3.安道全は所在不明
――戴宗……
――戴宗。
――お前は今、幸せ?
――お前は今、笑えている?
ああ……――
ああ、父ちゃん。
俺は今、ちゃんと――――――
そこでドンッ、と腹に衝撃が来た。
「ぐえっ!」
呻いて戴宗は目を覚ます。自室の寝台に仰向けになっての昼寝、死んだ養父に笑いかける事が出来たと思った矢先のこれである。
笑えねーどこのどいつだ俺の昼寝を邪魔してくれやがった奴ぁ。舌打ちしながら起き上がろうとすると、腹の上の何かが落ちないように重心をわざわざずらしながらニカリと笑った。うししししし、とその笑顔に似合わない笑い声つきで。
「……おいこらチビ、何やってやがる」
チビ、こと長男坊(ただいま六歳)は、父親に余り似ていない――そしてどういうわけか、血の繋がらない祖父にとてもよく似た――弾けんばかりの笑顔で戴宗を見下ろし、
「父ちゃん、遊ぼ!」
「……父ちゃんは今忙しいんだ。母ちゃんに遊んでもらえ」
「寝てたじゃん」
「寝てたかどうかは父ちゃんが決める」
「でも父ちゃん寝てたー」
「笑えねーな、チビ。大体、母ちゃんはどうした」
「母ちゃん、鳥とおしゃべり」
どうやら、忙しいのはあちらのようだ。殊情報収集に関しては、地獣星の力でどんな動物とも話が出来る女房に敵う者は中々いない。
『でも、色んな動物たちと話せる分、大して役に立たない話も多いんですよ? 世間話とか自慢話とか、そういうのばかりで肝心な情報って言うと……』
そう、情けなさそうに笑っていたのを思い出す。もう随分昔の話だ。女房と結婚する前、チビが生まれるもっと前、彼女に地獣星が宿って二年くらいした頃――戴宗がまだ、復讐と憎悪に囚われて、夜ごと悪夢にうなされ浅い眠りに苛立っていた頃だ。
――あの頃。
……憎い敵を殺せればいいと、そう思っていた。
そこから後はどうなったって構わないと――何となれば、刺し違えたって構わないと、そう思っていた。
いつからだったろうか。
仇を討って果てるよりも、その先の人生をしっかりと生きたいと、思うようになったのは。
いつだったろうか。
血みどろの闇の中にいた戴宗を、彼女が――翠蓮が手を引いて、光の中に戻してくれたのは。
洪信が殺されて以来避けていた光は涙が出るほど眩しくて、暖かくて、
『大丈夫です、戴宗さん』
その光の中で、翠蓮は微笑んでいた。
ハッとするほどに力強く、美しく。
『私は絶対、貴方を置いて先に死んだりしません』
――その言葉で自分にとって翠蓮がどれほど大切か思い知り、十何年かぶりに泣いたのだった。
「ねえ、父ちゃん」
そんな戴宗の追想を破る息子の声。んー? と気のない返事を返すと、
「今日、母ちゃんの誕生日ってホント?」
戴宗は、窓の外を見やった。
燦々と降り注ぐ午後の日差し。その中で咲き誇る、名も知らない花。知っているのは、その花が春に――ちょうど、翠蓮の誕生日の頃に咲く事だけ。
「ああ」
未だ腹の上の息子の首根っこを掴んで脇にやって、起き上がり、膝の上に頬杖を突いて。
戴宗は、再び思いを馳せる。
それは、翠蓮にも林冲にも扈三娘にも朱貴にも、そして小五や宋江にもした事のない話。
戴宗の胸の中にずっとしまわれている情けない話。
『今日、翠蓮の誕生日だぜ?』
――替天行道が梁山泊に拠点を構えて、一年も経っていない頃。
任務を終えて帰ってきた戴宗にかけられた小五の言葉にどれほど衝撃を受けたか、言葉を尽くしても語り尽くせない。
自覚はしていなかったけれど、多分、あの頃には戴宗はもう翠蓮の事が好きだった。
だから、惚れた女の誕生日も知らず、そしてプレゼントの一つも買って帰らなかった自分に愕然とした。けれどあの頃は何で自分がそれほど衝撃を受けているのかがまるで解らず、混乱したものだった。
その混乱が高じた結果、「もっと食ってもっとでかくなれ」という林冲が激怒するのももっともな言葉が生まれたわけだが――
それから二年。
その頃には、何となく自分の気持ちに気付き始めていた。けれど同時に思ったのは、おいおい笑えねー何で俺があんなガキを、とか、好きかどうかは俺が決める、とか、そんな相当に混乱した事ばかり。
今にして思えば、認めたくなかったのだ。新しく大切な誰かが出来た、という事を。
怖かったのだ。その誰かを認めて受け入れる事が、――また失うのではないか、と思う事が。
それでも任務の途中に立ち寄った街で気まぐれに小間物屋を覗いて女物のかんざしを見て、「これなら、似合うか」とかガラにもない事を無意識の内に考えていて、そんな自分に吐き気がして嫌気が差して、それだと言うのにいつの間にか買っていて気付いて愕然として――
――そして、あいつが。
あのスットコドッコイが。
『戴宗、ちょっといいですか?』
『……何だ、頭領(ボス)』
『これなのですが』
『……あいつのじゃねーか』
『先程、ここに置いていってしまったのですよ。すまないのですが、翠蓮に返しておいてくれますか?』
『はぁ? 何で俺が。笑えねー』
『そうですか、出来ないのですね』
『っ――出来ねぇかどうかは俺が決める! 貸せっ!』
宋江のお節介。彼としては、天邪鬼で素直になれない戴宗に、及時雨の字名のごとく救いの手を差し伸べたつもりだったのだろう。
戴宗は、渡せなかった。
渡せるか。先に「ありがとうございます」なんて言われてしまったのだ。
礼を言われたかったわけではない。ただ、戴宗はその言葉で機先を制された気がしたのだ。
あの時に買ったかんざしは、今も戴宗が持っている。
あれから、渡す機会は結局訪れなかった。替天行道の戦いはあの頃を境に激しさを増していき、翠蓮に限らず誰かの誕生日を祝う、なんて事は出来なくなっていった。誕生日おめでとう、の言葉さえ言う余裕もなくなった。
そしてあの時に買ったかんざしを、今更渡すつもりはなかった。長い事磨かずにほったらかしていたから、銀はすっかり曇ってしまっている。それ以上に、長い間渡せなかったプレゼントを久しぶりに祝える誕生日に渡すような、甲斐性なしの男になるつもりはなかった。
新しいプレゼントはもう買ってある。デザインは控えめだが翠蓮に似合いそうな、翡翠と金の耳環だ。
それから――
ずっと、言えなかった言葉を。
ちゃんと言ってやんねーとなぁ、と思いながら、ズルズルと今日まで来てしまった言葉。それを、今日こそ言ってやるのだ。
「誕生日って、美味いもん食えるの?」
戴宗にとっては思うところが山ほどある翠蓮の誕生日だが、チビにとっては馴染みのないイベントだった。遼軍、田虎、王慶、そして方臘――子供たちが生まれる前後から替天行道は梁山泊を離れて転戦を繰り返していたから、子供たちは美味い物以上に一家団欒に飢えている。
「ああ、腹いっぱい食えるぜ」
「ホント!? 朱貴っちゃんの豚マンとか!?」
「豚マンはねーな」
そもそも朱貴は、今この村にはいない。だからそう言ったのだが、「美味い物=朱貴の豚マン」という図式が出来てしまっているらしいチビはしょげて肩を落とす。
その姿が余りに分かりやすくて、戴宗は思わず笑った。
「朱貴のメシはねーけどよ、その代わりに五人で美味いもん食いに行くぞ。村外れの酒店、結構美味いメシ出すらしいからな」
「おれ、豚の丸焼き食いたい!」
「お? お前一人で食えるかぁ?」
「食えるよ!」
「朱貴のメガ豚マンは食いきれなかったのにか?」
「あれ、おれ一人で食えたもん! ……ちょっと、食べるの疲れたから、休んでただけだもん。そしたら母ちゃんが食べたげる、って」
戴宗は鼻で笑った。気に入らなかったか、息子はブクゥッと頬を膨らませる。
「何だよ父ちゃん!」
「そりゃボケッとしてたお前が悪い。大体母ちゃんは今食い意地が張ってんだから――」
「誰が食い意地張ってるんですか!」
部屋の入り口から不機嫌そうな声が響いた。
チビはビクリと身を竦ませ、戴宗はそれとは対照的に悠然と視線をそちらに向ける。
「しょうがないでしょ、今は二人分食べなきゃいけないんだから! それとも何ですあなた、控えめに食べて母子共に飢えろ、と? 冗談じゃありません、お腹の子の分までちゃんと食べて栄養取れ、って安道全医師にも言われてるんです!」
「……っせーぞ翠蓮、チビがびっくりしちまってるじゃねーか」
息子曰く「鳥とおしゃべり」していた恋女房の翠蓮は、薄紅色の裳裾を大きく突き出させる臨月の腹を支えるようにして、寝台まで歩いてくる。よしよし、ごめんね、と苦笑気味にチビの頭を撫で、
「それよりあなた、ちょっと大変です」
「――どうした?」
「金軍が南進を始めたみたいです」
ついに来たか、と戴宗は思った。燕雲十六州を金に取り返してもらったのに、約束したはずの貢ぎ物を踏み倒そうとしている宋に、とうとう金は業を煮やした。「支払い能力がないのを見越して高い報酬を吹っかけ、支払いが滞ったのを口実に宋に侵攻する気でしょう」というのは、呉用と朱武が分析して出した答えだ。
「じゃー、そろそろ俺たちの出番か」
戴宗を初めとする替天行道の同志の内の何人かがこの近辺に潜んでいるのは、南進してくるだろう金軍に対する防衛線の構築のためだった。
替天行道が梁山泊を拠点としたあの頃。あの頃より更に腐って、放っておいても倒れていくだろう宋を、守りたいわけではない。
北からやってくるよそ者に、自分の国を踏み荒らされたくないだけだ。
自分と、翠蓮と、そして子供たちが生きていく、この大地を。
戴宗は寝台から降りた。あれ、父ちゃん? 息子の声への答えもそこそこに翠蓮と向き合って、
「頭領(ボス)んところと、坊ちゃんのとこと、クソ坊主のとこと、あと李俊のヤローのとこか? 翠蓮、鳩出しとけ。俺ぁ時遷と合流する」
すぐに動かなければいけない、というほどではないが、早めに動いて置いて損はない。時遷と共に情報を探るのが、替天行道の情報探査役の戴宗と時遷の仕事だ。
分かりました、と頷く翠蓮は、不意にところで、と話題を切り替えた。
「それはいいんですが、あなた」
「何だ、翠蓮?」
返しながらながら、部屋の壁に立てかけて置いた伏魔之剣を背負おうとして――
「生まれそうです」
サラッと告げられた言葉に驚いて思いっきり取り下ろした。
ガランッ。けたたましい音を立てて床で跳ねる養父の形見には最早目もくれず、戴宗は目を見開いて妻を見た。
「何、だと?」
「さっきから何かお腹痛いなー、と思ってたんですけど、陣痛が来ちゃったみたいです。どうしましょう、安道全医師は今往診でいないのに」
「もうちっと焦れ! 顔色変えろ! 何でケロリとしてやがる!?」
「え、え、母ちゃんどうしたの? ジンツーって何?」
「もうすぐ赤ちゃんが生まれる、って事よ」
「笑って説明してる場合じゃねーだろっ! ――そうだ、チビ医者! あんにゃろうは今どこだ!?」
「だから往診ですよあなた。それに落ち着いてください。すぐに生まれてくるわけじゃないんですし」
「陣痛始まって落ち着いてられっかぁ!?」
「四度目ですよ? それにあなたが生むわけじゃ――あ、陣痛の感覚、ちょっと早くなった?」
「すぐ生まれそうじゃねーか!」
「え、生まれるの? 生まれるの? 男? 女?」
「どっちがいい?」
「おれ、男がいい! 弟欲しい!」
「じゃあ、男の子が生まれるといいねアイタタタタタタ」
「っ――待ってろ翠蓮、今安道全の奴連れてくっから! だからそれまで産むな、ってか戻せ! 気合いで引っ込めろ!」
「無茶言わないでくださいあなた、そんな事言っても生まれてくるものは生まれてくるんです」
「すぐ生まれるかどうかは俺が決める!」
「いえ、決めるのはあなたでも私でもなくこの子ですから」
「おーい早く出てこいよー。一緒に遊ぼーぜー」
「促すな! 促さないでお前は母ちゃんについてろ! ――いいか、待ってろよ、連れてくるまで絶対に産むんじゃねぇぞ!」
「あーもう……分かりました。努力はしますから、早く探してきてください」
「任せろ!」
戴宗は部屋を飛び出した。その勢いのまま家の外へ、そして伏魔之剣を取り出して村の空へと翔け上がる。
待ってろ。
待ってろ、翠蓮。
すぐに安道全を連れてってやるから。
だからそれまで、もうちょっと頑張れ。
――動転する戴宗はもう忘れている。
妻の誕生日も、用意したプレゼントも、伝えたい言葉も。
それはもしかしたら、「好きだ」よりも「愛してる」よりも、ずっとずっと伝えるのが難しい言葉。
いてくれて、ありがとう |