子供は少し成長し、少年になる。
 それでもまだ泣いている。クズ鉄の寄せ集めになった鍛冶屋の形見を背負って、声もなく泣いている。
 鍛冶屋の消えた悲しみはとてもとても大きくて、少年は今もとても立ち上がれそうにない。だから泣く。静かに、ポタポタと涙をこぼす。
 小さな虎はただ寄り添って、優しい人々はただ彼を見守る。彼が再び顔を上げ、立ち上がろうとするのをただ待っている。大丈夫、貴方はまた立てます。優しく静かな声は、しかし少年にはきちんと届かない。

 そんな少年のすぐ隣に、並び立つ影が湧き出た。

 見守る人々を差し置いて、その人影は少年の背中をバシンッ、と強く叩く。余りの強さと痛さに、泣き続けた少年の涙も一瞬引っ込む。驚いてチラリと上げた視線が捉えたのは、晴れた日の太陽のようにニカッと笑っている、黒髪の少年。
 涙も拭えないまま驚きに浸る少年へ、彼は快活に言い放つ。

『安心しろって!』


 お前が嫌がったって、一緒にいてやんよ。




2.親友



 任務で南に行く事になった。
 一人で行ってこい、と命じられた。お目付け役の翠蓮は留守番を言い渡され、少し悲しそうな顔をしていた。しかし理由を聞かされて諦めたように納得した。何があるか判らない土地に、星の力に目覚めたばかりでまだ上手く制御できていない宿星を連れていく、なんていう賭けのような事を、替天行道はするわけにはいかなかった。
 だから戴宗は一人だった。一人、金沙灘の桟橋で渡し舟を待っていた。
 腰の師匠袋には、師匠さえ、いない。
 翠蓮に宿った地獣星の能力は、どうも動物の声を聞く事にあるらしい。力に振り回されている彼女は動物の声を聞きすぎて、ノイローゼになりつつある。師匠と一対一にする事で力の使い方を覚えさせよう、と提案したのは花和尚だった。
 だから師匠は今、翠蓮と一緒だ。
 師匠袋の軽さに戴宗は恐ろしいほどの違和感を覚えていた。翠蓮と出会う前は、一人で任務に赴く事などザラだった。しかし師匠はいつも一緒だった。本当の意味で一人になるのは、……十年ぶりだった。
 十年ぶりの、孤独だった。

「あっれ、戴宗?」

 頭上の晴れ渡った夏空と同じくらいにあっけらかんとした声が、湖の方から戴宗へと投げかけられた。
 声が来た方へと視線を転じる。ギィギィと軋んだ音を立て、渡し舟が葦の迷路の向こうからやってきた。
 脳天気に笑っている漕ぎ手に、戴宗は思わずげ、と呻く。

「何だ、済州に出んの戴宗かー。どこ行くんよ、お前?」
「……おたくにゃ関係ねーな、小五」

 すると阮小五はワハハッと笑った。
「相変わらずひっでーなぁ戴宗。教えてくれたっていいじゃんかよ」
 言葉とは裏腹の明るい笑顔。ふと耳に養父の声が蘇った。小五君みたいに笑ってみなよ。……出来そうにもない。
 仏頂面になった戴宗は舟へと乗り込む。舟底に腰を下ろすと、
「――南だ」
「へ?」
「長江まで行ってこい、とよ。笑えねー」
 戴宗は生まれも育ちも山東は済州である。替天行道に加入してから大陸のあちこちを駆け巡るようにはなったけれども、長江から南はどうにも苦手だった。山東とは違って、江南は暑いのだ。
 季節は夏である。
 まったくもって、笑えない。
 と、小五は櫂を動かさない。向こう岸に着くまで一眠りしようとしていた戴宗は小五を見上げて、
「……早く漕いでくんね?」
「いや、漕ぐけどさぁ……」
 小五には珍しく歯切れが悪い口調。表情も何やら訝しげだ。
「お前さぁ、一人?」
「は? 何おたく、見ても分かんねーの?」
「翠蓮はどうしたんだよ」
 いつも一緒だろ? と続けた小五から、戴宗はふいと視線を外した。
「……留守番だ」
「留守番?」
「星の力の訓練だとよ。分かったらおら、さっさと漕げ」
 足を伸ばして軽く小五のすねを蹴った。大して力も入れていないから小五は痛そうな素振りも見せない。それどころか、何やら考え込んでいる様子で、
「――……じゃあお前、一人なんだ」
「だからそう言ってっだろ」
 ぶっきらぼうに返したら――

「じゃ、ちょっと待ってろよ戴宗!」

 一体何を待てと言うのか。
 こちらが制止するよりも早く小五は舟を下り、脇目も振らずに聚義庁までの長い階段を駆け上っていく。
 戴宗は唖然とその背中を見送るばかり。
 何だ、あいつ? 心の中の呟きは、
「……笑えねー」
 そんな声に転化する。何より一番笑えないのは、
「誰が舟漕ぐ、ってんだ……?」
 もちろん戴宗は漕げないし漕ぐつもりもない。そしてこういう時に限って船頭は誰も通りかからない。
 仕方ねぇ、神行飛龍で飛ぶか。下手に炎を出すとあちこちに延焼して呉用や蒋敬から文句を言われるのだが、そんな事は知った事か。戴宗は伏魔之剣の柄を握って、

 ダダダダダダダダダッ! と駆ける足音が戻ってきたのは、その時だった。

「悪っりぃ戴宗! 待たせたな!」

 戻ってきた小五の、向けてくる脳天気な笑顔がぶっちゃけムカついたので、戴宗は思わずその顔面に蹴りをくれてやった。

「――ってぇぇぇっ!
 何すんだよ戴宗!」
「あぁん? 人の事ほっぽり出して何言ってくれてんの、おたく?」
「ちょっと待ってろ、って言ったじゃんか!」
「うるせぇ。待つかどうかは俺が決める」
 昔みたいに鼻血を出した小五は、蹴られて赤くなった鼻をさすりながらワハハと笑う。戴宗は思わず胡乱げな眼差しを投げた。
「……何、おたく、マゾ?」
「ちっげぇよ! ちょっと嬉しくなったんよ」
 やっぱりこいつはマゾか。思わず身を退かせかけた戴宗を、小五の、更に驚くべき言葉が襲う。

「俺も一緒に行くぜ、戴宗!」

「――はぁ!?」
 戴宗は思わず声を荒らげた。
「何だそりゃあ!? おたくが俺と一緒に!? 笑えねー、何の冗談だ!?」
「冗談じゃねぇよ。ちゃんと呉用さんと宋江さんの許可は取ったぜ。翠蓮の代わりのお目付け役がいるんじゃねぇか、ってさ」
「は……お目付け役……!?」
 二の句が継げなかった。
 戴宗の絶句を了解の意にでも取ったのか、小五はニカリと笑って舟に乗り込む。さぁ行くぜ! やたらと張り切った声。ギィギィと力強く櫂を漕いで舟を水面に滑らせる。
「……おたく、何考えてんの?」
 金沙灘を大分離れてようやく戴宗はそう尋ねた。すると小五は、だってさぁ、とやたらと明るい声で応じた。


「お前、もうすぐ誕生日だろ?」


 ヒュッと。
 戴宗は、息を飲む。


「誕生日に一人ぼっちってのはいくら何でも寂しいだろ。だから俺が一緒にいてやんよ」


 見開いた目で、小五を見上げた。
 小五は笑っている。

「行き先、長江だろ? だったらでっけぇ魚釣ってやんよ! お前一人じゃ食いきれねぇくらいデカい奴!」
「……笑えねー」
 こぼれ出た声は、自分の声とは信じられないくらいにかすれて小さい。
 え、ときょとんとした表情をする小五へ、戴宗は力を振り絞って続けた。

「――……俺は、肉しか食わねぇ」

 すると、小五は笑声を弾けさせた。
 駄目だぜ戴宗、ちゃんと魚も食わねぇと! この夏の日差しのような明るく屈託のない声に、食うかどうかは俺が決める、とつっけんどんに返して、今度こそゴロリと舟底に寝転んだ。
 櫂を漕ぎながらもやかましく話しかけてくる小五の存在が実に鬱陶しくて、戴宗はいつの間にか師匠袋の軽さを忘れていた。

 

 

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