3.形見の針


 あ、と誰かが呻いた。

「ちい兄の、焼いた魚……――――」

 ゾッ――
 その無感情な呟きを聞いた瞬間、戴宗の全身が一瞬で粟立った。
 冷や汗が吹き出る。
 反射的に身構えて声の出どころに素早く視線を這わせれば――小七が、無表情のまま氷のような殺気を放ち始めていた。
 ――ヤバい。
 視線を小七から部屋の中に移し、巡らせる。
 ――ヤバい。
 目当ての物は布団の足側にある。伏魔之剣。距離にして一歩半。とてつもなく遠く感じる。その傍に佇む師匠が視線だけで言ってきた。「愚か者め」と。
 ――ヤバい。
 この雰囲気はヤバい。今朝方やり合ったあの宿星四人より、戴宗の警戒心を刺激する。半瞬だけ遅れて晁蓋が、小二が、薛永が小七の殺気に気付く。しかし彼らが、そして戴宗が動くより先に小七が一歩戴宗の方へと踏み出し――

 ヒョイ、と。

 その緊張感を一瞬にして粉砕する空気の読めなさで無造作に動いたのは。
 小五、だった。
 踏み出しかけた足を止める小七と、その一瞬の隙に体勢を整える戴宗、晁蓋、小二、薛永。呉用が固唾を飲んで見守り、安道全がつまらなさそうな表情で薛永にかばわれている中、小五は――

 身を屈め、床に落ちた焼き魚を拾った。

 それからフーフーと息を吹きかけ、戴宗の方にそれを突きつけてきたかと思ったら、


「ほら、遠慮してねぇで食えって!」


 それはそれは一際能天気な笑顔で、明朗快活に言ってくるのだ。
 一瞬唖然とし、それから馬鹿にされた、という思いが浮かんだ。
「っ――笑えねー! 落ちた魚なんか食えるか!」
「何だよ戴宗、知らねぇの? 三秒ルール」
「知るか!」
「落ちたけど三秒以内に拾ったから大丈夫だって。ほら、食えよ戴宗!」
 ズイッと魚を戴宗の口に捻じ込むように身を乗り出してくる小五。戴宗は押し返そうと彼の両腕を掴んで、
「――頼むわ、戴宗」
 小さな、間近の戴宗にしか聞こえない声。
 小五を見れば、その顔には恐怖の入り混じる苦笑が浮かんでいた。

「小七、怒らせたくねぇんだ」

 ……ほだされた、わけではない。怯えたわけでもない。
 ろくに動かない体で、あの四人よりも恐ろしさを感じる奴と戦えるか。それを、冷静に判断しただけだ。

 突きつけられていた魚を、戴宗は、かぶりついた。

「――お? 食ったな、戴宗。どうよ、うちの魚?」
 物の三秒とかからず一匹を平らげた彼は、怯えの色を見事に消した笑顔の小五にボソリと答える。
「……腹の足しにもなんねぇ」
「ワハハッ、そうだよな。――兄ィ、小七、鍋がどんな具合か見てきてくんね?」
「Roger。――小七」
「……え? ――あ、うん、わ、分かった」
 小五に頼まれ、小二に促され、怒りのテンションを中途半端に抑えられた小七は何かきょとんとした表情で長兄と共に部屋を出ていき、
「――ではわしらも行くとするか」
「アイサッ!」
「安静にしておれよ、戴宗とやら」
 と、薛永を引き連れて安道全もまた部屋を出る。
「……じゃあ晁蓋、僕らも戻ろう」
「そうだな呉用」
 晁蓋と呉用も部屋を出ていこうとし、
「――仲間になってくれるって期待してるぜ、戴宗」
 去り際、晁蓋の言った一言に戴宗は思わずげんなりした。

 

「……何なんだ、あの野郎」
「スゲーだろ、晁の旦那」
「笑えねぇ」
 と吐き捨てれば、小五がワハハッと笑う。戴宗は苛立ち紛れに布団に勢いよく寝転んだ。
 調子が狂った。
 それもまた、宋江と相対する度に覚える感覚だった。たかが一介の村の保正のくせして替天の頭領を髣髴とさせるなんて――そんな思いが戴宗の苛立ちを助長する。
 しかし、何と言うか。
 毒気を抜かれた、という気がした。
 くさくさした気分は続いているが、だからと言ってどうこうしようとは思わない。まともに取り合うのが馬鹿馬鹿しくなった、とも言う。
 だから戴宗は寝転がったまま、すぐ傍の小五を足で軽く蹴り、
「ほら、俺、腹減ったんだけど? 飯まだぁ?」
「――たっ! 何か昔より態度悪くなってねぇ、戴宗!?」
「ああ? 何おたく、文句あんの? 『うちならどれだけいてもいい』って言ったの、どこの誰だっけ?」
「あーもう、分かったって! ちょっと待ってろよ、今持ってくっから!」
「よろしくぅ」
 バタバタと慌しく部屋を出る小五を寝たまま横目で見送る。それから何の気なしに目を閉じて、

「――ブー」

 トコトコと、枕元に師匠がやってくる気配。戴宗は目を開ける。すぐ傍に師匠の顔があった。
「……師匠?」
 起き上がって向き直る。師匠の表情は、パッと見いつもと変わらない。しかし戴宗はその変化を正確に読み取る。
 師匠は、何かを案じていた。
 戴宗を、案じていた。
 戴宗は困惑した。何故師匠に案じられているのかがにわかに理解できない。
 怪我は大した事はない。
 周りは敵だらけらしいが、一応この家にはしばらく潜伏していられる。
 特に戴宗に差し迫った危機が訪れようとしているわけではない。
「どうしたんですか、師匠」
「……ブー」
「俺は、無事です」
「ブー」
「生きてます」
「ブー」
「……師匠にご心配かけるような事は、ありません」
「――……ブー」
 そうか、という返答だった。
 答えるまで間があって、かつ、どこか投げやりにも聞こえる声だった。
 師匠は、どうしたというのか。
「師匠――」
 と続けようとしたその時、
「お待たせ戴宗! さあ食おうぜ!」
 グツグツ煮えた鍋と鍋敷き、椀と箸を二セット持って駆け戻ってきた小五の能天気な声で、そのまま問答を続けられそうな空気はあっさり破砕された。
 戴宗は、言うべき言葉を強制的に飲み込まされて、ギラリと小五を睨みやり、
「っ――てめえはちったぁ空気を読め!」

 次の瞬間、師匠が顔を引っ掻いていった。

「うっわ戴宗!? お前大丈――」
「すいませんでした師匠!」
「って誰が!? その猫!?」
「猫じゃねぇ虎だ!」
「いや知らねぇよ! ってか……」
 と。
 頬に滲んだ血を手の甲で拭う戴宗を、小五は呆れた面持ちで見下ろしている。
「虎が師匠って……お前、何だよそれ」
「あ? 何か文句あんのおたく?」
「そうじゃねぇよ」
 と、床に座る小五。鍋敷きを置き、鍋を乗せ、鍋の蓋を開けた。白い湯気がホワリと立ち、同時に食欲を誘う匂いが戴宗の嗅覚を強襲。腹の虫が自己主張をし始め、聞いた小五は笑みを漏らすと椀の一つに鍋の具と汁をよそう。
「ほら、食えよ」
 差し出される椀と箸。戴宗は受け取る。具は魚と野菜だ。魚の切り身を一口、それから汁をすする。
「どうよ?」
「――……食えなくは、ねぇな」
「そういうとこは変わってねぇな、戴宗は!」
 ワハハッ、という小五の笑い声に、戴宗はさっきのような苛立ちを覚えなかった。毒気を抜かれたせいだろうか。
 だから、
「――でさ、話戻すけど……お前、今までどうしてたんだ?」
 そんな問いをまともに相手する気になる。
「どうしてた、って何が」
「だからさ! 虎が師匠とか、あの旗とか……」
 と、彼は言いにくそうにモジモジして、ようやく、意を決したように尋ねてきた。
「……お前、替天行道なの?」
「ああ」
「すっげ! 噂の義賊かよ!」
 自分も同じく鍋を食べながら、顔を輝かせる小五。彼は戴宗の方へと少し身を乗り出してきて、
「じゃあさじゃあさ、お前、『流星』って知ってる? そいつとも仲間なわけ?」
「俺だ」
「……へ?」
「替天の『流星』は、俺だ」
 ズズズ、と汁を飲み干した戴宗は、小五に向かって椀を突きつけた。二杯目をよそえ、と。
 が、小五は受け取らない。
 箸を持つ手を休めてポカンとしている。
「ちょっとおたく、何――」
「――……すっげ……」
 は? と首を傾げた戴宗の両肩を、椀と箸を置いた小五がガシリと掴んだ。そのまま前後に揺さぶってくる。
「すっげー! すっげーな、戴宗!」
 さっきよりも更に輝いている顔。その輝きを戴宗は見た事がある。

 ――ああ、そうだ。

 部屋の隅に立てかけられた、クズ鉄の寄せ集めになってしまった伏魔之剣。

 ――洪信があれを完成させた、あの時だ。

『すっげー! すっげー綺麗だな、洪信さん!』 
『ありがと、小五君』
『へっ。飾っとくだけの剣なんてただのガラクタじゃねぇか』
『何だよ戴宗、お前ってホント素直じゃねーな!』
『ガラクタでいいんだよ、戴宗。戦うための剣じゃないんだから』

「そっか、戴宗が『流星』なんか! じゃあ、都で大暴れしたってのもお前なんだ!」
「……おう」
「火をまとって走るのも、この間あの知県をぶっ倒したのも!」
「まあな」
「すっげー! お前すっげーよ、戴宗!」
 小五は手放しで褒めてくる。まるで自分の事のようにはしゃぎ、喜んでいる。
 何だろう。
 いつもだったら「はあ? おたく、何はしゃいでんの?」とか適当に受け流すのだが、どうしてか今はそれが出来ない。
 何だか尻の辺りがモゾモゾする。小五の笑顔が、称賛が、少し居心地悪い。
 だが……そこまで、悪い気分ではない。
「そっか、お前だったんだ。ありがとな、戴宗!」
「は――」
 瞠目し、絶句する戴宗。対する小五は熱のこもった口調で続けた。
「あの知県がぶっ飛ばされたって聞いてさ、俺たちスカッとしたんだよ。そういう事やってくれる奴がこの国にまだいたんだ、って思うと、俺も負けてらんねぇって思うし」
「……別に、任務だったからな。それより」
 我に返り、椀を再び押しつける戴宗。小五は悪ぃ悪ぃと笑って、やっと二杯目をよそった。
「けどさ、戴宗」
 渡しながら、不意に口調を改める小五。はしゃいだ感じが薄れ、純粋な疑問が声の調子にも表われる。
「お前、何で替天行道の仲間になったんだ?」


 ――復讐が、目的だった。
 そのために生きてきた。そのために替天に入った。替天を利用するつもりだった。
 全てはあの男を殺すため。
 高俅。
 殺せなかった。
 届きさえしなかった。
 どうすれば……――


「――戴宗?」
 小五の呼びかけに行き詰った思考を強制終了させた。見れば、固まった戴宗を訝しげに、気遣わしげに覗き込む彼の顔がある。
 戴宗は取り繕った。
「……色々、あってな」
「……そっか」
「それより、おたくこそ何でこの村にいる?」
 その問いは小五の注意を戴宗自身から逸らすためのものだったが、同時にずっと感じていた疑問でもある。
 ここは小五の、そして戴宗が生まれたあの村ではない。
 何故小五は、阮三兄弟はこの村にいるのか。
 すると彼は笑った。
 陰のある笑みだった。
 似合わない。
「……俺たちも、色々あったんだ」
 戴宗がしたのと、同じ濁し方だった。
 二の句を失うこちらに気付いているのかいないのか、小五の口調に不自然なほどの明るさが宿る。
「この村、母ちゃんの生まれ故郷なんだ。祖父ちゃん祖母ちゃんはもういないけど、親戚が何人かいるからさ、世話になってるってわけ。この家も、空き家だったのを伯父さんの口利きで使わせてもらってんだぜ」
「……ふぅん」
 一瞬見せた陰は何だったのか。
 小五の表情は明るくて、あの陰りが錯覚だったのではないかと思ってしまうほどだ。
「でも、そっか、戴宗は義賊かぁー……」
 と、小五はこちらから視線を外す。天井を見上げ、んー、としばらく唸って考え込む。
 それからパッと顔を戻してきて――
 戴宗は、あの能天気な顔と出会う。

「でもまあ、元気そうで良かった!」

「……は?」
「実は俺さ、戴宗がずっと泣いてんじゃないか、って、何かそんな気がしてたんだ」
 訝しげに顔をしかめる戴宗。
 ずっと泣いている? 何の事だ?
「おたく……何言ってくれてんの?」
「だからさぁ、そんな気がしてた、ってだけだよ!」
「え? 何、おたく、この暑さで頭やられた?」
「どういう意味だよ戴宗!」
 と小五は声を荒らげ――
 不意にプッ、と吹き出し、すぐに快活な笑い声を立てた。そしてひとしきり笑うと、
「――あー、良かった」
 そう、言った。
 心配事が一つ片付いた。肩の荷が下りた。
 そういう、しみじみとした安堵の声だった。
 戴宗はどう反応していいかが分からなかった。仕方なく無言で二杯目を食べる。平らげる。お代わりを要求。三杯目がよそわれる。受け取って、箸をつけようとして、
「――あ、そうだ」
 と、小五は不意に立ち上がった。顔は、いい事思いついた、と言わんばかりにキラキラ輝いている。
「お前に見せたいモンがあったんだ。ちょっと待ってろ!」
 こちらの返事も待たず、バタバタと慌しく部屋を出ていく。かと思ったら、それほど待たない内に忙しい足音が戻ってくる。
 彼は、手に小さな木箱を携えていた。
「ほら、これ見ろよ戴宗!」
 片手で持てる大きさの木箱を戴宗の目の前で開ける小五。

 中に入っていたのは――釣り針だった。

 敷かれた布の上に整然と並べられた、銀色に光る六つの釣り針。
「これ、洪信さんが作ってくれた釣り針だぜ」
 戴宗は息を飲んだ。目を見開く。


 洪信の、

 養父の、作った――


「昔に比べたら大分少なくなっちまったけどさ、大切に使ってんだぜ? 晁の旦那に届ける魚を釣る時とか、そういうここ一番って時に使う事にしてんだ。この針使うとデカいのが釣れる気がしてさ。この鍋の魚も、この針で釣ってきたんだぜ」

 胸に訪れたのは奇妙な感動だった。
 養父の作った物が、あれから十年経った今も大切に使われている。誰かの生活の役に立っている。
 それは、養父がこの世に残した確かな痕跡。
 それが、今、戴宗の目の前にある。

「――……あっそ」
 しかし応じる声は自分でもどうかと思うほど素っ気なかった。仕方なかった。どんな声でどんな事を言えばいいのか、なんて見当もつかない。
「戴宗もさ」
 小五は部屋の隅に顔を向ける。
「洪信さんの打ったあの剣で、戦ってんだな」
「……悪いかよ」
「全っ然」
 三杯目を一気に平らげた戴宗から椀を受け取り、小五は笑う。
 陰も曇りもない、晴れ渡った空のような笑顔。
「一緒じゃん、俺たち」
 戴宗は洪信の遺作・伏魔之剣で戦い――
 小五は洪信の作った釣り針で、日々の糧を得ている。
「……けっ。おたくなんかと一緒にしないでくんね?」
「何だよぉ。同じじゃんか」
 言い合いながらは二人は鍋の中を綺麗さっぱり片付ける。
「――じゃ、晩飯出来たら呼ぶからさ、それまでちゃんと寝てろよ、戴宗!」
「寝るかどうかは俺が決め……グゴー」
「寝るのかよっ!」
 満腹感と、養父が生きていた証を見た感動と。

 その二つがやけに幸せで、戴宗はあっという間に眠りに就いた。

 

 戦いが連続したのと、星の力を使いすぎたのとで、やはり疲れていたのだ。戴宗が次に目を覚ました時、窓から差し込む日の光は橙がかっていた。
 おそらく四、五時間は寝ていた。起き上がろうとして、ミシミシという体の悲鳴に彼は危うく苦痛の声を上げるところだった。起き上がるのを諦める。布団にもう一度体を落ち着けて、シミだらけの天井をぼんやりと見つめる。
 体中が痛い。
 しかし頭はスッキリしていた。体の痛みも「まあ、いいか」で済ませられるほど、穏やかで落ち着いていた。
 ろくに夢も見ないでただ眠ったのは、本当に久しぶりだった。
 もしかしたら、十年ぶりかもしれない――戴宗はずっと、悪夢にうなされてきた。

 洪信が殺された、あの時の夢。

 今は見なかった。そういえば星を見つけたあの時も見なかった。うたた寝くらいの短い時間だが、あの時見たのは槌を振るう洪信の姿だ。
 それが嬉しかったわけではない。むしろ少しショックで、危機感さえ抱いている。あの悪夢を見続けたおかげで、戴宗は高俅への憎悪と殺意を忘れずにいられるのだから。
 だが――

 ……少しくらい、休んでもいいのかもしれない。

 ここにいる間だけだ。この家で、体が回復するまでの僅かな間。その間だけ、休んでもいいだろう。
 憎しみを忘れるわけでも、殺意を捨てるわけでもない。
 ただ、少し休んで、それから……――

 そう、戴宗がこれからの事に思いを馳せようとしていた時だった。

「――母ちゃんただいま!」
「お帰り小五。釣果はどうだった?」

 窓の外から声。小五と、中年くらいの女の声だ。小五の母親らしい。その声は、少し聞き覚えがある……気がした。
「たくさん釣れたぜ母ちゃん! これで戴宗に何か美味いもん作ってやってくれよ!」
「任せな小五、母ちゃん、張り切って腕奮うから。
 ――ああそうだ、戴宗ちゃんの服と旗、乾いて繕っといたからあとで持っていっておあげ。居間にあるから」
「おう」
「……だけど、あの戴宗ちゃんが噂の義賊とはねぇ」
 と、小五の母のクツクツと笑う声。それにしても……戴宗「ちゃん」はやめろ、戴宗「ちゃん」は。
「洪信さんが生きてたら、きっと泣いてただろうね。『戴宗! そんな危ない真似するなんて、父ちゃん悲しいよ!』とか言って」
 きっと地面に女みたいに横座りになってヨヨヨと泣くのだろう――その姿が容易に想像できたから、戴宗は思わずニヤリと笑ってしまう。窓の外でも小五がワハハと明るい笑い声を立てた。
 が――その笑い声が、不意に尻すぼみになって途切れた。
 ん? と戴宗が眉根を寄せた矢先に、小五が再び喋りだす。

「――……あの、さ、母ちゃん」

 おずおずとした、深刻な声で。

「父ちゃんと、村の事……あいつに、言わねぇでやってくれる?」

 応じる母親の声も、笑みの調子を消した真剣なものだった。

「……もちろんだよ小五。母ちゃんだって分かってるさ。
 村があんな風に踏み潰されて、焼かれて、父ちゃんや皆が殺されたのは、戴宗ちゃんのせいなんかじゃない。洪信さんのせいでもない。二人は悪くないんだよ……」

 戴宗は瞠目した。
 胸に、言い表わしがたい感覚が生まれる。
 叫びだしたいほどだった。

 

§

 

 大きな魚が五匹入った桶を母に託すと、小五は釣り竿を手に家に入った。竿から針――洪信が作った、父の形見の針――を外し、竿は戸口の傍に置いて。針を片付けようと居間を見回したが、箱がない。
(――そうだ、部屋に置きっぱなしだ)
 代わりに目に入ったのは戴宗が元々着ていた服だ。綺麗に畳まれ、破けたところは繕われ、卓に置かれている。服を取り上げ、自分の部屋に向かった。
 戴宗は、まだ寝ていた。
(よく寝てんなぁ)
 箱を開けて針をしまって、という行為さえ憚られるほどの深い眠りだった。
 一体どこで何をしていたのか知らないが、余程疲れていたのだろう。せめてうちにいる間はゆっくり休めばいい。小五は薄く笑い、足音を忍ばせて部屋に入ると、枕元に彼の服をそっと置いた。手に持ったままの針は帯に引っかけた。片付けるのはあとでいい。
 居間の方に戻れば、土間のかまどで母がもう夕飯の準備を始めている。
「母ちゃん、手伝うよ」
「そう? じゃあ――」
 母に命じられるまま夕食の準備を手伝う小五。水を汲み、かまどの火を調整し、桟橋の方で舟の補修をしている小二と小七を呼びに行く。
「――あれ?」
 と、小五が目を瞬かせたのは、兄弟三人で帰る途中の事だ。
 もうすぐ夕陽は山の稜線に隠れる頃合い。暖かな橙の残光が村中に降り注いでいる。
 だから、そう、気のせいだ。

 家々の間で揺れる橙色の頭を見た気がした、なんて。

「ちい兄?」
「小五?」
 唐突に足を止め、横手をジッと見つめる小五を不審に思ったのだろう。小二と小七が声をかけてくる。しかし小五は答えない。阮家とは違う方向で見た橙色の残像を追い、視線をそちらに据えている。
 気のせい、だと思う。
 だが、漠然とだが嫌な予感がした。
「悪り、兄ィ、小七! 先帰る!」
「What!?」
「ちい兄!?」
 二人を置いて駆け出す小五。あっという間に家に帰り着き、飛び込んで、
「母ちゃん、戴宗は!?」
 饅頭を蒸し直していた母は驚いた様子で次男を見た。一体何事か、そう言わんばかりの顔で首を少し傾げる。
「……戴宗ちゃん? まだお前の部屋で寝てるんじゃ――」
 小五は走った。
 自分の部屋に駆け込んだ。
「――戴宗!」

 もぬけの殻だった。

 

 

 

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