2.宋江は笑うだけ
(どうしよう――)
雪の溶け残る梁山泊の山道で、翠蓮はパニックになりかけていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう――)
金沙灘から聚義庁までの道を、何度往復しただろう。物影を覗き、茂みを分け入り、道行く人全員に尋ねて、更には地獣星の力で動物たちまで動員して、それでも探し物は見つからない。
「どうして……?」
道端で、途方に暮れて呻く。
「どうして、ないの……?」
パンダのお面、である。
いつの間にか、帯から外れていたらしい――なくなっている事に気付いたのは、二時間も前の事。
それからずっと探し回っているのに、パンダのお面は見つからない。
「どうしよう……もう朱貴さんのお店に、行く時間なのに」
空を見上げた。
日が暮れ、東の方から濃紺の色が迫りつつある朱色の空。毎年恒例、日が暮れてからの翠蓮の誕生パーティの、その開催時間もまた迫りつつある。
今年は凄いんだからねー、遅れちゃ駄目よ翠蓮ちゃん! 去年、林冲を巻き込んで隠し芸(と、言っていいのだろうかあれは?)を披露した扈三娘は、今年も何か企んでいるらしい。今年の犠牲者は……また林冲か、それとも、史進か。
それ以上に、あの燕青が盧俊義に関係あるわけでもないのに「へぇ、誕生日? それじゃあ僕の笛を披露してあげますよ」と言ってくれて、翠蓮はそれをすごく楽しみにしていた。燕青の笛はたやすく聞けるものではない。
主役が遅れた、となれば、あの燕青の事だ、「じゃあ、僕はこれで」とか言って引き上げてしまうかもしれない。遅れたくない。遅れるわけにはいかない。けれど――それと同じくらいに、あのお面は大切だった。
言うなれば、あれは、両親の形見だった。
旅芸人をしていた両親。遺された芝居道具の一つがあのお面だった。村に住んでいた頃の品を全て手放しても、あのお面だけ手放せなかったのは、パンダ模様が気に入っていて思い入れがある以上に、あれは両親の形見だからだ。
どうしよう。
あれがなくなったら――
「ねえ、ねえ皆! 私のお面、本当にない? 本当にどこにもない!?」
木の上、茂みの中、道端、あちこちにいる動物たちに切羽詰った問いを投げかける。
『すまんのぅ、見つからんわぁ』
『ごめんねぇ翠蓮、あちこち見てるんだけどぉ……』
『ま、待ってて翠蓮、すぐ見つけるから』
『でも俺たちでこんだけ探してもない、って事は、マジでなくなっちまったんじゃねぇギャハハハハ!』
「そ、そんな……」
返ってきた雑多な声に、彼女は力が抜けるのを感じた。
ない。
その現実に、足元が崩れていくような錯覚を覚える。
なくした。
めまいがする。立っていられなくなる。
なくなってしまった。
地面にヘタリッ、と座り込んで――
「――おたく、何してんの?」
呆れた口調の聞き慣れた声に、パッと顔を上げる。
「戴宗、さん……」
右手を懐に突っ込んだ立ち姿で、口調そのままの呆れた視線で彼は翠蓮を見下ろしていた。
「こんなとこに座り込んで……――何、腹痛? それともトイレ?」
「ちっ、違います!」
慌てて立ち上がった。バタバタと裳裾についた砂を落とし、
「探し物してたんです。金沙灘から聚義庁の間を何度も見て、皆にも手伝ってもらったのに……全然、見つからなくて……」
言っている内に、肩と視線が落ちた。
大切なお面が、なくなってしまった。その現実が実感と共に翠蓮の背中にひたひたと忍び寄る。
一つ、拠りどころにしていた物がなくなってしまった。
最後に遺された両親の形見が、なくなってしまった。
どうしよう。
今日は誕生日なのに――泣きそうだ。
ジワリ、と浮かぶ涙をサッと拭う。泣いちゃいけない。泣き腫らした目で誕生パーティに行くなんて、そんな事しちゃいけない。けれどこらえようとすればするほど涙は浮かんできて、
「探し物、ねぇ……」
戴宗の気のない呟きに、はい、と小さな声で頷く。
「それってあのパンダ面? おたくがいつも帯につけてた」
そう。あのお面。戴宗に会う前からずっと大切にしていた、あの。
「ふぅん……――そんなに大切なら」
ほれ。
そんな声と共に目の前に強引に出された物に、翠蓮は目を見開く。
「置き忘れとかしてんじゃねーよ、翠蓮」
懐から出したらしい。
なくしたパンダのお面が、あった。
受け取って、思わず戴宗とお面とを見比べる。
「た、戴宗さん、これ、どこで――」
「あぁ? 頭領(ボス)の所に置いてあったってよ」
思い出した。
そうだ。宋江が翠蓮の誕生日の事を聞き、「翠蓮、誕生日おめでとう」とプレゼントをくれたのだ。その時、おや帯が崩れていますね、と言われ、思わずお面を外してその場で直しそうになったけれどまさか男の人の前でそんな事をするわけにもいかず、慌てて部屋に戻って直して――
そうだった。
そうだったのだ。
「何だ……私、宋江さんの所に忘れてきてたんだ……」
それなのに、泡を食ってあちこち探し回って、動物たちにも手伝ってもらって。
冷静になればすぐに分かったはずなのに、ない事に動揺して慌ててしまった。
ああもう、何て馬鹿。笑った拍子に涙がこぼれ、手の甲で拭う。
「ありがとうございます、戴宗さん」
「……別に。礼ならミミズ頭に言えば」
「ミミズ頭って……――そうだ戴宗さん、これから朱貴さんのお店で」
「あー、俺パス。めんどい」
翠蓮は苦笑した。
投げやりな物言い。そしてその言い草。戴宗はいつもこうだ。もう驚く事も少なくなった。
「――分かりました。じゃあ、私行きます」
頭を下げて、金沙灘に向かうべく踵を返す。戴宗が誕生パーティに来てくれないのは毎年の事だ。事前に断られた段階で、翠蓮はそれまでにした。こういうの苦手なんじゃねーの、とは小五が一昨年言った言葉だ。
プレゼントも、お祝いの言葉も、ない。
それでいい。
傍にいられるだけで、もう十分。
「――翠蓮」
その戴宗に、呼び止められた。
振り返る。
戴宗は、珍しく真剣な、しかしどこか戸惑った表情を見せ、
「戴宗さん?」
翠蓮から視線を外す。
口元が、何か言おうと動き――
「――――……肉」
「……え?」
「余ったら、寄越せ」
思わずプッと吹き出す翠蓮。何を言い出すのかと思えば。
笑われ、軽く睨んでくる戴宗へ、翠蓮は頷いた。
「分かりました。戴宗さんの分、朱貴さんに取っておいてもらいますね」
それじゃ、と言い残して翠蓮は再び彼に背を向ける。
――だから、翠蓮は見ていない。
その背中を見送る戴宗が、視線を外し、苛立ちと無念の表情で頭を掻きむしったのを。
そして、彼の胸中に去来した感情を、彼女は生涯ついに知る事はなかった。
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