんな日々に燕青が焦りと苛立ちを覚え始めた頃。
「――何の御用でしょう?」
 燕青はニコリと微笑んで問う。
 断金亭の屋根の下、晁蓋はいつも以上に不敵な様子で、宋江はいつも以上に腹の底を読ませない笑みで、呉用はいつも以上に真剣な面持ちでいた。
 対する燕青は一人である。盧俊義はいない。離れた所に杜遷と宋万がいて、歩哨のように立っている。余人を近付けないつもりなのだろう。
 酒も料理もない卓。酒が入っているように見受けられない晁蓋。燕青を招待しての酒宴、という趣向ではないようだ。
「……単刀直入に言います」
 呉用が口を開いた。厳かな口調だった。

「このまま梁山泊の――僕たちの同志になってはくれませんか?」
「お断りします」

 間髪入れずに応えると、さすがの呉用も鼻白んだ表情を見せる。が、すぐに気を取り直し、
「何故ですか?」
「何故、僕たちが貴方たちの仲間にならなきゃいけないんです?」
「それは……」
「――――我々に、貴方たちが必要だからです」
 口ごもった呉用の視線に促される形で、宋江が答えた。だが、
「必要?」
 燕青は笑う。
 反射的に覚えた感情は嫌悪。だがそれをおくびにも出さずに続ける。
「意味が解りません」
 宋江の笑みが、少しかげった。
 追い討ちのつもりで、続く言葉を選び、発する燕青。
「この一ヶ月、梁山泊を見させていただきました」
「どうだった?」
 と、これまでニヤニヤと笑いながらも沈黙するばかりだった晁蓋。その口調は、悪戯を仕掛けた相手にその感想を聞く悪ガキのよう。
「僕の見た限り、ここは旦那様を必要としているようには思えません」
「ほう?」
 感心の声音は先を促すそれでもある。にこやかなまま燕青は新たな言葉を継いだ。
「あの大食漢の旦那様を一ヶ月以上接待しても、食料や酒に困った様子がない。資金源や資金繰り、物資の調達についてはしっかりしているようですね。あの蔣敬という人のおかげでしょうか」
「よく分かるなぁ」
「伊達に旦那様の従者を務めているわけではありません」
 感心しているような呆れているような、そんな表情の晁蓋にサラリと答え、
「そして、戦闘力などの他の面から見ても、貴方方にとって旦那様が魅力的に映るとは思えない」
 穏やかさの中に刺すような冷ややかさを込め、断言した。
「旦那様は武術などまるで出来ない人です。いざ戦となったら役立たずになる事請け合いです。あの体型ですからね、せいぜい壁くらいにはなれるでしょうが、喋って動く分、壁より役に立ちません」
「……燕青君、酷い事、言ってません?」
「そうですか?」
 首を傾げてみせたら呉用は口ごもった。それから、ああもう、と苛立った声で呻き、
「宋江さん、何か言ってあげてください」
 すると、その声に応じて宋江がまっすぐに燕青を見る。
 燕青は、僅かに怯んだ。

 何もかも見透かされそうな眼差しだったのだ。

 が、その視線が不意に笑みに緩む。穏やかな、包み込むような暖かい微笑が、宋江の面に浮かんだ。
「勘違いしてはいけません」
「……何が、です?」
「我々が同志になってもらいたいのは、盧俊義殿だけではありません。――貴方もです、燕青殿」
 燕青は目を見開いた。
 唖然とした。
 愕然とした。
 同志になってもらいたい――僕にも?
 冗談じゃない。
「……何故ですか?」
 浮かべたままの笑みに冷ややかさが混じったのを燕青は自覚する。
 取り繕う気はなかった。
「そこまでして、何故、僕も欲しいと?」
「それは」
 宋江は微笑む。

「貴方方が、我々の同志になった時に」

 フンッ――

 燕青は鼻で嗤っていた。
 話にならない。
「お断りします」
 きっぱりと告げた。
「何故同志になってほしいのか、それも言えない人をどう信用しろ、と?
 まして貴方たちは、旦那様をハメた」
 そんな連中をどう信用し、この身を委ねろ、と。

 真っ平ごめんだ。

 そんな連中に、必要とされたくなんかない。

 内心の思いを封じ、燕青は優雅さすら漂う所作で礼をした。
「今日まで厚くもてなしていただき、ありがとうございました」
 盧家当主の従者。その立場を全うするために身につけた礼儀作法、言葉遣いは、最早意識するまでもなく出てくる。
「ですがこれ以上の歓待はご無用。明日、北京に帰らせていただきたいと思います」

「――そうか」

 思いの外――
 あっさりと頷いたのは、晁蓋だった。

「残念だが仕方ねぇな。なぁ呉用、宋江?」
「……そうだね、晁蓋」
「無理強いは出来ませんからね」
 どの口が言うのか。盧俊義を食べ物で釣り、梁山泊まで来させておいて。
「だが燕青」
 不意に晁蓋の声が僅かに真剣さを帯びた。
「ここにこれだけ長くいて、それで大名府に帰ればどうなるか――分かってるのか?」
「ご心配なく」
 顔を上げる。
 ニコリと、一分の隙もなく、微笑む。
「北京大名府の盧家を、甘く見ないでください」
 賄賂さえバラ撒けば留守も役人も黙らせられる。それがこの国だ。
「そうか」
 と、晁蓋は、笑う。

 目を瞠るほどに鮮やかに、晴れ晴れと。

「ま、何かあったらまたここに来い。助けてやるからよ」

 何を――
 何を、馬鹿な事を。
 ここに来たせいで厄介な事になるだろうに、そうなったらまた来い、だと?
 そんなにも盧俊義と自分を賊にしたいか。
「お気遣いなく」
 それでも燕青は、完璧なまでの笑顔でそう如才なく答えていた。

 

「さあ帰るよ旦那様!」
「燕青君、もう一日くらい……」
「何言ってるの、もう十分いたでしょ! 商いも待ってるんだから、ほら、ちゃんと歩いて!」
「李固君がちゃんとやってくれているよ?」
「一ヶ月以上も番頭さんに押しつけっ放しでいいと思ってんの!? いいからキリキリ歩く!」

 朝もや立ち込める梁山に、燕青の怒声が轟く。
 出立の朝はやはりすんなり行くはずもなかった。結構ここを気に入ったらしい盧俊義は、まるで駄々をこねる子供のように前に進もうとしない。おかげで首根っこをふん捕まえて引きずる羽目になった。主は体型の通り重い。階段で思わず蹴り転がしてやろうかと思った。
 その衝動を抑えて金沙灘まで下りると、

「よお燕青! こっちこっち!」

 もやがかって薄暗い早朝には何ともそぐわない、やたら滅多に元気な声が聞こえてきた。
 声の発生源は桟橋。視線だけを先にやれば、すっかり見慣れた黒いツンツン頭――小五が、能天気な笑顔で手を振っている。
 燕青はそちらに向き直る。
 そして、ニコリとした笑みを見せる。
「おはよう、小五君。君が渡してくれるの?」
「おう! ほら、乗ってくれよ!」
 その明るい声にイラッとする。そんな自分の心を努めて無視し、燕青は先に舟に乗った。それから主が乗り込むのを手伝う。
 替天行道はいい舟を持っている。盧俊義のような巨漢が乗り込んでも、ちょっと深く沈むくらいで引っ繰り返ったりしない。
 そして小五は巨漢の乗ったその舟を見事に操る。いっそ惚れ惚れするほどの櫓さばきだ。葦の群生や浅瀬の迷路を、舟底をこすらせる事なくスイスイと漕ぎ渡っていく。
「聞いたぜ燕青。仲間になんの、断ったんだってな」
 桟橋から大分離れた頃に、不意に小五はそう言った。燕青は平然と応じる。
「それがどうかした?」
「ちょっと寂しいな、ってさ」
 船尾の小五を振り返った。
 視線が合うと、彼は燕青に少し笑ってみせた。
 明るいが、少しだけ物悲しそうな笑顔だった。
「せっかく友達になれたから、もっと喋ったり騒いだり、色々したかったな、って思っただけだよ」

 友達。

 小五の口から何のためらいも抵抗もなく転がり出たその単語に、燕青は奇妙なものを感じる。

 友達? 誰と誰が? 一体いつの間に?

 確かに小五と、そしてもう一人、あの戴宗とは割りと一緒にいた気がする。
 だがそれだけだ。
 友達などというものになった覚えなんかない。

 そう、にべもなく言ってしまう事も出来たが、
「――そう」
 燕青はあえて曖昧な相槌を打った。
 当主の従者。その役割で培った外面の良さは、このくらいでは崩れない。
「でもしょうがねぇか。燕青と盧俊義さんの居場所は、大名府にあるんだもんな」
「……ええ」
 やはり曖昧に頷く。そして小五や盧俊義に気付かれないようそっと唇を引き結ぶ。
 必要だとか、居場所だとか。


 ……ひどく、息苦しい。


 そのあとは四方山話が続く。小五は盧俊義にも話を振った。主人のやや間の抜けた応答は小五を笑わせ、少しだけ、燕青も口元を緩めた。
 その内に陽は高く昇り、やっと済州側の湖岸に着く。朱貴の店の傍にある桟橋に小五は舟を泊めて、
「ありがとう小五君――ほら旦那様、さっさと上がってください」
「うん燕青君」
「じゃあ盧俊義さん、燕青」
 桟橋に上がった燕青は、舟の小五を見下ろす。
 彼はニカッと笑った。
 頭上で今まさに輝いている太陽のような笑い方だった。
「またな!」


 また。

 また、なんか、ない。


「では、小五君」
 だから燕青はやはり曖昧に応え、頭を下げた。
 気を付けろよー! やたら元気のいい声に送られる心は、何かもどかしさとも苛立たしさともつかない曖昧な感情を持て余していた。

 

 そんな曖昧な感情も、一日経てば収まる。
 北京大名府への道を急ぐ燕青の心には、既に別のものが浮かんでいた。
 不安と焦燥、そして警戒。
 対象は李固である。こそこそと長年に渡って横領を続け、今回やけに張りきって盧俊義に梁山泊へ行くよう勧めた大番頭。彼への信用・信頼など、燕青は欠片も持ち合わせていない。
 果たして、どんな事になっているか。
 主人と従者の不在に、どんな大胆な行動に出ているか。
 まともに、真面目に仕事を全うしているとは燕青も考えてはいない。そんなお人好しの思考を持てるような性格ではない。店の金を大っぴらに横領していたり、主気取りでふんぞり返っていたり――この辺りは可愛い方だろう。許容範囲内だ。
 ――だが、

 もし、身代を丸ごと乗っ取っていたら。

 盧俊義と燕青が梁山泊の賊に通じている、と既に役人に訴えていたりしたら。

(――「これ」がきっと役に立つ)
 燕青は自分の胸を軽く押さえた。そこには一枚の図面がしまわれている。

 梁山泊の防御の状態を描き起こした絵図だ。

 主を守らなければいけない身で、流されるまま替天行道の接待を受けていたわけではない。そう見せかけ、楽しむふりをして、燕青はずっと観察していた――天然の要害・梁山泊の、防御の手薄な所を。
 その全てを記した絵図面と賄賂で、役人に取り入り、容疑を晴らす。
 そしてその上で、堂々と店に戻り、李固を処断する――
 事を上手く運ぶには、

(店の様子を、見てこないと)

 帰途について一ヶ月弱で、大名府に帰り着いた。
 城門から伸びる入城を求める者たちの審査の列を遠目に眺めながら、燕青は思う。
 十中八九、李固は二人を賊の仲間と訴えている。
 自分もそうだが、盧俊義はもっと目立つ風体をしている。このままのこのこと入場の列に並べば、城門警備の兵士たちにあっという間に囲まれて御用だ。
 瞬き一つ分の思考の末、燕青は盧俊義を街道脇の木立に引っ張り込んだ。木々が立ち並んで城門の方からは死角になる茂みの中に主人を座らせて、
「いいですか旦那様、僕が戻るまでここにいてください」
「燕青君、どこへ行くの?」
「僕は……――」
 木々の間から覗く大名府の分厚い城壁を、見上げる。
「旦那様のおやつを、買ってきます」
「――……分かったよ。早く帰ってきてね、燕青君」
「はい」
 燕青は木立を駆けた。
 大名府の城壁に設けられた門は一つではない。しかし旅人が集中しやすい門は限られる。
 だから旅人が集中せず、すなわち警備の手薄な門がある。大名府に育った燕青はそれがどこか知っている。そう遠い所ではない。三十分も走れば見えてくる。
 その門からこっそり城内に侵入する。
 そして、街中の噂や手配書の高札を確かめ、店の様子を見てくる。可能なら店に入り、賄賂用の金を調達する。
 今はまだ昼前だ。出来れば陽が落ちる前に全ての事を為し遂げて、盧俊義の元に戻りたい。
 そんな算段を練る燕青の目に、目的の城門が見えてくる。
 木立の中、潅木の茂みに身を隠し、観察。警備についているのは四人ほどだ。入城しようとする旅人はなし。だから四人の兵は暇を持て余した様子でダラけている。
 腰抜けのような兵が四人。容易いと燕青は口の端に淡く酷薄な笑みを浮かべる。奴らが身構える前に接近し、反撃も許さず一撃で打ち倒し、城内に進入。脱出は、またその時に考えよう。
 茂みに潜んだまま、燕青はグッと足に力を込める。勢いよく地を蹴り、這うように走り抜ける――

 そうしようとしたその瞬間、元来た方からけたたましく鉦を打ち鳴らす音が聞こえた。

 燕青は思わず振り返った。その拍子に腰を浮かし、茂みから顔を出してしまう。が、城門の四人はこちらに気付かない。弛緩しきった様子から一転、泡を食って鉦が鳴らされている方へと駆け出していく。
 燕青もまた木立を逆戻りした。四人をあっという間に追い越し、引き離し、さっきよりもずっと短い時間で主の待つ場所へと戻る。
「――! 旦那様……!?」

 いなかった。
 待たせていたはずの茂みの中に、盧俊義の巨体はなかった。

 いや、いる。

 いた。

 城門の方、

 騒ぎの中心、

 鉦が鳴らされる、そのすぐ傍。


 何故か兵士に取り囲まれて泰然自若と胸を張っていた。


「――な……」
 盧俊義は抵抗らしい抵抗もせず、兵士たちもそれだから戟の穂先を向けるだけで突き出したり打ちかかったりしない。
「な……」
 抵抗しないと見て取ったのだろう。隊長格の兵士が出てきて盧俊義を縛らせる。彼の方もおとなしく、されるがままに縛につく。
 盧員外が、玉麒麟が――ヒソヒソと言葉がかわされる中、彼は、燕青の主人は後ろ手に縛られた状態で十人ほどの兵に囲まれて城門をくぐっていき――

(何やってんの旦那様!?)

 そう、声に出さずに心の中で絶叫するに留められたのは、長年の生活で培った強固すぎる理性の賜物だった。

 

 盧俊義の処刑は三日後と決定した。
 ろくな詮議もないままの処刑は、李固が裏から手を回したからだ。彼は今や大手を振って店の主を気取り、盧家が何代にも渡って築いてきた身代を賄賂としてあちこちにばら撒いて正統な当主を殺そうとしている。
 李固を殺して店を取り戻すか。燕青はその考えを即座に却下した。
 燕青は所詮従者だ。奴僕だ。商品だ。李固は盧俊義を訴えるという手段で店を手に入れた。卑怯ではあるが、これは曲がりなりにも正当な方法だ。盧俊義のいないまま、その無実を証明できないまま燕青が独断専行で店を奪おうとすれば、燕青の方が賊になってしまう。奴僕の言い分など誰も聞くまい。
 大名府の路地の片隅で、物乞いの扮装をした燕青は歯噛みする。こんな状況では、盧俊義を救うための一番簡単な手段――賄賂をばら撒いて処刑から流刑に減刑させ、配流先へ向かう道中で護送役人を殺して盧俊義を奪還して逃走――は取れない。人手も金もないし、李固になびいた店の者たちを見てしまっては、店を取り戻す気も失せる。
 一瞬、梁山泊に戻ろうか、と思った。
(――冗談じゃない)
 かぶりを振って、あるいは鼻先で笑い飛ばしてその手段を捨てる燕青。そもそも誰のせいでこうなった? そいつらに助けを求める? 何の冗談だ、それは。

 頼れるのは、自分だけだ。
 自分一人で、盧俊義を助けるのだ。

 燕青は調べる。
 調べ上げる。
 盧俊義が入れられているのは大名府牢城の死囚牢だ。脱走の手引きを警戒しているのか、何度か差し入れに入らせてもらおうとしたら門前払いを喰らわされた。盧俊義の状態は分からない。忍び込もうにも、警備が厳重すぎてとても無理だ。
 一方、処刑が執り行われるのは城内の中心に近いある広場。見通しはいいが、処刑となると大勢の見物人が詰めかける。その混乱を見越して大量の兵が警備に動員される事だろう。
(さて、どうしよう?)
 件の広場の片隅で、燕青は考える。
 自分一人ででも何とか出来そうなのは、暴動を煽る事だろう。人混みの中、やれ足を踏んだだの体がぶつかっただので相手にいちゃもんをつければ、あっという間に喧嘩になり、それは瞬く間に広がっていく。そうして起こした擾乱の隙を突いて警備の穴をかいくぐり、監斬官や首斬り役人を倒せば、盧俊義を救い出す事はおそらく可能。

 ただ――店を取り戻すよりもずっとずっと分が悪い。悪すぎる。

 いっそ火事でも起こすか。処刑の時刻に合わせて広場に面した酒楼で大火事が起これば、集まった者たちも見物どころではなくなるし、それで起こる騒ぎは暴動の比ではない。
 そうなると必要なのは時限発火装置だ。火事を起こしてから刑場に駆けつけては、騒擾に阻まれ盧俊義の元までいけない。火事は、盧俊義の元に駆けつけるポジションを確保してから起こるのが望ましい。
 その仕組みを考えるだけで丸一日を使ってしまった。
 思いつき、必要な道具を調達している内に更に一日過ぎ、その仕組みがちゃんと働くかどうかも実験できないまま、盧俊義処刑の朝が来た。
 ぶっつけ本番でやるしかなかった。燕青は目当ての酒楼の裏に回り込むと、装置というのもお粗末な仕組みを組み立て、火を――


「――――へぇ」


 つけようとしたその瞬間、割って入る声。
 感心するような、面白がるような、それでいてどこか皮肉げに揶揄する声。
 燕青は反射的に声の方へと向き直り、身構える。
 酒楼の裏を通る細い路地の、入り口。その入り口を塞ぐように土塀に背をもたれさせて立っている影がある。

「面白そうな事やってんじゃん」
「――何で、君が、ここに」

 瞠目して、かすれた声で呻く燕青。


 替天行道の流星・戴宗は、ニヤリと、不敵に獰猛に笑った。

 

 

 

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