2.水郷の友
「軽傷じゃな」
胡散臭くも医者だと名乗ったチビッ子は、戴宗の体の傷を一通り見てそう断定した。
「切創に矢傷。これはどちらも塞がりかけておる。塞がっておらぬ額の傷は、皮膚が裂けて派手に出血しただけじゃ。頭蓋骨にはひびも入っておらん」
鄆城県の、石碣村とかいう村だそうだ。
梁山泊とは水路で繋がっている石碣湖のほとりにあるという、小さな漁村らしい。梁山泊のご近所と言えばご近所だが、梁山泊という湖は広い。たった一、二時間で見知らぬ土地に来てしまった、という思いがあった。
ともあれ、今いるのはその石碣村のボロ家の一つだった。水辺で戴宗を見つけた連中の一人が、じゃあうちに運んでくれよ、と言って連れてきたのだ。
いや、正確には担ぎ込まれた、だ。
高俅によって水の中に落とされ、おそらく師匠によって命を拾った戴宗は、星の力の使いすぎで動く事も出来なかった。水辺でチビ医者に応急処置を施され、それからその助手だという不気味な包帯男によって、この家に運ばれてきたわけである。
で、濡れた服を問答無用に剥がれて全身を拭かれ、体中の診察をされて、
「随分体にガタが来ておるようじゃが、呼吸も脈も正常、血色も悪くない。薬も包帯もいらん。必要なのは休養じゃ。最低でも今日一日は寝ておくが良い。若いからそれで回復するじゃろう」
「……寝てろ、だと?」
戴宗は剣呑に呻く。ボロ家の奥の小汚く狭い部屋の、床に直に敷かれた布団の上から、枕元にちょこんと座っているチビ医者を睨み上げた。
「笑えねーな」
悠長に寝てなどいられない。
高俅が、いたのだ。
きっとまだ、この近くにいるはずだ。
左に体を転がそうと右手に力を込める。腕は震えるばかりで中々言う事を聞いてくれない。筋肉や関節に痛みさえ走る。笑えねぇ。気にせず無理に力を込めた。体が転がる。
「待て、お主はまだ――」
「あ? 何でおたくの言う事聞かなきゃなんねーの?」
仰向けからうつぶせに近い形になり、今度は両腕に力を込める戴宗。鈍重かつ痛いところをかばう不自然な動作で起き上がった。その拍子に布団がずり落ちる。
傷痕も生々しい裸の上半身と、下半身を包む自分の物ではない袴。着ていた服は、どこへ持っていかれたのだろう。
いや、それよりも師匠は。
そして、伏魔之剣は。
心の中の動揺を表に出さず、部屋の中を見回す。すぐに見つかった。布団の足元側、彼の背後の壁に伏魔之剣は抜き身で立てかけられていた。師匠もその傍に座っている。ホッと安堵の息を吐き、続けてある事に気付いて愕然とする。
鞘は?
伏魔之剣の、鞘は?
あの鞘は――
チビ医者が何か喚いている。体はミシミシと軋みを上げている。それらを全て無視して戴宗は立ち、
「まあ待てよ、戴宗」
上がろうとしたその時、部屋の戸口近くにいた男が歩み寄ってきた。
戸口には二人いた。一人は背が高いくわえ煙草の男。もう一人は眼鏡をかけた書生風の男。戴宗に近付いてきているのはくわえ煙草の方で、無精ひげの生えた顔には面白がる大雑把な笑みがあった。
水辺で拾われた時、戴宗を仲間にするとか何とか、そんな事を言っていたあの男だ。
彼を、戴宗は睨む。ある事が戴宗の警戒心を働かせていた。それは、
「……おたく、何で俺の名前を知ってんの?」
探る視線と声音。しかし男はそんなものを意に介さないあっさりとした口調で答えてのけた。
「だってお前、小五のダチだろ?」
「……あぁ?」
しょうご?
誰だ、それは?
訝しげに顔をしかめたこちらの様子を、向こうも不審に思ったようだった。男は、眼鏡の書生の方を軽く振り返って、
「……名前、呼んでたよなぁ?」
「懐かしい、とも言ってたけど」
「――ま、いいか」
「っていいの晁蓋!?」
「とにかくよ戴宗、そんな焦んねぇで俺の話をちょっと聞けよ」
「うるせぇ、聞くかどうかは俺が決める」
「俺たちと一緒に生辰綱奪おうぜ」
「戴宗君の意志は無視!?」
「断る!」
「当然の成り行きだけど随分と即決だね戴宗君!」
律儀に突っ込みを入れてくる眼鏡を無視して、戴宗は今度こそ立ち上がった。
全身に激痛が走る。
体がフラつく。
眩暈がする。
とても立っていられない。
「ぐっ……」
「ほれ見よ、医者の言う事を聞かんからじゃ」
「そうだぜ戴宗。安道全医師(せんせい)は『神医』なんだぜ? ちゃんと言う事聞かねぇと駄目じゃねぇか」
「……君が言える立場じゃないだろう、晁蓋」
「それによ」
眼鏡の突っ込みは再び無視される。くわえ煙草の男は笑みを深めた。
ニヤリと、不敵に。
「今、この鄆城の一体は何でか知らないが済州軍がウロウロしてんのよ。いくらお前が噂の義賊だからって、この中を出ていくのは自殺行為だな」
今度こそ、戴宗はハッと顔色を変えた。
普段から替天行道の一員である事を隠していない戴宗だが、名乗ってもいない相手に見破られた事は一度だってない。
何故見破られたか。心当たりは一つだ。
「……見たのかよ」
「鞘か? 広げたらまさか旗とはなぁ」
おかげで干すとこに困ったぜ、と不敵な色を消して男は愉快そうに笑う。大して困っていない口調に、戴宗はただでさえ剣呑な表情を更に険しくさせる。
気に入らない。
何がどう、というわけではないが、この男は何かやりにくい。
戴宗がどれだけ斬り込んでも、全て受け流される感じだ。――いや、受け流されるのとは少し違う。受け止められては、いる。しかし向こうはそれを痛痒とも感じていないのだ。
手応えがあるのに、ない。
調子が狂うこの感覚に、戴宗は覚えがあった。
(頭領(ボス)――)
宋江。
彼を相手にしている時と、似ている。
「ま、そういうわけだ。せめて今日一日くらいここで寝てた方が身のためだぜ? な?」
「……笑えねぇ」
低く、戴宗。
戸口までの道を塞ぐ男を避けようと、体の向きを僅かに変えて一歩踏み出し、
「寝てるかどうかは、俺が決める」
そして心は、もう出ていく方向で固まっている。
高俅。
やっと会えた仇。
勝てなかった。
こんな所でちんたら休んでいる場合ではない――
行かなければ、という医師だけでチビ医者や包帯男やくわえ煙草の男や眼鏡の書生の制止を振り切り、戸口に差しかかって、
「――戴宗?」
声が、かけられた。
背後の連中、ではない。前方から――この家の、入り口の方から。
「何だよお前! ちゃんと休んでなきゃ駄目じゃんか!」
泡を食った様子で駆け寄ってくるその声の主の姿を見た時――それまで何か沸いたようだった頭の中が、不意に冴え渡った。
黒いツンツン頭。巻かれた白いバンダナ。戴宗とほぼ同じ高さにある見開かれた黒瞳。そこに浮かんだ様々な色。
驚き。
気遣い。
懐かしさ。
――――――――郷愁。
それらの感情が戴宗に伝染する。郷愁。生まれた村。もう顔も覚えていない実の両親。鍛冶屋のくせして女っぽくて、どちらかと言えば母親のようでもあったけれど、やはり「父」だった養父。ろくに金も取らずに村人の鍬を直してやったり釣り針を作ってやったりしていた。
釣り針。
芋蔓式に蘇った記憶の中に、奇特な奴がいた。養父に釣り針を作ってもらっていた漁師の息子で、村の悪ガキどもに石をぶつけられた戴宗をわざわざかばおうとする奴がいたのだ。
いつもニコニコ笑っていて、村のガキどもの中心にいて、その輪から弾き出されていた戴宗を好き好んで相手にしようとしていたいい子ちゃん。
黒いツンツン頭にバンダナを巻いていた、そいつは、
「――……おたくは……」
思い出す。
瞠目する戴宗。瞠目する眼前の少年。
記憶の蔓を手繰り寄せ、戴宗は、その名を呼んだ。
「…………円勝訴?」
「『円が勝つ』って誰だよそれ!?」
見事な突っ込みだがまだまだだ。つまらなさそうに顔をしかめたこちらへ、少年はその勢いのまま、叫ぶ。
「小五だよ! 阮・小・五!」
「……そうだったっけ?」
すっかり忘れていた。
もう、十年が経っていたのだ。
「安道全医師、こいつ、もう歩き回っていいの?」
「駄目じゃ」
「じゃあ寝てなきゃ駄目だろ戴宗! ほら――ってお前フラフラじゃん! 何やってんだよ!?」
……うるさい。
そのうるささに記憶がまた蘇る。そうだ。こいつはやたらとテンションが高かった。いつも笑って、騒いで、何が楽しいのかと戴宗はいつも不思議だった。
彼の家も、戴宗の所とそう変わらない貧しさだったのに。
一瞬の追憶に浸った戴宗を、小五はトン、と軽く押す。戴宗の体はそれだけでフラフラと揺れ、たたらを踏むように後退させられた。それから両肩を無理矢理掴まれ、無理矢理布団に座らされる。
小五は笑った。
「疲れてんだろ? だったら休んでけよ。うちならどれだけいてもいい、って母ちゃん言ってたから!」
その笑顔が、言い草が、何か癇に障った。小五はいつもそうだった。いつも戴宗を苛立たせていた。布団の上から戴宗は小五を睨みつけるが、向こうは気にした素振りをまるで見せない。
「――小五、様子どうだ?」
「とりあえず魚焼けたから持ってきたけど」
そんな小五の陰から姿を見せる、サンバイザーを斜めにかぶった背の低い男と、笠を首にかけた背の高い男。二人とも、顔立ちがどこか小五と似ている。
「悪ぃな、兄ィ、小七」
「いいよ、ちい兄」
と、背の高い方。
「気にするな。――ところで小五」
と、戸口にもたれた背の低い方が戴宗に視線を寄越して問いを発する。
「そいつは誰だ? お前の友達、にしちゃ見た事ない顔だが」
すると、背の高い方から串に刺した焼き魚を受け取った小五が愕然とした。
「……兄ィ、覚えてねぇの?」
「What?」
「戴宗だよ、戴宗! ほら、鍛冶屋の洪信さんとこの!」
「……ちい兄、うちの村の鍛冶屋は周さんじゃないか。洪信、じゃなくて」
そう苦笑いする背の高い方。しかし背の低い方は、少しの間眉根を寄せて何か考え込み、
「――……ああ、そうか」
「だい兄?」
「Yeah、思い出した。いたな。そうだった。……戴宗、っていったな。
小七、お前は覚えていなくて当然だ。お前はあの時、まだ小さかったからな」
背の低い方の、サンバイザーで隠れていない目が、不意に痛みを伴ったいたわりと優しさを帯びた。
居心地の悪さを覚える戴宗。小五へのイライラと相まって、それはつっけんどんな言葉となって口から突いて出る。
「俺は、おたくなんて覚えちゃいねーけどな」
低く冷ややかで、刺々しくて、敵意さえ含んだ声音。部屋の空気が一気に険悪に――
「ワハハッ、そりゃそうだよ戴宗」
……ならなかった。
小五は、戴宗の険しい言葉を呆気なく笑い飛ばした。悪い雰囲気がそれだけで霧散する。
「だってお前と兄ィ、ほとんど顔合わせた事ねーもん。あの頃の兄ィ、もううちの父ちゃんの漁を手伝ってたし。なあ、兄ィ」
「Yeah」
と、苦笑気味に肩を竦める背の低い方。
「小七だって家で母ちゃんといてばっかりで、お前と会った事なんかそんなねーよ。それにここ二、三年で一気に背ぇ伸びたから、昔の小七知ってたって全然判らねぇって」
「いくら成長期でも、あの伸びには驚かされたねー、晁蓋」
「そうだったなぁ、呉用」
と、眼鏡の青年とくわえ煙草の男が笑い合う。
その、どこかのほほんとした空気が気に喰わない。
その空気を作り出した小五に苛立ちが募る。
胸の奥が、腹の底がザワザワする。チリチリする。小五の笑顔が、「弱い者イジメすんな!」と村の悪ガキどもから戴宗をかばういい子ちゃんぶった態度が、戴宗は昔から気に喰わなかった。
チッ、と舌打ちが出た。
それは部屋に思いの外よく響き、笑いさざめく声を静めてしまう。
奇妙な、不自然な静寂。
「……あ、悪っりぃ戴宗、紹介忘れてた」
しかしまたしても小五がその能天気な口調と笑顔で、あっさりと打ち破る。
「えーと戴宗、こっちが俺の兄ィの小二で、デカいのが弟の小七。で、この人が俺たちが世話んなってる晁の旦那だ」
「東渓村保正の晁蓋だ。よろしくな、戴宗」
くわえ煙草の男――晁蓋が、そう鷹揚に笑う。
「その隣にいる人が呉用さんだ。すっげぇ頭がいいんだぜ?」
「僕はただの私塾の教師だよ、小五君」
と、呉用という名らしい眼鏡の書生が苦笑いする。
「それで、お前の枕元にいる子供が東渓村の安道全医師で――」
「わしはもう成人じゃ」
「その隣にいんのが、薬師の薛永さん」
チビ医者・安道全は不機嫌そうに鼻を鳴らし、包帯の男・薛永はペコリと一礼してくる。
「ええっと、それで……――あれ、兄ィ、白勝さんは?」
「ああ、白勝ならちょいと使いにやった」
と、晁蓋。使い? と首を傾げるのは呉用だ。
「ちょっと鄆城までな。
――それで、だ、戴宗」
戴宗はこの瞬間、気圧されるものを感じた。
晁蓋の双眸が、こちらにひたと据えられたからだ。
ただ鋭い目で見られただけなら、戴宗は気圧されたりはしない。開封で王進や関勝と、あるいは梁山泊で朱貴なんかと相対した時がそうだった。
けれど、何だろう。
眼前の男からは、底知れない何かを感じるのだ。
そこが宋江に、似ている。
しかし底知れなさの性質が違う。宋江の持つ底知れなさは、例えるなら……そう、春の宵だ。月もなく星も疎らで先は見通せないけれど、暖かく、包み込むように優しい。
けれどこの男の底知れなさは、荒々しく、同時に清々しい。それはまるで嵐だ。荒れ狂い猛り狂い、何もかも薙ぎ払ってしまう。
まさにそんな荒々しく清々しい声音が、戴宗の耳朶を打つ。
「俺たちの仲間にならねぇか?」
戴宗は一瞬息を止めた。
仲間?
仲間、だと?
「大名府の梁中書、奴が都の蔡京に送る生辰綱を横取りしたいんだが、ちょっと人手が足りなくてな」
「って晁蓋、君は何軽々しく――」
「黙ってろよ呉用君。
で、だ。こうして会えたのも何かの縁だ。一緒にやらねぇか?」
一緒。
縁。
――仲間。
イライラする。
ザワザワする。
チリチリする。
「――……笑えねぇ」
戴宗は、鋭く、低く吐き捨てる。射るような鋭い視線を晁蓋に向ける。
「何で俺がおたくらの手伝いをしなきゃなんねぇわけ?」
「そうだよ晁蓋」
と、吐息混じりに呉用。
「小五君みたいな昔からの友達ならともかく、今日初めて会ったばかりの君の頼み事なんて、聞けるわけないじゃないか」
「Right」
「強引は良くないんじゃないかな、旦那」
小二と小七も呉用に同意し、
「とにかくさ、戴宗!」
小五の明るい声が、響く。
戴宗の神経を逆撫でする、能天気でやかましい声。
「これでも食ってさ、ちょっと横になってろよ。今、鍋作ってんだ。一緒に食おうぜ」
小五がズイと焼き魚の串を差し出してきた。
温かそうな湯気。
香ばしい匂い。
小五の明るい笑顔。
能天気な声。
皆が戴宗を見る目。
――一緒に。
イライラする。
胸の奥が、腹の底がざわつく。チリチリと焦げつく。
「――らねぇ」
「え?」
「いらねぇ、っつってんだよ!」
――パァンッ!
戴宗は衝動のままに小五の手を払いのけていた。
驚いたように目を見開く小五。
ボトリと床に落ちる魚。
それを目で追った小五の表情が、驚いたまま凍りつき――
同じく空気が凍る中、戴宗は、微かな痛みを伴う胸の軋みを感じていた。
|