お前は、と闇の奥から声がした。


 お前は、質流れした品なのだ。


 それに対し彼は、

『はい、知っています』

 そう、ニコリと闇に向かって微笑む。
 返した声はまだ童子のそれ。脳内に反響したその朗らかな声音で、彼――燕青は、覚醒した。
 押し上げた目蓋の隙間から見えるのは、夜明け前の薄暗さ。それに溶けてぼんやりと見える天井のしみ。
 寝台の上に身を起こす。その拍子に寝乱れた髪が顔にかかり、やや荒っぽい動作で掻き上げられる。
 現われた、少女にも見紛う白皙の面には、造作に相応しくない苛立たしさと陰鬱さがある。
 朝から酷い気分だ。
 夢に見た問答は過去にあった事だ。十にもならない頃に、現在の大番頭に言われた言葉。それに対し何事もなかったかのように笑って返答できた自分は、我ながら賢しらだ。
 思い出すと自然、口元に笑みがこぼれる。この薄暗さによく似合う、暗く自虐的な笑みである。
 ふと、背中にチクリと痛みが走った。
 幻覚だ。今更痛むはずがない。痛む背中に歯を食い縛っていたのは、もう二年も前の事なのだ。
 彼は、寝台から出た。
 与えられているこの部屋は、狭いが一人部屋である。僅かな調度と、当主の従者として見栄えのする少なくない衣装の入った行李の他は、これといった物は置かれていない。意外なほどの殺風景さだった。
 今日着る着物を行李から引っ張り出し、寝巻きを脱ぐ。
 露になった白い背中には、


 目を瞠るほどに見事な、大輪の牡丹の刺青。


 それを意識するほどに背中がチクリチクリと痛む。痛みの錯覚は奇妙な息苦しさをもたらし、それらが端整な顔立ちを陰惨に歪ませた。燕青は手早く着物を着込むと、痛みを置き去りにしていくかのような素早く力強い足取りで部屋を出た。
「あ――え、燕青さん、おはようございます」
 戸を開けてすぐにかかった声は、下働きの下女のもの。最近この屋敷にやってきた彼女は、燕青よりも五つは歳下だろうか、随分と幼い。
 これから向かおうとする先にいる下女に、燕青はニコリと微笑む。
「やあ、おはようございます」
 無垢な童女のごとき笑顔。それは彼が、長年に渡るこの屋敷での生活で身につけた「仮面」だ。それを目の当たりにしてハッと目を瞠り、ほんのりと頬を赤く染めさえする下女の様子を、どこか冷めた思いで見つめ――

 燕青の朝が、始まる。

 

 

浪子

 

 

1.籠住まい


 北京大名府の盧家と言えば、河北でも指折りの大富豪である。
 元の生業は質屋。しかし現在はその他にも酒楼の経営や運送業、官塩の商いまで手広く手がけている。代々の盧家当主が築き上げてきた商売のネットワークは、この大名府の経済を掌握するだけに留まらず、今となっては宋国全土はおろか、北は遼、西は西夏や吐蕃、南は大理や大越にまで及ぼうとしている。
 その頂点に君臨する盧家の当代当主こそ、

「――ねえ、燕青君」
「何でしょう、旦那様」
「お腹空いた」
「一時間前に食べたばかりでしょう」

 燕青の右斜め前方でグゥと腹の虫を鳴かせている間延びした喋りの巨漢――玉麒麟・盧俊義その人である。
 朝の光が燦々と差し込む庭に面した一室に、奇妙に弛緩した空気が流れる。それに憚るように恐る恐ると声を上げるのは、机に着いた盧俊義の前で帳面片手に立ち尽くす男。
「……あの、旦那様……続けてよろしいでしょうか?」
「あ、うん、李固君、よろしく」
 とか言いながら机の上にある呼び鈴――下女を呼ぶための物――を取ろうとしている。
 燕青は電光石火の速さで手を伸ばして呼び鈴を奪うと、男に向かってニコリと笑った。
「お願いします、李固さん」

 刹那、男の面に不興の色が浮かんで消える。

 対する燕青は、笑顔を微動だにさせない。

 そこは相手もさるものだった。たった今僅かに見せた不愉快な感情などなかったように、
「では旦那様、本日の予定ですが――」
 平凡な造作にやや卑屈とも取れる笑顔を貼りつかせ、帳面に記された「本日の予定」を穏やかに述べていく。
 男の名を、李固という。
 先年に盧家の大番頭に上り詰めた、歳の頃三十代半ばの小男だ。小男、というのは体格ではなく性根の話である。
「まず、金陵の崔家漕運の脚店(支店)主より会談の申し入れが」
「うん」
「続いて、解舗行(質屋の同業組合)の会食が翠雲楼にて十二時から」
「うん」
「そして応天府の脚店から荷が届くのが三時」
「うん」
「それと、梁中書閣下から夕刻の酒宴に招かれています」
「うん」
 見事な生返事っぷりである。毎度の事ながら、燕青は主の尻を蹴り上げてやりたい気持ちを禁じ得ない。
「旦那様、如何なさいますか?」
 上目遣いに窺ってくる李固へ、盧俊義は、
「そうだねぇ……」
 とのんびりした口調で曖昧に返し、またしばし考え込む。そして、
「――じゃあ李固君、全部お願いね」
「えっ――」
「こら旦那様――――――――っ!」
 李固が驚愕と微かな――本当に微かな――喜色を表に出すのと、燕青が怒鳴りつけるのとはほぼ同時だった。
「何全部人任せにしようとしてんのさ! 仮にも主がそんなんじゃ駄目でしょ!」
「そう?」
「そう! 少なくとも解舗行の会食と梁中書閣下のお招きには旦那様が行かないと意味がないの! 李固さんに行かせるなんて、先方を怒らせるつもり!?」
 燕青の怒声を浴びて、盧俊義はうーんと唸って再び考え込んだ。
「――……私じゃなきゃ、駄目?」
「駄・目!」
 目と肩をいからせて怒鳴りつけた。三度考え込む盧俊義の腹がグゥと鳴る。途端に頭上から注がれ始めるすがる視線を、燕青は無視した。ふんとそっぽを向く。
 盧俊義の口から、物悲しげな溜め息が漏れた。
「……じゃー李固君、会談と荷の確認、お願いできる?」
「はい、かしこまりました」
「……それで、あのう、燕青君」
「はいはい、僕はもちろん旦那様が行く所にはどこまでもお供しますよ? 従者ですから」
「うんありがと。でもそうじゃなくて……」
 と余りにも情けない声を出すものだから――さすがの燕青も、苦笑せざるを得なかった。
「分かってますよ旦那様。会食までまだ時間もあるし、何か点心でも作らせます」
 そう肩を竦めると。
 盧俊義は、その常に鷹揚な穏やかさを貼りつかせて中々動かない顔に、ちょっとした、しかしとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう、燕青君」
 告げてくる言葉は子供のように無邪気で無防備だ。燕青は苦笑を深めて一礼、盧俊義の前を一旦辞す。
「――では旦那様、私もこれで」
 退出する燕青は背後にそんな声を聞く。続けて足音。それは燕青を追って速くなる。表の店と燕青が向かう先の厨房とは、方向が逆だ。
 そして李固の手がついに燕青の肩にかかった。グイと引かれるまま、振り返る燕青。
「どうかしましたか、李固さん?」
 と、ニコリと笑ってやる。
 間近で向き合う李固の表情には、盧俊義の前で見せていたような鼻につく卑屈さがなかった。代わりに浮かんでいるのは――何か嫌な臭いが漂ってきそうな傲岸の表情。

「調子に乗るな、質草風情が」

 燕青は表情を微動だにさせない。

「旦那様に可愛がられて忘れかけているようだから、思い出させてやろう。
 燕青、お前は質草だ。僅かな金のために親に売られ、質流れしたこの店の商品だ。旦那様のお情けで色んな芸事や武芸を習い、『浪子』なんて呼ばれて調子づいているようだがな、お前は所詮盧家の奴僕だ。商品だ。旦那様の寵愛さえなければ、お前なぞ――」
 李固の言葉が、そこで不自然に途切れた。
 息を飲んだからだ。

 燕青が、口元だけをほころばせたまま、その双眸を錐のように鋭くすがめたから。

「僕なぞ――何です?」
 声の調子は先程と全く同じ。
 しかし奥底にひそむ底冷えするかのような声音に、李固の表情が目に見えて怯む。
「『旦那様の寵愛がなければ』。そうですね、僕は今みたいに暮らしてはいませんね。どこかのお大尽に売られ、こき使われるのが関の山でしょうか?
 でもこう見えて僕は武芸も歌舞音曲も一通り出来ますし、よその地方の方言も商人の符丁も身につけていますから、安く買い叩かれるつもりはありませんし、買われた先でも今と同等以上の待遇を得るため、懸命に媚を売って働きますけれど。自分で言うのもなんですが見栄えもいいですし、やっぱりそんなこき使われたりしないんじゃないでしょうか?」
 李固に、完全に向き直る。
 と同時に肩にかかったままだった彼の手をパンッと払いのけた。その衝撃はそれほど強くもなかったはずだろうに、よろけて一歩退く李固。
「でも李固さん、今の言葉ってちょっとおかしいですよね? 『旦那様の寵愛さえなければ』なんて、まるで旦那様がいなくなってしまうのを前提にしているみたいだ」
 小人然とした李固の顔に、隠しきれない動揺が走る。
 燕青の笑みは、ますます凄絶さを増す。
「ご存知の通り、旦那様はあれだけ食べるのに驚くほど健康な方。持病の一つもないし、男盛りの働き盛りでまだまだ現役。御子もいらっしゃらないからご子息に跡を譲って楽隠居、なんて事も出来ない。旦那様は当分、盧家の当主でいますよ」
 暑い季節でもないのに李固はひどく汗をかいている。それが余りに滑稽で、燕青の嗤いは深まった。
「だから李固さん、滅多な事は言わない方がいいですよ? 余り言うと」


 僕としても、貴方の「内職」を見逃せなくなる。


 李固は今度こそはっきりと青ざめた。まるで死人にでも出会ったかのような表情で燕青を見つめ、震えている。
 対する燕青は、目から鋭さを消してニコリと人当たりの良い笑みを見せた。
「そろそろ店に戻った方がいいですよ、李固さん」
「…………っ!」
 ギリ、と彼の歯を食い縛った音が聞こえた。
 青かった顔は一瞬で憤怒の赤に染まり、視線に物理的な力があるならそれだけで人を刺し殺せそうな鋭さでもって睨みつけてくる。
 しばしの沈黙と、睨み合い。
「――……いい気になっていられるのも今の内だぞ、流れ者の、奴僕の、野良犬風情が……!」
 そんな捨て台詞を吐いて大股で店へと戻っていく李固の背を、燕青は侮蔑と共に見送る。
 口元に、苦笑にも似た嘲笑が淡く浮かんでいた。


 李固の「内職」――店の金の横領については、実のところ、確たる証拠はない。

 その手の帳簿を全て掌握しているのが、そもそも李固自身なのだ。
 それらは確かに盧俊義も目を通すし、燕青も手伝いがてら見させてもらうが、そこで燕青が見出すのは「何かおかしい?」程度の漠とした、気のせいで済ませてしまってもおかしくない違和感のようなもの。家業に大した興味を持たない盧俊義に見抜けるようなものではない。
 そしてその違和感を突き詰めに突き詰めれば、李固が横領している額というのは、おそらく微々たるもの。庶民にとっては非常に高額だが、莫大な盧家の身代がビクともしない額。
 そんな少額の横領を、李固は、最低でも燕青が違和感を覚え始めた二年ほど前から続けている。
 盧俊儀にも燕青にも店の他の者にも決して気取られず、普通なら更に色気を出してもっと多額の金に手をつけえるところを自制して小額に留め、その痕跡を帳簿からしっかりと消している。李固という男は、良くも悪くも小物で、有能だ。

 小物だから、燕青のかまにあっさりと引っかかる。


 フンと鼻で一つ笑い飛ばしてから、燕青はこの件について思いを巡らすのをやめた。
 燕青もまた李固と同じく――いや、彼に輪をかけて有能な少年だが、言われた通り、流れた質草で商品で奴僕で、生まれも不確かな野良犬でしかない。当主に気に入られているから奴僕らしからぬ生活をさせてもらっているのであって、李固の言う通り、その立場は危うい。
 店の金の事にあれこれ口を出す資格などないのだ。
 加えて、盧俊義はそもそも店の金の横領など気にする性質ではない。彼の一番の関心事は、

「――燕青君」

 来た道の方からかかった声に振り返る。
 大して待たせているわけでもないのに、もう待ちくたびれたのか。盧俊義は、その巨大な体を戸口の影に半分隠し、燕青の様子を窺っている。
 まるで子供の仕草だ。
「おやつ、まだ?」
「……はいはい。今行ってきますから、おとなしくしててくださいね、旦那様」
「うん」
 手を振って部屋の中へ追いやれば、主はやはり子供のような素直さで引っ込む。
 僕って、従者っていうより子守り? 自分の発想が笑えるやら笑えないやらで、彼は中途半端な苦笑で厨房へと向かう。
 その途中で不意に気付いた。
(――あの声)

『お前は、質流れした品なのだ』

 今朝夢に見た、闇の向こうからの声。
 かつてそれを言ったのは李固だった。先程燕青をなじった声そのままに、幼い燕青をなじり、蔑んだ。
 だが、今朝の夢の声は、

(誰の、声?)

 李固のものではなかった。
 盧俊義のものでも、店の他のどの者の声でもなかった。

『お前は、質流れした品なのだ』

 燕青は苦く笑う。
 そうだ。自分は流れた質草だ。その記憶もあやふやなくらい昔、生活に困窮した実の両親が燕青をこの店に質に入れた。借り受けた金と共にどこかへ消えた。
 返済期限は過ぎて燕青という質草は流れ、盧家の扱う商品の一つとなった。
 盧俊義の従者をしているのは、買い手がつくまでの繋ぎのようなもの。
 いや、もっと言ってしまえば――宋国有数の大商人の従者を務めていたという実績を作る事で、燕青は己の「値段」を上げようとしている。
 武芸も、歌舞音曲の技も、全てそのために懸命に磨いた。

 ――背中の、刺青も。


『――燕青君、刺青、気になるの?』
『……え?』
『ずっと見てたね』
『…………』
『入れてみる?』
『え――』
『燕青君は白いから、似合うと思うよ』

 ……二年前の、大名府の片隅にある瓦子(盛り場)での事だ。
 道端で相撲をしていた二人の男の、一方の背に彫られた刺青を燕青は見ていた――らしい。今となっては何故そんなに刺青が気になったのか。いやそもそも本当に刺青に注目していたのか、それさえ怪しい。
 かつては「親から貰った体を傷つけるなど」と忌み嫌われていた刺青も、今や立派なお洒落の一つだ。己の体に少しでも自信のある者は、競って体のどこかに刺青を入れ、優劣をつけたがる。
 だから燕青は、

『――じゃあ、お願いします』

 と、ニコリと笑った。それもまた己の値を吊り上げる一助になると思ったから。
 そんなきっかけで盧俊義は大名府一の彫り師を手配し――

 そうして燕青の背に、大輪の牡丹が咲き誇った。

 意識する度にチリと痛む、それこそが燕青の「値札」。
 流れ物の証だ。


 燕青はふと足を止める。中庭に面した廊下から見える空には、白い雲が一つ二つと浮かんでどこかへ流れていく。
(――僕は)
 再び歩き出す。厨房で下女の一人に超特急で点心を作るように頼み、外でしばし出来上がりを待つ。
(僕は、どこに流れていくんだろう)


 流転の運命が、見料銀一両の易者の姿を取ってすぐそこまでやってきているのを、燕青はまだ知らない。

 

 

 

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