2.風切り羽などどこにもなく
「――むむ、そこのお方!」
いささか芝居がかってわざとらしい口調の、若い男の声だった。
春の陽気が気持ちいいからと、盧家から解舗行の会合場所である翠雲楼まで歩いていた時である。太っているくせに意外と健脚な盧俊義がその声でピタリと立ち止まり、付き従う燕青もまた、立ち止まって声の主を見た。
「良くない相が出ていますね! さあこちらへ。観てさしあげましょう!」
道服姿が限りなく胡散臭い、眼鏡をかけた男である。青年といった方がいいのかもしれない。道端に黒い毛氈を敷いた卓を出し、その上に筮竹を置いている。その様子はどこにでもいる、それこそ掃いて捨てるほどにありふれた占い師だった。
燕青はそいつをジッと見つめた。訝しげに観察した。
占い師の隣に、助手なのだろう、道童姿の更に若い男がいる。目を惹く橙頭。死んだ魚のようにやる気のない目をして、その下に隈を作っている人相の良くないそいつは、若い男というより少年だ。燕青と同い歳くらいだろうか。
そいつがのぼりを持っている。それにはこう書かれていた。
『運命判断
見料一両』
(……ぼったくりだね)
思わず鼻で笑ってしまった。大名府における見料の相場はもっと低い。一両なんて金、誰が出すものか――
「――じゃあお願い」
「って旦那様――――――――!?」
巨体からは想像も出来ない俊敏さで辻占い師の元に近寄った盧俊義は、懐から何の迷いもなく銀一両を出して与えてしまっていた。
燕青は、反射的に盧俊義の尻の辺りを蹴った。太った体は燕青の足をボヨンを弾き返して、大した手応えをもたらさなかったけれど。
「何してんの旦那様!? こんな胡散臭い連中に一両も出して、何考えてんの!? って言うか今急いでるんだよ分かってる!? 会食に遅れるつもり!?」
健脚だが足は遅い盧俊義である。どれほどゆっくり歩いても会食に間に合うように、余裕を持って屋敷を出た。だから「急いでいる」は嘘である。占い師から逃げる方便だ。
が、そんな燕青の気など知らずに盧俊義は言った。
「でも燕青君、気にならない?」
「ならない! ――悪いけど僕たちは急いでるの。金は返して」
「では早速占いましょう!」
「人の話を聞け――――!」
無駄だった。眼鏡の占い師は筮竹をザラザラ掻き混ぜ、毛氈の上に広げると――表情を曇らせた。
「――むむ、これは……!」
絶句。何なに? と盧俊儀は子供のような無邪気さで筮竹を見下ろす。顔を上げた占い師は、戦慄の表情で主をひたと見据えた。
「――……よろしいですか、よくお聞きください」
「うん」
「近い内に、貴方の身に恐ろしい災いが降りかかります」
「うん」
「それを免れるためには、東南に赴くより他にありません」
「東南?」
「そうです。ちょうど済州梁山泊の辺りまで――」
「はい、そこまで!」
やや声を張って、燕青は占い師の長広舌を止めた。ハッと見上げてくる彼を冷ややかに睨む。
「何が目的かは知らないけど、うちの旦那様に変な事を吹き込むのはやめてもらうよ」
「変な事なんて――」
「大体、恐ろしい災いを避けるために梁山泊へ? あそこは山賊の根城じゃない。本末転倒だね。何考えてるの? まさか」
と、口の端に皮肉な笑みを乗せる燕青。
「貴方たちが梁山泊の賊で、旦那様を捕まえて身代金をせしめよう、って言うんじゃないよね?」
挑発的な言葉は、もちろん本気で思ってのものではない。
ただここまで言えば、大体は「いえそんな滅相もない!」とすごすご引き下がるものだ。引き下がらなくても、こちらは大名府一の商家・盧家。役人を呼んで捕らえさせるとか、何とでも出来る。
そして占い師は燕青の予想通り、
「いえそんな滅相も――」
「――よく見破ったな」
「ない――って、戴宗君?」
「おたくの言う通り、俺たちは――」
戴宗と呼ばれた道童が、卓と筮竹を蹴飛ばして前に出る。まとっていた衣装を脱ぎ捨てると、その下から現われたのは動きやすさを重視した生成りの上下。
彼は、獰猛で不敵な笑みで高らかに言い放った。
「替天行道だ!」
「ちょっと待った――――!」
泡を食って叫ぶ占い師。が、彼を押し退けて道童こと戴宗は更に一歩前に出た。そしてどこかに隠していた鞘入りの大剣を背負う。
「玉麒麟・盧俊義。おたくを勧誘に来た! 一緒に梁山泊まで来てもらうぜ」
「戴宗君! 困るよ、僕の作戦と指示に従ってもらわないと……」
「るっせ、もやし眼鏡。俺ぁまだるっこしいのは嫌いでね」
「だから君を連れてきたくなかったんだよぉぉぉぉぉぉぉっ!」
と嘆いて泣き出す占い師。何だかよく分からないが――
とりあえず、燕青は、
「……旦那様、ちょっと横にどいて」
「うん、燕青君」
念のため、主を横に退かせて、
一足跳びで占い師との距離を詰めると、蹴りを繰り出した。
――ガンッ!
足に伝わる手応えは確かで、しかし明らかに――人体を蹴ったそれではない。
蹴脚を阻んだ物と人物を見て、燕青の口元に冷笑が浮かんだ。
「――……へぇ」
阻んだのは、道童だった少年・戴宗。
そして、抜き払われた大剣――の形をした、クズ鉄の塊。
「僕の蹴りをとっさに防ぐなんて……やるね、君」
「おたくこそ、女みたいな顔してやるじゃないの」
「ありがとう」
ニコリと微笑みながら、燕青は改めて構えた。同時に相手を油断なく窺う。
戴宗の様子は、初めて見た時から一変していた。
ついさっきまではやる気も覇気も締まりもないだらけた表情でいたのに、今その顔は獰猛で凶悪な笑顔に彩られている。死んだ魚のようだった目にも光が宿り、ギラギラと危険な闘志に輝く。
手練だと、それだけで判った。
二人の剣呑な雰囲気に圧されたか、占い師役の青年が戴宗の傍から離れた。盧俊儀の方は、何を考えているのか、さっき退かせた地点から動こうとしない。
そうして睨み合う事しばし――
二人は、同時に地を蹴った。
先手を取るのは戴宗だ。こちらが肉薄するより早く彼の剣が横薙ぎの剣閃として迫る。
速い。
そしてそれ以上に――何かが燕青の本能に働きかけてくる。
燕青はそれに従った。
すなわち、接近の速度もそのままに、可能な限り身を低くして、迫り来る横薙ぎの刃の下を――くぐる!
――チッ。
(――――っ!)
踊った毛先を襲った感触が、燕青に本能の正しさを教えた。
触れて確認しなくても判る。今、燕青の髪の毛の先が、切れた。
斬られた。
刃のない剣で斬る――何て無茶苦茶な。だが、
(まずは、一発!)
肉薄。
ふくらはぎ、膝、腿に力を入れて、低くしていた姿勢を伸び上がらせる。
僅かな驚きに見開かれる戴宗の目。彼には、燕青が不意に消えて突然湧いて出たように見えただろう。
そんな顔に笑いかけながら、
横をすり抜けざま、隙の出来た戴宗の脇腹に、体重と速度を乗せた突きを喰らわせる!
「戴宗君っ!?」
占い師が悲鳴を上げる中、後方へと吹っ飛ぶ戴宗。だが、
(軽い……!)
突いた手応えが、だ。
当たる瞬間に後ろに跳ばれて衝撃を受け流されたのだ、と気付いたのは、吹っ飛んだ戴宗が空中でやや前傾姿勢を取ったのを見た時。着地と同時に足裏で制動をかけて速度を殺し、燕青との距離を対して開けないまま再び身構えた戴宗の顔には、楽しそうな色がある。
今度はあちらが先に駆けてきた。
詰められる間合い。受け手の燕青は構え直す。
高速の突きが来た。
こちらを刺し貫くに十分な殺気の乗った刺突。だが直線すぎて芸がない。燕青はほくそ笑むと同時に刃をいなすため手を突き出し、
相手のクズ鉄の大剣が、火をまとったのを見た。
「――っ!?」
手品か?
幻か?
どちらにしろ、今から取れる行動は――一つ!
跳躍。
ほとんど自分の背丈ほどの高さまで跳んだ燕青の、その足の下――つい半瞬前まで彼がいた空間を、炎をまとった剣が貫く。
戴宗が中空のこちらをハッと見上げるのと、燕青が攻撃態勢に入るのはほぼ同時。構わず繰り出す。
蹴脚・燕。
身を捻り、腰を捻り、足に遠心力を乗せて、そうして放つ頭を狙った回し蹴りは、
――ガンッ!
何かに阻まれた。すねに当たった感触は硬い金属質で、火傷しそうな熱が伝わってくる。
剣。
一瞬前まで炎をまとっていた大剣を、戴宗は素早く引き戻して盾にしたのだ。燕青が蹴ったのはその刀身だ。
やってくれる。だが、
(甘い――!)
燕青は、
蹴脚・燕を防いだ大剣の刃に、
足首を引っかける。
そして回転の勢いを利用して大剣を飛び越えると、「盾」の内側、戴宗の懐近くに着地。
着地の勢いを殺した足でそのまま地面を蹴った。
「――――!」
拳打・啄木鳥(きつつき)。
戴宗の胴、胸、腹を拳で連打する。骨を軋ませ、筋肉に突き刺さる確かな手応え。しかしそれも三発目からまともに入らなくなった。戴宗はやはり身を僅かに引かせる事で衝撃を逃がし、かつ、その瞬間に出来た空隙に自分の腕を入れ、燕青の拳を防いでいる。
一呼吸分の間に放った十八発の内、まともに入ったのは最初の二発だけ。
何て反応速度だ。
武術の技量そのものは、燕青の方がやや勝っている。だが……戦闘経験は、向こうが上だ。
これは少し分が悪いかも、と、戴宗の斬撃をかわしがてら主の近くまで戻って、燕青は思う。
一方戴宗の方も、偽占い師の傍まで戻っていた。戴宗君。気遣わしげに呼ぶ偽占い師の声を無視し、
「やってくれるじゃん。さすがは河北の玉麒麟の護衛、ってか? ――浪子・燕青」
燕青は眉をひそめた。
名を呼ばれた事に、ではない。
「――護衛?」
口元に笑みが浮かぶ。
鏡で見なくても判るほど、酷薄だった。
「違うね、それは」
戴宗が目を細める。
「僕は旦那様の商品」
相手の様子に構わず再び構える燕青。
「それ以上でも、以下でもないよ」
戴宗にかばわれている形の偽占い師は怪訝そうに眉をひそめ――
戴宗の方はといえば、
「商品……?」
と、胡散臭そうな視線を投げる。
燕青ではなく、盧俊義へ。
旦那様を見ている場合? そう笑って再び距離を詰めようとしたが、しなかった。出来なかったと言う方が正しいか。というのも、
「――おい、何の騒ぎだ!?」
「ん……? ありゃ盧員外じゃねぇか!」
「燕青さんもいる!」
「おい誰か役人を――」
集う人々。聞こえてくる声。偽占い師が戴宗の肩を引いて鋭く囁いた。
「まずい……戴宗君、撤退だ!」
チッという大きな舌打ちと共に肩越しに振り返る戴宗。
「何だよもやし眼鏡、邪魔すんじゃ――」
「却下!」
「却下するかどうかは俺が決める!」
「決めるのは軍師の僕だよ!?」
何やら馬鹿げた言い争いをし始める。
呆れながらも相手の出方を油断なく窺っていた、その時だった。
「――ねえ、占い師君」
盧俊義は偽占い師を呼んだ。というか、
(……占い師「君」って、何?)
それは結局、偽占い師の名前が分からないからなのだが、
「梁山泊に、美味しい物はある?」
………………………………
「はぁ!?」
何を言ってるんだこの人は、と燕青が目を剥いて叫ぶ一方、
「も――もちろんです!」
これを好機と見て取ったか、偽占い師はここぞとばかりに勢いよく頷いた。
「肉もあります! 魚もあります! お勧めは孫二娘という人の肉料理、これは食べなきゃ損ですよ! あと、朱貴という料理人はどんな料理も三分で作り上げ、しかもどれもとっても美味しい! 彼のどの料理がお勧めか、なんてとても決められませんが、少なくとも、外れは決してない事をこの僕が保証しましょう!」
「そっかー……」
と、やたら滅多にのんびりした動作で心持ち上を見上げる。何か、考えている。それを見つめる内に燕青の中で嫌な予感が膨らんでいく。
果たして、それは、実現した。
「――じゃあ、行ってみようかな、梁山泊」
「ちょっと旦那様ぁ――――――――!?」
発作的に怒鳴る燕青。対する盧俊義はやはりのんびりとこちらを見下ろして、
「どうしたの、燕青君?」
「どうしたの、じゃないっ!」
思わず主の足を蹴った。痛い、とさして痛くなさそうに呻く盧俊義。
「何考えてんのさ! 梁山泊!? 馬鹿言わないで、それがどういう事かちゃんと解ってんの!?」
「うん。美味しい物が」
「食べ物から離れろ食いしん坊! そうじゃないでしょ!」
梁山泊といえば、義賊を名乗る替天行道の根拠地だ。去年、この大名府の留守・梁中書が蔡京に送った生辰綱を奪ったり、済州軍の討伐隊を撃退したり、南の方で刑場荒らしをしたり、とその悪名は高い。
その根城へ行く。それはつまり、
「賊の仲間と思われたいの、旦那様!?」
だんだんとその数を増やす野次馬の耳を憚って、小声で囁く。盧俊義は再びうーんと考え込んだ。
そして返す言葉は、
「……でも、美味しい物、食べられるよ?」
「そこから離れろ!」
更にもう一発ゲシッと蹴る。痛いよ燕青君、という声は間延び気味でやっぱりちっとも痛そうじゃない。
そうしている内に野次馬以外の声が聞こえるようになる。やっと役人が来たか。遅すぎる。これだから賄賂を取る事しか頭にない不浄役人どもは。燕青が舌打ちするのと戴宗が舌打ちするのは同時だった。
妙な同調。思わず顔を見合わせると、向こうは分かりやすいしかめっ面をしていた。こちらもそうだろう。
その戴宗の肩を揺すって、戴宗君、と焦りの声を出す偽占い師――いや、梁山泊の軍師。戴宗はもう一度舌打ちすると、剣を構えた。一体何を。
「それでは、美味しい物を用意して待っていますね、盧俊義さん!」
「うん」
盧俊義が鷹揚に頷き――
戴宗が、剣を横薙ぎに振るう。
剣閃をなぞるように燃え上がった炎は壁となり、燕青の、あるいはこちらの背後からやってきた役人たちの行く手を阻む。水を持ってこい! 類焼を抑えろ! 役人たちの怒号が響く中、
「楽しみだねぇ、燕青君」
と盧俊義が本当に楽しそうに言うので、三度目の蹴りをくれてやった。
やっぱり大して効かなかった。
運命は、流転する。
嫌な予感を孕んで、転がり、流れる。
盧俊義の梁山泊行きは決定した。
もちろん燕青は反対した。替天行道がどんな組織だろうと、賊は賊、根拠地に行ったらどんな事になるか分かったものではない。
しかし盧俊義は意志を曲げない。おっとりしているようで、この主は意外に頑固だ。
しかも今回は、意外な――と言うほどではないかもしれない――ところから援護が来た。
「よろしいではありませんか、旦那様!」
李固だ。
まさかと言うべきかやっぱりと言うべきか、李固は揉み手で盧俊義の梁山泊行きを促した。それはもう上機嫌に、喜色満面に。
「梁山泊に巣食う賊といっても、替天行道は義賊として名高い! 彼らによって無辜の民が害されたという話も聞きませんし、彼らと何かしらの繋がりを持っておくのはこの店にとっても良い事ではないでしょうか?」
「そうだねぇ、李固君」
「何馬鹿な事を!」
燕青は怒鳴っていた。表の店にまで聞こえそうな大声だったが、自制する気が起きなかった。
「いい、旦那様、賊の根城に自分から行くって事がどういう事か分かってるの!? そんな事が役人に知られたら――」
「差し出がましい口を聞くんじゃない、燕青」
李固の鋭い口調が燕青の声を止めた。
「お前は旦那様の従者だろう。それなのに旦那様の決められた事に反対などして……――お前の役目は、旦那様に付き従い、お守りする事。旦那様に偉そうに意見する事ではない」
放ちかけていた言葉が、喉の奥で縫いとめられたようだった。
そうしたのは李固の声でも言葉でもなく、燕青を見つめてくる目だ。流れた質草が、と、奴僕風情が、と、燕青を侮り蔑む目。
その、粘り絡みつくような冷ややかさに彼はグッと唇を噛む。ややあって、
「――……失礼いたしました」
固く、呟く。
「従者の分を超えました。申し訳ありません」
そのまま頭を下げた。燕青君? と盧俊義は不思議そうに呟くが、李固がそこから先を遮った。
「分かったのならいい。
さて旦那様、旅に出るなら相応の理由が必要です。向かうのは東なので、泰山詣でのついでに商売、というのは如何でしょう――」
何だっていい。
燕青はもう口を封じられた。李固の口車に乗せられている盧俊義をただ黙って見つめる事しか出来ない。
(……僕は、旦那様の従者)
そして、
(旦那様の、商品)
己の課され、そうあるべく努力してきた二つの役割。
――それが今、飲み込んだ鉄の塊のように胸に重くわだかまり、息を詰まらせる。
燕青は盧俊義と共に梁山泊に向かい、その間、店の采配は李固が取る。そう決まった時も、彼は一切口出ししなかった。
運命は、流転する。
東への旅は順調で、あっという間に済州は鄆城県までやってきた。
梁山泊はもう目と鼻の先である。自分を待つ山ほどのご馳走を思ってか、盧俊義の足取りも軽い。
「よー、来たな、おっとりメタボに女顔」
「来たよ、君たちのくだらない誘いのせいで。――旦那様!」
「何、燕青君?」
「来た道を猛ダッシュ!」
「えー……」
「えー、じゃない! さっさとやる!」
渋々といった様子で盧俊義は元来た道を戻っていく。緩慢に去っていく背中をある程度まで見送り、燕青は大剣を抜いた戴宗の前に立ちはだかる。
そしていつかのように拳と剣を交える。
高速の斬撃をかいくぐり、掌底を、蹴脚を繰り出しながら、ふとした違和感に襲われた。
何かおかしい。
明らかにおかしい。
何故戴宗は、炎を出さない?
その疑問は一つの可能性を燕青に提示する。すなわち、
(――時間稼ぎ……?)
まるでそれに応えるかのように、
空を、鏑矢の音が切り裂いた。
戴宗がそれを聞いてニヤリと笑う。
今のが戴宗への何かの合図なのだと、それで気付いた。
嫌な予感が膨らむ。
「……今のは、何?」
問うた。
素直に答えてくれるとは思っていない。それならそれで、力ずくで口を割らせるだけの事。
が、その予想に反して、戴宗は拍子抜けするほどあっさりと答えた。
「おたくの旦那様をとっ捕まえた、っつー知らせ」
ニィヤリ。笑みが、深まる。
一方の燕青は目を瞠る。そんな、まさか、だって、と。
盧俊義は梁山泊とは逆方向に逃がした。
ここに来るまでの間に伏兵はいなかった。確認済みだ。今も周囲に伏兵の気配はない。
「おたくはどうする、女顔?」
「そんなの……」
決まっている。
燕青は迷う事なく駆け出した。
梁山泊の方へ。
単純な事だ。
もし盧俊義が本当に捕まったのなら、早急に追いついて助けないといけない。
捕まっていなくても、梁山泊の方に行った方がいい。その方が盧俊義が逃げる時間を稼げる。燕青がまだ敵対行為を続けている以上、戴宗はそれを放っておくわけにはいかないからだ。
獣道へと踏み込み、灌木を掻き分け、まっすぐに木立を抜ける。すると目の前に瞠目するほどの広大な大水泊が現われた。
ここが、梁山泊。
そこを一艘の舟が漕ぎ渡っていく。櫓を操っているのは背が高く、体格もがっしりした青年――いや、少年? ――だ。笠を背負い、穏やかな顔つきで、船を湖の真ん中の島へと進ませる。
舟にはもう二人乗っていた。一人はやたらとニコニコ笑っている男。ニコニコとした、しかしどこか油断のならない笑みで、何故か大量に積んである蒸籠の一つを開けて中の点心をもう一人に勧めている。
もう一人――最後の一人、勧められている方。
「旦那様あああああああああああああああああああっ!?」
燕青は叫んでいた。
途中から薄々気付いてはいたけれど、叫んでいた。
まさか、いややっぱり――食べ物につられたか!
盧俊義の元へ行かなければ。行って、蹴りの一つもくれて、連れ戻さねば。しかし、と歯噛みする燕青。どう行けと? 燕青は泳げる。一応は、泳げる。だが水辺で生まれたわけでも育ったわけでもない身だ。得手ではない。
(舟があれば――!)
急いて水際を走った。そうする内に、葦の陰に見えたものにハッとし、続いて喜ぶ。
舟だ。
船頭らしい少年もいる。
「――すいません!」
声をかけると、少年は葦の茂みの中からこちらを見た。
黒いツンツン頭にバンダナを巻いた、燕青と同じ歳頃の少年だ。何事かときょとんとしている彼の舟に断りもなく飛び乗って、
「乗せて! あの舟を追って!」
と、島――梁山へと向かう舟を指差す。燕青の指先を目で追う船頭の少年。先行する船を認めると、こちらにニカリと笑みを向けた。
「おう! じゃあ掴まってろよ!」
燕青は舳先近くの縁に手をかけた。少年は櫓を見事に操って滑るように舟を進ませる。その速度がグングン上がる。頬に当たる風がだんだんと強まっていくのに燕青は微かに笑った。これなら――
と思った矢先、笑みが強張る。
舟が、止まったのだ。
反射的に船尾の少年を見れば、彼は櫓を動かす手を止めている。何で、と責めるこちらの表情に気付いたのだろう、まっすぐな眼差しが笑みに緩んで燕青に据えられた。
「悪ぃ悪ぃ。実は客をもう一人乗せなきゃならなくてさ」
「客……?」
――まさか。いや、そんな。
「――お、来た来た」
少年が空を見上げる。燕青もつられて視線を上へ。
赤い炎が、青天を断ち割った。
それが飛行の軌跡だと理解するのに呼吸一つ分を要した。呆然とする燕青の眼前で、大剣に炎をまとわせて空を翔けてきた橙頭の少年は、船の真ん中に派手に降り立って船頭の少年と笑い合う。
「ご苦労、小五!」
「おっせーよ戴宗!」
そうして伸ばされる手と手。ポンと打ち合わされる拳と拳。
ハメられた、と理解する燕青に、替天行道の二人は快活に、あるいは意地悪く笑って告げる。
「じゃー、俺らと一緒に梁山までおいでいただくぜ、浪子・燕青」
「泳いで逃げようったって無駄だぜ。泳ぐの、俺の方が速いから」
……観念するしかないようだった。
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