うずくまったまま、青年は更に大人びる。
 背は伸び、肩幅は広がり、そして少しだけ、己が抱えた悲しみと憎しみを顧みる。
 けれどまだ立ち上がらない。立ち上がれない。抱えてきた悲しみは、育ててきた憎しみは余りに大きく、そしてそれは最早彼自身でさえあった。立ち上がる事はそれを捨てる事で、それまでの自分を否定する事であり、鍛冶屋がいなくなったあの時の悲しみを、鍛冶屋の優しさまでも、忘れてしまう事のような気がしていた。
 そんなわけないでしょう。呆れ果てたと言わんばかりの仲間の声。そんなわけない。そんな事は分かっている。分かっているけれどやはり立ち上がれない。立ち上がれないのだ。

 そんな彼の真後ろに、小柄でたおやかな影が一つ、フワリと浮かび上がった。

 影は、ただ微笑んでいる。穏やかに鮮やかに、そして道端に咲く名もない花のように可憐に微笑んでいる。

『戴宗さん』

 青年の体が、初めて震える。
 優しくて暖かくて甘やかな声に、心のどこかが震えてうずく。

『戴宗さん』

 そして青年は、初めて、顔をほんの少しだけ上げる。
 肩越しに振り返った先にいるのは――

『戴宗さん』


 貴方が、大好きです。




4.愛し君



 腹立たしいほどに晴れ渡った空に、ムカつくほどに軽やかな鳥のさえずりが微かに響く。
 昨日までの激戦が、嘘みたいだ。
 梁山泊が包囲されて今日で一ヶ月、官軍は攻撃を中止していた。
 おかげで大忙しなのは安道全率いる医療チームである。何せ怪我人が山ほど出た。最前線を支える連中は、宿星も含めて大打撃を受けた。主力の楊志や史進や武松といった面々が大怪我をして後方送り。未だ最前線で踏ん張っている林冲や花和尚にはこれといった怪我はないようだが、人手が足りなくて危険な状態になっている事には変わりない。

「――戴宗さん、林冲さんと合流するんですか?」

 養生所から籠に入った血まみれの包帯を山ほど抱えて出てきた翠蓮に捕まった。
 昨日、特別任務で一緒になり、密かに梁山泊に帰還して以来である。戻ってきてからずっと怪我人の手当てを手伝っていたのか、彼女の顔には疲労の色が濃い。

「ああ」

 頷く戴宗もまた、いつにも増して目の下の隈が黒ずんでいる。呉用と朱武に命じられた任務を翠蓮と共に片付けたのは真夜中で、それから前線への出撃を言い渡されるついさっきまでの僅かな時間しか休めていない。疲労はちっとも抜けていなかった。
 それでも、文句を言っている場合ではない。
 替天行道が生まれて以来の最大の危機だ。ここを切り抜けなければ、山上にはためく大旗は燃え落ちる。
 ぽっかり生まれた、間隙のような平穏。
 宋江や呉用ら聚義庁の首脳陣が苦肉の策で生み出した、起死回生の一手を打つための僅かな時。
 そのために戴宗と翠蓮は昨夜官軍の補給線を分断し、前線に運ばれるはずだった兵糧や補給物資をを一切合財焼き尽くしたのだ。官軍は今、その復旧に大わらわのはずだ。
『……もう少し人手を割いて、全部貰えば良かった』
 とか何とか呉用が呻いたらしいが、そんな事は知らない。
「……気を付けてくださいね、戴宗さん」
「おたくに言われなくたって」
 皮肉げに返せば、翠蓮は少し笑った。その笑みに、戴宗は自分が知らず内に感じていた緊張がほぐれるのを感じる。

 その時、

 まったく不意に、唐突に、何の脈絡もなく、



 戴宗は、翠蓮がどれだけ大切かを自覚した。



「――そうだ戴宗さん、帰ってきてから何か食べたい物ってありますか?」
「あぁ? 何でだ」
「だってほら、戴宗さんの誕生日――今年はもう一ヶ月も前から戦をしてて何も出来なかったけど、せめて、終わったあとくらい……」
 僅かにうつむく翠蓮の顔は、ほのかに赤かった。その赤さだけで、何故だか戴宗は無性に切なくて、そして幸福だった。
 力が湧いてくる気がした。
「――いらね」
「……え?」
 パッと顔を上げる翠蓮。
「何だっていい」


 おたくさえいてくれれば、もうそれだけで十分だ。


 口から突いて出そうになった言葉を飲み込んで、戴宗は翠蓮の頭にポン、と手を置いた。
「じゃな」
 頭から手を離す。歩き出す。戴宗さん! 翠蓮の必死な声。
「美味しいご飯作って、待ってます! だから、だから――」
 戴宗の口元に笑みが浮かぶ。皮肉な笑みでも凶暴な笑みでもない、それは歳相応に穏やかで喜びを噛み締める微かな笑み。

「ご無事で!」

 もちろんだ。
 振り返らないまま背後の翠蓮に手を振って、戴宗は金沙灘へと降りていった。





 そうして青年は顔を上げる。
 立ち上がる。
 娘の方を向く。
 おずおずと、手を差し伸べる。
 微笑む娘は何のためらいもなくその手を取った。
 柔らかな感触。伝わる熱。それが信じられないほどに心地良くて、嬉しくて、幸せで、泣いてばかりいた青年の口元に初めて淡い笑みが浮かぶ。
 立てましたね、戴宗。お前座り込みすぎ! まったく君という男は、人をどれだけ待たせれば気が済むんですか。青年を取り囲む人々が祝福の言葉を投げかける。
 娘のほっそりした手を優しく握って、青年はやっと前を見た。



 前に広がるのは、



 どこまでも続く、光の道。



ハッピーデイズ




 もう大丈夫だね、戴宗。
 その道のどこかで優しい鍛冶屋がそう言った。

 

 

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