5.天罪の声
小五は見た。
戴宗の剣、ボロボロでクズ鉄の寄せ集めのようなあの伏魔之剣が炎をまとい、その形を変えたのを。
その炎が、ゴオオオオオ……――という恐ろしい唸りを上げ、木々を、雑草を焼き、戴宗を包み隠して赤々と天を焦がすのを。
肌を、髪をチリチリと灼き、僅かに吸い込んだだけで鼻や口の粘膜が火膨れを起こしそうな熱気と熱風。安道全を肩に乗せた薛永が大慌てで小五の傍まで退いてきた。
「……これは、どういう事じゃ?」
何が起こったのか、安道全も掴みきれていないらしい。幼くして優秀な医師である彼が途方に暮れたように呻くのを、小五は初めて聞いた。
「――何だこりゃあ?」
背後から聞こえてきたのは、やはり唖然とした、しかしやや力強く張りのある疑問の声。小五と安道全と薛永は同時に振り返った。
「晁の旦那!」
一体どうしたのか、帰ったはずの晁蓋が呉用と共に燃え盛る火柱をぽかんと見上げている。更にその後ろから、
「ちい兄、何だよこれ!」
「何があった!?」
小七と小二が駆け寄ってくる。
図らずも北斗七星の内六人が集結した。晁蓋は珍しく厳しい表情を見せ、問うてくる。
「こりゃ、一体何なんだ?」
「……分かんねぇ」
小五はかぶりを振る。
再び火柱を見上げ、一歩後退りし、恐慌に陥りかけて声を震わせる。
「分っかんねぇよ! 戴宗が、『一人でいい』って……!」
「戴宗が……?」
「――わしじゃ」
眉をひそめた晁蓋へ、安道全がポツリと告げた。
「医者として、わしはあやつが心に抱えるものを放っておけんかった。自分の体の状態を無視して出ていこうとしたから、荒療治を試みた」
「……まさか、その結果がこれだ、と?」
信じられない、と言わんばかりに、呉用。安道全はゆるゆるとかぶりを振り、
「わしにも分からぬ」
「――なら、考えるのは後回しだ」
炎を睨み上げ、晁蓋は強い口調でそう言った。呉用に目配せすると、彼の方も心得た様子で頷く。
「この様子じゃ村に類焼するのも時間の問題だ。だから皆、急ごう。
晁蓋は僕と一緒に保正さんの所へ。村の人たちの避難に保甲(自警団員)を出してもらおう。小二君、小五君、小七君は保甲に合流、飛び火して燃え始めた家の消火に回ってくれ。安道全医師と薛永さんは怪我人の治療をお願いします」
てきぱきとした口調にそれぞれが了解の意を口にする。その中で晁蓋が逸早く動いた。
「よし行くぞうおぁっ!?」
「ってどうして君はこんな時に何もない所で転ぶかな!?」
呉用は的確に突っ込み、
「薛永、行くぞ」
「アイサー!」
安道全と薛永は転んだ晁蓋を踏んで飛び越えて村の方へと駆けていき、
「だい兄、ちい兄、俺たちも!」
「OK。――小五?」
小二も小七も踵を返して村に戻ろうとする中、小五だけがただ一人、立ち竦んでいた。
巨大な炎を前にして、ただ、呆然としていた。
安道全の事情説明も、呉用の指示も、聞いていなかった。ただただ見開いた目で真っ赤な炎を見続けていた。
「小五、何してる?」
肩に手がかかり、引かれる。動かない弟を不審に思った小二がやや乱暴に振り向かせようとしているのだ。しかし小五は振り向かない。どんどんと膨らんで大きくなる火柱から目が離せない。
そうして、呟く。
「――――泣いてる」
「What?」
「戴宗が、泣いてる」
小二の声に答えるでもなく呟いた小五の耳には、確かに聞こえていた。
ゴオオオオオオオオオゥゥゥぅぅうわああああああああああああ――――――――
ああ、泣いている。
戴宗が、泣いている。
やっぱりだ。
小五が感じていた通りだった。
戴宗は泣いていた。きっとずっと泣いていたのだ、あの日から。涙を流さなかっただけで、心の中でずっと、ずっと……――十年も前から。
十年前。
あの日、戴宗は泣いていた。洪信を目の前で殺されて、全身を振り絞って泣いていた。今も小五が時々夢に見る、あの、こちらの胸まで締めつけられる慟哭の声。
ああ、そうだ。
俺はあの時、戴宗の傍にいなかった。いてやれなかった。
友達だったのに。
あいつと、友達だったのに。
小五は手を強く握り締める。
掴んでいなければいけなかったのだ。
離してはいけなかったのだ。
どれだけやばくても、危険でも、母や兄に何か言われても――小五は、あの日、あの時、戴宗の傍に行って、手を握ってやらなければいけなかったのだ。
声をかける必要はない。
気の利いた言葉を紡ぐ必要もない。
ただ愚直に、馬鹿正直に、泣く戴宗の傍に寄り添ってやらなければいけなかったのだ。
(『一人でいい』? ――……嘘吐くなよ、戴宗)
渦を巻く炎を見つめる小五の目に、涙が浮かぶ。
(だってお前――――泣いてんじゃんか)
ザッ。
小五は一歩踏み出した。
炎へ。
戴宗の元へ。
しかし、
「Stop!」
肩をグイと強く引かれた。手を引っ張られた。
肩越しに振り返る。目を怒らせた小二と戦慄した表情の小七が、それぞれ小五の肩と手を掴んでいた。
「どこへ行く気だ、小五!」
兄が怒鳴る。
「まさか、炎に飛び込むつもり!?」
弟が悲鳴じみた声を上げる。
「……離せよ、兄ィ、小七」
二人の強い力に抗って、小五は呻く。
それはすぐに叫びに変わった。
「離せよっ! 戴宗が泣いてんだ! 俺は、あいつんとこに行ってやんなきゃいけねぇんだ!」
「――Idiot!」
無理矢理向き直らされた。そして、
バキィッ!
頬を、殴られた。
衝撃に首が勢いよく横に振られる。拳がめり込んだところが熱を持ち、それが脈打つような痛みに変わっていった。小五は目を見開いて、殴られたところを押さえて小二に顔を戻す。
兄は、今まで小五が見た事ないほど顔を怒りの色に染めていた。鋭く吊り上げた目がこちらを睨み据える。
「頭を冷やせ、小五!」
その怒声が小五を打つ。拳よりもずっと強く、激しく。
「戴宗の所に行かなきゃいけない? どうやってだ! あの炎の中を、どうやって行ってやるつもりだ!?」
「それは……」
「死にに行きたいのか、馬鹿野郎! そんな事、俺は許さないぞ!」
でも、と小五は火柱を見る。
火の大きさは、勢いは、どんどんと増していく。
それと比例して、行かなきゃ、という気持ちも増す。怯み、恐れる気持ちは不思議なくらいに小五の心の中に湧いてこなかった。
しかし小二の怒鳴り声で僅かに冷静さを取り戻した彼は、同時に思う。
――どうやって?
どうやって、戴宗の傍に行けばいい?
普通に突っ込んだらあの炎に焼かれる。それは駄目だ。戴宗に何もしてやれないまま燃え尽きるなんて最悪の事態を選ぶわけにはいかない。
勢いよく突っ切れば、と考えてそれも駄目だと小五は却下する。炎の壁の厚さがどれくらいか分からない。薄いなら火傷だけで走り抜けられるが、こっちが考えるよりずっとずっと厚かったらやはりただ燃え尽きるだけだ。
(……無理、なんか?)
絶望にも似た認識が小五の足元から這い上がってくる。自分は、何の力もない自分は戴宗の傍に行ってやる事が出来ないのか。
出来ないのだ。
小五はうつむき、目を硬く瞑った。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
十年前みたいに、何も出来ないでただ見ているなんて、絶対に嫌だ。
何もしないであいつを一人にしちまうなんて、死んでも嫌だ。
力が欲しい。
戴宗の所まで行ってやれる力が欲しい。
戴宗が、また泣いてるんだ。
俺、あいつの傍に行ってやらなくちゃ。
あいつの傍に行って、それで……――
目を、覚まさせてやんなきゃ。
――その時、小五の閉ざされた暗い視界が不意に鮮やかな光と色で彩られた。
それは白い風景の中に佇む二つの人影だった。そして彼は、自分もまたその白い風景の中にいる事に気が付く。
二つの人影を見て、目を見開く小五。
懐かしい人たちだった。
もう二度と会えないはずの人たちだった。
二人は笑っていた。一人は優しく柔らかく、もう一人は力強く豪快に。
優しく微笑んでいる方が、申し訳なさそうに笑みを深めた。
『……ごめんね、小五君。うちの戴宗が迷惑かけて。――あの子を、よろしく』
優しい鍛冶屋の隣、豪快に笑っていた方が手を軽く掲げた。
何か、キラキラ光るものが握られている。
『行け、小五』
それがこちらに向かって放られる。
真っ白な中空に綺麗に描かれる放物線。キラキラと光るそれに、小五は両手を伸ばす。
キャッチ。
『ダチのために命を張る――それでこそ、阮家の男だ』
うん。
分かったよ、洪信さん、父ちゃん。
そこで幻視は終わる。
それは白昼夢か幻覚か。ハッと我に返った小五にはにわかに判断がつかない。顔を上げれば兄はまだ目を怒らせていて、小七は今にもどうにかなってしまいそうな心配顔で村の方にチラチラと視線を向けていて、そして戴宗を包む炎はその勢いを衰えさせようとしない。
「小五……?」
不意に押し黙って硬直し、それからキョロキョロしだした小五に対し、小二は訝しげな言葉を投げる。だが小五は聞いていなかった。開いた両手を見下ろす。幻視の中で父から受け取った何かは、もちろん、あるはずがない。
だが、何かを受け取った。
何か、大切なものを受け取ったのだ。
その確信が訪れた時、小五の目に留まったのは――
帯に引っかけたままの、形見の釣り針。
(――これだ)
それは根拠のない確信。
(これで、行ける)
小五は頭のバンダナを外した。押さえていた髪が落ちてくる。しかし気にも留めずに外したそれを手に巻き始めた。半分ほどまで巻いたところで、帯から針を外す。
それを手に巻いたバンダナの上に乗せ、その更に上から残りのバンダナを巻いていく。
拳を握る。
そうして、兄と弟を見やった。
「――ごめん、兄ィ、小七」
決然とした口調に、二人は目を見開いて呻く。
「小五、お前」
「ちい兄」
視線を外す。
転じた先は――横手に広がる広々とした水面。炎の橙に染まった石碣湖だ。
「俺、行かなくちゃ」
「っ――待て、小五!」
小二の制止の声を、振り切った。
湖に向かって走る。
地面を蹴る。
跳躍。
――ドボンッ!
盛大な水音と水飛沫を立てて小五の体は石碣湖に沈む。炎にあぶられ火照った体と、小二に殴られて熱を持った頬を湖水が冷やしていく。
水を蹴る。暗い水中を泳ぐ。しかしそれも短い距離。小五はすぐに岸に上がった。服も髪もびっしょりと濡れ、全身から水がしたたり落ちて地面を湿らせていく。
手に巻いたバンダナも、重く、冷たい。
これでいい。
これで準備は整った。
小五は走り出す。
今度こそ炎に向かってまっすぐに。
近付くにつれて灼熱の様相を帯びる空気に構わずに。
熱気や火の粉で燃え出す木立ちを一顧だにせずに。
そして。
もう間近に迫った炎の赤さに、怯む事なく。
小五は、特攻する。
――この拳が、届けばいい。
炎の向こう、小五は揺らめく人影を見出す。
――この拳だけ、届けばいい。
左の足に力を込めて、踏み切り。
再びの跳躍。
炎の渦の中へ。
――この拳さえ届けば、
――この思いさえ届けば、
あとは、どうなったって構わない。
小五はバンダナを巻いた――釣り針を握り込んだ右拳を繰り出す。
その右手が光を宿し、水をまとい、更に石碣湖から湖水を引き寄せる。
右手の甲で一際強く輝く光。
「罪」の文字。
小五の繰り出した拳が炎に触れた瞬間、炎の熱によって小五の引き連れた膨大な水が一瞬にして真っ白な蒸気へと変化する。
水蒸気爆発が、起こった。
§
――炎の中で、戴宗は声にならない叫びを上げ続けていた。
「――――っ!」
戴宗の動きを封じていた背後の木は既に炎で燃え、灰すらも残っていない。束縛からはとっくに解き放たれていた。
「――――っ!」
けれど彼は動かない。暴走した天速星を宿して炎を垂れ流し続ける伏魔之剣を右手で握ったまま、天を仰いでただ声なき叫びを上げ続ける。
「――――っ!」
全て、燃えてしまえ。
自分を縛るもの、自分を捕えようとするもの。全部、全部燃えてしまえ。
仲間なんていらない。
家族なんていらない。
友達なんて、いらない。
この憎悪だけあればいい。この憎悪だけで生きてゆける。この憎悪だけで強くなれる。この憎悪だけで、きっとあの憎き高俅を焼き尽くす事が出来る。
だから、他のものは邪魔だ。
いらない。
全部燃えてしまえ。
「――――っ!」
この村も、梁山泊も、全部燃えてしまえ。
替天行道も燃えてしまえ。
王定六も、劉唐も、公孫勝も、張青も、孫二娘も、蔣敬も、花和尚も、宋江も。杜遷も、宋万も、朱貴も、扈三娘も、林冲も、翠蓮も、皆、皆、燃えてしまえ。
晁蓋も、呉用も、安道全も、薛永も、阮小二も、阮小七も、阮三兄弟の母も、皆、皆、燃えてしまえ。
――――小五も。
「――――――――っ!」
戴宗は叫ぶ。
咆哮する。
慟哭する。
左手で服の上から胸を掴む。その下に潜む心臓を握り潰さんばかりに力を込め、爪を立てる。
胸が痛い。痛い痛い痛い。花和尚や宋江の平手、林冲の蛇矛、関勝の青龍偃月刀、朱貴の投げナイフ、天山勇の矢――そのどれよりもずっと鋭くてずっと強い痛み。
「――――――――っ!」
痛い。
苦しい。
胸が、潰れる。
心臓が軋る。心が、悲鳴を上げる。張り裂ける。戴宗は叫ぶ。ならば、こんな心なんていらない。一緒に焼けてしまえ!
「――――――――――――っ!」
戴宗は、気付いていない。
伏魔之剣から生み出される天速星の炎が自身すら焼こうとしている事に、気付いていない。
炎の渦の内側。そこの空気の温度は外部の比ではないし、火の粉も飛んでくる。燃える炎に酸素を奪われ続ける事によって呼吸もままならなくなる。
魔星の力をきちんと制御できれば、宿主は、その力の余波から身を守る事が出来る。
しかし戴宗は今朝方覚醒したばかりで、星の力の制御がまるで身についていない。そして本日二度目の暴走と来れば……――
熱が、戴宗の肌をあぶって火膨れを起こさせる。
火の粉が、服と髪にかかってそれらを焦がす。
「――――――――――――っ!」
それでも戴宗は気付かずただ叫び続ける。胸の痛みに苦悶の声を上げ続ける。
叫び続けるその姿は、道に迷って途方に暮れてなく子供のようで、
「――――…………っ!?」
その時。
戴宗は、一面赤い炎色だった視界が、熱した鉄板に水をぶちまけたような凄まじい音と共に一瞬にして白に塗り替えられ、埋め尽くされるのを目の当たりにした。
煙?
いや違う、これは……霧――じゃない、蒸気だ。水蒸気。何で、こんな。
そして更に次の瞬間、戴宗は、驚きに見開いた目をもっと見開く事になる。
濛々たる白い水蒸気が揺らめき、流れ、サァッと割れて――――
小五が、現われた。
戴宗の正面やや上から、髪に巻いていた白のバンダナを右手に巻いて。
そうして作った拳を、戴宗に目がけて繰り出して。
戴宗は、見る。
小五の右拳に宿った光を。
それが形作る文字を。
「罪」。
――――――――――天罪星。
察知と同時に、彼は、小五の右拳を左頬に受けていた。
痛み、より、衝撃。
小五の拳はまっすぐに戴宗の頬を打つ。揺らす。
目の覚める一撃だった。それが与える衝撃に抗う事なく吹っ飛ぶ戴宗。錯覚だ。吹っ飛んでいない。飛びかかってきた小五と一緒にそのまま地面に転がっただけだ。
まだ炎熱が冷めない地面にドサリッ、と仰向けに倒れ込む。小五は戴宗の体の上に乗っている。胸倉を掴み、見事にマウントポジションを取った。
その小五は顔を伏せている。仰向けと馬乗りで、戴宗から相手の顔が見えそうなものなのだが、向こうは見られまいとしているのか、必要以上に顎を引いてこちらに表情を見せない。
と。
――ポツ、
顔に、
――ポツ、
水の、しずくが、
――ポツ、ポツ、ポツポツポツポツポツ、
雨ではない。黄昏の空は雲も疎らでよく晴れている。では、これは。
戴宗は不意に理解する。一〇八魔星の目覚め。炎に取って代わった水蒸気。すぐ傍に、湖。そうか、これは、
――――ザアアアアアアアア…………――――
豪雨のごとく降り注ぐ、これは湖水だ。小五が星の力を使って引き寄せ、撒き散らしたのだろう。それらが木立ちの火を消す。地面の熱を奪う。戴宗の肌の火傷を冷やす。
耳を弄する凄まじい雨音。一体どれだけの湖水が巻き上げられ、どれだけの範囲に降っているのか。見当もつかない。
「――……ろう……」
その轟音の中、馬乗りの小五が何事か呻く。戴宗は彼を見る。その時湖水の雨が唐突にやんだ。通り雨がやってきて通りすぎたような、そんな唐突さで。
そのタイミングで小五は顔を上げた。
目にいっぱいの涙を溜めて。
人の良い顔を、精一杯に怒らせて。
「戴宗の、馬鹿野郎!」
小五の怒声が、顔を打つ。
子供の時にも聞いた事がない、分かりやすい怒りの声だった。
怒鳴った拍子に涙がこぼれる。それも拭わず、小五は怒鳴り続けた。
「寂しい事言うなよ! 『一人でいい』なんて、そんな……そんな寂しい事、言うなよ! 本当は一人で寂しいくせに! 一人になるのが嫌なくせに! 俺は!」
小五がボロボロ泣いている。こぼれた涙が戴宗の顔にボトボトと落ちる。戴宗は何か、不思議なものを見る思いで小五の泣き怒りの顔を見つめた。
「お前が一人で泣いてるなんて、そんなの俺は嫌だ! だから戴宗……そんな寂しい事、言うなよ!」
泣いている。
小五が、泣いている。
小五の泣き顔を見るのは、初めてだ。
いつもいい子ちゃんぶった笑顔だった。時々喚いたりもしていた。けれどこうやって怒り、泣くところを見るのは、戴宗は初めてだった。
何故かその顔が、ごめんな戴宗、と泣いたあの日の洪信と重なって見えた。
胸が軋む。痛む。それはさっきまでの狂おしいほどの激しい痛みではなく、体の奥深くの柔らかいところに突き刺さったままの棘がもたらすような、もどかしくも切ない疼きに似ている。
どうすればいいのかが分からない。
分からないから、口から突いて出るのはいつもの憎まれ口だ。
「――……何でおたくに、そんな事言われなきゃなんねーの」
「友達だからに決まってるじゃんか!」
友達……――
そうだったろうか。十年も前の事など記憶もあやふやだ。あの頃戴宗に石をぶつけてきたイジメっ子の顔も、あれほど忘れたくなかった実の両親の顔も声も、彼はもう思い出せない。
それでも、小五がいい子ちゃんぶって戴宗を構ってきていたのは覚えていて。
それがムカついて、桶で殴ったり鼻に指を突っ込んだりしていたのも覚えていて。
でも他のガキどもに何かした記憶は忘却の霧の向こうで――
(ああ、そうか)
理解は不意に訪れて、戴宗の中にストンと収まる。
(友達、だったんだ)
鬱陶しくても。
ムカついても。
(俺は、一人じゃなかった)
洪信がいてくれた。
小五がいてくれた。
養父を亡くし、友と離れ離れになっても、師匠と出会えた。宋江と出会えた。花和尚と、張青と、孫二娘と、蔣敬と、公孫勝と、劉唐と、王定六と出会えた。
一人じゃなかった。
一人で生きていなかった。一人じゃ生きてこられなかった。
いつだって、戴宗は誰かに支えられ、見守られ、生きていたのだ。
そんな当たり前の事に、やっと気付いた。
流れる涙を乱暴に拭う小五から、視線を空にやる。紫紺に染まっていく晴れた夕暮れの空。
一人先走り、仲間たちと離れ離れになってしまってからまだ一日も経っていない。
それなのに朱貴が、杜遷が、宋万が、扈三娘が、林冲が、そして……翠蓮が、何だかひどく懐かしくて、――不思議な事に――顔が見たかった。
「――戴宗」
小五が改まった強い口調で呼びかけてきた。再び覗き込むようにこちらに視線を下ろしてきている。
その顔は、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
「よっく聞けよ! 俺はもう、お前を一人になんかさせねぇかんな!」
泣き笑いの表情に、戴宗はもう苛立たない。
むしろ何か、安心のような感情さえ覚える。
ただ呆然とする彼へ、小五は更にニカリと笑った。
「だってお前、寂しがり屋だもんな! お前が嫌だっつったって、絶対、俺が傍にいてやるよ!」
その時襲い来た感情は余りに激しくて、戴宗は息を詰めた。胸に走る痛みにも似た疼きはしかし痛みではなく、それが過ぎ去るのを彼はただ待つしかない。
そうして、少しの間を置いてから、やっと一言、
「――……笑えねー」
と、いつものように不満げに言い、
「ってかさ、おたく、邪魔。いい加減どいてくんね?」
「――あ、悪っりぃ戴宗!」
小五がやっと体の上からどく。重さから解放される胴体。小五は戴宗の横、湖水の雨で泥濘と化した地面に躊躇いもなく座った。戴宗もまた、上体を起こしただけで座り込んだまま立ち上がらない。
燃え残った木立ちの向こうから小二たちが声を上げて走ってくる。小五は座ったまま手を振って快活にそれに応える。そして戴宗は、
「――――――――小五」
「ん?」
小五の方も見ないまま、
「…………めん……」
ボソボソと、小声で、告げるべき言葉を告げる。
自分でも聞き取れるかどうか微妙なほどの小さな声だった。だが小五には伝わったらしい。彼は驚いた様子で一度目を見開き、それから一際キラキラと輝く笑顔を見せる。
「気にすんなって、戴宗!」
バシッ、と明るく肩を叩かれた。
その痛みを噛み締めて、戴宗は空を再び見上げる。夜の帳が下りつつある紫紺の空に、一つ二つと輝きだす星々。
ふと、今朝方夢に見た養父の笑顔が思い起こされた。思い出すだけで涙が出そうになる。
戴宗は、脳裏の養父へと報告する。
なぁ、洪信。
俺、友達が出来た。
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