水滸伝の編者、羅漢中・施耐庵両先生に拝礼
そもそもこの物語の原型は、魔の領域・ツイッター上でお知り合いになった某方が「小五と燕青の組み合わせに萌える」というような事をおっしゃられたところから生まれました。
ふむふむそんなに萌えるものなのか、と二人をツイート小話で絡ませてみて。あら結構いいんじゃないこの二人、明星本編じゃ何か同い年っぽいし。妄想の酷い駄目オタクの性でそんな事を考える簾屋。じゃあ、燕青の内面をもっと切り取った小話を書こう、と思い立ちました。
しかし構想を重ねるにつれ、「あれ? これ、小話じゃなくてSSの分量じゃね?」という事になり。
気が付けば、「あれ? これってもう中編の分量じゃね?」という始末になり。
個人的にはもう中編フラグを立てたくない簾屋としては、やめておこうかと思っていました。
――が!
確認できてしまったのです。
原典における小五の死亡時期を。
燕青が仲間と共に方臘の元に潜入してから死ぬ、という事を!
原典でそんな、明星に転化すると面白い泣ける事をやってくれているのです。ならこれはもう書くしかない! そうですよね、羅貫中先生、施耐庵先生! 貴方方が生きていた時代から数百年後に生まれた弟子・簾屋が拝礼いたします! 萌えをありがとう!
というような経緯で、この中編『浪子』は誕生しました。
ちなみに書こうと思った一番最初のきっかけは、原典で盧俊義の生業が質屋であると明言されていたのを確認できた事です。この段階で、燕青の「僕は旦那様の商品」発言の意味が「自分は流れた質草である」と解釈できました。
ここでためらっていた簾屋の背を押したのが、上記の事実でした。妄想ってすごい。
ここまでお読みいただければお分かりであると思いますが、この『浪子』は、キャラクターとその心理解析や解釈以外はほとんど原典を下敷きにしております。
盧俊義の商売が質屋である事は、原典で明言されています。
その店に李固という番頭がいて、これが店を乗っ取る事も、原典通りの展開です。
盧俊義が李固に陥れられる事、そのため処刑されそうになり、梁山泊に助けられるのも原典通り。
梁山泊が招安に至るまでの戦の流れ、すなわち童貫を下してから高俅がやっとこ登場、というのも原典のままです。
方臘の元に柴進と燕青が潜入するのも、その最中に小五が戦死するのも、燕青が盧俊義を見捨てて逐電するのも原典そのままの展開です。
しかし同時に、原典とは違う設定、展開もあります。
まず第一に、盧俊義、燕青の加入時期です。原典では二人は晁蓋の死亡後に仲間になりますが、この話では、明星三巻の二年後の光景に燕青がいる事から、明星本編の一年後(一一一三年)に仲間になる、という展開にしました。一年後なので、晁蓋はまだ生きています。
第二に、盧俊義の妻・賈氏。原典ではこの賈氏が李固と不倫をして盧俊義を陥れて店を乗っ取る、という流れですが、明星のあの盧俊義が妻帯者にとても見えず、また、賈氏の存在を盛り込むと物語が煩雑になって蛇足部分が増えるので、思い切って削除しました。
第三に、盧俊義が梁山泊方面に赴くところです。この旅のお供は、原典では李固です。盧俊義と共に梁山泊に拉致された李固は主より先に解放された際に不倫相手の賈氏と結託して盧俊義を大名府に密告するのですが、この物語は一から十まで徹頭徹尾、燕青のための物語なので、お供は彼になっていただきました。ぶっちゃけ大名府のお店でお留守番なんかされてても、話にならねぇ。
第四に、盧俊義の流刑シーンは削除しました。原典じゃ盧俊義は処刑されるんだか流刑されるんだかでその度にピンチになってて何か色々大変なんですが、ええ、そんなのいちいちやってたら話数が増えて仕方ねぇ――って事で、さっさと処刑されかけてもらいました。ついでに、この時楼から飛び降りて助けに入るのは戴宗ではなく石秀って好漢ですが、石秀、出番なかったもんね明星じゃ。あ、翠雲楼はどこかで燃えたかも。
第五に、燕青逐電。燕青逐電は、実は梁山泊軍が都に凱旋する前に発生します。その頃から燕青は盧俊義に「やる事やったんだし、名誉なんか捨ててどっか行きましょうよ」と逐電を持ちかけるんですが、盧俊義は聞かず、これによって燕青と袂を分かちます。燕青はその後消息不明。けれど、ここまで描いてきた燕青がそういう幕引きをするのはさすがにどうかと思い、とりあえず任地にまで付き合っていただきました。それから逐電してもらい、結局盧俊義を助けに行ってもらいました。
しかし梁山泊に拠ってから僅か一年後で大名府炎上事件をクリアできるのか、替天行道。原典通りの展開だと、確かこの前後に関勝襲来があるんだよなぁ……(明星じゃ関勝は水滸迷を慄かせるほどの噛ませ犬キャラと化してしまいましたが、あれで星の序列では上から五番目、林冲を抑えて五虎将のトップだったり方臘麾下の好漢キラー石宝を倒したりで、結構すごい人なんですよ?)。
さて、これだけの長い物語を使って語った燕青について。
明星のイメージだけでなく、絵巻水滸や、ネット上などで創作水滸をやってらっしゃる様々な方の燕青のイメージが少しずつ混ざっているかもしれません(ただし北方水滸の燕青だけは混ざっていないと明言できる)。最近の簾屋は、すっかりにわか水滸迷なものでして(駄目じゃん)(うん、反省してる。でも、簾屋式の燕青を持ってくるわけにはいかないと思うの)(その話はここではやめれ)。
描く上で困ったのは、燕青は自分の居場所が欲しいか欲しくないか、です。
自らを「旦那様の商品」と公言し、あやふやな立場にいる事を暗にほのめかしている燕青。素直に解釈すれば、商品=物としてではなく自分自身として求められ、欲される事を望んでいるように聞こえます。
そんな素直な解釈を簾屋がやるはずがないでしょーよ!(お前は楊志か)
商品につきものなのは購買者。商品を買う人は、大なり小なり、その商品が必要だから買うという事で。
必要とされる事、望むと望まずとに関わらず、否応なく与えられるであろう「居場所」に、与えられる前から倦んでいたら――と、簾屋は解釈しました。
だから『浪子』で描いた燕青は、根っこの部分に「どこか自分の必要とされない場所に行ってしまいたい」という願望があります(この辺りに、絵巻水滸の「浪子の『浪』は放浪の『浪』」が入ってきてしまっているのかも)。
実を言うと、この中編でその願望は本質的に解消されていません。
ただ、盧俊義という恩人、小五や戴宗といった友人たちによって、何とか必要とされる居場所に繋ぎとめられているだけです。
小五の死により、糸が切れた凧のように「どこかに消えたい」願望に従ってしまった燕青ですが、そんな彼を改めて繋ぎとめたのは戴宗であり盧俊義。だから第七話のタイトルは『渡りへ』なのでした。
そんな燕青の人生を彩ってくれた小五、戴宗、盧俊義について。
小五は戴宗に続いて燕青に色々なものを気付かせてくれました。ありがとう小五、君がいなければこの物語は書けなかったよ。というか、私の中で君のカウンセリング能力が半端ないんだ。第五話の無双状態を私は一体どうすればいい。
戴宗は、小五によって少し他人を受け入れられるようになったので、手を差し伸べられる側から差し伸べる側に移っていただきました。戴宗さんも一年で少しは成長したんです。小五の事を友達だと(いささか照れ臭くとも)認められるくらいには。
そして、盧俊義。
このおっさん、『浪子』では何も考えてないミスター食欲として描きましたが、これは仕様です。
『浪子』は燕青のための物語なので、意図的にそれ以外のキャラの視点を盛り込んでいません。だから作中の盧俊義は、何やら妙に可愛らしい天然入ったおっとりメタボにしか見えなかったでしょう。
残念ながらそれは違いますよ。
原典の盧俊義と明星の盧俊義とが合わさって、『浪子』の盧俊義はおかしな事になっています。具体的には、少し病んでいるかもしれません。体じゃないよ、心だよ!
盧俊義が『浪子』作中で何を考え、行動していたか。裏ストーリーとしての盧俊義番外編を書く予定でいます。
どんな代物が仕上がるか、しばしお待ちください。
では、以下は謝辞です。
まずは『緋葬』の由良様。ツイッター上で貴女様が私に下さった燕青の技名の案のおかげで、私は燕青の技を書く事が出来ました。本当にありがとうございました。
続いて、『十五万プラス』のチリトリ様。二〇一一年三月十一日発生の関東東北大震災の混乱の最中だというのにこの中編の更新を始めてしまって不謹慎だったかとウダウダ呟いていた私に、貴女様は「少なくとも私のためになる」と力強くおっしゃってくださいました。更新を続けていく上で、とても励みになりました。ありがとうございました。
そして、ツイッター上にてそもそものきっかけとなった五燕萌えをぼそりと呟かれたしゃ様。この物語は、貴女様の呟きによって生まれました。貴女様に出会わなければ、私は燕青をここまで力いっぱい書いていなかったでしょう。本当に、本当にありがとうございました。
最後に、ここまでお付き合いくださったあなたへ。
そんなこんなで『浪子』、これにて終了でございます。簾屋の妄想がいつになく酷く、そしていつになく長くて読みにくい物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
○参考文献
施耐庵、駒田信二訳『水滸伝1〜8』、筑摩書房、2005〜2006
孟元老、入矢義高、梅原郁訳注『東京夢華録―宋代の都市と生活』、平凡社、1996
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