4.慟哭の炎


 話は、一時間ほど遡る――


 馬が三頭、道端の草をのんびりと食んでいた。
 逞しい黒馬は晁蓋の乗る馬で、それにやや劣る体格の白馬は呉用が晁蓋から借りて乗っている馬だ。そしてもう一頭の栗毛は、初めて見る馬だった。
 東渓村から白勝が乗ってきたのは、確か馬ではなく驢馬である。木陰で休んでいる呉用は、すぐ傍でグッタリして同じく休んでいる白勝に問いかけた。
「白勝さん……あの馬は?」
「それがですね、呉用先生……――」
 疲労の余り顔色まで悪くなっている彼の言う事には、

 晁蓋が白勝に鄆城県までの使いを命じたのがちょうど昼頃、戴宗を助けた直後である。
 その後鄆城県まで走った白勝は、目当ての人物と会う事に成功、返書を受け取る事が出来た。
 が、石碣村から鄆城県までの長い距離を突っ走らせたため驢馬が潰れてしまった。そうしたら、

「――あの馬を貸してくれた、ってわけなんです……」
「へぇ、成程……」
 と、疲労でやや濁った頭で呉用はぼんやりと返した。久々の乗馬は本当にくたびれる。
 常日頃から馬を乗り回している晁蓋に疲れの色はない。少し離れた別の木の根方に胡坐を描いている彼は、白勝から受け取ったその「返書」とやらを、何故かニヤニヤ笑って読んでいる。
「――そういえば、白勝さん」
「何でさぁ、呉用先生」
「お使いの相手、って誰だったんですか?」
 それは一応晁蓋にも聞いたのだが、彼は笑うだけで教えてくれなかった。
 しかし疲れてグッタリしている今の白勝なら、判断力の低下でツルッと口を滑らすはず。そして、呉用のその読み通り、
「へぇ、実は役所の――」
 白勝が答える、

「よし呉用、石碣村に戻るぜ!」

 まさにその直前、笑みを深めた晁蓋が立ち上がってそう宣言した。
 呉用と白勝がギョッと見やった先、彼の浮かべる表情は、そう、いつもの見慣れた笑顔。
 悪戯を思いついた悪ガキのような――
 呉用はとっさに声を荒らげていた。
「なっ、何でだよ晁蓋!?」
「決まってんだろ。もう一度戴宗を誘いに行くんだよ!」
「そんなのまた今度でも――」
「俺は行くって決めた!」
「それに僕を巻き込むなぁっ!」
「それに――」
 こちらの叫びなど丸無視して、晁蓋は表情を改める。その顔も声音も、呉用がおやと思うほどの真剣さ、いや深刻さを帯びていた。

「早く行かねぇと、間に合わねぇ気がする」

 何が、とは呉用は聞かなかった。
 晁蓋の勘は、よく当たるのだ。
「――なら、早く行こう」
「おう。――白勝、お前は東渓村に戻ってろ!」
「へ、へい、晁の旦那! 呉用先生も、お気を付けて!」
 白勝の声に送られ、再び馬上の人となった晁蓋と呉用は石碣村への道を戻り始めた。

 

§

 

 黄昏の中を、戴宗は一人歩いていた。
 いつもの服に着替えて、旗を鞘にして背中に差して、小五の部屋の窓から抜け出した。そんな戴宗を、腰の師匠袋から師匠が思案げな顔で見上げている。
 それに気付かず、戴宗は夕暮れの石碣村を歩く。人目を避け、人気を逃れ、スタスタと、きびきびと、脇目も振らず、逃げるように。
 痛みをこらえるように歪んだ、思い詰めた表情で。
 胸の不快感が、痛みが、止まらない。

(――気のせいだ)

 考えれば考えるほど痛みが増していく。

(気のせいだ)

 故郷の村があの後――洪信が反逆者として高俅に殺されたあとにどうなったのか、知らなかったわけではなかった。
 だが、どこか遠い出来事だった。
 どうでも良かった。
 そのはずだった。
 父ちゃんと、村の事。そう言った小五の言葉を思い出す。その時の声音を思い出す。

 小五の、父。

 何となくだが覚えている。都帰りの洪信と親しかった漁師だ。よく売り物にならない魚を分けてくれた。小五と同じく、よく笑う男だった、気がする。洪信は確か阮さんと呼んでいた。人当たりの良かった洪信が、特に親しく付き合っていた男の一人。

 あの男が、死んだ。

 父ちゃんと、村の事。それは、つまり……――――


 戴宗と洪信の巻き添えを喰って、死んだ。


 それはきっと、小五たちの父親だけでなく。
 戴宗に石をぶつけ、洪信をオカマだの男女だのと言っていたあのイジメっ子どもも。
 洪信にタダ同然で鍬を直してもらい、代金の代わりによく野菜をお裾分けしてくれていたあのおっさんも。
 他にも他にも、あの村に住んでいたたくさんの人間が……戴宗が知り、戴宗を知るたくさんの人間が。

 何の罪もないのに、巻き添えで、死んだ。

『戴宗ちゃんのせいなんかじゃない』

 小五の母の声が耳に蘇る。
 胸が痛む。
 キリキリする。

『洪信さんのせいでもない』

「っ……!」
 戴宗は胸を服の上から掴む。
 足が止まる。
 息が止まる。
 痛みが、増す。
 目を硬く瞑る戴宗。気のせいだと己に必死で言い聞かせる。

『二人は悪くないんだよ……』

 耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 悪くないと、切なげに、痛ましげに、悲しげに、悔しげに言った小五の母。
 けれど戴宗には――こう聞こえたのだ。


『悪いのはお前だ』
『お前と洪信が、うちの人を奪ったんだ』
『お前たちが、村に官軍を呼んだんだ』
『お前たちが、村を滅ぼしたんだ』


 胸が。
 キリキリと、ズキズキと、痛む。

 いや痛くない。痛いはずがない。安道全はどこも悪くないと言った。体の傷は大した事ない。疲労が溜まっているだけだ、と。だから気のせいだ。痛みなど、あるはずがないのだから。
 痛くなどない。
 だから、

「――出てってやるよ」
 低く刺々しく吐き捨てて、戴宗は再び歩き出す。スタスタと、きびきびと、脇目も振らず、逃げるように、追い立てられるように。
 人目を忍び、人気を避け、ただがむしゃらに、石碣村の外を目指す。
 その時だった。
 戴宗の正面、人家の途絶えた水辺の茂みが不意にガサッと鳴った。


「……今日は安静にしておれ、と言ったはずだったんじゃがのう」


 爺臭い口調のチビ医者が、ミイラもどきの薬師の肩に乗って戴宗の前に立ち塞がった。

 戴宗は険悪に顔をしかめた。
 何故ここに、安道全と薛永がいるのか。
「近くの集落からの往診の帰りじゃ」
 まるでこちらの心を読んだかのような言葉。瞠目する戴宗。安道全は顔色を変えず、
「何故ここにいるのか、そう聞きたそうな顔をしておったからな。聞かれる前に答えてやったのじゃ。
 ――さて、次はわしが尋ねる番じゃ」
 戴宗は安道全を睨む。
 安道全は、怯まない。
「どこへ行くつもりじゃ?」
「おたくには関係ねーな」
「関係はある。お主を診たのはわしじゃ。わしはまだお主に動いて良いとは言っておらん」
「うるせぇ。動いていいかどうかは俺が決める」
 ドスを利かせた声に――
 安道全は、呆れたとばかりに大仰な溜め息を吐いた。
 子供にそんな仕草をされた、という事が戴宗の神経をひどく逆撫でし、
「……何が言いてぇの、おたく?」
 更に低く、険悪に問いかけながら、伏魔之剣の柄に手を伸ばした。ブー。腰の師匠袋からの制止の声。だが止まれない。止まらない。
 果たして、安道全は答える。


「何を焦っておる?」


 焦って――

 俺が?
 何に?

「おたく、何を」
「まるで逃げるようじゃな、あの家から」

 戴宗は絶句する。
 小五の笑顔が脳裏に蘇る。
 元気そうで良かった、と言ったあの声を思い出す。
 ずっと泣いてんじゃないかって気がしてた、と言ったあの笑みを思い出す。
 洪信さんが作ってくれた釣り針だぜ、と言ったあの誇らしさを思い出す。
 俺たち一緒じゃん、と言ったあの快活さを思い出す。

 ――戴宗ちゃんは、悪くない。


 ――――――――――――――悪いのは、お前だ。


「――うるせぇ……」
 戴宗は体の重心を落とす。
 それに気付いた薛永が薬箱を地面に置き、身構え、安道全が右手を左の袖に突っ込む。
「うるせぇんだよ!」
 目にも止まらぬ速さで剣を抜き払うと、戴宗は二人に対し刃を振りかざしていた。

 

 しかしその刃が届くより先に、
「――薛永!」
 矢のごとく放たれる安道全の声と、
「アイサー!」
 虎のごとく応じる薛永の声。
 刃が届く寸前、薛永が動く。残像を残しての素早いサイドステップ。伏魔之剣が空を斬る。戴宗は薛永を追って視線を左に流し、

「動きが鈍いのぅ」

 銀光が、飛来する。

 とっさに前方へと身を投げ出す戴宗。地面に転がる。受身を取って、前転の要領で一回転。起き上がって一瞬前までいた場所に目を走らせれば、地面に突き立っていたのは細い銀色の――メス。
 ハッとする戴宗の視界の隅でまた銀光が光る。今度は正面から。頭を狙って――立ち上がりざま、彼は剣を振る。
 が、
(――!?)
 重い。
 片手だけで振るうのが、辛い。
「ちっ!」
 柄に左手も添えた。両腕で目一杯振るう。それでも重い。伏魔之剣の刀身に弾かれて、メスはカチンッという音と共に地面に落ちた。
 その結果に戴宗は愕然とする。

(炎が……!?)

 起こらない。
 神行旋龍を放つつもりで振るったのに、剣は、炎をまとわない。

「医者の言う事をきちんと聞かんからじゃ」
 安道全の声はムカつくほど落ち着いていた。再び相対した二人を睨む。と、安道全の右手が閃いた。
 目では追いきれない速さ。
 そして一条の銀光が、再び戴宗へと向かって空気を裂く!
「――っ!」
 払い落とせない。
 だから上半身を大きく左に傾けた。
 それでも間に合わず、メスは顔の皮一枚を裂いていく。痛みはなく、代わりにツゥ、と生温かい濡れた感触が生まれた。
 埒が開かない。戴宗は走って彼我の間合いを詰める。
 だがいつもほど速く走れない。体が重かった。まるで両手両足が鉛にでもなったようだ。しかも錆びついているみたいにギシギシと軋んでいる。
 剣を突きの形で繰り出す。神行炎龍。だが突きは突きのまま、炎もまとわず鋭さも帯びず、ただ鈍い突進のままで薛永に迫る。そして薛永はヒラリとかわす。
 刹那、安道全の右手がまた消えた。
 メスが来る。何故か足元に。反応しきれず、飛び退く。
 続けざまにもう一投。胸狙い。歯を食い縛ってありったけの力を込めて大きく両腕を振るう。カチンッ! 弾かれるメス。
 大振りの弾く動作に体勢が崩れた。
 すぐに立て直せない。
 戴宗は、目を見開く。

 薛永が、

 眼前に、

「――ハァイッ!」
 掌底。
「ハイッ!」
 貫手。
「ハイッ!」
 拳打。
「ハイィィィヤアァァァァァッ!」
 後ろ回し蹴り。
 その全てをかろうじてかわし、いなし、捌き、打撃の瞬間後ろに飛んで衝撃を殺して。しかし戴宗は腕や胸に残る殴打の痛みに歯軋りする。
「おいおいっ……医者が、患者を攻撃していいわけ?」
「必要ならばやむを得まい」
 薛永がこれだけの動きをしているというのに、安道全はピクリとも動いていない。彼自身が薛永の肩の上でバランスを取っている、という事か。
 しかしその事よりも、安道全を支えなくて済んだ薛永が本格的に構えを取った事に注視すべきだった。
 戴宗は獰猛な笑みと共に鼻で笑う。
「物騒な医者だな、おい」
 安道全は顔色を変えず眉も動かさず、左の袖口からメスを一本抜き取り、
「今にも自殺しそうな者を止められるなら、物騒でも何でも構わん」

 戴宗の息が止まった。

 ……自殺?

「――何、を」
「自分の今の顔を鏡で見てみるが良い。誰かを刺し殺そうとしておる顔じゃ。自分の命と引き換えに、の」
 安道全の口調は淡々としている。
「焦り、苛立っておるな。生き急いでおると言うのか、死に急いでおると言うのか。――昼に診察した時わしはそう見たのだが、今はまた少し違うようじゃのう」
「言ってろよ、チビ医者」
 地面を蹴った。
 斬りかかる。
 だがいつもの速度が出せない。無様なまでの遅さ。まるで水の中で動くような。薛永にあっさりとかわされ、こちらが斬り返そうとするより先に向こうの蹴りが来る。飛び退く。追撃で飛んでくる安道全のメス。
「怒り、殺意、焦り、苛立ち、それに怯え、じゃのう。まるで何かと向き合うのを恐れて尻尾を巻いて逃げ出すようじゃな。その『何か』と向き合うくらいなら死地に飛び込んだ方がマシ――そう言っているように見えるぞ、わしには」
 爪先を縫い留めようとするメスの狙撃を飛んでかわし、しかし薛永があっという間に間合いを詰めてきて――

 直後、戴宗は掌打で吹っ飛ばされていた。

 ドンッ! 背後にあった木に激突する。衝撃で呼吸が出来ない。
 そして安道全の手が閃き、

 トカカカカッ!

 放たれた幾条もの銀光が、戴宗の服の袖を、脇を、袴を木の幹に縫い留める。
 動きを、止められた。
 薛永が安道全を肩にゆっくりとやってくる。
 安道全の半眼が、戴宗を無機質に見下ろす。
「何を、恐れておる?」
「――黙れよ」
「何を、苛立っておる?」
「うるせぇ」
「自分か? 他人か? ――阮小五か?」

 小五。

『でもまあ、元気そうで良かった!』

 笑っていた。
 戴宗の神経を逆撫でする、いい子ちゃんぶった笑顔で。

『実は俺さ、戴宗がずっと泣いてんじゃないか、って、何かそんな気がしてたんだ』

 胸が。
 キリキリと、ズキズキと、ドクドクと、痛む。
 気のせいだ。痛いはずがない。痛くなんかない。胸を掻き毟り、叫びたくなるほどの痛み。そんなものは嘘だ、幻だ。

「だが、お主」

 歯を食い縛って苦しむ戴宗に、安道全は追い討ちをかける。

「阮小五とは、友であったように見えたのだがのう」

 友。
 良かった、と言った小五の声。


 胸を掻き毟るだけでは飽き足らない痛み。


「――――うるせぇっ!」

 痛みのままに戴宗は叫んだ。村外れの夕焼け空にその絶叫は高らかに響き渡り、

「戴宗!?」

 声が。
 驚きの声が、届く。戴宗の耳を打つ。
 ハッと見やる戴宗。振り返る薛永と安道全。
 村の方から息を切らせて――小五が、駆けてきた。
「あ、安道全医師!? 戴宗に何やってんだよ!」
「言う事を聞かぬ患者に実力行使じゃ」
「医者がやる事じゃねぇよ! ――戴宗、大丈夫か!?」
 駆け寄ってくる。
 心配の表情で。
「ビックリさせんなよ! いきなりいなくなって、俺も母ちゃんも兄ィたちも心配したんだからな! 一人でどこ行く気だったんだよ!」

 胸が痛む。軋む。幻の苦痛に叫びだす。
 戴宗は、絶叫した。

「――――来んな!」

 小五がハッと足を止める。

「うるせぇんだよ! 鬱陶しいんだよ! 来んな! 誰も俺に近付くな! 俺は」

 息が切れる。言葉が途切れる。息継ぎの瞬間垣間見た小五は……傷ついた顔をしていた。
 胸が痛む。
 軋む。
 悲鳴を上げる。
 戴宗はそれを無視する。振り払う。痛いはずがない。痛みなど感じるはずがない。捨てたのだ。あの日あの時――洪信が高俅に殺されて、泣いて、伏魔之剣の欠片を拾い集めて涙を殺した、あの時に。


 痛むような、やわな心は!


「――俺は、一人でいい!」


 そうだ。
 一人だ。
 一人でいい。
 ずっと一人だった。両親が死んでから、ずっと一人だった。洪信がいても一人だった。高俅が洪信を喰い殺した時も、故郷の村を踏み潰した時も一人だった。師匠と出会い、戦い方を教わり、覚え、身につけていった時も、戴宗は一人だった。
 一人きりだった。
 一人で高俅への憎悪を募らせてきた。噛み締め、すすり、ここまで生きてきた。一人で強くなった。
 替天行道に見出された。
 仲間を得た。
 翠蓮と出会い、林冲と出会い、扈三娘と出会い、朱貴と、杜遷と、宋万と出会った。
 星の力を見つけ、手に入れた。
 強くなった。
 それでも高俅に届かなかった。砕かれた。完膚なきまでに、徹底的に。
 ならすべき事は?
 ――決まっている。
 捨てるのだ。
 仲間も、幼馴染みも、全部。全部捨てて、また一人になって、憎悪という刃を孤独の砥石で研ぎ澄まし、磨き上げるのだ。

 だから。

 だから、一人でいい。


 俺は、一人でいい!


 戴宗の慟哭に、魂の奥底で眠っていた魔星が無理矢理目を覚ます。炎が足から生まれ、燃え上がり、伏魔之剣を伝って一瞬にして巨大化、唸りを上げて天を衝いて焦がし始める。

 天速星が、暴走した。

 

 

 

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